その魂に祝福を
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魔石の時代
第一章
始まりの夜1
前書き
いきなりですが流血注意です。
1
痛みに包まれ、眼が覚めた。たちまち後悔する。
闇に塗れた視界。焼けた肉の匂い。炎の気配。閉じ込められ、焼き殺されつつあるという感覚。何より最悪なのは、そんな状況下で身動きが取れないというこの状況。
目覚めて最初に感じたのは死の恐怖だった。そして、自分が何者であるかを思い出す。そして、力を取り戻した。異能の力。血濡れた力。呪われた力。
……そして、恩師から受け継ぎ、絶望から自分を救った力。
積もった瓦礫を払いのけ、空を見上げる。皮肉なくらいに澄んだ青空だった。
俺は、誰だ……?――最初に生じたのは、そんな疑問だった。
魔法使い。正義のための人殺し。思い出せたのは、それだけだった。記憶が失われている。自分の名前すら思い出せない。僅かに残された記憶も酷く曖昧だ。一体どこまでが自分の記憶なのか、それさえもはっきりしない。
自分は一体誰なのか。何よりも重要なその疑問はあえて無視して、周りを見回す。そこは地獄の跡だった。木造だが、かなりの大きさがあったらしい屋敷はほぼ原形をとどめていない。周りにはかつて人間であったらしい酷く焼け焦げた肉片。
魔物に蹂躙されたような跡だった。生存者を捜そうとするだけ無駄だろう。
おそらく、だが。
自分も生存者ではなかったのだろう。根拠もなく、そう確信した。
とはいえ、負った傷は大したものではない。……深刻な傷だが、自分にとっては致命傷ではない。理由は分からないが、確信していた。おそらく、背中に被さっていた――この子どもを庇った誰かのお陰だろう。その誰かには悪いが、そのお陰でこの器を……原形を留めた質のいい死体を手に入れる事が出来た。
自分が這い出した穴に向かい、静かに黙祷を捧げる。そして、その地を後にした。
――……
どうやら、この世界はずいぶんと平和らしい――街を彷徨い、呻く。ようやく地獄から抜け出した自分は、酷く発展したその街の中で途方に暮れていた。
せめてもの救いは、この器の記憶なのか、それが何なのか分かる事だろう。この世界の一般的な常識は、どうにか理解する事が出来た。
もちろん、それとて完全ではない。勝手の違うこの世界で、どうやって生きていくべきかを悩む程度には、情報に欠落がある。だか、それでも思い出した――忘れていない事がある。名前すら忘れ去っても、それだけは覚えていた。
自分にはやらなければならない事がある。だが、それが何なのかが思い出せない。漠然とした感覚はあっても、はっきりと思い出す事は出来ない。思い出せない事に酷く焦りを覚えた。
相棒――その焦りの中で自分はふと呟いていた。
そうだ。自分には相棒がいる――それを、まず最初に取り戻さなければならない。
……――
いくら平和に見えても、所詮は人の世と言う事だろう。目覚めてから数ヶ月、突如として襲撃を受けた。別段問題はない。慣れた事だった……ように思える。
あえて問題点を挙げろと言うのであれば、この世界ではまだ恨みを買った覚えはないという事くらいなものだ。
「あの爆発を生き延びるとはしぶといガキだ」
どうやらこの襲撃者どもが、あの惨劇を生み出した連中らしい。こんな子どもまで殺そうとするなど、どうやら相当に業の深い一族だったのだろう。
もっとも、業の深さはお互い様だ。魔法使いがいないとはいえ、相手は明らかに人を殺し慣れている。つまりは同類。それなら、今さら遠慮は不要だ。こちらも、黙って殺されてやる義理は無い。それに、右腕が……この器が疼く。
殺された無念は、晴らさなければならない。
……それが、名前も知らない誰かへのせめてもの手向けだ。
「死ね」
安っぽい言葉と共に襲ってくるそいつらに向かって右手を突きつける。
次の瞬間には魔力を宿した己の血が相手の頭を貫き、脳漿をぶちまけた。
血魔法。己の血を供物とする魔法。魔法使いにとって初歩であり、懐刀だ。が、威力はさほど高くはなく、使い続ければいずれ血を失い命を落とす。
懐刀以上の物にはならない。それが普通だった。ただし、
自分のそれは特別製だった。それは身体が覚えている。
