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男女美醜の反転した世界にて

作者:黒色将軍
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プロローグ

 
前書き
ノクターンノベルズにて掲載しておりました作品を移行させていただきました。
一応完結いたしましたので公開させていただきます。 

 
「んじゃ、仕事に行ってくるわね」
「うん。今日も遅いの?」
「んにゃ、今日は久々に定時に帰れると思うわ。夕飯、楽しみにしてるよ」

 美人の奥さん(バリバリのキャリアウーマン)を見送って、家事に取り掛かる。
 まずは朝食の後片付け、それが終わったら家の掃除をして、子供の世話もしなければ。そういえば、今日は近所のスーパーで特売がある。あ、しかも今日は燃えるゴミの日だ。忘れる所だった。
 ――やることは山済み。不満は全くない……とまでは言わないけれど、温かくて充実した毎日。
 美人の奥さん(バリバリのキャリアウーマン大事なことなのでry)に、可愛い子供。健やかで緩やかな日常。"幸せ"とは、きっと今のことを言うのに違いない。
 さて、今日も一日専業主夫、頑張りますか――。
 ――と、意気込んだところで、玄関が開く。美人の奥さん(バリバリのキャry)がちょっと慌てた様子で帰ってきた。

「あれ、忘れ物?」
「うん。これ忘れたら仕事にならない」
「もう、朝から慌てす――んむ」
 
 キッス。

「ん~、――ぷはっ、うん、これがないとね! よっし、気合入った! 今日も一日頑張りますか!」
「も、もう。……」
「続きは帰ってきたら、ね?」
「う、うん……」


 ◇


 まあ、夢なんですけど。
 朝。今から二度寝すれば夢の続きが見れるかもしれない、なんて甘い誘惑を気合で断ち切って、鳴り響く携帯の目覚ましを止める。
 時間を見る。わーお。驚愕。
 いつもより30分起きるのが遅い。
 手早くシャワーを浴びて、制服に着替える。
 朝食……を作っている時間はない。すなわちお弁当を作る時間もないわけで、今日は久しぶりに学食を利用することが決定。
 今月は厳しいのだけれど、時間は残酷だ。逆に考えよう、三十分の睡眠時間を、昼食代で買ったのだと。
 とりあえず、朝食代わりに買い置きの食パンを一切れ、口に放り込む。ぱっさぱさな口内を牛乳で中和しながら、パジャマを脱ぎ捨てる。
 食パン×牛乳を咀嚼し終えたところで、洗面台へ。鏡の前に立つ、今日もブサイクが一層輝いてるね。ヒョロヒョロの体躯。見るからに血色の悪い不健康そうな顔色。
 身長は四捨五入すれば百六十センチ。昔つけられたあだ名は女もやし。"もやし女"じゃないところに、命名者のセンスを感じる。
 
 歯磨き。しながらYシャツを着装。時間はかけていられないので、これも手早く。
 リビングの椅子に掛けておいたブレザーを装着して――、はいできあがり。ここまで所要時間は10分程度か、非モテ系不細工男子の朝なんて、こんなもんです。
 あ。
 と、家を出る直前に思い出す。そういえば今日は不燃ごみの日だ。今日の朝準備すればいいと思って放置していたんだった。
 時間は、正直ギリギリだけれど、急げば何とかならないこともない。月に一回しかないから、一度でも出し損ねると溜りに溜まって不快なのだ。
 そんなこんなで、不燃ごみを集めて指定の袋へ。この時点で五分のロス。
 ゴミの収集場所は通学路から外れているので、非常に大きなタイムロスだと言わざるを得ない。
 電車、間に合うかな……。満員電車は嫌いだから、できればラッシュの時間帯とはずらして乗りたいのだけど――。


