西の砂漠で
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第一章
第一章
西の砂漠で
大学に合格した時だった。僕は中国に旅行に行った。前から行きたかったからであるがいい機会だった。中国といっても広い。僕は西の方へ行った。西安へ向かった。一人旅である。
西安はあっては長安といった。前漢や隋、唐の頃には都であった歴史ある街である。長い歴史を誇るだけあって見るべきものも多いだろうと思っていた。そこで漢詩に出て来るような風景を見たいと思っていた。飛行機の中ではそのことばかり考えていた。降りるとガイドさんが出迎えてくれた。一人旅だがガイドさんはつけてもらったのだ。やはり知らない場所で一人なのは色々と心配だったからだ。
北京に降りる。まずはここで一日過ごすことになる。ホテルに入る前に街に出た。ふと何かを食べたくなったのだ。
「北京というと何がいいですかね」
僕は中国生まれのガイドさんに尋ねた。この人は上海の生まれで二十代半ば程の美しい女性である。黒い髪を後ろで束ねてうっすらと化粧をしている。黒く切れ長の目が印象的だ。
「北京ですか」
「はい。ここでは何がいいですか」
中華料理といっても色々ある上海料理に広東料理、四川料理、そして北京料理。僕は日本では広東料理をよく食べる。海の幸が好きだからだ。広東料理は比較的海の幸を使った料理が多いのである。
「そうですね」
問われたガイドは首を傾げて考え込んだ。
「私の生まれは御存知ですね」
「はい」
僕はそれに答えた。
「上海ですよね」
「はい」
ガイドさんも答えた。
「あそこだと蟹や豚バラを使った料理が有名なのですけれど」
「東坡肉ですね」
「そうそう、あれは美味しいでしょう」
「ええ。僕も大好きです」
僕がそう答えるとガイドさんも喜んでくれた。
「油っこいですけれど」
「あれで油っこいですか」
「少なくとも僕には」
「そうですか。それは参りましたね」
ガイドさんはそれを聞いて腕を組んで考えだした。
「何故ですか」
「いえ。北京料理も日本の方には結構油っこいものがあると思いまして。東坡肉で油っこいといいますと」
「そんなにですか」
「まあ食べ物は色々ありますけれどね。あっさりしたものもありますよ」
「どんなのですか?」
「まあ一言で言うと麺ですね。あと餃子ですか」
「水餃子でしたね、ここでは」
「ええ、そうです」
彼女はそれに応えた。
「よく御存知ですね。日本の方はよく焼き餃子と思われるのですけれど」
「まあ食べることには興味がありまして。水餃子も好きなんですよ」
「だったら安心ですね。じゃあ食べに行きますか」
「はい、お願いします」
こうして僕達は二人で店に出た。そしてガイドさんの薦める店に入った。
「ここがいいですよ」
「ここですか」
見ればわりかし豪華な外見のレストランである。中に入っても赤い色で彩られている。これは神戸や長崎で見る店と同じである。
「赤が多いですね」
「元々中国では縁起のいい色ですからね」
ガイドさんはそう教えてくれた。
「こうしたお店にはよく使われるのですよ」
「そうなのですか」
「ええ。日本ではわりかし大人しい色が使われますよね」
「はい」
実際日本の蕎麦屋等はそうである。落ち着いていい。
「それは逆ですね。私はこっちの方がいいです」
「そうしたものですか」
「お酒も美味しいですしね」
そこでそう言って笑ってきた。
「飲みますか?ここは美味しいお酒がありますよ」
「お酒ですか」
それを聞いて考え込んだ。実は僕はこの時まだ二十歳ではなかったのである。
「どうしましょうか」
「飲めますよね」
だが彼女はそれを知らない。僕にそう声をかけてきた。
「ええ、まあ」
断る暇もなかった。僕はそれに応えた。
「ビール位なら」
「ビールですか」
彼女はそれを聞いて少し残念そうだった。
「あれはお酒には入らないと思いますよ」
「そうなのですか」
「少なくとも私にとっては」
「御客様」
ここでウェイターが声をかけてきた。中国語なのでは何と言っているのか詳しいことはわからない。
「はい」
ガイドさんが応対をしてくれた。中国語でやりとりが行われる。どうも二人の発音が違う気がする。上海語と北京語の違いだろうか。だがそれでも言葉は通じているようであった。
「お待たせしました」
ガイドさんは話を終えると僕に声をかけてきた。
「それではこちらに」
「はい」
