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逆さの砂時計

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純粋なお遊び
  合縁奇縁のコンサート 7

vol.9 【祭日】

 「んー……そろそろ準備時かしら」
 ほんのり薄暗くなってきた教会の寝室。
 未だに解読が精一杯の文字列から目を離して、西へ傾き始めた陽光をガラス張りの天井越しに見上げてみた。一日の終わりを迎え入れようとしている空は、それでもまだ綺麗な青色を保ってる。
 礼拝堂から微かに聞こえる本日三度目のお説教も半ばに差し掛かったみたいだし、動き出すには程好い頃合いね。
 読みかけの(ぺーじ)に栞を挿んで書棚へ返却。その足で厨房へ……
 ……って、

 「なに、これ」

 「あ、聖天女様」
 お昼時には無かった異様な光景が展開されている厨房の入口で思わず立ち竦んでしまった私に、いつも通りのリースリンデが羽を広げてふわふわと寄って来た。
 「この、山みたいに高々と積まれてる箱の中身って、食べ物よね? 厨房に運び入れてるくらいだし」
 「はい。アーさんが今日の炊き出しで提供する為に商人から買い込んだって言ってました。なんでも今日は「百合根感謝の日」とかいう、アリア信仰が定めた祭日? なのだそうで。入っているのは総てヤマユリの根です」
 「ヤマ、ユリ? 百合? 百合の根?」
 「……あ、そうか。聖天女様はまだご存知ではないのですね。「ヤマユリ」は東の大陸で発見された数在る百合の原種の中の一種で、この根は人間が食べる目的で栽培していた物らしいですよ」
 「なっ……百合の根を食べるの!?」
 植物の根茎を食べる事自体はそう珍しくないけど、百合の根を食べるなんて話は聴かないわよ!?
 しかも、寝室よりちょっと狭い程度の厨房内部を三分の二も埋め尽くす無数の木箱の中身が全部百合の根って。どれだけの量を栽培してるのよ!?
 「百合根感謝の日の確立とヤマユリの食用栽培は、アリア様が昔、貧困で苦しんでいたとある村の住人に「ヤマユリの根は食べられるから、数を増やして備蓄にしなさい」って教えたのが始まりだと言われているそうですよ。アリア信仰の象徴に白百合が含まれているのも、元々はこの話から来てるんじゃないかって説が在るみたいです」
 「え、そうなの?」
 レゾネクトが選んだ訳じゃなかったのね、あの白百合。
 「はい。ただ、この話が中央大陸に広まった時期とアリア信仰の総本山であるアリアシエルが立国された時期は結構ズレているので、「象徴の百合=ヤマユリ」説は後世の信徒による捏造(ねつぞう)か誤認だと思いますが」
 「……随分、アリア信仰の変遷(へんせん)に詳しいのね。泉でアリアに直接聴いてたの?」
 十数年前に泉を離れるまでは、人間の世界と直に関わる機会なんて無かったでしょうに。
 「いいえ。時々ふらりと立ち寄られていた頃も眠りに就かれる前も、信仰そのものに関わる話はされていませんでしたよ。でも、信徒達が居ない間に礼拝堂で見た女神像は間違い無く「マドンナリリー」を持っていましたし、百合の根に纏わる話は寝室に在る本の内の比較的新しい年代の何冊かに同じ内容が書いてありました。挿絵のほうでも、古い本ほどマドンナリリーが描かれていますよね」
 「ごめんなさい。泣いても良いかしら」
 「へ?」
 寝室に在る本なら、読み切れないまでも一応一通りは目を通してたのよ? 挿絵だってちゃんと見てた。見てた筈だけど、「ヤマユリ」の単語や話はおろか、百合の形にも全然気付いてなかった。
 文字も絵も人間が使う記号なのに、半分は人間の私が、人間嫌いの精霊に吸収率で完敗するなんて……っ

 「捏造(ねつぞう)でも誤認でも無いぞ。当時のアリアには、その時期その土地に生えている白い……現代で言う「百合科の花」を好んで観賞・研究する癖があった。東の大陸ではたまたまヤマユリだったが、違う場所ではカサブランカだし、アリア信仰の発祥地である中央大陸ではマドンナリリーが最も多く、近代ではチューリップなんかもよく見ていた。要するに、それぞれの時代・それぞれの地で観賞中のアリアと信徒が出会(でくわ)した回数分「アリア=それぞれの白い百合科の花」が印象強く残るようになったと、それだけの話だ。本来、どれが正しいという事は無い」