 ◇


 駄目でした。
 満員電車というのは、何度体験しても慣れない。これから先、たとえば高校を卒業して社会人になったとして。絶対に電車通勤が必要な職場だけは選ばない。このご時世、贅沢を言えるような立場にないのはわかっているけれど。
 突然だけれど、僕――赤沢拓郎は主夫になりたい。
 甘い願望、というほどではないと思う。
 現状、親の都合で一人暮らしを強いられている。
 甲斐甲斐しく家事を手伝ってくれる幼馴染は画面から出てこないし、仕送りだって食費と日用品だけで綺麗に使い切れてしまう金額しか送られてこない。 
 一人息子に対してこの仕打ちはどうかと思うけれど、『自分のことは自分でやれ』という、立派教育方針の元、海外を転々とすることを良しとせず、日本に残ることを望んだのは僕自身なのだから、文句を言っても仕方がない。

 世の専業主婦の方々は、僕とはまた違った悩みや、相応の苦労を抱えているのだろう。けれど、僕も別に舐めているわけではなくて、専業主婦――もとい、専業主夫こそ、僕の天職に違いないと、客観的にして冷静にそして本気で、僕はそう思っている。
 今朝の夢は、まさに僕の理想とする未来だった。美人の奥さんを貰って、毎日家族のために頑張って――。
 
 しかし悲しいかな、現実はそうはいかない。専業主夫への道のりは険しい。険しいというか、あまりにも分厚く強大な壁が立ちはだかっていて、僕なんかではまるで歯が立たない。
 相手が、いないのだ。いないというか影も形も想像すらできないのです。
 ああ、無常……。
 ……などと、
 今日も今日とて満員電車のすし詰め状態の恐怖から現実逃避をしようとして失敗。
 
 隣の車両が視界に入った。
 向こうは女性専用車両だ。
 あちらの車両は明らかに人もまばら。立っている人の方が多いけれど、詰めれば座席に座れそうなくらいには空いていた。
 別に文句があるわけではないけれど。ちょっとだけやるせない気分になった。
 

 ◇


 電車から降りて、改札へ。
 駅から出て通学路に出ると、見知った男子の顔を見つける。近寄って挨拶しようか、どうするか迷っていると、向こうもこちらに気が付いたようで、近づいてきた。

「おっす、拓郎。――相変わらず辛気臭い顔してんなぁお前。テンション下がるから離れろよな」
「おはよう。そういう荒井くんはなんだか機嫌悪そうだね。なにかあったの?」
「別に何がってわけじゃないんだけどよ。さっきまで乗ってた電車の女性専用車両、ガラガラだったじゃん」
「あぁ、同じ電車だったんだね」

 男子の名は荒井祐樹。離れろよなとか言いながら僕に構ってくれるあたり、ツンデレの素養を持った選ばれし男なのかもしれない。これっぽっちも嬉しくないなそれ。
 厚ぼったい眼鏡に、痩せ型の体躯。顔は、オブラートに包んでいえば普通。
 しかし、彼には隠された秘密があった。その牛乳瓶の底のようなけったいな眼鏡を外すと――、かなり不細工。顔面偏差値が10くらい下がる。
 顔面偏差値20(当社比)の僕がいうことではないけれど。

「おう。で、あれを見て思ったわけよ。世の中歪んでるっていうかさ。女をちやほやしすぎだってね」
「うーん、まあ、レディファーストなんて言葉があるくらいだしね」
「最近の女は、調子に乗りすぎなんだよ。あーあ、俺も女に生まれたかったなぁ」
「極論だなぁ」
「正確には、男の気持ちを持ったまま女として生まれ変わりたい」
「TSだ」
「おう。最近のトレンドだぜ。TSモノの面白いゲームがあるから、今度貸してやるよ」
「ありがとう」

 別にTSに興味があるわけではないけれど、荒井くんが選ぶゲームにははずれが少ない。
 ――とまあ、荒井くんと僕の関係は、友達同士というよりも同じ趣味を持つもの同士、たまに会話する程度、といった関係。
 僕はシナリオ重視だったりゲーム性重視で抜き要素があまりないモノばかりを買う。
 荒井くんは逆に抜き要素一本絞り。
 なので、よく交換してそれぞれのゲームについて語り合ったりする。
 ――しかし間違ってはいけない。僕と荒井くんは"同類"ではないのだ。僕と荒井くんには、選ぶゲームのジャンル以上に大きな差があって、

