逆さの砂時計
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Cantabile
なんとも形容しがたい色だ。
虹色にしては淡く、それでいて透き通っている。
強いて喩えるなら、陽光が白く照らし出す直前の空の色。
明るくなり始めたばかりの、薄い暗闇。
紫と黄を薄く伸ばして混ぜた色にも見える。
冷たく感じるのに何故か見入ってしまう、美しい色の虹彩。
「……ああ……楽しかったなあ……」
肩にもたれかかり、嬉しそうに笑う。
美しい色の目を細めて。
心から満足できたのだと、嬉しそうに、笑う。
「楽しかったのか」
「うん……楽しかったよ。こんなに楽しいのは、生まれてから初めてだったかも知れない。嬉しいなあ……。こんな風に感じられる瞬間が来るなんて、あの頃は思ってなかったんだよ……。ありがとうねえ……」
上向きに曲線を描いて閉じた目蓋の隙間から、涙が一筋零れ落ちた。
すっかり血の気を失った白い肌が、周りの景色を透過して。
少しずつ、溶けるように消えていく。
支えている筈の重みと熱が、なくなっていく。
「消えるのか」
「うん……。もう、終わったから」
「そうか」
「うん」
迷いなく。憂いなく。
思いつく限りのすべてを果たしたのだと。
思い残すことは無いと、満面の笑みを浮かべる。
それは、今まで見てきた中で一番綺麗な笑顔で。
だからこそ、今、どうしても尋いておきたい。
『これ』に確かめておきたい。
「 は 、 ?」
消えかけている濡れた目が、驚愕で大きく開かれた。
その目に映る無表情がゆらりと歪む。
「……そぉ、か……。そう、だよね……。君は だった、から……」
吹かぬ風に。
無限の空に。
変化を知らぬ大地に。
雄大なだけの海に透けて、消える寸前。
『これ』は、眉間に深い皺を刻んで。
哀しげな声で、失敗しちゃったなあ、と呟いた。
「……ごめん……ね ぇ……。で も…… 」
『これ』の言葉の最後は、耳に届かなかった。
でも……の先は、なんだったのか。
『あれ』は、消える間際に何を伝えようとしたのか。
確かめる術は、もう無い。
頬を撫でながら消えていった指先は、感触の一つも残さなかった。
『あれ』を支えていた両腕だけが、虚しく空っぽな空間を抱く。
「…………俺は」
足下では、少しだけ形を変えたモノ達が、新しい時を刻みだす。
見上げても、『あれ』はどこにも居ない。
見渡しても、誰も居ない。何も動かない。
……終わったのか? 本当に?
ならば、何故……
「俺は何故、ここに居るんだ?」
音が変わる。
空気が変わる。
森に躍動していた生き物達の気配が消えて。
息詰まる静寂が、私達を迎え入れた。
風が吹かない。
水も流れない。
土の匂いもしない。
肌を刺す冷気が、薄い緑色に照らし出された広い空間を支配してる。
ここは、どこ?
閃光を浴びたせいで眩んだ視界が、徐々に落ち着いて。
「…………っ!!」
私の手前に横たわっているロザリアさんを、慌てて抱き起こし。
数十歩先、赤い絨毯の中央に立つ、見慣れない後ろ姿の男性から庇う。
首から下の全身を覆う、真っ黒な長衣。
高い背丈でも床に引きずる長さの金髪。
背中を向けられているせいで顔は見えてないが、全身に感じるこの圧力。
私達が知るレゾネクトのものとよく似ているが、明らかに桁が違う。
これが、レゾネクトの本体?
「……彼女が再びここへ来た後。アリアが泉で眠りに就いて以降、ずっと。俺は一人であの世界を見てきた。何が起きても起きなくても、干渉はせず、必要な物を探しながらずっと見ていた。俺が出した結論は、世界の美しさに反した愚か者ばかりが揃っている、だ」
……なんだ? 顔を上げ、両腕を広げて、突然何を……
「……………………っ!?」
「神々は、自らの種族を高く位置付け、他の生命を導く名目で、ちっぽけな尊厳を堅持しようとしていた。『あれ』が愛していた生命の循環は、誰かの意図を中心に据えて回す物ではないというのに。『傲慢』を罪とするなら、奴ら以上に罪深い存在も無いだろう。それに続く者達も大差ない」
あれは、なに?