 「「え」」
 この、耳に触れた瞬間、頭の芯に鬱陶しいほど甘く響く声色、
 「強いて訂正部分を挙げるなら、村人に鱗茎の食用を勧めたのはアリアではない。俺だ」
 厭味ったらしくゆったりした口調、
 「アリアは激しい人見知りで、初対面の相手の前では緊張して(ほとん)ど喋れなかったからな。おかげで勝手に定着した「寡黙」な印象が、早々と「神聖」や「荘厳」に取って代わってくれた訳だが」
 振り向きざまに遥か遠くへ全力で弾き飛ばしたくなる忌々しい気配は……!

 「な……、に? こど、も?」
 どう見ても私の器より年下の子供、よね?
 どうして子供なの?
 人違い? 幻覚?
 いえ、でも、
 「ヴぅウェーズゥウエぇードゥオォぉールァアアアぁぁあああああッ!!」
 ………………ん?

 ずどどどどどどどどどどどどどどどどど

 「ぅぉおん前、よくものこのこと私の手が届く範囲内に顔を出せたモンだなぁあああーー…………って、……あれ?」

 キキキィーーーーーーーーーぃっ!!

 「……べゼドラじゃ……ない?」
 悪魔の気配を敏感に感じ取ったらしいアーレストさんが、殺気立った悪魔よりも凶悪な顔付きで砂埃を巻き上げながら閃光より速く(はし)って来て、レゾネクト色の子供をその目で捕捉すると同時に、戸惑う私達の手前で急停止した。
 一拍遅れて来た凄まじい風圧で私の帽子とリースリンデが飛ばされそうになり、慌てて両手で押さえ込む。
 「……あの……アー、さん……?」
 「すみません。少々取り乱してしまいました」
 立て続けに訪れた衝撃的展開の何処に驚いて良いのか判らなくなったリースリンデが、帽子と手のひらの間からおずおずと顔を出し、通常仕様に戻ったアーレストさんの笑顔を見て口元を引き攣らせてる。
 私もちょっと……いえ、かなり驚いたわ。
 普段は穏やかで礼儀正しいアーレストさんにも、こんな荒々しい一面が有るのね。
 「アーレストか。丁度良い」
 「え?」
 突風を浴びても髪先以外微動だにしなかった子供姿のレゾネクト(?)が、折り畳まれている長方形の少し小さめな書状を懐から取り出して広げ、アーレストさんへ向けて掲げた。
 「「つい先刻、王都の時間で十六時頃。其方(そちら)の教会へ急ぎの鳥を放った。受け取り次第、ソレスタ神父と一緒に中央教会へ戻りなさい」だそうだ」
 「「「!!」」」
 私とリースリンデ、アーレストさんが、寸分違わず一斉に息を呑んだ。静電気のようなビリリとした緊張感が全身を駆け巡る。
 中央教会へ「戻れ」。
 ということは、彼の言葉と書状は中央教会の権力者から預かった物。
 どうして、中央教会の権力者がレゾネクト色の子供にこんな言葉を預けてるの? 先月でも先週でも昨日でもなく「つい先刻の」十六時頃と言うからには、この子が長距離を短時間で移動できる人外生物だと認識している上での伝言よね? どういう繋がり?
 しかも、信徒数が少ないのならともかく、それなりの規模を誇っているであろう街の教会を空にさせる命令を下すなんて。
 いったい、何事?
 「……人間ではない貴方に私達への辞令を託したのは、大司教様? それとも、次期大司教様?」
 良からぬ事態が起きているのではと、書状を受け取りながら慎重な姿勢で問い掛けるアーレストさんに、レゾネクト(?)は無表情で答えた。