ウェイターさんに案内されて店の中を進む。赤い店の中でガイドさんの青い服が目につく。見ればわりかし地味なスーツだ。スカートの丈の長めだ。だがそれがやけに似合っていた。逆に僕の黒っぽい服が場違いにも思えた。赤と黒は合うと思っていたが常にそうだとは限らないようだった。それともこの黒が悪いのだろうかと思った。
(どうなのかな)
僕は自分の服を見た。見れば完全な黒ではない。茶色も混ざっている。厳密には黒に近いダークブラウンである。どうもこれがいけないらしい。原色には原色が合うということか。見れば彼女の服は原色である。そこに秘密があるらしい。
「着きましたよ」
そこで彼女の声がした。
「こちらです」
「あ、はい」
それに気付いて彼女に顔を向ける。もう僕に席を勧めていた。
「では御言葉に甘えまして」
「どうぞ」
僕は席に着いた。彼女はその向かい側に座った。丁度対面する形となった。
「それでさっきのお話の続きですけれど」
「お酒でしたよね」
「はい」
彼女は頷いた。
「私は強いお酒が好きなんですよ」
「強いお酒ですか」
そう言われてもどうもピンとこない。
「中国ではどんな強いお酒がありますか」
「老酒ですね」
「ああ、コーリャンから作るやつですよね」
「はい。あれは強くていいですよ。どうですか」
「ううん」
問われて考え込んだ。
「どんな強さですか」
「日本酒より少し強い位ですかね」
「そうなのですか」
それを聞いてさらに深刻にならざるを得なかった。
「どうしたのですか?お悩みのようですけれど」
「いえ、実は」
僕は話した。実は日本酒以上のアルコール濃度の酒を飲んだことはないのだ。
「そうだったのですか」
「そもそもお酒自体にまだ慣れてはいないですし」
「それは残念ですね。けれど日本のお酒は飲めるのですよね」
「はい」
僕はそれは認めた。
「あまり飲んだことはないですけれど」
「けれどそれなら大丈夫だと思いますよ」
そう答えてくれた。
「大丈夫とは?」
「いえ。ワインのことです」
「ワインですか」
「飲まれたことはありますよね」
「はい」
何回かある。あまり高いものは飲んだことはないが。
「それなら大丈夫ですから」
「それはアルコール濃度のことですか」
「ええ。日本のお酒より薄いものもありますし」
彼女はそう言った。
「味も。ほら、日本のお酒って癖があるでしょ」
「ええ。あれもちょっと」
どういうわけかそれで日本酒は駄目なのだ。いい酒なら違うというがそれでも駄目だった。どうも酒というものは飲む者を選ぶものらしい。
「老酒もそうですからね。私はそうではないですけれど」
「羨ましいですね」
「あら、そうですか?」
そう言われると嬉しかったらしい。晴れやかな顔になった。
「実はお酒好きなのですよ。日本のお酒にも興味がありまして」
「そうなのですか」
「甘くて。甘いお酒っていいですよね」
「リキュールとかああいう甘さではないのですね」
「あれはあれでいいですね」
笑顔でそう答えてくれた。
「そうですか」
「はい。カクテルも好きですよ」
どうやら酒なら何でもいいようだ。だが僕も油っこくない食べ物ならそうであるので差はない。食べるか飲むかの差だ。それの何処が違うのかというと返答に窮する。
「とりあえず北京料理では・・・・・・。そうですね」
彼女は考え込んだ。
「羊もよく食べますからね。それですと赤はどうでしょうか」
「赤ですか」
「ええ。肉には赤でしょう」
「まあそう言われていますね」
今一つよくわからなかった。そういうものだろうか。
「お魚には白。これは御存知ですよね」
「というと広東料理には白でしょうか」
「さあ、それはどうでしょう」
だが彼女はそれには懐疑的だった。面白そうに笑った。
「何かあるのですか?」
「広東料理も結構バリエーションがありまして。ほら、家鴨も食べるでしょう?」
「はい。あれは美味しいですね」
僕も家鴨は食べたことがある。鳥に似ているがもっと味が濃くて独特の味になっている。好きな食べ物の一つだ。
「それに飲茶もありますからね。それで赤の方が合うかも知れません。あくまで料理ごとによって違いますが」
「そうなのですか」
そういえば中華街で広東料理の店に入った時赤ワインと一緒に料理を堪能している人がいた。だがそれで僕はふと気がついた。
「あの」
それでまた声をかけた。
「何でしょうか」
「中国ではワインから作ったお酒がありますね」
「桂花陳酒ですね」
「そう、それです。あれはどうなのでしょうか」
「ワインに比べると気取ったものに思えますね。花びらを入れて作るものですから」
「そうですか」
「あれはあれで独特の味わいがありますよ。ですがワインとは別物のような気もします」
「そうなのですか」
