相棒は妹
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志乃の独り言
表彰式を終えた後、兄貴は私から曲の楽譜を受け取って、想像していた以上にびっくりした顔を浮かべていた。あれ、本当に面白かったなあ。
でも、そのびっくりした顔に少しずつ期待と希望が浮かんでいた事に私は気付いた。なにしろ、目が光ってたからね。
あの事件の後の学校で、兄貴はクラスメイトと普通に会話してた。なんだかんだ楽しそうで、本当に安心した。
兄貴は一度躓いた事を引きずるタイプだけど、こうして明確的に見切りを付けたからもう大丈夫だと思う。兄貴は少しずつ、一度壊れたところを自分で修正してる。それは人間としてとっても大事なことだよね。
自分で蒔いた種は自分で刈り取る、なんてよく言うけど、まさにその通りだと私は思う。自分で問題を起こして自滅して退学して……こうして一つ年下の学年で生活することになったのは、誰のせいでもない。兄貴のせいだ。だから、これは仕方ない事で、兄貴自身にどうにかしてもらうしかない。
でも、人生を矯正する中で人の力を借りるのがおかしいとは、全く思ってない。
人間は一人じゃ生きていけない。ご飯を食べるのだって、電車に乗る事だって、布団の上で寝る事だって、全てに人間という存在がどこかに必ず絡んでる。一人暮らしをしてるからって自分一人でなんとかやっていけてるなんて、私は思ってないしね。
だから、私は兄貴を手助けする。『楽しさ』を覚えてもらうために。『目的』を持って生活してもらうために。
確かに、こんなのは利己的で、兄貴がいらないって言えばそれまでだ。義務付けられているわけでもないし、命令されてるわけでもない。私がやりたくてやってる事なんだから。
でも、兄貴にそう言われるまで私は兄貴の手助けを辞めるつもりはない。
これは兄貴に対する恩返しでもあるんだから。
*****
小学二年生の時にピアノを習い始めて、私は音楽を奏でる事の楽しさを知った。どんどんピアノを弾く事が大好きになって、いつしか地域のコンクールや学校の歌声発表会でも評判になった。
そんな中、兄貴は、そんな私を見ていつもこう言っていた。
――『志乃は凄いなあ。いつも負けてばっかりの兄ちゃんとは比べものにならないよ』
その言葉は今でも覚えてる。そして、その時の兄貴の寂しげな笑みも覚えてる。
だから、私はもっと上手になって、兄貴に本当の笑顔を作ってもらおうと考えた。
本当に、あの頃の私はバカだったと思う。
ピアノと剣道じゃ内容が違うし、何より私が上手くなれば上手くなるほど、兄貴の顔は曇る一方なのに。
でも、そんな単純な皮肉に気付けないまま、私はひたすらピアノの練習をし続けた。大好きだったからこそ、それと同時に、兄貴が大好きだったからこそ、練習を止めずに努力し続けたんだ。
そして、中学一年生の時、私はついにピアノの全国発表コンクールに出場する事となった。
この時の私の中には、いまだに兄貴に対する思いがあった。このコンクールで良い成績を残せば、きっと兄貴も笑ってくれると、そう信じていた。
私の番が終わった後、コンクールに来てくれていた兄貴は笑顔を浮かべて見せた。正真正銘、私に対する敬意のこもった優しい笑顔だった。
でも、その時の私は兄貴の笑顔が偽りのそれだと考えてしまった。
だって、私はその全国コンクールで一次予選落ちしたんだから。
良い成績を収めれば兄貴は笑ってくれる。ずっとそう思っていたのに。兄貴はこの時、本当に私が凄いという風に笑みを形作っていたのだ。
――『志乃は俺の自慢の妹だよ。なにせ、全国に出場したんだしな』
そんな言葉も、私のピアノの実力を飾り付けるだけにしか聞こえなかった。
その時、私の知り合いでライバルの女が通りかかった。そいつは一次予選を通過し、次に控えるために動き出したのだ。
そして、そこで兄貴に対してこんな言葉を言い放った。
――『全国に出たのにすぐやられるんじゃ意味ないわよ。これは努力じゃなくて、才能のぶつかり合いなんだから』
兄貴はそれに対して反抗し、ちょっとした口喧嘩にまで発展した。それを各保護者が取り押さえ、事なきを得たのだが――
私は、我慢ならなかった。
その後の事を、私はあまりよく覚えていない。ただ、兄貴に必死に止められたのを覚えている。そして、その後兄貴との仲が疎遠になったのも覚えている。
あの時、私が兄貴に何か酷い事を言ったのかもしれないし、場をぶち壊すような行動を
取ったのかもしれない。
けど、あの時兄貴が私を止めていなかったら、と思うと、兄貴に本当に申し訳なく感じる。私のせいで仲が悪くなったと言ってもおかしくないんだからね。
こうして、また普通に喋る日が来るなんて考えなかった。今の自分の態度は、確かにムカつくのかもしれない。生意気なのかもしれない。
でも怖い。本当の自分を兄貴に曝け出すのが。兄貴が素の自分を拒否する様を、私は想像したくない。
こんなにも悩むんだったらピアノなんてやらなきゃ良かった。葉山伊月の妹として仲良く暮らすだけで良かった。そう考えた事もあった。
でも、もしそうだったら、私は兄貴に手助けする事が出来なかったかもしれない。何か励ます事は出来ても、それ以上先の事は出来ない。それなら関わらない方がマシだ。
きっかけは私だ。私の安直な考えが、『頑張ったら絶対報われる』という愚考が、そして何より、兄貴の精神的負担を重くしていたのは、誰でも無い、私だった。全てが積みに積み重なった結果、私は自滅したんだ。
大事にしていた兄貴との仲を、自分から台無しにしてしまった。
そして、自分とは違う形といはいえ、兄貴も剣道を通して絶望を味わった。人生を一度自分の手でぶち壊して、今は更生してまた学校に通っている。
でも、兄貴は何かを『楽しむ』事を知らない。何かに努力する事は知っているけど、本当に『楽しむ』事はどこかに置いてきてしまっているのだ。
だから、私は手助けという形で『楽しむ』事を兄貴に伝える。互いの『好き』な事を融合した結果生まれた、一つの策を使って。
幸い、兄貴は動画作りにやる気満々みたいだ。逆につまらなそうな顔してたら、きっと別の案を考えただろうけどね。
これが上手くいくかどうかは分からない。でも、少しでも楽しんでほしいと思う。
世の中には、嫌な事が蔓延っているのと同時に、良い事だっていっぱい落っこちてるんだから。
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