 「プリシラおねえちゃまだ」

 「ぐふっ」
 「きゃあ! 聖天女様、しっかり!」
 「だ、大丈夫……」
 (むせ)る私を心配してくれるのは嬉しいんだけど、顔の周辺に来たら呼気で吹き飛ばしちゃうわよ、リースリンデ。
 「おねえ、ちゃま?」
 物凄い怪訝な顔のアーレストさんに、こくりと頷くレゾネクト(?)。
 「そう呼べと言われた」
 「お姉様、じゃなくて?」
 「「小さな男の子が一生懸命「お姉様」って呼び掛けようとしてるのに、どうしてもちょっと舌足らずな感じになっちゃって「おねえちゃま」! これ、最っ高に可愛くない!? 可愛いわよね!? ねっ!?」で、こうなった」
 それを大人しく実行してるの!? 遠く離れた本人には聞こえない筈のこの場所に来てまでも!?
 「本物の悪魔を相手に何しちゃってるのよ、あの女性(ひと)は……」
 頭が痛いと言いたげに(うつむ)いた自らの額を右手の指先で押さえるアーレストさん。
 ついでにさらりと何度も呟かれてしまってるけど、やっぱりこの子は悪魔なのね。
 「貴方のその姿も、プリシラさんの指示なの? レゾネクト」
 「! 「レゾネクト」?」
 「いや」
 悪魔の名前に反応して顔を跳ね上げたアーレストさんから私へと視線を移し、首を振る。

