王道を走れば:幻想にて
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第一章、その4:盗賊の砦
冷え切った岩盤の空気が静かに牢獄の中に降りていき、鉄格子の無機質さを際立たせる。長々とした慧卓の話に耳を向けていたアリッサは、自分の常識からは考えられぬ異世界の情景に、一つ聞いては驚き、そして一つ聞いては怒りを露わとしていた。世界を違えど、卑しい者達の人の隙に付け入る卑劣さに対しては、同種の感情を抱くようであった。
そして慧卓は異世界に降り立ったまでの感想を言う。
「って事で、俺はこの世界に来たわけなんです」「・・・そ、それは、随分とその・・・荒唐無稽に聞こえるが」
「まぁ、異世界の話ですから、混乱されるのも無理はないですよ」
「いや、そうではなくてだ。・・・クマミ殿、あなたは女装していたのか?」
「いかにも!」「・・・英雄って何なんだ、一体」
「あの、俺の苦労については何か感想無いんですか?」
「とてもたいへんだったのだな。どうじょうするよ」「あっ、まともに聞いてないんだ・・・そうなんだ」
せめて慧卓にとっては、脇腹を蹴り付けられて骨を折られた事について同情を貰いたい気分であった。しかし治療用の薬を飲む過程での一悶着のせいで、殊更それを求めるのもどうかという事実も無視できなかった。同じ牢に入れられた仲であるし、下手な波風は吹かせるものではない。
そう思って慧卓は此処で話を打ち切る事にして、話の忠心を自分から熊美へと移す。
「アリッサさん。さっきから熊美さんに英雄だ何だって言ってましたけど、そんなに熊美さんって凄いんですか?」
「ああ。この世界、『セラム』においては英雄と言われている。腕を振るえば男が飛ばされ、剣が砕かれ、ノンケの尻が犯されーーー」
「アリッサちゃん?」
「・・・最後のはあくまで馬鹿な兵士達の噂話だ。・・・ま、まぁ、本当かどうかは定かではないが」
「森で襲ってきた賊みたいに、俺を襲わないで下さいよ」
「・・・もう少し精悍になったら好みになるわねぇ。あ、冗談よ。だからそんなにおびえた表情はしないで」
「今のは誰であろうと慄きます、クマミ殿」
いかに尊敬する人物であろうと、流石に発言が度が過ぎれば引いてしまうものだ。慧卓の背筋にぞぞぞと走った嫌な感覚を消せぬと判断したのか、熊美は苦笑しながら彼から離れる。
誰もが口をきかぬ変な静寂が場に立ち込めた。話をしようにも何をやったらよいやらで慧卓は困り、ふと上を見遣る。彼につられて熊美が上を見て、呆れるように息を吐いて俯いた。どうやらその様子を窺ってみるに、上階での騒ぎはまだ収まらないらしい。
「・・・長いですね」
「本当。どれだけ盛り上がっているのかしらね」
「・・・そういえば、なんでアリッサさんはあの教会に居たんですか?なんか、慌てていたような感じでしたけど」
「・・・ふむ、貴方達には事情を話した方が良いだろうな。事の始まりは二週ほど遡る」
アリッサは壁に寄り掛かり、一つ間を置いた後に話し始めた。
「とある村の近くで山賊の棟梁が貴族らしき風体の者と面会をしていたと、偶然通りがかった商人の報せを受けて警備衛兵らがその村に駆けつけたのだ」
慧卓は床に腰を落として静聴の態勢をとり、熊美は牢屋の鉄格子の近くにて彼女の話を聞く。
「商人から良く聞くと、貴族の風貌は良く分からず仕舞いであったが山賊は分かった。『鉄斧のカルタス』、その人だったのだ」