「悪魔共は欲求にのみ従順で、時に賢く時に無能。己の力量もわきまえず、手当たり次第に噛みつく愚鈍さは、まあ、暇潰しには丁度良い見世物だが、度が過ぎると醜悪だ。とても知性を持ち合わせた生命体とは思えん」
レゾネクトが顔を向ける先。
高い階段とその頂上に、複数の人影。
「人間はどちらでもあり、どちらでもない、まさに狭間。神を真似て何かを構築しては、悪魔の如く簡単に蹴潰し棄てて忘れ去る。個々が熱意と飽厭と諦めで閉じた精神世界にあって抱いた願望すら短い一生の内に貫けもせず、外側からの介入を望み続け。そのくせ、他者との間に優劣をつけたがっては一方的な優越感に浸る。……欺瞞と虚飾と依存に満ちた人間世界は、どこへ転がって行くのだろうな? いっそ楽しみではある」
階段の下方では、一組の若い男女が肩を寄せ合って座り。
中段では、寝返りをうっているような姿勢でベゼドラさんが横たわる。
一番上の段には、クロスツェルさんの体が仰向けで寝かされ。
彼らを見下ろす玉座には、幼さを残した顔立ちの男性が。
玉座の隣にある妃席には、ティーを膝に乗せたマリアさんが座ってる。
全員眠っているのか、気を失っているのか。
一人として動く気配がない。
もしやここは、玉座の間、か?
遥か昔、神々に選ばれた勇者と仲間が殺されマリアさんが閉じた異空間。
だとしたら、玉座と下方に座っている彼らは……
私達は、どうしてここに?
ロザリアさんの意識が、自分で自分の体を跳ばしたのか。
それとも、レゾネクトがアリアを呼び寄せた?
「時司の神バルハンベルシュティトナバールとマリアは同じ。言葉を弄して相手を動かそうなど実に浅はか。ただただ忌まわしく煩わしいだけだ」
「……ベゼ、ド……ラ」
「! ロザリアさん?」
目を覚ましたロザリアさんの手が、私の腕に弱々しく重なる。
ゆっくり上げた顔を覗くが。
うっすら開いた視界はまだぼやけているのか、焦点が定まってない。
「ロザリア様」
一緒に跳んできたリースさんも、心配そうにロザリアさんを見つめる。
「ウェルスとコーネリアはあまりに未熟だった。クロスツェルとベゼドラは俺の物を盗ろうと画策する執拗なだけの弱者。面白さを考慮すればどちらも単純に愚か者と切って捨てるには少々惜しいがな……こうして分かりやすく並べても、最たる愚はやはりお前だ。アリア」
「!?」
澄んだ紫色の虹彩がゆらりと振り返る。
剣を交えたレゾネクトよりも幾分か大人びた印象の顔立ちが。
冗談を含ませない無表情で、自分の契約者をバカにしている。
彼はいったい、何を?
「俺が一時的に放置していた頃、お前は『水鏡の泉』へ逃げた。何故だ?」
「……貴方が……私の世界を、壊す、から」
「……『アリア』?」
すぐ近くで聴こえた声に違和感を覚える。
容姿や表情に変化はない。
だが。
私が支えている人物が発した口調は、ロザリアさんのものとは全然違う。
「それが愚かだと言うんだ」
レゾネクトは体の正面をこちらへ向け。
無表情のまま腕を組んで、彼女を見下ろした。
「最初に告げた筈だ。俺の望みはお前自身。お前が持つお前のすべてだと」
「……だから私は、私の世界を……」
「あの世界をどう解釈し、どう扱おうが、それはお前の自由だ。俺はそれに介入するつもりなどない。俺が望んでいたのは生来の力を含めたお前の存在そのものであって、お前の世界ではない。そういう契約だったんだがな?」
「!!」
レゾネクトを捉えた薄い緑色の目が、大きく開かれた。
指先が小刻みに震えている。
「じゃあ、あの世界を壊す気は……最初から……」
「ない。そのつもりがあるなら、お前と契約した時に、俺がこの空間を出るきっかけを得た瞬間に、そうしている」
「なっ……!」
レゾネクトの本体は、アリアと契約した瞬間から既に開放状態だった!?
確かに、彼の特性なら、アリアと繋がってさえいれば可能だろうが。
では、今の今まで自分の意思でこの異空間に留まっていたというのか!?
「うそ……! だって貴方、その姿では……本当の姿では、一度も私の前に現れなかったじゃない!」
「お前を覚醒に導くだけなら、お前が継いだ俺の力があれば十分だからな」
「……え?」
アリアの震えが止まる。
代わりに表出したのは、戸惑い。
何を言われたのか解らないと、眉を寄せる。
「私が継いだ、貴方の力?」
レゾネクトの特性は、『 』。
本質を知っていても、彼女は自分にもそれがあるとは気付かなかった。
自覚する前に、レゾネクトがアリアから切り離していたから。
私達が知っているレゾネクトは、アリアが生まれ持っていた『 』の力を顕現させ、ここに居るレゾネクト本人が操っていたものだったんだ。
「なに? どういうこと、なの?」
レゾネクトは、うろたえるアリアに、ふわりと優しく。
本当に優しく、微笑む。
嘘も邪心も何も無い、優しい優しい微笑みと共に語られた真実が。
アリアから一瞬にして体温を奪い去った。
「俺はお前が完全なる女神として覚醒する時を待ち続けてきたんだ。可愛い俺の小鳥。俺の血と力を分けた俺の娘、アリア」
「────────っ!?」
「アリア!?」
「アリア様!!」
ざあっ! と、音が聞こえそうな勢いで引く血の気。
そのまま凍るんじゃないかと思うほど、生気を失ってしまった。
「うそ」
「偽りなど、お前には一切告げていない。その必要もない」
「嘘よっ!! 私に両親なんていない! 皆、殺されてしまったんだもの! 私には、母親も父親もいない!!」
「お前を産んだ者なら、ここに居る」
レゾネクトの右腕が すぅっと横に開いて。
そこに突然、気を失っているらしい女性が現れた。
レゾネクトの本体と同じくらいに長い白金色の髪。
陽光を忘れたかのような白い肌。
少し傷んだ簡素なローブ。
成熟した美しい女性の背中には、翼こそ無いが。
あの、庇護欲をそそる儚げな顔立ちは、まさか、マリアさんの本体?