「おーい、祐樹」

 進行方向より斜め前。こちらの方――、正確には荒井くんに向かって、手を振っている男子のグループが一組。 

「――お、友達が読んでる。じゃ、俺、先行くわ」
「うん」

 彼は僕と違って社交的で、オタクながらに友達も多い。
 いつも行動を共にする仲良しグループみたいなもの(俗にいう親友?)をちゃんと持っている。
 わざわざみなまで言う必要はないだろうけれど、僕にはそういったものがない。部活に入っているわけでもなく、クラスでも浮いたコケのような存在。
 いわゆるところの"ぼっち"という奴で。
 思うところがないわけではないけれど、なんと言葉にすればいいのかわからず。
 電車の時とはまた違った意味で、やるせない気分になった。

 
 ◇


 ――教室前。
 そろりと、なるべく大きな音をたてないように入室。
 一瞬だけ、クラスメイトの視線が僕に集中するけれど、登校してきたのが僕であることがわかると、まるで何事もなかったかのように各々の時間に戻る。 
 みなさん、思い思いのホームルーム前をお過ごしのようで、僕は邪魔にならぬよう、目立たないように自分の席を目指す。
 ここまではいつも通り。登校が少しだけ遅いことを除けば、まだまだ日常の範疇だ。
 問題は、ここからだった。

「――んで、あんまりにもしつこいからさ。思いっきりビンタ入れて金的してやったのよ」
「うわー美沙マジ過激ー」
「ぱねー、マジぱねー」

 ……女子三人のグループが僕の席を占領していた。
 普段は一つ速い電車に乗ってくるので、彼女たちのグループが登校してくるよりも前に、僕は机に突っ伏し鎖国を敷くことによって領地を守っているのだけれど。寝坊の代償はこんなところにまで波及するのだ。
 他で時間を潰そうにも、ぶっちゃけクラスに僕の居場所はない。荒沢くんのクラスにお邪魔しようにも、時間的には言って、挨拶をして、帰ってきたら予鈴がなるような微妙な時間帯だ。
 どうしようか。軽くパニック。
 なるべく穏やかに、僕の机の上から退いていただいて、その席を明け渡してほしいのだけれど。会話内容からもわかるとおり、下手に話しかけたりすれば間違いなくビンタからの金的を食らわされてしまうに違いない。

「ねえ、美沙……」
「あはは、でさー……、ん? なによ」
「アレ……」
「……げ」
 
 げ。と来たもんだ。
 ちょっと考え込んでいるうちに、後ろの方で雑談に参加していた女子が僕に気づいたらしい。

「あ……、ども」

 何も言わず、微妙な顔して退いてくれる美沙女子。
 逆向きにされていた椅子はそのままだったけれど。

「……」
「……行こ、美沙」

 僕の後ろの席は、確かさっきまで座っていた女子の席なのだけど。そして朝の自由時間も残り少ないのだけれど。 
 それでも、後ろの席の女子はわざわざ席を立って、美沙と呼ばれた女子の席の近くに立ってお喋りを再開する。 
 
「……赤沢マジキモいよね~」
「ホントホント、言いたいことがあるならはっきり言えっての」
「じーっとこっち睨んじゃってさ、ほら見て鳥肌立っちゃった」

 陰口、ではないんだろうな。思いっきり聞こえてるし。
 ……面と向かって言われないだけマシだと、心の中で念じつつ。僕は寝たふりをしながら、予鈴がなるまでの時間を過ごした。