「・・・異名持ちねぇ?もしかして、手配書も出回っていたりするのかしら?」
「ご賢察の通りです。『鉄斧のカルタス』、王国重要指名手配書にて頸に多額の懸賞金も掛けられている凶悪な山賊だ。『集団略奪罪』・『放火罪』・『殺人罪』・『結婚詐欺罪』」
「え?」
「結婚詐欺」
疑問の声に律儀に答え、アリッサは更に続けた。
「彼奴めは貴族から何かを大量に受け取って、己の砦に運び込んだらしい。それを急ぎ斥候を放って確認させたところ、大量の火薬だという事が判明した」
「火薬?物騒な響きね」
「同時に、大量の鉄と硫黄が運び込まれるのが発見された。あくまで推測だが、奴はこれで大量の手榴弾を作るつもりなのだろう」
「手榴弾って・・・これは日本でいう『てつはう』って事でしょうか?」
「貴方にはそれが分かり易いでしょうね。本来ならば球状の土器か陶器の中に、鉄片や青銅片と火薬・硫黄を詰める。それを点火して地面に向かって投げつければ、相応の爆発が大音量と共に発生し、中の破片が周囲に吹き飛ぶ」
「其の通りです。我が王国でも、一部の工兵が正式採用している武器です。同時に一般人、ましてや賊徒が手にするには余りに危険な武器であり、一介の警備衛兵には手が余る事態でした。そこで急遽私を含めた国軍の兵隊が村に派遣されたのです。当初我らは折を見て、山間に位置する山賊の砦を奇襲する筈でした」
アリッサは其処で話を一度止めて、首を横に振る。その頸振りには、一部の諦観が混ざっているようにも見えた。
「しかし思わぬ事態が発生したのです。派遣されてきた兵士らの中に、高貴な御方がこっそりと忍び込んでいたのです」
「?敵方の?」
「違う、我らのだ。・・・グスタフ=マイン王国第三王女、コーデリア=マイン王女殿下」
「はいぃ!?!?」
「何故そのような方が屈強な兵士の中に混ざっていたのかしら?」
「・・・恥ずかしながらあの方の私情によるもので」
王女の尊厳を傷つけぬように言葉を選びながらも、アリッサは話を続けて行く。
「賊徒共らが篭る砦の近くに、小さな教会があります。私達が居た場所ですね。あそこは嘗て、殿下が礼拝と修行を重ねられた思い出のある場所なのです」
「・・・読めてきましたよ。賊共と一戦交えるとしたら、もしかしたら賊共の手が、王女様の思い出深い教会に及ぶ可能性がある。だから壊されぬうちに、思い出の品々を取り戻しに来たんですね?」
「あぁ、当に其の通りだよ。そして私は王国に忠を成す近衛騎士だ。あの方の護衛として遥遥教会まで行き、無事に品々を手にはしたのだが、結果として周囲を蔓延っていた賊に勘付かれた。そして、こうなった訳だ。幸運にも殿下は逃がせており、兵達に要らぬ動揺は与えていない筈だが。
・・・貴方達には本当に詰まらない事に巻き込んでしまったと思っている。どうか、お許し下され」
アリッサが居住まいを正し、深く頭を下げる。複雑な厄介事に無関係な者を巻き込んでしまったという慙愧の念が胸中をもやもやと覆っていき、彼女の表情を曇らせていく。そんな彼女を安心させるように、慧卓は和やかな笑みを浮かべて言葉を掛けた。
「もう大丈夫ですって、俺達も乗りかかった船に乗っかっただけです。それに、此処まで来たら一蓮托生ですよ!一緒にその賊徒共の鼻を叩きのめして、王女様に笑顔で拝謁しに行きましょうよ!!ですよねっ、熊美さん!!」
「まっ、そうね。態々本拠地に招き入れてくれたんだしね。ここは彼らを、吃驚させてあげましょう」
