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美味しいオムライス

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第五章


第五章

「この味だったんですよ。いえ」
「いえ?」
「さらに味がよくなってるかな」
 少し目を右斜めにやってから考える顔での言葉だった。
「この味は」
「そうなのですか」
「はい、努力されているんでしょうね」
「当たり前だろ」
 ここでカウンターから声が来た。見ればそこには皺だらけの顔の老人がいた。白い調理の服を着てその手に匙と中華鍋を持っている。
「人間努力しないと駄目なんだよ」
「あっ、聞いていたんですか」
「聞こえたんだよ」 
 親父は泉水にこう言葉を返してきた。
「あんたの声がね」
「そうでしたか。それはまた」
「しかし。珍しいね」
 親父は今度は亜紀を見て言ってきた。
「珍しい?」
「そうだよ。あんたが女の人連れて来てるなんてな。いや」
 言葉を言い替えてきた。
「娘さん以外にはか」
「そうでしょうか」
「珍しいよ。だってあんた」
 また言うのだった。
「奥さんが・・・・・・おっと」
「そこから先は言わないで下さい」
 泉水の顔は暗いものになった。どうやらそのことは彼にとっては辛い思い出らしい。
「御願いしますね」
「わかったよ。まああれだね」
 あらためて亜紀を見てきて言葉を出すのだった。
「えらく別嬪さんだね」
「それは」
 亜紀はそう言われて思わず顔を赤らめさせるのだった。
「いや、凄い奇麗な人でしょ」
「全くだ」
 横から泉水が言ってきて親父がそれに頷いて話は二人のペースになった。
「こんな奇麗な人を何処で見つけてきたんだい?」
「会社の取引先の人でして」
 泉水はこう親父に説明した。
「それでなんですよ」
「何だ、新しい奥さんじゃないんだ」
「奥さんって」
「違いますよ、そんな」
 亜紀はその奥さんという言葉に言葉を失い泉水は照れ臭そうに笑う。その差が実にいいコントラストとなっていた。
「そんなことは」
「全く。あんたは奥手だからね」
 親父は笑いながらまた彼に言った。
「まあそれがあんたらしくていいんだがね。さて」
「はい」
 話はここで変わった。
「早く食べなよ」
「あっ」
「おっと」
 亜紀と泉水は親父の言葉にそれぞれ声をあげた。
「早く食べないと折角のチャーシュー麺がのびてしまうよ」
「そうでした」
 今度の言葉は完全に同時でしかも重なり合っていた。言葉まで同じになっていたのだ。
「早く食べないと」
「のびたらもう」
「おやおや、全く」
 親父は慌てて食べだした二人に対してまた言うのだった。
「どうしたものかね、全く」
「とにかくですね」
 泉水は慌てた様子で麺を口の中に入れながら亜紀にまた声をかけてきた。二人は麺の丼に向かい合い横目と声でやり取りをしている。
「ここはどれも美味しいですから」
「はい」
「宜しければまた来て下さい」
「わかりました」
「しかも二人でね」
 またここで親父が笑って二人をからかうのだった。
「是非来てくれよ」
「だから親父さん、それは」
 泉水は食べながら親父に困った顔を見せて言葉を返す。
「言わないで下さいよ」
「悪い悪い」
 あまり反省していない顔で応える。亜紀はそんな泉水の様子がおかしくてならずそれと共に彼の持っている人間性、とりわけ愛嬌に気付いて親しみを感じるのだった。
 それから二人は一緒に食事をすることが多くなった。泉水は色々な店を知っていてそこを亜紀に紹介するのだ。どれもあまり奇麗な店ではなく庶民的な場所ばかりだったが味と値段、それに人は確かだった。亜紀はそのことに満足しつつそれと共に泉水にさらに親しみを感じていくのだった。
「こうした店以外に連れて行ってやれないんですよ」
「連れて行って?」
「はい」
 カレー屋に行った後だった。その帰り道に話をしている。昼で周りには二人と同じく食事に行くか既に済ませたサラリーマンやOL、学生達が行き交いしている。左右には様々な店屋が並んでいる。その中で話をしていた。
「子供達を」
「子供達をですか」
「休日でも忙しくて」
 申し訳なさそうな顔での言葉だった。
「どうしても時間がなくて」
「それでもお子さん達のことを忘れていないんですね」
「忘れるわけがありませんよ」
 にこやかな笑顔だった。それを亜紀にも見せている。
「自分の子供を忘れる親はいませんよ」
「そうなんですか」
「当たり前じゃないですか」
 こうまで言う。
「親は子供の為にいるんですから」
「親は子供の為に」
「そうです」
 これは彼の信念らしい。疑いなぞ微塵もないといった感じで話しているのが何よりの証拠だった。嘘偽りも何処にはなかった。亜紀にもそれがわかる。
「それでも。あまり構ってやれないのがね」
「大変なのですね」
「男やもめですから」
「男やもめですか」
「家事もね。家内が亡くなるまで碌にしたことなかったですし」
 これはよくある話だった。今でも家事は女がすることだと思っている者が多いのだ。これはどうしてもそうなってしまうのだ。昔からある固定に近い考えだからだ。実際のところは男であろうが女であろうが家事はするものなのだが。何故かそういう考えはあまり広まらない。
「やっと馴れてきましたけれど」
「そうなのですか」
「だから。せめて」
 また亜紀に話す。
「美味しいものを食べさせてやりたくて」
「ですよね。子供には」
「はい」 
 亜紀の言葉に頷く。やはりここでも笑顔だった。
「そうなのです」
「わかりました」
 亜紀もまた彼の言葉に頷いた。
「そのことが」
「そのことがですか」
「ええ。泉水さんがどれだけお子さん達を大事に思っておられるか」
 それがわかったのだ。彼の心をわかって嬉しくもあった。
「わかりました」
「そうですか」
「はい。それに」
「それに?」
「一つ美味しいお店も知りました」 
 言うまでもなくこのラーメン屋のことである。彼女は今もチャーシュー麺を食べている。麺はもうあらかた食べてしまっていて今はチャーシューを食べている。見れば泉水ももうチャーシュー麺は食べ終えてしまっていて今は炒飯の残りを食べている。食べるのは亜紀より早かった。
「有り難うございました」
「美味しいものは共有しないと」
 また亜紀に言うのだった。
「意味がありませんよ」
「そうですよね」
「ええ。まずいものは一人で」
 こうも言うのだった。
「しかも一度だけ」
「一度だけですか」
「一度ね。とんでもないうどん屋に入ったことがあるんですよ」
「どんなお店ですか?」
 興味があったので彼に尋ねた。最後のチャーシューを食べながら。弾力もあり味も見事だ。やはり美味いチャーシュー麺だ。
「いえね、鴨そばと親子丼を頼んだんですよ」
「はい」
 鶏尽くしである。
「親子丼はともかくそばが。これが酷くて」
「酷かったのですか」
「まずそばがのびていました」
 苦笑いでの言葉だった。
「出された時点で」
「出された時点でもうですか」
「はい。完全にのびていて」
 話を続ける。
 
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