 
 ◇


 いつも通り苦行のような六限+昼休みを何とか乗り切って放課後。

「明日のホームルームに、文化祭の出し物について話し合いをするので、各自――」

 担任の男子教師が、教壇で伝達事項を呟いているのを聞き流しながら、今日一日を振り返る。
 六限の授業は、真面目に大人しく受けていればなんのことはない。
 先生に当てられて、教科書を朗読をしているだけなのに、なぜか失笑が聴こえてきたくらいだ。 
 それよりも昼休みだ。お弁当を持ってこなかったのは失敗だった。大失敗だった。 
 以前に学食を利用したのは、去年のこと。 
 まだ交友関係が定まっていなかったらしい荒井くんに誘われて、金魚の糞の如く付いていったのだ。そして曲がりなりにも二人で昼食を共にしたのだった。
 あれ以来、こっちから誘うこともなく、向こうから誘われることもまたあり得なかったので、学食を使うのはこれで二度目になるのだけれど。
 一人で利用する学食のテーブルが、あんなにも肩身の狭いものだとは想像だにしなかった。
 ――男子三人組が僕の右隣に一人と、正面に二人。
 僕を囲うようにして、その上で僕から気持ち距離を離すようにして座って、わいわいがやがやと楽しそうに雑談しながら昼食を取っていた。
 おそらく同じ部活の仲間なのだろう、一人だけ敬語で話していたので先輩後輩の仲なのかな。なんてことが、簡単に聞き取れてしまうくらいに近い距離。
 他意も悪意ないのはわかっている。男子三人組は僕のことなど、文字通り空気ほどにも気にしてはいなかっただろう。
 それでも、その時の緊張と気まずさは、これはぼっちの僕にしかわからないに違いない。
 昼食の味なんか覚えていない。何を頼んだのかも忘れてしまった。
 もう二度と学食は使わない。お弁当を忘れるくらいなら、遅刻してやる。
 ――そう心に決めていると、チャイムが鳴った。
 今日は寄り道せずにさっさと帰ろう。
 日直が号令。
 終業と同時に教室を出ると、急いでいるクラスメイトたちと肩がぶつかったりして嫌な顔をされることがある。
 人の出入りがまばらになった頃合いを見計らってから、僕は静かに席を立った。
 

 ◇


 帰りも電車で。朝のラッシュほどではないけれど、やはり学校や会社帰りの人が多くて込み合っている。
 やっぱり、自分のパーソナルスペース内に他人がいるというのは落ち着かない。
 それに朝とはまた違って、帰りのラッシュ時特有の汗臭さというか野郎臭というか。ともかく電車内はじっくりと熟成された臭いが充満していて、至って不快だ。

「――、――!!」 

 ――と、何やら近くで女性のヒステリックな叫び声が聞こえた。
 周りの人々同様、首をひねって声の聞こえた方向を見ると、

「――間違いなく触ってたわ! この手が、この手が!!」
「誤解だ!」

 痴姦をされたのしてないだの。スーツ姿の美人さん、歳は二十台中頃くらいだろうか。
 端整な相貌を怒り一色に染め上げて、仕事帰りのOL風な美人さんはキーキーと怒鳴り声を上げていた。

「次の駅で降りてもらいますからね! 覚悟しなさいよ、あんた!」
「なんでこんなことに! こんなところに居られるか、俺は部屋に帰らせてもらう!!」

 捲し立てる女の人に対して、どうやら男の人はあまりのことにパニックになっているようだ。言っていることが支離滅裂なうえ、わざわざ死亡フラグを立てている。
 そうこうしているうちに電車は止まり、騒ぎに気付いた駅員が電車に入ってくる。
 十分ほど、駅員さんが周りの人や女性の話を聞いた上で、男の人を車外へ連れ出していった。
 ……くわばらくわばら。
 痴姦は冤罪を証明するのが非常に難しいのだという。無論、本当にやっていたのだとしたら救いようはないけれど、もしも無実の罪でしょっぴかれたりしたら、あまりにも悲惨じゃないか。
 ――僕も他人ごとではないかもしれないのだ。見るからに根暗でブサイクで女性に飢えていそうな僕は、周りから犯罪者予備軍として認識されていてもおかしくはない。
 事実、いまも近くにいる女子(制服を見るに、他校の女子校生だろう)が。僕の顔を見た途端、あからさまに嫌そうな顔をして距離を離そうとしている。
 車内はすし詰め状態とは言わずとも、大分混んでいる。
 けれど、僕の周りだけ点々とエアポケットでもあるかのように隙間が空いていた。
 またしても、なんだかとてもやるせない気分になって、僕は心の中でため息をついた。