何故そうなったのかは覚えていないが、それでも身体が覚えている。実際に威力は申し分ない。一通り襲撃者を始末してから、それを確信した。もっとも、器が小さい分、今までのようには使えそうにないが。……いや、『自分』にとってそんな事は全く関係ないはずだ。例えどれだけ血を失ったとしても――まだ何か重要な事を忘れている。そこから先が思い出せない。思い出すべきではないのかもしれないが。
「貴様、何者だ?」
新たな襲撃者の登場に、自分は眩暈を覚えていた。最悪な事に……どうやら、血を失いすぎたらしい。
……――
結論から言えば、それは……その女は襲撃者ではなかった。むしろ、自分を襲った襲撃者を探し、殺しまわっているらしい。理由を聞いたところ、彼女自身もあの惨劇の生き残りだという。つまりは仇討ちという事なのだろう。
それなら、もう少し早く来てくれれば良かっただろうに。それが偽らざる本音だった。だが、何であれこれは幸運だった。血の匂いのする彼女についていけば、いずれ相棒にも出会えるだろう。自分の力も、彼女が目的を達成するには有益なはずだ。
提案すると、外見が外見だけに――何せ今や一〇歳になるかどうか程度だ――彼女はいくらか躊躇ったらしい。
だが、今さらそれを気にするだけ馬鹿げている。たった今自分が生み出した惨状を示して告げた。それでも、彼女は躊躇ったようだったが。
「私は御神美沙斗。お前は?」
さぁな。名前など忘れてしまった――正直に答えると、美沙斗は不満そうに鼻を鳴らした。ともあれ、それが新たな相棒との……新たな名前と、この世界での生き方を教えてくれた『母』との出会いだった。
最後に、彼女によって与えられた新しい名前を記しておこう。
御神光。何とも皮肉の利いたその名前が、新たな自分の名前だった。
2
「そら、起きろ。朝だぞ、なのは」
「んにゅう……」
ぺちぺちと、誰かが頬を叩く。あまり痛くはない。けど、眠る事も出来ない。
「起きろって。進級早々に遅刻するぞ」
むにょ~ん。誰かが頬を引っ張る。乱暴じゃないけど、痛い。
けど、やっぱり眠い。もぞもぞと布団を手繰り寄せる。
「ふむ。これは仕方がない。朝飯は抜きだな」
「起きる! 起きたの!」
がばっと布団を跳ね上げると、小さなため息が聞こえてきた。
「お前は本当に、相変わらず食欲の化身だな」
「そんなことないもん!」
ベッドの縁に座る兄――光に食ってかかる。というか、勢い余って抱きつくような格好になった。
「重くなったな。太ったか?」
「大きくなったの!」
「横に?」
「ちが~う!」
むぅ、と頬を膨らませて睨むと、ほら、やっぱり太ったと言って頬を突かれた。
「もう、違うんだってば!」
言って、布団を被ろうとする。と、その直前で軽々と抱き上げられた。いわゆるお姫様だっこという状態で。これが初めてではないが、やっぱり恥ずかしい。でも、やっぱり安心する。昔から、よくこうしてもらっていたから。
「やっぱり重くなったかな……」
言いながらも、少しもふらつくことなく歩き出す。私と大して身長は変わらないはずなのに。少しくらい暴れても、光は全く気にしない。私と三つしか違わないはずなのに。
「ほら、ここから先は自分で行けよ。俺はあのチャンバラ馬鹿どもを呼んでくる」
結局、今日も洗面所の近くで下された。チャンバラ馬鹿と言うのは、もう一人の兄――我が家の長男である恭也の事だ。どもという事であれば、姉の美由紀も含まれている。
あの二人は父の実家に伝わる剣術を習っている。今日も朝から訓練しているのだろう。参加していないのは、私と母、そして光だけだ。とはいえ、
「光お兄ちゃんだって変わらないと思うの」
光は時々、恭也に道場に連れて行かれる事がある。それに、夜にこっそり練習しているのも知っていた。お父さんも引退したとはいえ、時々教えに行っている。
そう考えると、参加しないのはお母さんと私だけだと言うべきなのかもしれない。
「あ、そうだ」
ちなみに、私が参加しない理由はとても簡単で。
「寝ぼけて転ぶなよ?」
「転ばないよ!」
私はとても運動が苦手だからだった。
……――
「おはよう、なのは」
「あら、おはよう。なのは」
「お父さん、お母さん。おはよう」
簡単に身支度を整えてからリビングに向かうと、父親の士朗と母親の桃子が言った。もちろん、すでに他のみんな――恭也と美由紀もいた。みんなにも挨拶をしながら、自分の席に座る。
