凧
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第一章
第一章
凧
江戸時代も中頃になるとあまりにも泰平でしかも人々はかなり楽しく暮らせていた。町でも村でも子供達はおもちゃで遊び大人達は芝居や落語といったものを明るく楽しむようになっていた。
そして江戸にいる職人の藤吉もそれは同じだった。しかし彼の場合は仕事がそのまま遊びになっていた。
「おいおい、また随分いい出来だねえ」
「当たり前だろう?」
自分の長屋にわざわざ品物を受け取りにきた大工姿の男に対して白い歯を見せて笑っていた。顔は少しばかり痩せていて肌は黒い目は黒めがちで強い光を放っている。髷は奇麗に整えてそれがまた実に江戸っ子らしい男伊達を見せていた。
「誰が作った独楽だよ、それは」
「あんただよ」
「そうだよ、俺が作ったんだよ」
彼もまた胸を張って言う。
「悪い筈がないだろうがよ」
「この凧もいいなあ」
大工は今度は壁にかけてある凧を見た。見れば達磨の顔が描かれたこれまた見事な奴凧であった。そうしたものも見ての言葉だった。
「あんたが作るのは確かにどれもいいね」
「そうだよ、これも欲しいな」
「おう、じゃあ持ってけ」
「釣りはいらねえぜ」
こうして大工はその独楽と凧を買うのだった。藤吉は江戸でも評判の独楽、そして凧の職人なのだ。それで彼の独楽や凧を買いたいという人間が後を立たなかった。
またそれが彼の道楽でもあった。芝居は観ないし落語も聞かない、博打もしない彼はいつも独楽や凧を作っていた。そしてそれをそのまま売っているのである。
「御前さん今日も精が出てたね」
「あったり前じゃねえかよ」
長屋の中で向かい合って飯を食っているその相手は恋女房のお鮎だ。ふっくらとした顔立ちの彼女に対しても威勢のいい言葉は変わらない。
「俺を誰だと思ってんだよ」
「独楽と凧の職人の藤吉だろ」
「そうよ、江戸で一番のな」
この自負はもう彼にあった。お鮎の言葉に答えながら鰹の刺身を醤油に漬けている。そうしてそれを口の中に入れて白い飯を頬張っている。
「それがこの俺よ、独楽の藤吉よ」
「凧じゃなかったかい?」
「どっちでもいいぜ。とにかくだよ」
彼は言うのだった。
「俺に作れない独楽も凧もねえさ」
「ないんだね」
「どんなものだって作ってみせらあ」
女房に応えながら今度は味噌汁を飲む。豆腐の味噌汁をだ。
味噌と豆腐のその二つの味を楽しみながらそのうえで。彼はまた言うのだった。
「何でもよ」
「もう独楽と凧には絶対の自信があるんだね」
「そうさ」
やはりその自信に満ちた言葉は変わらない。
「何でもよ。作ってやるさ」
「いいね、その威勢のよさ」
お鮎は亭主のその威勢のよさを気に入っているようだった。にこりと笑っている。
「御前さんらしくてね」
「いいんだな」
「本当に独楽と凧だったら何でも作れるからね」
「そうだよ、何だって作ってみせるさ」
また言うのだった。
「何でもな」
「いいね、じゃあまた明日も頼むよ」
「おうよ、またすげえ独楽や凧を作ってやるさ」
彼は自分に作れない独楽も凧もないと思っていた。そうして日々その二つを作って楽しんでいた。しかしそんなある日のこと。彼は饅頭を買いに外に出ていた。
実は彼は饅頭が好きだ。甘いものは全体的に好きである。その中でも饅頭は特に好きだ。その好物の饅頭を買ってそれを楽しもうというのだ。
馴染みの店にまで買いに行こうとするその時だった。ふと道で凧で遊んでいる子供がいた。彼の作った凧ではないがその凧で明るく遊んでいた。
側にはその子供の母親だろうか。お歯黒をした女がいた。その女が子供に対して明るく笑ってそのうえで言っていたのだった。
「本当に凧が好きだねえ」
「うん、大好きだよ」
子供は凧をあげながら楽しく笑っている。凧は空高くあがっている。どうやら凧をあげるのがかなり上手な子供であるらしい。
「こうやってあげるのがね」
「それにしても上手だねえ」
女も子供が凧を揚げるのを見て感心したように述べた。
「凧をあげるのが。本当にね」
「いいことだよ。凧をあげるのがいいのはね」
「けれどさ、おいら」
子供はここでふと言うのだった。
「自分も凧に乗ってみたいんだけれど」
「あんたがかい」
「そうだよ、おいらも空を飛んでみたいよ」
子供はその空に高々と掲げられている凧を見て女に話すのだった。
「空を。凧でさ」
「おやおや、そんなのはできないよ」
しかし女はそれは笑って否定するのだった。
「そんなのはね。絶対にできないよ」
「無理かな」
「無理だよ、無理」
こう言ってまた否定するのだった。
「そんなの。できっこないよ」
「そうなんだ。無理なんだ」
「今凧を自分であげてるだけで我慢しときな」
女は今度は子供に優しい声で告げていた。
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