 
 ◇

 
 電車から降りて、しばらく。
 学校から駅までが五分。電車に揺られることに十分。家から駅まで大体十分ほど。
 つまり、このまま真っ直ぐ歩けば十分ほどで家まで到着する。
 家に帰れば、義妹や義姉が画面の向こう側で待っている。彼女たちの暖かい笑顔だけが、僕の荒んだ心を癒してくれるのだ。自然と、足取りも早くなっていく。このペースなら、8分ほどで家まで到着できるかもしれない。
 なんてやっていたので、足元に注意を向けていなかった僕は、何かに躓いてしまう。

「うわっ!」

 つんのめって、おでこから地面に思いっきりダイブ。
 ゴチンッ! と、いい音。木魚を木の棒で叩き付けたかのように小気味良い音だった。

「痛ぅっ!」

 けれど痛みは全然小気味良くない。
 ぐにゃぐにゃと歪む視界。その中で星がキラキラと光っているような錯覚まで見える。
 耳鳴りまで聞こえてきた。すぐに立ち上がれず、その場でうずくまるような姿勢に。

「ぐぬぬ……、今日は厄日か。畜生」

 なんだか泣きたくなる。
 ――だけど、いけない。こんなところを誰かに見られたら、『道のど真ん中にデッカイ犬の糞が落ちてる』と言われて馬鹿にされてしまう。
 それでなくとも、住宅街のど真ん中で蹲っていたりしたら普通に迷惑だ。

「……」

 暫しじっとしていると、徐々に違和感は収まってきた。
 耳鳴りも聞こえなくなってきたところで立ち上がって辺りを確認。
 視界はクリア。幸いなことに僕の犬の糞にも劣るような情けないところを、目撃していた者はいないようだ。
 何気なく打ち付けたところに触れてみる。 

「ん?」

 下手したら切れてるだろうなと思いきや、触ってみた感じコブすらできていないようだ。
 それどころか、痛みまで。
 じくじくとした痛みすらない。跡形もなく消え去っているではないか。
 まるで、先ほど思いきり地面に打ち付けたのが嘘であるかのように、痛みも跡も何も残っていない。
 この分なら、大事はなさそうだけれど。でも頭は怖いからなぁ。某野球漫画のお父さんや、人生ゲーアフターの主人公も、気にしなかったがゆえに大変なことになっていたわけですし。コブができない方が危険とかって聞いたこともあったり。でも、痛みすらないもんな……。

「まあいっか」

 大事になったら大事になったでその時だ。そもそも現状、病院にお世話してもらえるほど、懐に余裕はない。 
 さっきよりも少しだけ足元を気にしながら、僕は帰路に戻ることにした。
 

 ◇


「今日は疲れた。出来れば早く寝たいよ」
 
 帰宅。
 玄関に着いてからの第一声は、『ただいま』ではなく愚痴だった。ただいまを言う相手いないのだ。
 僕ぐらいぼっちが板についていると、まるで近くに見えない誰かがいるのではないかと錯覚してしまうほどに、自然に独り言をつぶやいてしまう。
 誰が錯覚するんだろう。
 疑問に思いながら靴を脱いでいると、電話機のランプが滅しているのに気づく。

「留守電?」

 番号を見ると――、父さんの携帯からだった。
 僕が高校に進学したのとほぼ同時期に、両親は海外へと飛び立った。家事炊事がてんで駄目で、カップラーメンすら五分五分で失敗する(スープのパックが二、三個に分かれている奴は大体失敗するレベルな)父さんの身を案じて、母さんも付いていったのだ。
 それ以来、事務的な要件以外では滅多に電話をかけてくることなんてないのだけど。なにかあったのだろうか。
 仕送りを減らされたりしたら嫌だなぁ、と思いつつ、留守電の再生ボタンをプッシュ。
『――もしもし。そっちは元気でやっているか? 最近連絡がないので、父さんは寂しいぞ。口には出さないが母さんも同じく思っている。声だけでもいっから聴かせてほしい。一人息子がたった一人で日本に居るんだと思うと、心配で心配でしょうがないんだ。電話には忙しくて出られないかもしれないが、留守電でいいから残しておいてくれ。待ってます』 