「よしよし。トイレの中で寝たりしなかったな」
「トイレでなんて寝ないよ!」
それを待ち構えていたかのように、エプロン姿の光が朝食を運んできた。光はお母さんに次いで料理が上手だった。もちろん、お菓子だって作れる。
やっぱり男の子だからだろうか。意外だと言われる事も多いらしい。だが、家が喫茶店を経営していると言うと納得してもらえると言っていた。
(でも、それって嘘だと思うの)
お味噌汁――味付けからして、今日は光が作ったらしい――に口をつけながら呟く。
確かに家は翠屋というお店を経営しているし、ケーキも紅茶もご飯もみんな美味し
いというのも嘘ではない。だが、どういった形であれ光が店で出す料理を手伝った事
はないはずだ。もちろん、両親が止めている訳ではない。むしろ、お母さんは積極的
に彼を誘っている。私から見ても、光ならきっとお店を継げると思う。なのに、光は
どうしても首を縦には振らなかった。何故かは分からない。ひょっとしたら、本当の
子どもではないという事を気にしているのかもしれなかった。
(そんなこと、気にする事ないのに……)
実は光と私は血の繋がった兄妹ではない。私の両親も彼とは血の繋がりはない。
今でこそ私たちと同じ高町という名字を名乗っているが、本当の名字は御神――お父さんの妹さん……つまり、私にとっては叔母にあたる人の息子なのだという。でも、実際はその妹さんと彼も血は繋がっていないとも言っていた。どんな事情があって別々に暮さなけれならなくなったのかは分からないけれど……ひょっとしたら、その辺りに理由があるのかもしれない。
「なのは、味噌汁なんかボーっと眺めてると遅刻するぞ? ただでさえ今日は起きるの遅かったんだから」
光の言葉に、ハッとする。確かにいつもより遅い。慌てて他のおかずにも箸を伸ばす。味付けからして、今日は光が作ったものが多いようだ。残すなんてもったいない。もちろん、桃子が作ってくれたものだって同じだが。
「忘れ物はないか?」
少し慌ただしい朝食を終えてから、急いで学校の制服に着替える。それから急いで玄関に向かうと、すでに真っ白な制服に着替えた光が待っていた。白い服は自分には似合わない。ことあるごとにそう言っているけれど。
胸元には、肌身離さずずっとつけている剣の切っ先を模したペンダント。とても綺麗なガラス細工のようなそれは、お守りだと言う。
「大丈夫だよ!」
教科書はみんな昨日のうちに鞄に入れてある。宿題も終わっているし、提出物だってばっちりだ。進級して早々に忘れ物をする訳にはいかないと、寝る前にちゃんと確認だってしてある。
「本当に?」
「本当だってば!」
「……ならいいんだが」
やれやれ。そう言わんばかりに、光は肩をすくめる。
「まぁいい。それじゃ行こうか。少し急がないと待たせる事になる」
「うん。そうだね」
頷き、光の手を握るとそっと握り返してくれる。
「いってきます!」
それは、いつも通りの朝だった。
3
「お待たせ! 二人ともおはよう!」
光と二人で、少しだけ急いで通学路を走る。そして、いつもの曲がり角を曲がると、そこには大切な友達がいた。少しだけ弾んだ息と共に、二人に挨拶をする。
「もう、遅いわよ。なのは」
綺麗な金髪の少女――アリサが、腰に手を当てて言う。
「なのはちゃん、おはよう」
清楚で優しそうな少女――すずかが、笑った。
「悪いな、二人とも。ウチの妹は今、寝る子は育つを実践中なんだ」
二人に返事をしようと息を整えていると、全く息切れなどしていない光がそんな事を言った。
「もう! だから太ってないって言ってるの!」
「誰もそんな事は言っていないだろ?」
しれっとした顔で光は言う。
「顔に書いてあるの!」
「何? それはまずいな。ちゃんと顔は洗ったはずだが……」
光はあっさりとそんな事を言う。それどころか、ぺたぺたと自分の顔を撫でながら、どの辺りに書いてあるのかなどと、すずかに訊ねている。
「も~! いいもん! 私ダイエットするから! 晩ご飯いらないんだから!」
「それは残念だな。美味しそうに食べてくれるなのはを見るのが好きなのに」
「う~…。本当に?」
「ああ」
「……なら、やっぱりいる」
お母さんの料理も美味しいけど、光の作るご飯も好きなのだ。食べないなんて、やっぱ
りもったいない。体重は……まだきっと大丈夫だ。
「本っっっ当に仲がいいわね、アンタ達は」
