弓子、受難の十字架
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第1章 血塗られた聖女
「ううっ、ううう…ああ…ダメ・・・開けないで・・・入らないで・・・私の中に・・・!」
蘇我の森の広場には、T字の形をした鈍い銀光を発するエジプト十字架があり、白く瑞々しい全裸の少女が結わえ付けられていた。
-人形?
一見そう思えるほど少女は端整で美しかった。
だが、時折苦しそうに頬を歪める仕草が、命を奪われた愛する者たちのために流されている清らかな悲痛の涙が、悲嘆の情のこもった呻き声が彼女が心と生命を持った
生身の人間であることを明らかにしていた。
少女の全身を透明なゼリー状の物質がベールのようにうっすらと覆っていた。
そのベールが時折、生き物のように蠢いている。
少女「イヤ――ッ!私の、私の中に入ってこないで!私の心までのぞかないで!
お願いだから、これ以上心を犯さないで!!」彼女の肉体を包み込む“それ”は、
少女の心にまで思念の触手を伸ばし、彼女が必死に
隠そうとしている、癒える間も無く血を流し続けている心の傷の存在に気づき、それを抉り出そうとして
嗜虐的にほくそ笑んでいた。“それ”は明らかに、邪悪な意志と知性を有している。
< 弓子・・・許さない・・・思い出せ・・・!! > 彼女の耳に、愛する彼の声と見まごう幻聴が響く。
弓子「イヤ―――ッ!!!私の傷を暴かないで!!!」
<忘れるな・・・罪を・・・弓子…君は、ぼくの――を……!!>
その中島の言葉に弓子は大粒の涙を流した。
…そしてその瞬間、彼女の心の最後の防壁が打ち破られた。殺到する触手の奔流によって弓子の記憶が、深層意識が、トラウマが
暴かれていく・・・!!
<弓子、遂に、君の・・・!>勝ち誇る触手が彼の声で嘲りを囁く。
「イヤァァァァッッ!」
広場の中に――蘇我の森に、絶叫が響いた。つい先程起きたばかりの悲劇と惨劇の記憶が彼女の精神世界でREPLAYされ始まる。
――わたしは、間に合わなかった――イザナミ様の元で戦う力をつけていたわたしは、虫の知らせで家族の危機を察知するが、
うちに駆けつけた時は既に家族は惨殺された後だった。目の前が真っ暗になり、
絶望がわたしの心を凍らせた。
家に戻っても、愛する家族が、もうだれもこの世にいない、その喪失感は残されたわたしを容赦無く打ちのめす。
わたしの手は、血に染まっていた。家族みんなの血で・・・。
小原に操られた女の手のナイフがまさに中島君を貫こうとしていた時、彼を助ける為、わたしは無意識のうちにそいつに力をぶつけてしまう。炎に包まれ、頽(くずお)れる彼女。
中島君は、呆然とした表情で、はっきりと私に向かって声を絞り出すように言った。
「弓子……君は、ぼくの母さんを……。」
今私が手にかけた女が中島君のお母さん!? そんな…そんな…
重すぎる犠牲を強いられたわたしに向けて発せられたそれは、間違えようのない非難の意志表示だった。愛する彼の
激情に流されるまま口をついて出たその言葉は、家族を失い、彼によりどころを求めようとしたわたしの心を後悔と
罪悪感と喪失感でさらに深く引き裂いた。
「嘘よ! そんなひどいことってないわ!」
中島家を飛び出したわたしが、半ば無意識のうちに小原の後を追っていたのは、かろうじて憎しみだけが今の自分を支えられるものだということを、本能的に知っていたせいなのかもしれない。わたしは、涙にぼやけた視界の中に、
小原の姿をとらえていた。
小原「下手な同情は身を滅ぼすよ。ご覧、この指を。お前の家族の血の匂いが、まだ残っている…」
弓子「やめて!」
蘇我の森。暗緑色の沼のほとりで、わたしは、躊躇いながらも、小原の挑発に血が登り命を奪ってしまう。その時、不覚にも両目に魔性の毒液を浴びせられてしまう。刺すような痛みとともに混濁するわたしの視界。
セトは現実世界に降臨する為の受肉の器を、小原の胎内(なか)に息づくロキの子と定めた。彼女の腹を裂いて
飛び出したスライム状のそれはさらなる実体と力を得ようと、高濃度の生体マグネタイトを宿すわたしの身体に淫らな欲望の目を向ける。
家族を失い、中島君の母を手にかけた上、彼の呵責(かしゃく)の言葉で心に深い傷を負ってしまい、あまつさえ
小原先生をも殺めてしまったわたしはろくに反撃できず、今の自分の心そのもののようにどろどろとした感触の「それ」に取り込まれてしまう。
服が溶けていくのが分かる。わたしの身体を包み、貪り愛撫するそいつの感触は、かって十聖高校で味わったロキのそれのように、おぞましくも甘美な感覚を伴っていた……。
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