生かされていたのか!?
「俺達の娘アリア。お前が望むなら世界でもクロスツェルでもベゼドラでも望むまま好きにすれば良かったんだ。お前には、その資格があるのだから。俺の邪魔さえしなければ手助けこそしても奪ったり壊したりはしなかった。お前が勝手に勘違いして警戒し、手放して、狂わせただけ。……ずいぶんと面白い一人芝居だったがな?」
「れ、ぞ……」
愕然とレゾネクトを見つめて固まるアリアは……無言で泣き出した。
瞬きも忘れて零す涙に。
マリアさんの本体を抱えたレゾネクトは、殊更優しく微笑んでみせる。
「アリアを、どうするつもりで契約したのですか、貴方は」
レゾネクトの目的は、異空間を出ることじゃなかった。
世界を壊す意図も無い。
だったら何故、アリアと契約した?
何故、『女神アリア』の覚醒にここまで拘ったんだ?
娘への愛情とは思えないし、本体のマリアさんも殺してはいなかった。
玉座と階段に座っている人達……
マリアさんのかつての仲間、コーネリアさんとウェルスさん。
アルフリードさんも、まだ生きてるみたいに体を保っている。
何もかもが異常だ。
すべてがおかしい。
私達はまだ、レゾネクトの何かを見誤っている。
「死んだ者は何をどうしようと決して生き返らない。死は生の結果であり、死をどれだけ映そうが時間を戻そうが、生へと返ることだけはありえない。それによって得られるものこそ、『あれ』が見つけた答えだった」
「!?」
レゾネクトが腕に抱いていたマリアさん本体をその場に寝かせ、消える。
間を置かずに現れた先は、階段の上。
「『万霊の言』を用いても、外形を作るだけ。ここに居る『扉』のマリアと日記だったバルハンベルシュティトナバールが、力と記憶を形にしただけの人形であり、老いも朽ちもしないように。命を蘇らせることはできない」
「…………?」
「だが、生前の記憶と新しい肉体、新しい生命力があれば、限りなく蘇生に近い状態で呼び戻すことはできる」
「!! まさかっ……!!」
玉座の肘掛けの外側に浅く座り。
アルフリードさんの、薄い緑色の光を弾く金色の短い髪を指先に絡めて。
レゾネクトは高らかに、歌うように、悪夢の声を上げる。
「最期の最後まで己の信念を貫き通した、弱く強く、全世界、全生命の中で最も美しい魂を持っていた勇者。魔王である俺にも手を伸ばした気高い彼にもう一度……会う」
レゾネクトの狙いは、勇者アルフリードの復活!?
しかも、アリアを必要とする、新しい肉体と生命力って!
「俺が持つ、本人の内なる記憶と、世界中に散らばっていた外側の記憶、神々に与えられていた祝福、新しい生を与える為の器……ようやくすべての条件が揃った。本来は、創造神として完成するまで待つつもりだったがな。お前は、俺の力を得ておきながら、自分の意思で、契約に背を向け続けた。多少の前倒しは因果応報というものだろう? アリア」
「! アリア……っ!」
支えていた細い体が、私の前から突然消えた。
そして。
「お前は創造と救世の女神アリア。俺と共に勇者アルフリードを再誕させる穢れ無い女神にして、神聖なる母体」
軽く曲げた自身の膝の上に、引き寄せたアリアを座らせ。
慈しむ手つきで、涙に濡れた彼女の頬を撫でながら肩を抱く。
「レ……、ゾ……」
これが、真相?
長い時間と手間を掛けて、『女神アリア』を覚醒させた理由が。
子供を産ませて、その子供を自分が殺した相手に仕立て上げる為!?
「何故、そんなことを!?」
「お前達には理解できないし、させたくもない。俺は、ずっと待っていた。ずっと待ち望んでいたんだ。アルフリードの産声はきっと神々の音楽よりも美しい旋律を奏でるだろう」
恍惚とした表情で、うつむくアリアの頭髪に口付けるレゾネクト。
「さあ。今度こそ、アルフリードの声を聴かせてくれ。慈愛の女神アリア」
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