アリサが呆れたように言った。
「そうか? 兄妹ならこれくらい普通だろ」
「普通じゃないわよ! なのはってばこの前、『結婚するなら光お兄ちゃんみたいな人がいいなぁ』なんて言ってたわよ? 普通は精々お父さんとかでしょ!」
「な、何で言うの~!?」
慌ててアリサの口をふさごうとする。けど、避けられた。確かに言ったけれども。
「それはまずいな。なのは、お前はもっと男を見る目を養わないと」
アリサと追いかけっこをしていると、光が呟くのが聞こえた。彼は時々こういう事――私達から距離を取るような事を言う。多分、お店を手伝わないのも同じ理由なのだろう。
それが何なのか、私には分からないけれど。
「まぁまぁ。二人ともそれくらいで、ね。早く行かないと学校に遅刻しちゃうよ?」
すずかの言葉に、アリサと二人では~い、と返事を返す。確かに、そろそろ歩きださな
いと学校に間に合わない。
「そう言えば、光君。この前のケーキ、とっても美味しかったよ。ありがとう」
学校が見えてきた辺りで、ふとすずかが言った。
「そうか。それは良かった」
光はいつも通り素っ気なく言う。が、私には分かった。これは結構喜んでいる。
「うん! 光君って、本当に料理上手だよね」
「そうでしょ? あとね、アイスも絶品なの!」
「だよね! お姉ちゃん達もびっくりしてたよ!」
アイスに関して言うなら、ひょっとしたらお母さんより美味しいかも知れない。それくらい、光の作るアイスは美味しい。毎年夏は楽しみにしている。
「まぁ、あれは昔からよくせがまれて作ってたからな」
少しだけ遠い目をして、光は言った。というか、そんなに私はお願いしただろうか。そ
こまで多くはなかった……と思うのだけれど。
「っていうか、何でアンタ、私にだけは作ってくれないわけ?」
と、そこでアリサが、とても不満そうに光を睨みながら言った。
「いや、お前だけって訳じゃなくて、元々俺は身内にしか作ったことはないんだが。下手
なものを食わせて店の看板に傷をつける訳にもいかないからな」
「すずかには作ってあげてるじゃない!」
「それはまぁ、何て言うか……。そう遠くないうちに義妹になるだろうからな、多分」
それは、すずかの姉である忍と、私達の兄である恭也が恋人だから。
「う……。まぁ、確かにもう八割くらいはなってそうな感じだけど……」
「だろ? 最近は店の手伝いにも来てくれるんだ」
二人はとても仲が良い。だから、きっとそうなる。
「うううう……。でも、私だけ仲間外れってちょっと酷くない?」
すずかと二人、嬉しくて、でもちょっとだけむず痒い気分を共有していると、アリサが呻いた。それは確かに。彼女だけ仲間外れのようで、あまり良い気分ではない。
「お兄ちゃん……」
「分かった分かった」
私が訴えるような目で見つめると、光はやれやれと肩をすくめた。
「今度機会があったらな」
「……本当に?」
光が言うと、疑り深い目でアリサが睨む。
「本当だって。大体、そんな事で嘘をついても仕方がないだろ?」
「でも、アンタすぐに『そうだったか?』とか言い出すし」
「そうだったか?」
「アンタねえ! わざとやってるでしょ!?」
「そんな訳ないだろ?」
白々しく光が言う。けど、私も今のは絶対わざとだったと思う。そうこうしているうち
に学校が見えてきた。
「それじゃ、三人とも。また後でな」
光は六年生なので、玄関で分かれる。
「うん。それじゃまたあとでね」
来年からは別の校舎に言ってしまうので、もっと寂しくなりそうだった。
4
「ああああああっ!」
午前中の授業を終え、鞄を開いた私は思わず叫んでいた。無駄だという事は何となく分かっていたが、何度も鞄の中をかき回す。もちろん、そんな事で探し物が見つかる訳もない。というより、そもそもどこかに紛れ込んでしまうような大きさではなかった。
「なのは、どうしたの?」
アリサの声に、がっくりと項垂れながら答える。
「お弁当、忘れちゃった……」
今日はせっかく光が玉子焼きを作ってくれたのに。朝から楽しみにしていた分、ダメージが大きい。本当に泣きそうだ。
「もう、ちゃんと確認しなきゃダメじゃない」
「そうだぞ。忘れ物はないか、あれだけ何度も確認しただろう?」
「ううぅ……」
机に突っ伏したまま、呆れたようなアリサと光の声に、泣き声を返す。
(……え?)