 「外見年齢を多少下に合わせておけば、お前に姿を見せても怒られないんじゃないかと思ったから」

 「「「………………」」」
 
 「……怒られたくなかった、の?」
 「殺意や憎悪や嫌悪や拒絶には慣れているが、怒られるのはなんとなく怖い」
 待って。
 ちょっと待って頷かないで、元・魔王。
 「貴方にその類の恐怖を感じる精神が有るとは思わなかったわ」
 「俺も、プリシラおねえちゃまに怒られて知った。女は本気で怒らせないほうが良い。怒らせたら……削られる。なんか、いろいろ、削られる……。」
 「中央教会で何をされたの貴方!?」
 「言いたくない」
 紫色の両目から生気が喪失。色白な顔や指先が更に色を失くし、直立したままぴるぴる震え出した。
 あの、世界中でありとあらゆる生命に災厄を振り撒いていた悪魔の王レゾネクトが、女性一人の怒りを受けた程度で此処まで極端に怯えるなんて。
 「プリシラさん……何者……?」
 「悪い事は言わない。プリシラおねえちゃまを詮索するな。逆らうな。命や個としての尊厳を失うよりもっと辛い目に遭うぞ」
 「逆に気になるわよ!」
 命や尊厳を失う以上に辛いって、なに!? 本当に何をしたの、プリシラさん!?
 「人間って……」
 ああ、ほら! リースリンデまで思いっきり引いちゃったじゃない! アーレストさんも……なんか、とても大切にしてたものを手放す瞬間みたいな遠い目をして薄っすら笑ってる?
 「……まぁ、彼女については一先ず置いておくとして。鳥を放った後でわざわざ寄越したという事は、貴方には伝書以外にもまだ何かしらの役目が割り振られているのですね?」
 「ああ」
 受け取った書状を丁寧に畳むアーレストさんに向き直ったレゾネクトが、ぎこちない動きで頷く。
 「「本当はソレスタ神父とフィレスさんをそっちに連れてってもらおうかと思ったんだけど、ほら、今日って丁度百合根感謝の日じゃない? 二人には中央教会で百合根の下処理を含めていろいろお願いしたいのよね。こっちも総出で頑張ってはいるんだけど、まだまだ人手が足りないんですもの。でも、そっちも表に出られるのが一人だけじゃ大変でしょ? そ・こ・で! 変幻自在なレゾにゃんを譲ってあげるから、是非とも有効に活用してあげてね!」と」
 「「「レゾ『にゃん』!!??」」」
 「「特にマリア様。貴女にはレゾにゃんを自由にできる正当な権利(りゆう)があります。お気が済むまでとことん扱き使ってくださいませ」とも言っていた。お前達がそうしたいと思うなら、好きなように命じろ。俺はその為に此処に留まれと指示を受けている」
 れ……れぞにゃん、って……。
 「一瞬、衝撃を通り越して頭真っ白の域に踏み込んじゃったけど、要するにお手伝い係なのね? 貴方は」
 「鳥の到着を合図にフィレス達を連れて来るまでの間はな」
 雑用係の身上を素直に首肯する元・魔王。
 (……私達の戦いって、本当に、なんだったのかしらねぇ……アルフリード……)
 「彼女(プリシラ)が関わっている時点で心配無用と判ってはいましたが、ソレスタ達は無事にクロスツェル達と合流できたんですね」
 アーレストさんも、この上無い呆れっぷりを披露しつつ、書状を袖の内側に仕舞い込む。
 「今日の昼頃にな」
 え。
 「ソレスタさん達とは昼頃にエルフの里で合流して、それから皆で中央教会へ移動したってこと?」
 「ああ」
 「プリシラさんと顔を合わせたのも」
 「その時だな。クロスツェルの記憶を通してなら何度か見ていたが」
 嘘でしょ? 初の対面後たった数時間で形成されたの? この力関係。
 「私達、産まれる時代を大きく間違えていた気がするわ」
 「これも、お前達が残した成果の一つなんだろう」
 勇者一行が命懸けで繋いだ現在だからこそ、数千年前には考えられなかった事も起きるんだ。
 と、金糸で縁取られた目蓋が少しだけ下りて、丸い形の夕暮れ色を遮った。
 「……そうね。プリシラさんから学ぶのも良いかも知れないわね。貴方の教育方法」
 「やめてくれ」
 あら。本気で嫌がってる?
 どんな想像(回想?)をしたのか、徐に眉を寄せて苦々しく歪んでいく幼くも整った顔立ちが面白い。
 「それより、良いのか? 礼拝堂がざわついているが」
 礼拝堂? ……あ。
 「! すみません、マリアさん! 説教の途中で抜け出して来てしまったので……っ」
 「私は大丈夫。急いで戻ってあげて」
 「……くれぐれも、お気を付けて!」
 心配そうな目で私とレゾネクトを見比べるアーレストさんに軽く手を振り、浅く頭を下げて足早に去って行く背中を見送る。
 「遠回しに釘を刺されたわね、レゾネクト」
 「俺は言われた通りの行動を執るだけだ。お前は、俺に何をさせたい?」
 無表情で不愛想な、子供姿のレゾネクト。
 そうね。アーレストさんの心配は杞憂だわ。
 私達の間にはもう何も起きないし、起こせないし、起こしようが無い。
 だってこの子、さっきからずっと私には一定以上の距離を置いているもの。
 プリシラさんが命令してくれたのかも知れないけど、多分、私が許可しない限りは袖先にすら触らないでしょう。私に植え付けた憎しみや怒りは勿論、恐怖や絶望なんかも掘り返してしまわないように。
 こうなるともう、アルフ達を殺した魔王とは完全に別人ね。相手がこうも大人しく罰を受け入れてるんじゃ、激情に流されるまま責め立てる気にはなれそうもない。
 だからって、赦すつもりも無いけれど。
 「貴方は百合根感謝の日のお手伝い係なんでしょう? だったら、まずは百合の根を下拵えしてもらわなきゃね。あ、力は使わないで。一つ一つ、自分の手で処理していくのよ。それが終わったらアーレストさんと一緒に調理と分配ね。私とリースリンデは外へ出られないから下拵えと調理器具の洗浄しか手伝えないけど、貴方は外でも臨機応変に動いて頂戴。なんだったら」
 ソレスタさんに化けて。
 って、言おうとしたんだけど……真似できるのは容姿だけっぽいし、ソレスタさんの顔見知りに会ったら不審に思われちゃうかしら?
 でも、子供姿で手伝ってもらっても効率は良くないわよね。
 「なんだ?」
 「……戻っても良いわよ」
 「?」
 「その格好じゃ、お手伝いとして満足に動けないでしょ。大人の姿になっても良いわよって意味」
 「嫌じゃないのか?」
 「個人の感情の問題より、お世話になってる人への還元のほうが重要なのよ」
 「嫌ではあるんだな」
 「当然でしょ」
 誰が好き好んで活き活き動き回る仇敵の姿を観賞したがるものですか。
 「なら、別人になろう」
 「教会関係者は駄目よ。後々の辻褄合わせが大変そうだもの」
 「ウェルスやアルフリードは」
 「殴り飛ばすわよ。」
 「ごめんなさい。」
 腰折り綺麗な九十度。
 やるわね。
 「別に、貴方自身で良いわよ。「そうか」どうせ炊き出しのあい……あ?」
 投げ遣り気分な提案に答えを被せたレゾネクトの右腕が真上に伸び。
 一拍後、正面の空間を切り裂くかのように振り下ろされ。
 その動作に注意を奪われた、瞬間。
 「お前の前でなるな、とは言われなかったからな」
 四歳くらい? の大人しい男の子が、二十代後半くらいの憂いを帯びた美女に様変わりした。
 その顔は、レゾネクトを女性にしたらこうなるって感じで……

