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蛭子

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第十一章


第十一章

「というわけなのです」
 老人は話を終え、酒を一杯飲んでからこう言った。
「もう遠い昔のことですが」
「そんなことがあったのですか」
 僕は肴の豆腐を食べながらそれに応えた。
「思うと。不思議な話ですね」
「そうでしょうか」
「ええ。今では当然のことですから」
 母親に何か欠けているものがあろうとも生まれてくる子はそうではない。これは私にとっては当然のことのように思われた。
「ですが昔は違うのですよ」
「やはり」
「今で言うとね。迷信かもしれないですが」
「昔は本当に心配されていたのですね」
「その通りです」
 老人は私の言葉に答えると自身も豆腐を口に入れた。私はそこで酒を彼の杯に注いだ。彼はそれを手にしてまた飲んだ。
「当時はそれが常識でしたから」
「そうだったのですか」
「それは言っても仕方のないことです」
「はい」
 私はそれに頷いてまた酒を飲んだ。それから話に戻った。
「それよりもね」
 老人は酒を一口含んでから言った。
「いい話だと思いませんか?その人は全てを賭けて子供を産んだんですよ」
「ええ」
 それは確かにそう思った。信じられない程のものであったが。
「自分にはないものがきっとあると信じて。そして産んだのですよ」
「そしてキヨさんはどうなりました?」
 私は尋ねた。
「お話ではお産の時はもうかなり危うい様子ですが」
「残念なことですが」
 そう言って寂しい笑みを浮かべてきた。それだけでわかった。
「おわかりでしょう」
「はい」
 そして私もそれに頷いた。本当によくわかった。
「すぐにね。その子を産んで」
「左様ですか」
「けれど満足そうな顔だったそうですよ。全てをやり遂げたような」
「そうでしょうね」
「最後は御主人と御両親に見守られて。今は天国におられるでしょうね」
「それは何よりです」
 それを聞いてからまた問うた。
「そしてですね」
「はい」
 老人は私の言葉にまた目を向けてくれた。
「その娘さんはどう為されました」
「娘さんですか」
「はい。あかねと名付けられて。それからは」
「さて」
 だが彼はそれにはまずとぼけてきた。
「どうなったのか。ただ一つわかっていることがあります」
「それは」
「私の妻ですけれどね」
「はい」
「名前があかねっていうんですよ。飛騨の生まれだそうです」
「それでは」
「何、只の偶然でしょう」
 しかし老人はこう言ってはぐらかした。
「只のね」
「左様ですか」
「けれど。本当に生まれてよかったですよ」
 老人はまた言った。
「その娘さんも。キヨさんも」
「はい」
「例え手足がなくとも。人間なのですから」
 これはいささかヒューマニズムめいた言葉だと思った。普通なら宗教家が言っても偽善に聞こえるようなものだ。だがこの時は違っていた。ひねくれ者の私ですら頷かせるものがあった。
「そして子を産んだ。全てを捨てて」
「命すらも」
「その結果として。幸福になれた人がいました。不思議なものですね」
「ええ」
「人間。何がどうなるかわかりません。本当に何事も」
 その言葉を最後に私達はまた酒を飲みはじめた。外はもう雪となっていた。その雪を見ながら祖父が帰るまで静かに飲むのであった。


蛭子   完


                  2005・12・5
 
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