今、何かおかしな事が起こったような気がする。というか、起こったらしい。顔を上げる前に、アリサの声がした。
「って、アンタどっから沸いて出たのよ!?」
「沸いてってお前な……。人をボウフラみたいに言うなよ」
顔を上げると、さも当然のように光が、アリサとそんな事を言い合っていた。
「似たようなもんでしょ。気付けばその辺にいるんだから。何で授業終わって五分と経た
ないうちにこんなところにいるわけ?」
確かに、六年生の教室からここまでは少し離れている。授業が終わってすぐに教室を出れば間に合うかもしれないが、普通はそううまくいかないと思う。
「色々とコツがあるんだよ」
とはいえ、光と一緒にいると、時々そういう不思議な事がある。お陰ですっかり慣れて
しまった。
「まぁ、いいけど。それで、何の用?」
アリサも慣れてきたのかもしれない。それ以上は問い詰めず、別の事を聞いた。
「ちょっとお間抜けさんなところも可愛い妹に届け物があってな」
何か失礼な事を言われた気もする……が、光が持っている物を見た途端、そんな事はど
うでもよくなった。
「私のお弁当箱!」
光が持っていたのは、見慣れた包みだった。間違いなく、私のお弁当箱。
「まったく、あれだけ強請っておいて忘れていくか、普通」
休みボケか?――私にお弁当箱を渡しながら、呆れたように光が言った。
「って、何? 今日はアンタが作ったの?」
「ああ。と、言っても全部作った訳じゃないが。精々唐揚げと卵焼きくらい――…」
「卵焼き!?」
アリサとすずかの言葉が重なった。何せ、光印の卵焼きは、彼女達もお気に入りだ。
「急にギラギラした目で俺を見るな。怖いから……」
何故だか慄いたように光は半歩だけ後ずさってから、軽く咳払いして見せた。
「まぁ、何だ……。少し余計に作ってあるから、一緒に食べるか?」
「いいの!?」
ぱぁっと顔を輝かせたアリサとすずかの声が重なる。
「いや、ここでダメとか言ったらお前ら食欲のスライムになりかねないし……」
何やら困ったような顔で、光が良く分からない事を言う。とはいえ、今は誰もそんな事
を気にはしなかった。
……――
青い空に、柔らかな日差し。春の匂いのする優しい風。そして、美味しいお弁当!
「幸せなの」
自分のお弁当箱と、大きめのタッパーを見つめ、思わず呟いた。
「……まぁ、色気より食い気のうちは士郎もしばらく安心か」
途端、光が呆れたように呻いた。光は時々……というか、割と良くお父さん達の事を名前で呼ぶ事がある。本人が言うには、まだ慣れていないのだとか。と、それはともかく。
「だって幸せなの!」
「いや、そんな力いっぱい断言されても……。まぁ、作った甲斐はあるが」
「まぁまぁ。なのはが食いしん坊なのは今に始まったことじゃないでしょ?」
「それは否定しないが」
アリサの言葉に、光はあっさりと頷いた。そこは否定してほしい。だって、半分は光の
ご飯が美味しいせいなのだから。と、そんな事を思っていると。
「だが、お前もまずは涎拭こうな」
「なっ!?」
にやりとして光が言う。慌ててアリサが口元に手をあてるが――
「垂れてないじゃない!」
「そうだったか?」
見間違えたようだ。白々しく光が言う。
「ああもう、ホントにアンタって奴はぁぁああああっ!」
地団駄を踏みながら、アリサが叫ぶ。この二人はいつもこんな調子だった。とはいえ、
