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喫茶店

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第一章


第一章

                   喫茶店
 その時代には何もなかった。本当に何もなかった。
 いや、なかったというのは不都合かも知れない。なくしたと言った方が正解かも知れない。
 長く続いた戦争が終わった。気が付けば日本中が焼け野原になっていた。
 第二次世界大戦、いやそれより前から、それこそ満州事変より前からの長い戦争が終わった。そして日本に残っていたものはその焼け野原と夢も希望もなくした日本人達ばかりであった。
 その何もかもをなくした廃墟の中で人々は生きようとしていた。だがその中には生きようとしない者達もいた。
「止めてくれるな」
 彼もまたその中の一人であった。北条源五郎、日本陸軍の将校であった男だ。階級は少佐である。
 陸軍士官学校を卒業し、陸軍大学にまで進んだ陸軍の有望な人材の一人であった。生真面目な堅物として知られ、東南アジアの戦線においては敵からは怖れられ、味方からは頼りにされた。そんな人物であった。
 だが現地の者達にも部下にも公平であり、規律正しかった。融通が利かず、厳しく、そして鉄拳制裁も辞さないといったよくも悪くも日本陸軍らしい軍人でありその拳は現地の者達には強烈な印象を与えた。
「日本の兵隊さんは何ておっかないんだ」
 彼等は北条を見て敵よりも恐れた。しかし彼は彼等を侮蔑したり、差別したりといったかっての植民地の宗主国の者達の様なことはしなかった。彼等をあくまで同じ人間として見ていたのだ。
 だから最後には彼は現地の者達にも慕われる存在となった。しかし転属により内地に戻った。再開を期して別れたが結局その時が来ないままに戦争は終わった。彼にとってはこの上ない恥辱であった。
「最早皇国は敗れたのだ」
 彼はこの時自宅にいた。妻子と一緒にいる自宅である。
「それでどうして生き恥を晒しておられろうか」
 妻の千賀子の制止を振り切って自害しようとしていたのだ。
「ですがあなた」
 モンペ姿の品のある女性であった。歳は北条よりも数歳程下であろうか。如何にも軍人といった感じで口髭を揃え、厳しい顔立ちの北条とは正反対に穏やかで、それでいて美しい顔をしていた。
「まだ文子も小さいですし」
「気持ちはわかる」
 二人は暗い部屋の中で話をしていた。北条の手には刀がある。それで腹を切ろうというのだ。
「しかし」
「御国が負けたから。殉されるというのですね」
「それ以外に何がある」
 彼は妻に問うた。
「我が国は敗れたのだ」
 声が泣いていた。彼にとってはこの上なく悲しいことであった。
「八紘一宇も何もかも。最早果たせなくなったのだ」
 日本の掲げた理想が潰えた。それがどうして耐えられようか、そう言っているのである。
「それでも」
「文子の為か?」
「それもあります」
 千賀子はそれを否定しなかった。
「それに」
「それに。何だ?」
 最後に妻の言葉を聞いてみる気になった。彼女に顔を向けた。
「一度敗れても。御身さえあれば」
「また。戦えるというのだな」
「はい」
 妻はそう答えたうえでこくりと頷いた。
「ですから。今は」
「生き恥を晒せというのだな、わしに」
「そう取られるのなら構いませんが」
 千賀子の言葉は何時になく沈痛なものであった。
「ここは。文子の為にも」
「・・・・・・それも天命か」 
 北条は観念したように呟いた。
「生き恥を晒すのも。だがきっと汚名を晴らす時が来るな」
「はい」
 妻は言った。
「その時を。お待ち下さい」
「わかった」
 彼は遂に刃を収めた。
「では今は。思い止まろう」
「有り難うございます」
「しかしだ」
 だがそれで話は終わりではなかった。彼は妻に対して言った。
「おそらく軍は解体される」
「はい」
 これはもうわかっていた。少佐という階級にある彼にはそれなりの情報が耳に入ってきていたのだ。
「わしは今後公の職にはつけんだろう。ではどうするのだ?」
「それでしたら私に考えがあります」
「何だ?」
「喫茶店です」
 彼女は言った。
「喫茶店か」
「それでどうでしょうか」
「千賀子」
 彼はあらためて妻の名を呼んだ。
「御前の好きにするがいい」
「宜しいのですか?」
「宜しいも何も今わしの命は御前に預けたも同然だ。ならばそれに従うのが道理だ」
 彼は腕を組んでこう述べた。今切腹を思い止まらされたのだからそれに従うことにしたのである。彼もまたその覚悟はしていたのだ。
「ならば。御前がすることに反対はせぬ」
「はい」
 千賀子はそれを受けて恭しく頭を垂れた。
「しかしだ」
 だがここで一言付け加えた。
「わしのことはいいが文子を悲しませることだけはするなよ」
「わかりました」
 こうして千賀子は喫茶店を開くことになった。喫茶店といっても店はなく、闇市に大きな木箱を置き、その上に所々がへこんだやかんに水を入れ、田舎や進駐軍の裏手を回って何とか調達してきた蜜柑とコーヒー、そして精々金平糖を置いているだけのものであった。あまりにも粗末な喫茶店であった。
「これで上手くいくのかな」
 北条は開店した時せっせと用意する千賀子と文子を見て心の中で呟いた。彼も喫茶店のことは知っている。戦争になるまで帝都にあった多くの店とは比べるのもおこがましい、あまりにも粗末な店であった。
 だがそれでも千賀子と文子は真面目に動いていた。自分よりも妻によく似た可愛らしい娘もまた元気に働いているのであった。

 
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