逆さの砂時計
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オペラセリアのエピローグ 5
太陽が傾き始めた。
澄み渡る青い空が、もうすぐ西のほうから夕暮れ色に染まっていく。
こうして眺めていると思い出すな。
初めてこの場所に来た日の空も、こんな感じで青かった。
旅の途中に立ち寄った、とある王国で。
王室専属の水晶占術師に『必要不可欠なものがここにある』と告げられ。
対象が何らかの物質なのか、神々から託されるという言葉なのか。
それすら教えられないまま、国王陛下直々の手続きを経て、訪れて。
そう。
そうして、マリアと出会ったんだ。
何も知らずに護られ、与えられた役目を全うしていた純白の翼の巫に。
遠目の第一印象は、ただの綺麗な女神様。
実際に触れたら、臆病な女の子。
言葉を交わしたら、必死で健気な女の子。
心を交わしたら、誰より強くて弱くてまっすぐで優しい、大切に護りたい唯一無二の女になった。
俺の話をした夜に、必要不可欠なものとはこの子なんだろうか? って、少しだけ思ったんだ。
神々の指示で彼女と一緒に神殿を出ても、まだ半信半疑で。
確信したのは、焼けた村跡で彼女が俺にあの言葉をかけてくれた瞬間。
助けを求める声も腕も、たくさん聴いて、見て、感じてきた。
その中で唯一、護ってと言いながら俺を護るように包み込んだ細い体が。
辛いなら辞めても良いじゃなくて、一緒に戦うから貴方は一人ではないと受け入れてくれた優しい腕が。柔らかな熱が。
どうしても手放したくないものに変わったんだ。
俺にとっての『必要不可欠なもの』は、マリアだった。
…………違う。
これは、自分の記憶ではない。
自分が初めてこの場所を訪れたのは、夜明けより少し前の頃。
宙に浮かび上がった薄い水色の宝石が放つ不思議な光によって意識だけが海の中へと招かれ、頭の中に直接響いてきた少女の声と話し。
気が付けば、朝の青空や木々の緑やベゼドラを、視界一杯に捉えていた。
だからこれは、自分とは別の『誰か』の記憶。
かつて生きていた、『誰か』の想い。
「アルフリード。それは貴方の名前ですね。私はクロスツェルです。孤児のレスターに与えられた道を自ら踏み外した、愚かな元神父のクロスツェル。後悔をするどころか、現状にとても満足している、救いようがないバカ男のクロスツェルです」
石床に背中を預けた体勢で目蓋を閉じ、深呼吸をくり返す。
ようやく落ち着いてきたかな?
今回もギリギリだった。
『彼女』が力を貸してくれていなければ、今頃はレゾネクトに
「クロスツェル!!」
「ロザリア?」
突然現れた少女が、長衣の袖を引き千切る勢いで自分の体に覆い被さる。
心臓の音を確かめて……泣いてる?
「良かった……いや、じゃなくてっ、紛らわしい顔色してんじゃねーよ! なんだってこんな場所で寝転がってんだ、てめぇは!!」
「すみません」
どうやら、相当心配させてしまったらしい。
上半身を起こしたロザリアの表情は、焦りと怒りと安堵と……
複雑すぎて表現が難しいな。
とにかく、涙でぐしゃぐしゃだ。
「私が私だと自覚する為に、冷静さがどうしても必要だったんです」
「は?」
「先ほど、玉座の間でレゾネクトに手を差し出していたでしょう? あの時彼に、アルフリードさんの記憶を植え付けられそうになっていたのですよ。正確に言うと、存在の書き換えでしょうか」
「はああ?」
なんだそりゃと、眉間に何本もの深いシワを刻むロザリア。
ええ、解りませんよね。
私も説明が難しいです。
「レゾネクトには全然自覚が無かったみたいなのですが、『鏡』の力で私にアルフリードさんを、つまりはレゾネクトの認識上で『亡いもの』を、私に映して『在る』という事実に置き換えようとしていたんです。あと少しでも粘られていたら、私はアルフリードさんになっていたかも知れません」
アルフリードさんの意思の強さは尋常じゃなかった。
中でもマリアさんを求める想いは、自分のロザリアへの想いに同調して、なお遥かに上回るもの。
『鏡』の力を防げる『彼女』の力と、レゾネクト自身に生じていた迷い、私自身が抱いた怒りとアルフリードさんの『願いに変わった最期の諦め』が無ければ、心も体も瞬く間に乗っ取られていただろう。
本当に危なかった。
「ああ……。だからあの時、お前の目の色が変わってるように見えたのか。別人になりかけてたから……ってぇ! 何しやがるんだ、あのクソ親父! 滅茶苦茶するにも限度ってモンがあんだろ、限度ってモンが!」
「まったくです。悪魔でも神でも人間でも、誰かへの想いには際限が無くて厄介極まりない。解らなくもないのですけどね」
「っ……!」
ロザリアの唇が、レゾネクトへの憤りで歪む前に。
自分が持ち上げた右手の人差し指で、そっと押さえた。
ぎょっとした彼女に微笑み、自分も体を起こして、向かい合う形で座る。
「貴女を導くという約束を、果たしに来ました」
淡く薄い緑色の目の中で、何も持たない不誠実な黒髪の男が笑う。
「私と結婚してください、ロザリア」
二人の間に、しばし横たわる沈黙。
そして。
「…………はいぃい────っ!?」
ロザリア山が、派手に噴火した。
「ちょ、ちょちょちょっ、ちょっと待て!! 結婚っておまっ! いきなり、それはないだろ!?」
顔が真っ赤。
あたふたと泳ぐ視線と両腕が、見事に挙動不審。
想像していた以上に、反応が可愛らしい。
やはり、こういうところはしっかり『女の子』だ。
「考え直せ! 今なら人生、やり直しは利くぞ? な!?」
私はいったい、どこの自殺志願者なのでしょうか。
いえ、まあ……
第三者から見れば、実際そんな感じなのかも知れませんけど。
「私にはやり直す時間なんてありませんよ。レゾネクトにも言いましたが、後悔はしたくないんですよね」
ビキッと固まって。
あ、少し冷えたかな?