別に仲が悪い訳ではない。今朝、光は身内にしか料理は作らないと言っていたけれど、あれはちょっとだけウソが混じっている。だって、私たちが誰かの家で遊ぶ時、光はいつも差し入れを持たせてくれるのだから。それにはもちろん、アリサの好きなお菓子も多く含まれていた。光は彼女が好きなものを、ちゃんと知っているのだ。口にはしないけれど、アリサも気付いている。
「まぁまぁ。二人とも、それくらいで。ね?」
光とアリサのじゃれ合いを仲裁するのは、すずかだった。それもいつもの事だ。
「そうだな。そろそろ食事にしよう」
光が頷き、そのままタッパーのふたを開ける。そこには、卵焼きが三列並んでいた。
「一人一列ずつだ。量は充分あるはずだから、喧嘩しないで分けてくれよ」
その言葉に、三人揃って頷く。みんなで食べればもっと美味しい事は分かっていた。
……――
幸せなひと時はすぐに通り過ぎてしまう。とはいえ、その余韻まではなくならない。
すっかり空っぽになった弁当箱とタッパーを片付けてから、私たちはのんびりと会話を
楽しんでいた。今日の話題は、将来の夢について。宿題――という訳ではないが、進級を
機に考えてみるようにと先生から言われていた。
「それで、アンタはどうするの?」
一通り話してから、最後にアリサが光へと問いかける。
「俺か? さて、どうしたものかな」
はぐらかすように光が呟く。
「やっぱり翠屋さんを継ぐの?」
続けて訊いたのは、すずかだった。
「あ、なるほど! それなら、翠屋も安泰ね」
「いや、勝手に納得されても困るんだが……」
ポンと手を打ったアリサに、光が本当に困ったように呻いた。
「じゃあ、どうするの? 他に何かやりたい事がある訳?」
「やりたい事、か……」
光は、少しだけ笑った。多分、笑ったのだろう。何かが違う気もしたけれど。
「まぁ、やらなければならない事ならあるな」
「やらなければならないこと?」
不思議な言い回しだった。ほんの少しの――大きな違い。
「ああ。大切な……大切な仲間との約束なんだ」
言って、光は自分の手を見つめた。いつも包帯で包まれた、右の手を。
「それを果たすまでは、死んでも死にきれない」
5
(やらなければならないこと、かぁ……)
良くないとは思いつつも、午後の授業はあまり頭に入らなかった。ぼんやりと、自分の
右手を見つめる。光の右手は、いつも包帯で包まれていた。それは初めて会った時から変
わらないし、私が知る限り外しているのを見た事はない。料理を作る時でさえ、外すのではなく薄いビニール手袋を使っているほどだ。理由は良く分からない。ただ、両親が言うには、酷い傷があるかららしい。それは、嘘ではないと思う。以前一度だけ、その掌に奇妙な形をした傷跡のようなものがあるのを見た事がある。
やらなければならない事がある。そう告げた時、光は多分その傷を見つめていたのだ。
けれど、何でそんなものを見つめていたのだろう。そんな疑問が浮かんだ。
光が私達の家族になる前の事を、私は良く知らない。訊いた事がない訳ではないが、そ
の時も曖昧に誤魔化されてしまった。ただ、最初の頃は右腕に触れられるのを随分と嫌
がっていたのを覚えている。いや、違うか。光自身が右腕で私達に触れる事を躊躇ってい
たのだ。今でも手をつなぐ時は、左手を使うほどに。
(命の恩人なんだよね……)
私が知る限り、最初に光の右腕に触れたのは、お母さんだった。お父さんを救ってくれ
た、大切な腕だと。お父さんにとって光は命の恩人である。それは私も知っていた。それが切っ掛けで、光は私達の家族になったのだから。
けれど、一体どうやって光がお父さんの命を救ったのかは知らない。ちょっとした裏技だよ――光はそう言っていたが。
(その裏技と右腕が、何か関係あるのかなぁ?)
