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能面

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第七章


第七章

「それはもう」
「そのせいですね」
「やはり。稽古は大事です」
 生真面目な受け答えだった。
「ですから。やはり」
「手を抜かずに」
「そうです」
 能面に顔を近付けてまじまじと見ている。細部まで細かくチェックしている。
「それもまた」
「わかりました。それではですね」
「今度は」
「あの、いえ」
 言おうとしたが止めたのだった。評論家は内心己の迂闊さに舌打ちした。聞いてはならないことを思わず聞こうとしてしまっていたからだ。だがそれはすんでのところで止めたのだった。
「何でもありません」
「そうですか」
「申し訳ないです。忘れて下さい」
「わかりました」
 これで話はなかったことになった。彼等の関係が親しいものだったからこそ事なきを得た場面だった。評論家は話を一旦打ち消したうえで仕切りなおしてきた。今度は丁寧に言葉を選びながら言うのであった。
「それでですね。今度の舞台は初演ですよね」
「はい、私にとっては」
「お父上は何度か上演されていますが」
「初演だからといって臆してはいません」
 静かに答える市五郎だった。
「だからといって」
「臆してはいませんか」
「緊張してはいます」
「緊張はですか」
「はい、それでもです」
 また言うのである。
「あります。ですがだからこそ」
「演じられるのですね」
「緊張だけではありません。全てを超えてこそ」
 市五郎の言葉が研ぎ澄まされていた。まるで剣の刃のように。白銀で澄み通っていた。その鋭さだった。
「そこに私の目指すものがありますから」
「わかりました。それでは」
「はい、私はやります」
 毅然とした言葉になっていた。
「それを。今宵は御覧になって下さい」
「御期待しています」
 言葉はこれだけだったがそこには多くの意味があった。話を終えた二人の中にはそこまでの深いものが残っていた。言葉はなくとも。それはしっかりとあるのだった。
 そしてここで。白峰が市五郎に声をかけてきた。彼は既に翁の面を着けていた。
「時間だぞ」
「わかりました」
「面はそれでいいな」
「はい」
 迷いのない言葉だった。今まさにはじめようという。そうした言葉だった。
「これで。それでは」
「うむ。行くぞ」
 市五郎もその女の面を被った。そのうえで今立ち上がる。評論家はそんな彼等を静かに見送るだけだった。だがその身送る姿勢には崇めるようなものがあった。
「頑張って下さい、悲しみを超えて」
 一人呟き彼等を見送るのだった。そこには彼の万感の思いもあった。
 二人が舞台に出る。観客席からはそれだけで拍手が起こる。二人はその拍手を受けつつ舞いをはじめる。鼓の音が舞台に響く。それに合わせて舞うのであった。
 その中で市五郎はふと観客席に目をやった。満席のその中で一つだけ空いている席がある。そこに目をやり一人呟くのであった。
(そこで見ていてくれ)
 こう。笑っている面の下から白銀のものが一条流れ落ちた。しかしそれに気付く者は誰もいなかった。
 後にこの日の舞台は市五郎にとっても白峰にとっても一代の名舞台と謳われた。この日から白峰は生ける伝説とまで呼ばれるようになり市五郎も能の第一人者として知られるようになった。しかしそこには一つの拭うことのできない悲しみがあった。だがそれは決して誰にも見せることはなく誰にも語ることはなかった。ただ能面の下にそれはあり決して見せはしない。それだけのことだったのだ。誰にも言わず。


能面   完


                 2008・11・16
 
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