アリッサは頭を上げ、危機を遇して尚溌剌とした態度を崩さぬ慧卓と、不敵な微笑を湛える熊美を見る。この事態を招いた張本人ともいえる己を咎め、責められると思っていただけに、二人の態度に驚きを隠せないでいた。だが段々と彼女の胸中に安心感が芽生え、油断ならぬ状況に余裕を崩さぬ二人に対して信頼感を抱いていく。
「・・・有難う、二人とも」
アリッサは柔らかな笑みを浮かべて二人に言葉を述べた。それを慧卓と熊美が微笑で以って応えた。
其の時、地下牢の扉が音を立てて開き、冷ややかな風が流れ込んできた。先の猪面の中年の男に続いて、他の者と一線を画す雰囲気を漂わせる、筋骨隆々の大男が現れた。浅黒く焼けた肌の彼方此方には剥き出しの刃傷の痕が残り、鼻は丸く潰れている。だが瞳は真ん丸としており、何処か純粋さが残っているようにも見えた。だが其処から出る愛敬など、大男の逞しい巨体と汚れ煤けた革鎧の前には意味なきものと成り果てている。
「お頭、この女です」
「・・・女、背中を向け」
頭、即ちこの男が『鉄斧のカルタス』なのであろう。漸くの登場である。その言葉に渋々と従って、アリッサが背に纏うマントを見せ付ける。それに描かれた美麗な樫の花をじっくりと眺めてカルタスは言う。
「・・・間違いねぇ。『樫のマント』だ。こいつぁ驚きもんだな?王国の威厳を担い、そして臣民の期待と羨望を一身に集める最高峰の騎士様と、こんな薄暗い地下牢で御面会できる名誉に預かるとは」
「ふん、薄汚い賊風情め。この私が貴様らの陰惨な手に屈すると思うか?早々に牢から出してやれば、貴様に極刑台で首を落とす名誉をやろうぞ」
「はっはっは!!!生憎だが、俺は王国の全ての街で出入りが禁止されてんだ、極刑台まではいけねぇなぁ?」
「なら此処で落してくれよう。貴様の鬱屈とした思いが詰まった、この砦でな?」
「てめぇ、阿婆擦れの癖して調子に乗りやがって!!!」
「黙らんか、馬鹿者がっ!!近衛騎士に無礼を働くなっっ!!!」
声を荒げて暴言を吐いた男に、山賊の棟梁らしくカルタスが胸を張り上げて激を発した。そのけたたましい怒声が壁に反響して、幾重もの波となって男の心胆を寒からしめた。カルタスはアリッサに向き直る。
「部下に代わって無礼をお詫びする。無礼を重ねるようで恐縮だがな騎士様、此処は山賊の根城なんだ。山賊の棟梁たる俺が山賊のルールを駆使し、あんたを命令してもいいだろう?」
「・・・良かろう。末期に辱めを晒さぬよう、気をつけて法を扱う事だな」
「はははは・・・気丈な態度が何時まで続くか、見ものではないか。おい、丁重にお連れしろ」
賊の男が牢屋の扉を鍵で開けて、頸を振って催促する。アリッサが男の臆病さを嘲笑うように溜息を漏らすと、男はいきり立って地下牢の中へと入り、無理矢理アリッサの腕を掴み取った。そして踵を返そうとした時、熊美と接触してたたらを踏む。
「気をつけろ、糞オカマっ!」
「ごめんなさいね・・・てめぇ、あとで覚えてろよ?」
「なっ、なんだと貴様っ!!」
「・・・フフッ」
「お前は笑うなっ!さっさと歩け!」
何処か可笑しいように笑うアリッサを前に歩かせて賊の男が退出していく。棟梁が熊美の右手を見詰めて一つ微笑むと、己の鍵を用いて牢屋の鍵を掛けて、地下牢を出て行く。
扉がガタンと音を立てて閉まり、慧卓が待ち焦がれたように話し始めた。
「で、どうします?こんな場所に居続けたら直ぐに風邪を引きそうですけど」
「案外余裕ね、貴方。普通なら頭抱えて絶望するような状況なのだけれど」