ロザリアの顔色が元に戻った。
「お前……ズルい。長くは一緒に居られないって判ってるくせに、それでも私を縛るとか。一緒に居る間は良いとしても、その後はどうするんだよ! 私を放ったらかしにして先に逝くんだろ!? そういうのを本当の無責任って言うんじゃないのかよ!」
「人間、いつかは死ぬものです。それがいつなのかは誰にも分からないし、決められない。健康な人間でも、殺人や事故などの外因で突然死ぬ可能性が常に寄り添っている。だからこそ、刹那触れ合った絆と共に不確定な未来を歩みたいと願うのです。ごく自然な流れだと思いますが?」
「お前はもう決まってるじゃないか! 自分で決めたんじゃないか!」
「はい。残り少ないからこそ、そのすべてを貴女との時間に使いたいです。触るなと言うなら一切触りません。旅を望むのならばどこまでも。教会には戻れませんが、心穏やかな生活をご希望でしたら、二人で一緒に住める家を探します。ですから、私の最後までは、一緒に居てください」
ロザリアの頬に涙がとめどなく溢れては滑り落ちる。
非道なことを言っているのは承知しています。
でも、これが私にできる償いであり……どうしようもない、わがままだ。
「……約束だなんだとか言って、結局、自分のことしか考えてないんだろ、この卑怯者! 最低バカ男! 誰が結婚なんかするか、アホ! もういい。お前は、私の奴隷として生きて死ね!」
「奴隷ですか?」
「一生私の傍に居て、笑って、飯を作って、遊んで、くだらない話をして、それから死ね!」
「え、と。それは、籍に名前を連ねるか、連ねないかの違いですよね?」
「お前ごときに、私の名前の隣は勿体ない!」
「それは残念」
「うっさい! バカ!!」
自分が名前を付けた少女は、両手でポカポカと自分の肩を叩きに叩いて。
首を絞めるつもりかと思うほど強く腕を回し、大声で泣いた。
自分も彼女の背中を抱きしめて、柔らかな髪をそっと撫でる。
「お帰りなさい、ロザリア」
ある日、教会から突然消えてしまった少女。
私が私から逃げたせいで深く傷付けてしまった、誰より愛しい女性。
もう二度と自分の気持ちから、貴女と向き合うことから逃げたりしない。
今度こそ、貴女を幸せに微笑ませてあげたい。
一緒に居てください。
奴隷と主人でも、夫婦でも、確かな繋がりがあればそれで良い。
愛しています、ロザリア。
私の女神。
私にとっての、『必要不可欠なもの』。
「バーデルの一番都市?」
「ええ。私は、泉へ向かう途中の村以降、居住地に足跡を残していません。巡礼を目的に頂いた許可証なので、どこかの教会には顔を出す必要があるのですが、地理と経過時間と人間らしい行動を考慮すると、中央教会の辺りが一番自然なんです」
「ふーん。別に良いけど」
涙が乾くのを待って、二人でのそのそと立ち上がる。
見上げた空は、黄色味が強い赤色だ。明日は晴れるかな。
「んじゃ、行くか」
長衣の膝部分に付いた砂を払い、「ん。」と右手を差し出すロザリア。
「……お願いします」
接触していなくても飛ばせるのでは? とは、言わないでおこう。
なんだかんだで、自分も結構ちゃっかりしている。
細くて柔らかい手を取った瞬間、周囲の景色が変わる。
朽ちた神殿は、目の前に聳える巨大な石壁へ。
背後には、まばらに伸びる木々と、往来が激しい街道を遠く望む平原。
人の動きから察するに、ここは一番都市の外壁の真横か。
「私はここで待ってる。夜になる前に戻ってこなかったら、置いてくぞ」
「はい」
彼女は今、許可証や証明書の類いを一切所持していない。
許可証が無くても空間を跳べば入れるが、人目につく可能性がある場所へ近寄るのは極力避けたいと、彼女自身でも言っていた。
特に大きな街や都では、別行動もやむを得ない。
少女一人を暗闇に置き去ることには抵抗を感じるが。
とにかく、急いで用事を済ませて戻ろう。
小走りで承認待ちの列に加わり。
少々手間取りはしたものの、無事に都市の内側へと踏み込む。
石造りの三階建て集合住宅が中心なのかな。
何らかの防水措置が施されているであろう屋根だが。
見た目はただの、少し厚めな木材だ。
白と薄茶色で統一された街並みは、どこか温かさを感じさせる。
しかし、店が閉まり始める時間帯にしては、やけに人が多い。