「……?」

 どういう風の吹き回しなのか?
 こんな電話はこれまでの二年間、一度だってかかってきたことがない。無論、全く連絡を取り合っていなかったということではない。でも精々、仕送りを無駄遣いしていないかとか、学期の変わり目に成績についてちくちくとお小言を呟かれるくらいだ。
 連絡が欲しいとのことだけど。大した用件でもなさそうだし、面倒なので明日にしよう。 
 そのままリビングへ。
 朝、慌てて家を飛び出した時のまま、微妙に散らかっているテーブル周りが気になる。

「あーもう、こんなところにパジャマ脱ぎ散らかして。だらしないなぁ」

 我ながら、いろんな意味で寂しいヤツだと思わなくもない。
 なんだかどんどん気分が沈んでくるぞ、どうしよう。

「寂しくないぞ、楽しいぜ」

 口に出して言ってみたけど、逆効果だった。

「……腹減った」

 パジャマを洗濯機に放り込んでから、再びリビングへ。夕飯の準備に取り掛かろう。 
 まずはテレビを点ける。僕は別段テレビっ子というわけではなく、むしろあまり見ない方なのだけど。
 無音で夕餉(一人前)の支度をしていると、食材と間違えて手首を切ってしまいそうになるくらい気分が落ち込んでしまうので、テレビは必須なのだ。
 液晶の向こうでは、夕方のニュースがやっていた。

『――……で有名な男優、ジェームス・ジャクソンが、カタール人の大富豪と極秘結婚を済ませていたことが判明し、話題を呼んでいます』

 男性のアナウンサーが原稿を読み上げていた。
 何処の誰が結婚したっていいじゃないか。
 あまり興味がない。というかぶっちゃけ、テレビで何をやっていようと興味が惹かれることは少ない。BGMにさえなってくれればいいのだ。

「今日の献立は、生ハムと菜の花でちらし寿司といこう」

 めでたいことがあったわけじゃないけれど。冷蔵庫の中身と相談したらこうなった。
 一人暮らしながらに、食事だけはある程度こだわっている。たまにインスタント食品やコンビニ弁当に浮気することはあるけれど、基本的にはきっちり自分で作る。
 食費を抑えるという意味もあるし、何よりまずい飯は食べたくないのです。  
 時間がたって固くなったごはんも、レンジでチンして酢と混ぜれば多少はマシになるだろう。ちなみに、ちゃんとレンジで熱さないと酢に臭いがちゃんと飛ばせなくてよくなかったりする。どうでもいいね。
 冷凍してしまえば一晩くらいまでは持つだろうし、では早速、

「レッツ、クッキング」

 
 ◇


「いただきます」

 今日のメニューは、菜の花と豆腐の味噌汁に、菜の花ちらし寿司。惣菜として菜の花のおひたしも追加。
 なんという菜の花ずくし。この時期は安いから、買いこんでしまったのです。

「うん、うまい」

 それなりに満足の出来栄え。だけどやっぱり、ちょっとだけご飯が固い。今度はちゃんと炊き立てのご飯で作ろう。
 テレビを見ると、ドラマがやっている。
 男子学生風の三人組が、おしゃれなレストランでディナーをおいしそうに食べていた。
 楽しそうだった。 

「……ごちそうさま」

 テレビを消して、さっさと平らげる。
 一人ぼっちの夕餉はおいしかったけど、ちょっとだけ塩辛かった。


 ◇


 洗い物、入浴、歯磨きを済ませて、二階の自室へ。
 時刻はまだ九時。いつもならここでPCを起動してゲームやらネットサーフィンと洒落込むのだけど、今日は乗り気にならない。
 ……あと、明日は体育の授業があるから体操着を準備しなくてはいけないのだけど。

「……明日でいいか」

 今日は早く寝よう。本当にもう疲れてしまった。
 電車にだけは遅れたくない。自分の机も、出来るだけ早く登校して死守しなくてはいけないし。
 電気を消して、ベッドイン。

「明日は良い一日になりますように」

 そんな都合のいいお祈りを誰にともなく呟いて、枕に顔を埋める。
 ――この時の僕は、まさかこんなお願いがあんな形で叶えられるとは、文字通り夢にも思っていなかったし、また知る由もなかったのだった。 
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