「そりゃ貴方もです、熊美さん。今何を握ってるんですか?」
「・・・よく見ているわね」
熊美が掌を見せ付けるように手を広げると、其処には小さな鉄鍵があった。
「それって・・・牢屋の鍵ですか?」
「ふふーん、大正解。あの人とぶつかった時にくすねちゃった。熊美ったら、本当に悪い子、うふっ(ハート)」
「うえっ(嘔吐)、にあわねぇ。オカマの『うふっ』とか誰が得すんだよ」
「あ”?」
「超可愛い!熊美さんマジ天使!この天使のような可憐な笑顔で色んな人の心を掴んできたんだろうなぁ!すごいなぁー、憧れちゃうなー!」
「それほどでもないわ」
熊美が地下牢の鍵を手の中で弄びながら言う。
「山賊の頭がなんで私を見逃したのか、いまいち意図が分からないけど、事態が上手く運ぶならそれでいいしょう。もし脱出を試みればそのうちに敵も気付くでしょうから、早いとこ、アリッサを助けるとしましょう」
「りょーかい・・・ってあれ?」
不意に熊美は慧卓へ鍵を投げ渡す。慧卓は鍵を確りと掴みつつも、鍵を投げ渡した熊美の意図が掴めず、慧卓は疑問符を口から零した。
「何でです?一緒に行きましょうよ」
「ん~、確かに一緒に逃げるのも手だと思うの。でもね、私さっきあの人に言ったでしょ?『後で覚えてろ』って」
熊美は笑みを消して真剣な眼差しをして地面を見詰める。
「会ってたかが一日足らずだけどね、アリッサは私の中では立派な仲間なの。戦地へと共に吶喊し、背中を預けるに足る戦友。その人を、あの賊は阿婆擦れと侮辱したわ」
その言葉と共に一気に場の空気が張り詰めるのを慧卓は感じ、序で思わず怯えを抱いた。先まで柔和な笑みを浮かべていた熊美の顔に、紛う事無き憤怒の赤みが浮いていたのだ。歯を食い縛り、瞳を爛々と怒らせている。仲間への侮辱に激怒するその姿は慧卓が知らぬ姿である。それは当に、一人の夜の漢(或いは漢女)として電気の街を歩く者の顔ではない。悪鬼羅刹の猛将の顔であった。
「許してなるものか。必ず、奴の頭を打ち砕く。戦士の誇りにかけて、これを成就せねばならん!・・・理解してくれるか?」
「え、えぇ、勿論です」
顔に僅かに恐怖を浮かべて慧卓は逡巡の余地無く首肯する。途端に熊美の表情から険が晴れるのを見て慧卓は胸に安堵を覚えた。
「貴方は元来た道を走って外に出て、何処かに身を潜めていなさい。途中で山賊の服でもくすねるといいわよ。私はアリッサを救出した後に貴方と合流するわ...あら?」
ふと熊美が地下牢の扉の方へと鋭く視線を遣る。
「巡回の賊兵の気配がするわね。・・・もうすぐ離れて行くみたい。合図をした後に牢獄を出なさい。いいわね?」
「分かりました。・・・熊美さん、御無事で!」
「そっちもね」
慧卓は牢屋の鍵を開けて扉の前で待機する。頬に一つ、緊張から生まれた汗粒が流れた。扉の取っ手を掴み取ると、その冷たさを感じて嫌にはっきりと胸が弾む。慧卓は静かに深呼吸をすると、神経を集中させるように真正面を向いた。
「行きなさい!」
「っっっ!!!!!」
切り込まれた鋭い声に、弾かれるように慧卓は扉を開けて外に出て、扉を静かに閉めた。瞬く間に洞窟内のひんやりとした冷気が彼を出迎える。そして遠目では在るが、巡回の者らしき背中が洞窟内の通路奥に見え、今し方それが曲がり角を曲って消えて行った。
いよいよ以って、脱出の時である。慧卓は高鳴り始めた心臓の鼓動をうるさく思いつつ、冷静さを保とうと必死に言葉を胸中に湛える。
(落ち着け、慧卓。こういうのには特有のやり方ってのがあるんだ!)