 「………………………………私の本体より、胸が……大きい…………っ!」

 「ソコ!? 其処が問題なんですか!?」
 ギリリと歯を食い縛る私に、驚愕の声を上げるリースリンデ。
 「だってこれ、どうせ鏡の力で作った虚像でしょ!? なのに、私より魅力的な身体にするなんて! なんの当てつ」
 「? 実像だが」
 「け………… へ?」
 「元々、俺に明確な性別は無い」
 「………………無い、の? 性別」
 「どっちにもなれる」
 「そ、う、なの?」
 こくりと頷く美女版レゾネクト。思わず突き付けた人差し指がへにゃりと曲がって落ちる。
 「ちなみに、性への(こだわ)りとか、は」
 「俺自身の話なら、特に無いな」 
 「……あー……そっかぁ……うん、解った。解りたくなかったけど、解ったわ。うん。その姿でお願い」
 「分かった」
 私の承諾を得て厨房へと入って行くレゾネクト。程なくして、木箱を開く音と詰め物を取り除く音が聞こえてきた。ちゃんと指示通りに手で作業するらしい。
 「良いんですか? これで」
 「良いのよ。なにもかもが私の所為だったって、改めて自覚したからね」
 「聖天女様、の?」
 そう。
 アルフリードが最後に間違えてしまったのも、アルフリードの記憶を見たレゾネクトが私を暴行したのも全部。短慮で脆弱だった私の所為なのよ。
 あの日の私に言ってやりたい。

 下手な誘惑なんて、するもんじゃない。と。

 「リースリンデはレゾネクトの近くに居たくないでしょ? 寝室に戻っても良いわよ」
 「いえ! 聖天女様は私がお護りします!」
 自身も怖くて仕方ないでしょうに、背中の羽をピンと伸ばして私の左腕にしがみ付き、厨房内のレゾネクトを精一杯牽制する可愛い精霊。
 威嚇された当の本人は此方(こちら)に背を向けて、木箱から取り出した百合の根を丁寧に水洗いしてる。女性らしい魅力溢れる曲線で構成された肢体には不釣り合いに見えるけど、白い首筋が覗く程度の短い髪は、調理場に立つ為の配慮よね。さらっと小技を利かせる所が心底憎たらしい。
 「ありがとう。じゃあ、百合の根の下拵え方法、教えてね?」
 「はい!」
 小さな頭をそっと撫でて木箱の群れに足を踏み入れる。
 再度流れてきたアーレストさんのお説教を背景音楽に、着々と進んでいく百合根感謝の日の下準備。
 実の娘に捧げられる祭事をこの顔ぶれで迎えるって、なんとも言い難い複雑な気分だけど……
 「貴方……いえ、貴女には負けないわよ! レゾネクト!」
 「勝負事なのか?」
 「私が剥く数と合わせれば、聖天女様の勝利は揺るぎません!」
 「二対一での勝利は嬉しいものなのか?」
 悪魔と精霊と女神の手で一枚一枚剥かれては、(ざる)の中で積み重なっていく白い鱗片。
 もう一度水で洗い、下茹でしたり蒸したり焼く用に取り置きして、最後に人間が手を加え、料理を完成させる。
 数千年前ではありえなかった、もしかしたら「奇跡」とも呼べる一幕。
 憎悪と嫌悪に塗れて当たり散らす毎日よりは
 「…………悪くない、かもね」
 「そうか。嬉しいのか」
 「そっちの話じゃないわよ、ばか。」





vol.9.5 【余談】

 炊き出し会場に突如現れた謎の美女。
 アーレスト神父と並び立つその姿はまるで絵画のようだと街民達の話題をさらい、二人の前には噂を聞きつけた人々が、一目見たさで分配開始前から長蛇の列を作り上げたという。
 しかし。
 その日の炊き出しも、神父の予定通りに始まって予定通りに終わっていた事は、教会内にひっそり居付いている女神と精霊しか気付いていなかったとかなんとか……。


  
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