壁
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第三章
第三章
「ソ連の態度が柔らかいし。だから」
「実はここに来る回数が増えているのよ」
エヴァゼリンはそれをヴォルフガングに教えるのだった。
「内緒だけれどね」
「じゃあこれからも結構会えるね」
「ええ」
笑顔でヴォルフガングに告げるのであった。
「そうよ。けれど今月は今回で終わりなのよ」
「えっ、今月はこれで終わりなんだ」
「また来月何回でも会えるわ。だから楽しみにしていてね」
「わかったよ。けれど」
ヴォルフガングは困った顔になった。思うことは一つであった。
「あの壁さえなければな」
「それについては何も言えないわ」
エヴァゼリンは口をつむいでしまった。東側ではそうした政治的なことは言えないからだ。だから彼女はここでは何も語ろうとしないのであった。
「悪いけれどね」
「わかってるよ。じゃあ聞き流して」
「ええ、わかったわ」
今そうなったばかりの年下の彼氏の言葉に頷く。
「そういうことね」
「うん。まあ今日はこれでいいや」
ヴォルフガングは急に満足しだしてきた。
「エヴァゼリンさんの彼氏になれたしね」
「またご機嫌取りの言葉かしら」
「違うよ、本音」
「イタリア人もそう言うわよ」
またイタリアが出る。実はドイツ人はイタリアが嫌いではない。イタリアもドイツを頼りにしているところがある。意外と相思相愛の関係なのである。なおかつてはこの二国は神聖ローマ帝国であった。
「それもしょっちゅうね」
「西側の方がイタリア人多いせいかな」
ここでヴォルフガングは自分の軽さをイタリア人のせいにしてきた。
「その影響かも知れないね」
「東ドイツでも多いわよ」
エヴァゼリンはこう言葉を返す。
「実際のところ。こんなにいるのかっている程ね」
「そんなにいるんだ」
「ドイツの女の子はクールビューティーだって言ってね」
その理由で来るというのだ。他には。
「ポーランドの女の子は可愛い、ルーマニアの女の子は同じラテンだから、ハンガリーの女の子とは気が合う、ソ連の女の子は優しいって」
「全部勝手に理由つけてるだけじゃないの、それって」
「多分そうね」
それがイタリアだ。二人もわかっているが決して悪い顔はしていない。
「だからあえて何も言わないけれどね」
「僕もその影響かな」
「最初は西側の男の子って全部そうかと思ったわよ」
やっとここでイデオロギーの話になる。
「かと思ったら。違うのね」
「人間なんて同じものだよ」
ふと言葉が哲学的なものになった。
「実際のところはね。イタリア人にしろ」
「同じなのね」
「そうだよ、だから余計に思うんだ」
また言うのだった。今度はその壁がある方を見て。
「あの壁がなくなって。同じ人間同士」
「無理ね」
エヴァゼリンは右手にコーヒーを持ってそれを飲みながら応えた。代用コーヒーとは全く違う独特の苦味と旨味が口の中を支配していく。その甘みまでも感じながら。
「あの門が開くことはないし」
「うん」
ブランデンブルグ門だ。かつてはベルリンの栄光の象徴であったが今では忌まわしい分断の象徴となっている。この門が開かれることは二度とないと言われていた。
「これ以上何を言ってもはじまらないわ。止めましょう」
「そうだね。じゃあまた来月だね」
「ええ、来月ね」
時間が来た。二人は別れることにした。
「いつもの場所でね」
「今度はもっと時間があればいいけれど」
「何とか作ってみるわ」
エヴァゼリンはヴォルフガングの言葉にこう応えた。
「もっとね。お話したいし」
「うん、僕もね。だから」
「わかったわ」
そんな話を最後にして別れた。それから何度も会い二人の交際は続いた。その中で歴史は少しずつ動いてはいた。だが二人はそれには気付かない。そして二人の関係はその歴史よりさらに進んでいたのであった。
「これさ」
就職したヴォルフガングはいつもの喫茶店でエヴァゼリンに何かを差し出した。それは青紫の小さな箱に入っていた。
「それってまさか」
「そのまさかだよ」
いつものおちゃらけた様子はない。真剣な顔であった。
「受け取ってくれるかな」
「そうしたいわ」
だがエヴァゼリンは動かない。強張った顔で述べるだけであった。
「けれどそれは」
「駄目なのかな」
「壁があるから」
それが彼女の返答であった。
「だから」
「受け取れないんだ、やっぱり」
「御免なさい」
泣きはしなかった。だが俯いたその顔は沈痛なものであった。声もまたそうなっていた。
「私には。どうしても」
「こっち側には駆け込まないの?」
亡命である。実際に東から西に亡命する人間は後を絶たなかった。自由と豊かさを求めてである。そもそも壁にしろそうした流れを防ぐ為のものだったのだ。エヴァゼリンは特別に仕事上の関係でこちら側を行き来しているだけなのである。しかもそれには誰にも言えない秘密があった。
「私の家族がね」
「そっちの秘密警察にか」
「そういうことなの。だから」
彼等の知らないいつに人質にされているというのだ。全体主義国家ではよくあることだ。
「そちらには行けないわ」
「壁がなかったら皆に行けるんだよね」
「それはね」
こくりと頷いて小さい声で答える。確かに壁がなければそれも不可能ではない。彼女もそれはわかっている。だがそれと共に壁があるのもわかっているのだ。
「けれど。どうしてもそれは」
「全部、それもこれも」
ヴォルフガングは忌々しげに言った。彼もわかっていたのだ。壁のことが。
「あの壁のせいで」
「言っても仕方ないわ」
エヴァゼリンは力なく応えるだけであった。俯いたまま。
「それはもう。それに」
「ここにもいるかも知れないんだ」
「知ってるわよね、私の国のことは」
「今話したしね」
ヴォルフガングの言葉がさらに忌々しげなものを語るようになっていた。
「わかってるよ。こっちではもう散々な評判だよ」
「そうでしょうね、それはわかるわ」
「だから。これ以上言えば君に迷惑がかかるかも知れないね」
「御免なさい」
「謝ることはないよ、君は」
エヴァゼリンを慰めて言うのだった。
「悪いのは。全部」
「このままずっとなのかしら」
エヴァゼリンは言うと危険が及ぶ可能性があるのをわかっていてあえて言うのだった。心を抑えられなくなっていたからだ。彼女らしくないことであったが。
「私達はずっと」
「いつか変わるよ」
ヴォルフガングはそれを必死に否定して言うのだった。
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