慧卓は自分の世界にて過去に絶大な人気を誇ったステルスゲーム、その主人公の精悍な風貌を思い浮かべ、意を決して足を進ませた。
息を飲み込んで慧卓は足を進ませていき、賊が消えて行った曲がり角まで差し掛かる。其処からちらりと顔を覗かせれば、大きく刳り貫かれたように広間が広がっていた。広間全体に鉄色の暗い空気が立ち込めており、視界が利き難い事は明らかである。まるで支柱のように天然の岩柱が幾本も聳え立ち、柱の根元には小さな茸が生えている。時折、広間の天上から水滴が零れ落ちており、ぽつぽつと水溜りを撥ねさせていた。。空間の中を照らすように松明の炎が炊かれているが、その炎は動き回っている。即ち、見張りの者がいるという事である。
その広間にて視認出来る限り、三人の者が巡回をしていた。一人は先程広間に入っていった者であり、直ぐに別の入り口へと姿を消していった。後の二人は退屈そうな様子を呈しながら、円を描くように広間を歩いている。その巡回ルートを確かめるように、慧卓は目を凝らして彼らの動きを観察した。
(やり方・・・巡回ルートを見極め、気配を絶ち、賊の死角へと移動する!・・・いやっ、気配絶つなんて無理だけど、足音は出来るだけ立てないようにする!)
彼の中で危機感と緊張は徐々に高まりを増し、不安が彼の心を苛み始めていった。地下牢を脱出して外に出たところで、本当に自らが助かるかは分からない。もしかしたら途中で賊徒に捕縛され、彼らの腰に吊るされた鉄剣により斬首の刑に処させる事もあるかもしれない。アリッサ達の方でトラブルが発生して、結果として脱出自体が不可能に終わるのかもしれない。漠然とした不安が不安を呼び、彼の理性を奪うように胸中に広がる。己がきりっと立たせている足に至っては、緊張で膝が少し笑っている。
だが慧卓は決して賊から視線を逸らさない。身体に怯えが走っても、決してその場で蹲ろうとはしなかった。
(逃げたりはしない・・・熊美さんが頑張ってる中で、俺だけが怯えて身を竦ませるなんてっ!!!)
咥内に溜まった唾を飲み込んで慧卓は僅かながらも勇気で、己の理性を必死に繋ぎとめようとする。足の震えは収まらないが、それでも少しばかりの走駆くらいならば耐えられそうだ。
巡回の者が此方より視線を外した瞬間、慧卓は一気に身を乗り出して慎重に、しかし大胆さを兼ね合わせて疾駆していく。足音を無闇に立たせぬよう腰を屈ませて走り、直ぐに柱の陰へと己を隠す。際どいタイミングとはいえないが、それでも巡回の視線が何処を走っているか定かで無い以上、余計に心臓に負担を掛けるものであった。嫌な汗が背中を濡らし、掌に感じる柱の冷たさを感じて身体の熱を一気に自覚していく。口から毀れる荒い吐息が、薄暗闇の中に混ざり溶けていった。
円形状となっている広間にて円を描くように巡回しているのならば、必ず別の入り口に差し掛かる時が来る。其処まで辿り着いてしまえば、後は別の巡回者の視界に入らぬよう気をつければ大丈夫だ。そう己に言い聞かせて慧卓は柱の影より顔を覗かせて二人の巡回の位置を確認する。一方は遠く離れ、一方は壁際を歩いて近付いてくる。後者の姿が柱の陰に隠れた瞬間、再び慧卓は走り出して壁際を走り、別の柱の陰に身を潜めた。
巡回の賊の位置を確かめ、走り出し、柱に隠れる。慧卓はこれを幾度も繰り返し、漸く広間の出口へと近付く。巡回の者は幸運にも一度も此方に気付いていない。在り得ぬほどの幸運を自覚しながらも、慧卓は腰を屈めながら足早に移動し、遂に広間の出口へと姿を消していった。