それが、やらなければならないこととも。それが何なのか分からないけれど。でも、何
故だか少し不安になる。
「――は! なのはってば!」
「きゃ!?」
急に肩を揺さぶられ、小さく悲鳴を上げる。一体何が起こったのか。
「もう! さっきから呼んでるのに、ボーっとして!」
「大丈夫? ひょっとして具合悪い?」
腕を組み、アリサが私を睨んでいる。どうやら考え事に集中して、呼ばれているのに気
付かなかったらしい。アリサの隣ではすずかが少し心配そうに私を見ていた。
「ごめん! ちょっと考えごとしてて……」
「授業終わってから、一体どれだけ考え込んでるのよ!」
「え? ええ!? もうこんな時間なの?!」
アリサの言葉に時計を見て、思わず悲鳴を上げる。自分はものの数分のつもりだったの
に、気付けば一〇分以上が経ってしまっていた。
「ってあれ? 光お兄ちゃんは?」
そこでふと気付いた。アリサとすずかしかいない。いつもなら、迎えに来てくれるのだ
けれど……。
「光君は、今日は掃除当番なんだって」
「お昼に言ってたじゃない。今日は真っ直ぐ帰れって」
そう言えば、そんな事を言っていた。慌てて窓の外を見やる。とりあえず、まだ大丈夫
らしい。ホッとしながら、鞄を背負う。
「でも、今日はこんなに綺麗な夕日なのにね」
「そうね。でも、アイツが寄り道しないで真っ直ぐ帰れって言うなら、真っ直ぐ帰った方
がいいでしょ。またびしょ濡れになるのは嫌だし、今日は習い事もあるし」
私たちのクラスの掃除当番の人に謝りつつ、急いで教室を飛び出から。廊下の窓から外
を見ながら、すずかとアリサが言った。私達が外の様子を気にしている理由は、光の真っ
直ぐ帰れという一言だった。光はとても勘がいい。真っ直ぐ帰るようにと言われた日は、
急に雨が降ったりする。この前、ついそれを忘れて寄り道し、三人仲良くずぶ濡れになっ
って途方に暮れたのは――ついでに、呆れた様子の光に迎えに来てもらったのはまだ記憶
に新しい。そんな理由もあって、私達は家路を急いでいた。
もっとも、寄り道していないとは言えないかもしれないけれど。
「まぁ、いいじゃない。近道なんだから」
先頭を歩くアリサが笑った。今私達が歩いているのは、丘を通る遊歩道だった。近道と
して良く利用している――が、実際に近道なのかは良く分からない。ただ、季節によって
色々な花が咲くこの道は、私達のお気に入りだった。何度も通った、馴染みの道だった。
「……?」
馴染みの道なのに、今日は何故か違和感を覚えた。妙に胸が騒ぐ。
(あれ……? この場所、昨日夢で見たような……)
馴染んだ場所なのだから、驚く事ではない。だが、その問題なのは夢の内容だ。魔法使いと魔物の戦い。魔法使いは魔物に敗れ――そして、確かに言ったのだ。『助けて』と。
「あ、ちょっと、なのは。どこ行くのよ?」
夢に誘われる様に、森の奥へと踏み入れる。人の手が入っているお陰で、歩くのは難しくなかった。光の忠告さえ忘れ、その場所へと急ぐ。そして、見つけた。
「酷い怪我……」
一際立派な木の根元に、一匹のフェレットが血まみれで倒れていた。誰かに飼われてい
るのだろう。首輪には赤い綺麗な宝石が輝いている。その宝石が、僅かに動いていた。
「大変! 早く病院に運ばなくちゃ!」
まだ生きている。それに気付くと同時、追いついてきたアリサが叫ぶ。私がそれに頷く
頃には、すずかはすでに迷いも無く、そのフェレットを抱き上げていた。その瞬間、僅か
に開かれた緑色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめた気がした。
6
「何か嫌な予感がするな」
縁起でもない。呻きながら、夕暮れの街を進む。一見すれば、街はいつも通りだった。
だが、違う。何かが起こりつつある。何が起こっているのか、誰がそれを引き起こしたの
か。それを把握し、対処する必要がある。……妹が巻き込まれる前に。
海鳴市に何者かが侵入した。数日前からそれは把握していたし、その日から巡回を続け
ている。もっとも、その正体に見当がついたのは、昨日の夜だったが。
同業者。つまり、侵入者は魔法使いだ。いや……厳密に言えば、少し違う。俺とではな
く、『彼女』と同じだ。さて、『彼女』は自分の事を何と言ったか。
(魔導師、だったな)
もっとも、『彼女』が積極的にそれを名乗る事も無かったはずだ。かつての自分は、い
ずれその理由を思い知る事になる訳だが……その悪夢のような記憶をうんざりしながら追
い払う。あんな性質の悪い記憶を思い出すのは一度で充分だ。
何であれ、所詮は同業者だと言う事だ。それなら、遠慮は要るまい。その覚悟を決め街