何事かと聞き耳を立ててみれば、薄い緑色に発光していた雪がどうこうと噂が行き交っている。
ああ、忘れていた。
ロザリアが迂闊に人間世界へ近寄れない理由の一つ。
レゾネクトとの契約変更時、世界中に降らせたであろう雪があったんだ。
ほんの短い時間で消えてしまった、アリア色に光る雪。
あれがおかしな騒動を呼ぶきっかけにならなければ良いのだけど。
「ようこそ、アルスエルナ教会の信徒クロスツェル殿。我々バーデル教会の信徒は、貴方の来訪を心より歓迎します」
「ありがとうございます」
「バーデル教会の大司教様は現在、アリアシエルへと赴かれていますので、ご挨拶は次期大司教様にお願いします」
「心得ました」
バーデル王国は大戦後、アリア信仰にも門を開いたが。
互いの関係が良好かと言えば、そう上手く転がる話でもないようだ。
都市の片隅に、商業施設より少し大きめな土地を預かっているくらいで、その規模はアルスエルナ王国に置かれた中央教会の半分にも満たない。
アルスエルナ王国での地方教会くらいかな。
それでも、バーデル王国に置かれた中央教会には違いない。
人手不足気味な地方教会では滅多に設置されない受付にて、許可を貰い。
目指すは、次期大司教様がおられる礼拝堂。
教会の構造は、自分が預かっていた教会とほぼ同じだ。
アリア信仰の枠内で設計されていれば当然だけど。
大きく開いた扉を潜り、左右二列ずつずらりと並ぶ長椅子六脚に挟まれた赤い絨毯の上を、祭壇へ向かってまっすぐに歩く。
「…………?」
自分は、他国の信徒と交流を持つ前に地方へ赴任した。
バーデルの現大司教様とも次期様とも、直接お会いしたことはない、筈。
なのに、全身白装束の男性が低い階段の上から自分をじっと見ている。
他に人影は無いし、彼が次期様なのだろうが……何故か、探られてる?
「……この教会に来られるのは、初めてですよね? 貴方の、お名前は?」
少し掠れた、低い声。
「はい。アルスエルナ王国から参りました、クロスツェルと申します」
「クロスツェル。貴方は、バーデル王国の生まれではありませんか?」
黒い色素は現代のバーデル国民を圧倒的多数で占めている移民の特徴だ。
髪を見れば、出身地の想像は容易い。
が、彼が見ているのは、自分の髪ではなく目、な気がする。
自分の虹彩部分は、アルスエルナ人である父親から受け継いだ金色だ。
髪ならともかく、目の色でバーデルとの繋がりを連想するとは思えない。
次期様は何故、自分の目を見て、こんなことを尋く?
「確かに、その通りですが」
「! では、私の顔に見覚えはありませんか!?」
次期様が妙に興奮した様子で階段を駆け降り、自分の手前で止まった。
顔と言われても、と思いながら、彼の頭から足先までをじぃっと見つめ、首をひねる。
腰の辺りまでまっすぐ伸びる黒髪は、見るからにさらさらで光沢があり。
人懐っこい犬を思わせる黒い目は、成人男性にしては少し大きい。
そのせいか、顔立ちは子供っぽく、見方次第ではまだ十代。
背はアーレストと同じくらいで自分より頭一つ分高く、近くに居られると年下の少年に見下ろされている感じがして、なんとなく複雑な気分だ。
「すみません。多分、初めてお会いすると思うのですが」
「……そう、ですか」
次期様の肩が目に見えて落ちる。
そんな、捨てられた仔犬みたいに潤んだ目で見られても……
……………………あれ?
ちょっと待って、この感じ。
「失礼しました。では、バーデルへの巡礼を……」
しょんぼりした背中を向けられ。
一つの面影が、記憶に輪郭を浮かべる。
まさか
「……『テオ』……?」
「…………っ!!」
黒い髪がぶわっと広がり、宙を泳ぐ。
振り向いた瞳を濡らす……綺麗な涙。
「やっぱり! やっぱり、生きてたんだね! 良かった、また会えた!」
勢いはあまりなくても、体格は猪達と同等だ。
正面からどかーんと体当たりされ、しがみつかれ、一瞬息が止まる。
茫然とする自分の肩を抱いて零れ落ちる、次期様の嗚咽。
「ごめん。何もできなくて、ごめんね……っ!」
あの時と同じ涙。
あの時と同じ言葉。
……生きて、いた。
テオは……生きていたのか……。
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