普通ならば其処で大きく息を吐いて安心するのだが、彼はそれで留まらない。ここぞとばかりに慧卓は走っていき、間近の通路へと直ぐに顔を覗かせた。其処に誰もいない事を確かめてから、彼は上方、洞窟の出口へと向かっていく。
「はぁっ、はっ、はあっ、はあっ、はぁっ」
荒い息が彼の胸を締め付け、緊張のあまり心臓がやかに煩く高鳴っているのを感じさせた。慧卓は折り返すように続く坂を一つ、二つ登ると、人の気配が無い事を確かめてから間近の扉の中へと滑り込んだ。其処で彼は今度こそ深い息を漏らし、扉に後頭部を付けて安堵の念を抱いた。
彼が入っていった部屋の中には、幾つもの木箱が所狭しと積み重なっており、壁には棚が打ち付けられている。木箱の中には使い古されて捨てられたのであろうボロ服が覗いていたり、腐敗して用を無くした野菜が散乱したり、そして部分部分が壊れたジョッキやスプーンが放られていた。棚の上には薬瓶が幾つか乗っているが、何れも中身が空である。酒臭い事から、本来の使用用途を無視した事は間違い無さそうだ。
慧卓は荒くなった息を狭苦しい部屋の中で整え、自分に改めて克を入れた。
「よし、いく「おい、聞いたか?」って!?!?」
扉の向こう側より聞こえた声に心臓をどきりと鳴らし、慌てて慧卓は己の口を塞いだ。扉越しに、二人組みの男の声が聞こえてくる。かつかつと靴が鳴らされる音が、ほんの直ぐ傍まで聞こえて来た。
「頭が連れ込んだあの騎士、実は超お偉い人なんだとさ」
「本当か?毎日上手い飯食える人なのか?」
「偉い=上手い飯って変換するんじゃない。でさ、あの騎士って自分をアリッサ=クウィスって名乗ってただろ?クウィスってのは今の王国の成立に貢献したクウィス男爵の事なんじゃないかって、皆噂してあの人の顔を拝もうとしてるぜ」
「うっほ!!凄い人が来たもんだな!!」
(アリッサさんってそんな凄かったのか。俺タメ口きいちゃったよ)
慧卓は余裕を抱こうと、無理矢理に下手糞な冗談を胸中に零す。扉越しの声は足音と共に徐々に遠ざかっていく。
「で、実際はどうなんだ。本当に近衛なのか?」
「樫のマント羽織っていたんだぜ、本当だろ。それに、あの人が近衛騎士なのは当然だと思うな。なんせこの王国が出来たは三十年前の戦争の時、あの人の父上が頑張って戦ってくれたんだからな。クウィス男爵は亡くなられたが、あの方の御威光は国内に残っている」
「つまりは、あの人の縁故って訳か。まぁ、普通王様とその親族に近しい奴は、王様と親しい連中で固めるのが鉄則だからな。俺はそれ抜きにしても、あのお嬢ちゃんが凄いのは当然だと思うぞ。歩いている姿が凛々しくてたまらんかったし」
「お前、もう見たのかよ!?なんて羨ましい・・・」
「全く、さっさと見ておけよ?さっさとしねぇと、この国が独立を勝取っちまうぜ?」
「そんな夢御伽噺、俺にはもう似合わねぇよ」
何処か寂しげな言葉を最後に、賊達の言葉が明瞭に聞き取れなくなっていった。充分に離れていったらしい。だが慧卓は身動ぎ一つせず、虚空を見据えて思考を巡らした。
(三十年前の戦争、賊徒にも慕われる貴族。そして、非独立国・・・か)
此処に来て、慧卓は一気に現実に直面したような気がして、それまで高鳴っていた心が段々と冷めていくのを感じた。
先までの自分は何処か浮かれていたのかもしれない。見た事も無い厳粛で、幻想的な世界に心ををわくわくとさせて、己をどっぷりと童心の沼地に浸からせていたのだ。何処まで浸かろうが所詮は現実に相違無い。心を貶せば彼らとて悲しみと怒りを覚え、腕を切れば赤い血が噴き出るのだ。己もまた彼らと同じ人間として、只管に生の全うを追求せねばならない。そんな念が胸中に沸いて出てきた。
慧卓は己の心に冷静さを取り戻し、扉に耳をつけて外を窺う。