を歩く――が、今日も空振りに終わりそうだ。沈みきった夕陽を見送り呻く。
「いったん帰った方がいいか。なのはに嗅ぎつけられたりすれば、本末転倒だ」
幸い、今のところ勘づいた様子はない。だが、あの娘は素直で優しい。切っ掛けさえあ
れば、こちら側に踏み込んできてしまうかも知れない。あの子には、それだけの素質がある。だからこそ、それだけは避けなければならなかった。
「も~! 光お兄ちゃん、帰ってくるの遅いよ!」
家に帰ると、待ち構えていたなのはにいきなり文句を言われた。
「いや、掃除当番だって言っただろ?」
嘘ではない。他の連中を追い払って、一人で済ませてきた。魔法を使って、だが。
「う~…。でも、不安だったんだから」
はて。一体何があったのか。問いかけると、妹はこう言った。
「あのね。帰りに怪我をしたフェレットを見つけたの」
酷い怪我をしていて、すずか達と慌てて病院に連れていったらしい。幸い、命に別状は
なかったようだ。もっとも、そうでなかったとして。例えその場に居合わせていたとして
も、なのはの前で魔法を使う気などないが。……陰でこっそり使ったかもしれないが。
途端に、相棒の馬鹿笑いが聞こえた気がした。なのはの頭を撫でつつ、周囲を見回す。
もっとも、妹が傍にいる限り、相棒が姿を見せる事などあり得ないが。
(とはいえ、ネズミ……いや、フェレットはネコ科だったか。まぁ、どちらでもいいが)
猫にもネズミにもろくな思い出がない。全く、魔物化した奴らの鬱陶しさと言ったら筆
舌に尽くしがたい。……まぁ、普通の猫なら別に嫌いではないのだが。
『で、また空ぶりか?』
夕食を準備と片付けも含めて済ませ、自室に戻るとリブロムが言った。
「ああ。なかなか手ごわい」
思わずため息をつく。本音を言えば、この一件にあまり時間をかけたくはないのだが。
とはいえ、なのはが起きている間に家を抜け出す訳にはいかない。下手に感づかれたら厄
介だ。それに、他にもやる事はある。
『こっちの探し物はどうだ?』
「どうかな。何せこっちは量が多い」
リブロムを開き、追体験を行う。とある目的のため、かつての自分の力と知識を取り戻
す必要があった。だが、問題は残された記憶の量だった。何せこっちは不死の怪物だ。あ
る意味、恩師のリブロム……ジェフリー・リブロムも似たようなものだが――彼がそう
なってからは、ずっと『奴ら』との殺し合いを続けていた。つまり、記憶の多様性と言う意味では、かつての自分が圧倒的に上回っているといえるだろう。それはそのまま『偽典リブロム』に秘められた情報量へと直結していた。全てを読み解いている暇はない。のだが――
(横着するべきではないって事か?)
肝心の必要な記憶は、一体どこに記されているのか。それを見つけるだけでも一苦労
だった。もちろん、ある程度順序立てて読みとけば知識に関しては補えるが、力となるといつどこで誰と殺し合ったかなどいちいち覚えていない。それに、
(『彼女』に関する記述は全て不鮮明だからな)
それは、仕方がない事だった。それでもなお感じる痛みを、ため息とともに吐き出す。
不完全な記憶では、完全な追体験は望めない。まずは記憶のかけらを拾い集め、記述を復元する必要がある。もっとも。
それでも、『彼女』の事を完全に思いだす事などできはしないのだが。
『オイ、相棒……』
何度目かの追体験を終えると、リブロムが言った。
『あのチビが家から抜け出したようだぞ』
「なのはが?」
聞き捨てならない言葉だった。嫌な予感が強まる。こういった時、自分の予感はまず外れない。外したければ、自ら変えるしかなかった。舌打ちをしながら、法衣――魔法使いの仕事着を引っ張り出す。
「仕方がない。探しに行くぞ」
『おう。頑張れよ』
明らかに他人事と言った様子の相棒に、思わず肩から力が抜ける。
「お前……」
『あのチビに近づくなんざお断りだぞ。絶対嫌だからな』
断固としてリブロムは拒否して見せた。深々としたため息が零れる。確かに、相棒は妹を随分と苦手にしているが、何もこんな時にまで。
「分かった。留守は任せる」
『任せろ。つーか、投げんじゃねえよバカ野郎』
だが、相棒を説得している時間が惜しい。気を取り直して……ついでに、仕返しとしてベッドの上にリブロムを放り投げてから、窓から夜の街へと飛び出す。その先に広がるのは、おそらく戦場だ。妹が巻き込まれる前に、原因を排除しなければならない。
後書き
いまさらですが、最初の1(痛みに~の部分)は主人公の過去の話となっています。
基本的にこれから先の話はそうなる予定です。
時間軸はかなり前後しますが……。
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