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蛭子

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第五章


第五章

「お願いします」
「はい」
 そして彼は蔵へと向かった。蔵の前に膳を置いた後で扉を開ける。既に鍵は手渡されているのでそれで開ける。開けてから中に入り今度は地下への扉を開ける。それから膳を持ち直して中に入る。既に蝋燭は消えていた。何一つ見えない暗闇の中であった。
「お嬢様」
 彼はそこで一言こう呼んだ。
「朝の食事をお持ちしました」
「はい」
 それは部屋の片隅から聞こえてきた。彼はそれを受けて膳を一旦階段の端に置くと懐から蝋燭を取り出した。そしてそれを火打石で灯りを点ける。それで光を作り部屋の中を見回した。
 見れば布団が敷かれていた。そこに少女はいた。既に目覚めており顔を彼の方に向けていた。そしてにこりと微笑んでいたのであった。
「もう朝なのですね」
「はい」
 彼は頷いた。それから蝋燭を下に置き膳をまた手に取った。それから少女の側に行き腰を降ろした。その時に膳も置いたのであった。
「どうぞ」
「有り難うございます」
 食事は彼が自ら箸や手を取り食べさせた。少女の口まで運んで食べさせるのである。彼女はそれを無抵抗に受け止め、そして食べる。まるで人形の様に表情のない顔で。
「美味しいですか」
 彼はふと問うてみた。
「今日の御飯は」
「はい」
 少女はこくり、と頷いた。
「とても。今日もとても美味しゅうございます」
「左様ですか」
 自分が作ったわけでもないがそれでもそう言ってもらえると嬉しかった。
「それは何よりです」
「ところで」
「はい」 
 少女は彼に声をかけてきた。
「確か昨日ここへ来られたのですね」
「ええ」
 彼は頷いた。
「こちらへは昨日来たばかりです。本当にまだ何もわからなくて」
「何もおわかりになられることはないと思います」
「といいますと」
「私はいないことになっていますから」
 表情を変えずにこう言ってきた。
「貴方も使用人の一人です。表向きは」
「はあ」
「けれど。実際には何もしていないのと同じように言われるでしょう。そしてここから出ることもありません」
「ここから」
 それを聞くと急に心の中を不気味さが支配した。
「はい。それが何故かはもうおわかりでしょう」
「・・・・・・・・・」
「私を知ってしまったからです」
 答えない彼のかわりにこう言った。
「私のことを知っているのは。御父様と御母様と兄様や姉様達、そして僅かな家の者だけ」
「そうだったのですか」
「家の中でも。私のことを知っているのは限られている筈です。若しかしたら噂が流れているかも知れませんが」
 この暗い蔵の中にいても頭は鋭いらしい。その通りであった。少なくともあの老人は彼女のことを気付いてはいた。だがやはりいないことになっているのには変わりがなかったのだ。
「私を見てそのまま気が狂った方もおられます」
 顔は変わりはしなかったが声が変わった。悲しみを帯びていた。
「そんな私ですが。宜しいでしょうか」
「はい」
 彼はまた頷いた。今までは金目当てでしかなかったが今の彼女の声を聞いてそれがほんの少しだけ変わった。不意に彼女への同情心が沸き起こったのであった。
「私でよければ」
「それではお願いしますね」
「はい」
「これから何かと御迷惑をおかけしますが」
「いえいえ」
 だがまだ金への想いはあった。ここでふと同情心から金が目当ての仕事へと心を戻した。
「これが仕事ですから」
「では」
 朝食が終わると彼は昨日主に言われた世話をした。服を寝巻きから普通の着物に替え布団もしまった。そしておしめも替えたのであった。手も足もなくしては何もできはしない。だから彼が替えたのであった。これも仕事であった。 
 最後に大きめの茶碗に水だけを置いて蔵の中を後にした。この時鍵をかけ忘れぬよう主にはきつく言われている。彼はそれを忠実に守り鍵を閉めた。そして自分の部屋に戻るのであった。
 これ以外には何も仕事はなかった。朝昼晩に三回食事を持って行き、そして服を替えたり布団をあげたりおろしたりするだけであった。彼は空いている多くの時間はこっそり外に出て遊びに行ったり、何をするわけでもなくぼうっと過ごしたりして時間を潰した。慣れてみれば至って楽な仕事であった。外に出るのも少し位なら黙認してもらえた。それを考えるとやはり楽な仕事であった。
 キヨの世話も楽であった。確かに最初はおしめを替えたりといったことが嫌であったが慣れるとそれ程でもなかった。キヨ自身も摺れたところのない気の優しい少女であり話していて嫌な気はしなかったそして何日も何ヶ月も共にいるうちに互いに気の許せる仲になっていたのであった。
「お嬢様」 
 ある日の昼のことであった。彼はキヨに食事を届けた時に彼女に声をかけた。
「はい」
 キヨはそれを受けて顔を彼に向けてきた。うつぶせになったままの態勢で。それを見るとまるで亀の様に見えた。
「もうここにどれ位おられるのですか」
「生まれた時からですから」
 そう前置きしたうえで答えた。
「十六年か。それ程になります」
「十六年ですか」
「ええ。それが何か」
「長かったでしょう」
 彼はそこまで聞いてポツリと呟いた。
「よくも辛抱されました」
「私はここ以外の世界は知らないので」
 キヨは戸惑うまでもなくこう返した。
「長いも辛抱も。関係ありません」
「そうですか」
「ここで生まれて、ここで死ぬ。それが私の運命だと思っています」
 寂しげな様子もなくそう語った。
「ここでいることだけが私の人生なら。それでいいです」
「外の世界には興味はありませんか」
「はい」
 キヨはその質問にも応えた。
「ありません。今更出ることもできないのはわかっていますし」
「左様ですか」
「それに。手も足もなくては何もできないですよね」
「あれは」
 これには答えることができなかった。その通りであったからだ。このことに関して嘘をつくことは彼にはできるものではなかった。
 
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