「・・・もう居ないな、っとぉ、いいの見っけ」
部屋から出ようとした時、慧卓は扉の近くに置かれていた小箱の上に、ひっそりと畳まれて埃を被っていた一着の檜皮色の上着に目をつけた。それを広げてみるに、がっしりとした体躯の持ち主でなくとも充分に着れるよう、小さめに作られている事が分かった。慧卓は埃を払い落としてそれを上から着る。若干古びれた臭いがするが、身体にぴったりと合う。
己の新たな服に感覚を慣らしていると、突然、上方の方より大きな轟音が響き渡り、部屋の内にまで震動が伝わってきた。ついで二つ目の轟音が鳴り響いて震動が生じ、薬瓶が棚から零れ落ちて破砕する。砦の内部で急に慌しく物々しい騒ぎ声がし始めた。
「なんだっ?急に騒がしくーーー」
「おいっっっ、早くしろぉ!!!」
「分かってる!!!!!」
扉の外より切羽詰った声が聞こえる。耳を澄まして聞いてみるに、慌てた様子で二人の男が疾駆しているようだ。其処へ別の声が問いかけた。
「お、おい、どうしたんだ?」
「寝ぼけてないで武装しろ!!王国兵が攻めてきたんだよっ!!」
「なっ、そうならそういえ、阿呆!!」
「今言っただろ、馬鹿!!!」
どたばたと床を踏みつけ駆け抜ける音が鳴り響き、段々と彼らの荒い足音が遠ざかっていく。上方より轟音が聞こえる事は無くなったが、代わりにけたたましい騒ぎ声が耳に入ってくるようになって来た。
(攻勢が始まったのか?)
アリッサが言っていた、王国兵の攻勢が始まったのかもしれない。賊徒達も防衛に追われ、捕虜を監視する暇一つ与えられぬであろう。それは詰る所、己の脱出のチャンスとも成り得る。
慧卓は扉から出でて、洞窟の外へ出ようと足を運ばせる。洞窟内に人の気配は唯一つも無い。通路の横合いに位置する部屋の扉は乱暴に開け放たれており、余程慌てた様子であったのであろうか寝台のシーツが滅茶苦茶に乱れて床に落ちていた。
そして慧卓は一つ、二つと坂を上っていく。足元や天上を覆っていた天然の壁土による薄ら暗い色が消え去り、代わりに人工的に組み合わせれて明るい色をした木材が姿を現してくる。天然の洞窟を抜けて、本当の砦の内部へと戻ってきたようだ。慧卓は砦内に設けられている階段を幾つか登り、長く細い通路を駆け抜けていく。彼の脳内に此処を通ってきた記憶は存在していないが、而して轟々とつんざめく男達の雄叫びより遠くへ行くためには、この道を通るより他無かった。
慧卓は通路の突き当たりにある扉を勢い良く開け放ち、其処にあった光景に目を瞬かせた。
「・・・なんだ、これ」
蛮声が共鳴し、轟音が鳴り響く。粗野な風貌をした賊徒達が木壁に立って殺意に身を滾らせて弓矢を握り、その鋭利な鏃を砦の外へと射ち放っている。そして彼らが身を屈め木壁に隠れれば、高調子の雨が壁の外から襲来し、壁に突き刺さり、幾本は壁を乗り越えて広間や砦に突き刺さる。呻き声を漏らした男が背部に突き刺さった矢を握り、すごすごと砦内へと戻っていく。慧卓は現状を理解する。王国の軍隊が、砦を奇襲している。
幾人もの屈強な男達が必死の形相で砦の門を押さえつける。その門は幾秒もの間隔を置いて非常に力強く、門の外側の方から押されていた。押されるたびに軋むような轟音が鳴り、木がみしりと音を立てて揺さぶられて賊徒らの余裕を削っていく。慧卓は門を押す正体に数秒を掛けて気付く。門を攻めているのは、破城槌なのだ。
現実においては、ゲームの中でしか、映画の中でしか知らない光景。それは紛れもなく、彼にとっての異界の風景であったのだ。
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