「ええ。味も違ってきていますしね。それよりもワインに話を戻しませんか?」
「あ、はい」
ここで麺と水餃子が運ばれてきた。それぞれ一皿ずつ僕達の前に置かれた。
「まあ食べながらお話しましょう」
「はい」
箸を手にして食べはじめた。まずは麺を口にする。
「どうですか?」
彼女が尋ねてきた。味をである。
「美味しいですね」
僕は率直にそう答えた。
「日本のラーメンとはまた違いますね」
「そうでしょう。実はあれをはじめて食べた時はびっくりしましたよ」
「びっくりしました!?」
「はい。何て変わった和食だ、と。普通日本ではスープは鰹節や昆布からとりますね」
「スープ?ああ、はい」
僕はそれを聞いて納得した。だしのことを言っているのだ。
「それがトリガラや豚骨なんですから。しかも麺も私達のものに似せていてそれで違いますし」
「確かに」
今目の前にある麺を食べながらそれに応えた。
「味はかなり違いますね」
「そうでしょ?こんな変わった食べ物が日本になるんだって不思議でしたよ」
「はあ」
「食べてみると美味しいですけれどね。かなりあっさりしていましたけれど」
「あっさりですか」
「北京料理に比べれば。あ、そうそう」
ここで何かに気付いたようである。
「羊はどうですか?さっきお話していた」
「羊ですか」
「美味しいですよ。どうぞどうぞ」
「ううむ」
それを聞いて少し考え込んだ。羊は嫌いではない。匂いが苦手という人もいるが僕はそうではない。だが一つ問題点があるのだ。
「油っこくないですよね」
「それはこちらで選びますから。安心して下さい」
「わかりました。それではお願いします」
「はい」
こうして羊料理も頼んだ。その時にワインも頼んだ。赤である。
「中国のワインの歴史は古いんですよ」
彼女は中国のワインについて話をはじめた。
「唐代にはもう飲まれていましたし」
「そうなのですか」
「ほら。さっき桂花陳酒のお話をしましたね」
「ええ」
「あれは楊貴妃が好きでして。よく飲んでいたそうですよ」
「へえ、楊貴妃が」
「はい。まあ最近までポピュラーではなかったのは事実ですけれどね」
「けれど最近は中国でもワインを生産していますよね」
「それを今から味わって欲しいのです。宜しいですか?」
「喜んで」
そこで羊料理とワインが運ばれてきた。丁度麺と水餃子を食べたばかりなのでいいタイミングだった。
羊料理は野菜と一緒に煮たものであった。肉がかなり大きかった。
「緑の野菜ですね」
「ええ。苦手ですか?」
「いえ、野菜も好きなので」
そう答えてまずは野菜を食べる。青梗菜のようだ。
「これも美味しいですね」
「それでは羊を」
「はい」
言われるまま羊を食べる。柔らかくその旨味が口の中全体に広がった。
「これはまた」
「どうですか。北京の羊はいいでしょう」
「はい」
本心からそう答えた。彼女はそれを見てにこりと微笑んだ。
「私は上海人ですけれど」
「はい」
「それでも北京の羊料理は好きなんです」
「そうなのですか」
「美味しいものはね。どの国のものでも美味しいでしょ?」
「はい」
その通りである。同意した。
「美味しいですね、確かに」
「ワインもいいですよ」
見ればグラスにもう注がれていた。赤い宝石がそこにたたえられていた。
「それでは」
彼女はそう言いながらワインを手に持った。
「女の私が音頭をとるのはどうかと思いますが」
「いえ」
僕もそれに合わせた。ワインを手に持った。そして杯を打ち合わせた。
そして飲む。口の中にワインの香りと味が漂う。
「どうですか?」
「ううん」
飲み暫く経ってから答えた。
「いいですね。もっと癖のあるものかと思いましたが」
「美味しいでしょ、中国のワインも」
「ええ」
素直にそう答えた。
「美味しいですね。すっきりしていて」
「けれど北京で飲むよりもっといい場所があるのです」
彼女は誘うようにしてそう言った。
「いい場所とは?」
「これから私達が行く場所です」
そしてそう答えた。
「西安へ。行かれるのですよね」
「ええ、勿論」
それに答えた。
「その為にここへ来たのですから。中国に」
「わかりました」
それを聞いて頷いてくれた。
「それでは明日向かいましょう。けれど今日は」
「はい。心おきなく飲みましょう」
「そういうことです」
こうして僕達はその店で心おきなくワインを堪能した。そしてそれからホテルに戻った。一晩寝た後空港に向かった。そして西安に向かった。
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