相棒は妹
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志乃「兄貴は私の引き立て役」
二時間程カラオケで歌って(俺だけだが)、俺達は帰路に着く事にした。元々家出たのが午後だったしな。あまり遅いとコスプレ作りをしている母親に怒られちまう。……しかも、志乃がいるしな。
母はアニメ好きで、コスプレ作りを趣味にしている。ガヤガヤ動画っていうネット動画サイトのイベントとか、俺も愛読してる文庫のイベントとか、コミット(コミック・ザ・マーケットの略)とかで友達に服着させている。
器用なもんだからけっこう人気高いんだっけか。この間無理矢理志乃が着させられていたなー。
つか、その志乃がずっと黙り込んでいるんだけど、俺なんかしたか?俺はお前に言われた通りひたすら歌いまくったわけだけど。もしかして、俺下手なのか?それで呆れちまったとか?
「兄貴、キモいからジロジロ見るな」
「うおっ」
俺とした事が、いつの間にか妹をガン見していた。つい答えが知りたくて。だって、今まで下手なんて言われた事無かったし。こいつに言われたら俺はもう立ち直れない気がする。
「兄貴」
「お、おう。どうした?」
突然志乃が声を掛けてきた。こいつの声を聞くのが久しく感じられる。
家までもう少しだ。三本電柱を通り過ぎた先の曲がり角を曲がりさえすれば、家はすぐそばだ。
急に俺の中に焦りが生まれ始める。何で俺こんなに緊張してんだ?別に異世界に入ったわけでも事故が起きたわけでも無いのに。
そこで俺は気付いた。原因が身近にあるって事に。
そうだ、俺は志乃の返答を聞くのが怖いんだ。俺が剣道の次に力を注いだと言えるカラオケを否定されないか、って。もし俺が下手だって言われたら、本当に立ち直れないかもしれない。
俺は弱い。心がガラスだと言っても過言では無い。俺は本当にガラスのハートの持ち主なんだから。
剣道を辞めた事に、後悔は無かった。けれど、どこかずれていた。何かが俺の中で砕けたんだ。
だから、どうでも良くなった。俺が怪我を負おうが熱を出そうが死のうが、自分の生きる目的など無くなったのだから。
だから、俺は嬉しかったんだ。志乃に声を掛けてもらえて。カラオケに誘ってもらえて。
久しぶりに歌った。最初は声が通らずに苦戦したけど、やっぱり俺の声だった。俺は中学三年間で練習した成果を濁していなかったんだ。
だからこそ、ここで志乃に否定されたりすれば、今度こそ俺はどうでも良くなる。
「……はぁ、情けねえ」
「……兄貴?」
「志乃、俺はもう挫けたりしない。たかが遊びだ。そう、遊びなんだ」
思えばそうだ。カラオケって言うのは娯楽の一つだ。別にバカにされたって批判されたって問題無い。所詮遊びなんだから……。
と、その時俺は左頬に痛みを感じた。口内が痛いのでは無い、外側がヒリヒリするのである。
思わず閉じた目を開けると、そこには思いがけない光景があった。
妹が兄を平手打ちするという、滑稽な絵が夕時の路地に浮かび上がっていた。
「情けないのは今の兄貴だよ」
静かに、それでいて意思の通った声が俺の鼓膜を振動させる。こいつ、もしかして怒ってる……?
その声には怒気が含まれていた。同時に、落胆の色が滲んでいた事も俺は微かに感じ取った。
「今の兄貴はもう挫けてるじゃん。もう諦めてるじゃん」
いつもは仏頂面オンリーの志乃が、感情を露わにしている。家族に対してもそこまで喜怒哀楽を示さない妹が、俺に対して感情を爆発させている。これは夢か?
けれど、頬に感じる痛みが俺を夢へと誘う事を許さない。これは現実なのだ。
「そんなんじゃ、いつまで経っても兄貴は『どうでも良い』を繰り返すよ」
まるで予言するかのように、志乃は言葉を紡ぐ。ばっと上げた顔には、涙を溜めた怒りの表情が湛えられていた。
そんな妹に、俺は怯んだ。今の言葉にカチンと来て、怒鳴ろうとしたのだが、妹の顔を見た途端、そんな感情は引っ込んだ。今のは八つ当たりになり兼ねないと、そこで考えを改めた。
こいつが本気で俺に怒っている。それはこれまでの短い生涯で初めての事だった。だから俺もどうすれば良いか分からなかった。
「……悪い。俺、やっぱ変なんだわ」
ひとまず詫びる。何に対してだか、よく分かっていなかったけど。
「兄貴は、今何がしたいの?」
すると、志乃はいきなり話題を変えてきた。身体を俺に背けるように翻し、こちらからでは後ろ姿以外見えなくなる。
「本当はカラオケが遊びじゃないって思ってるくせに、嘘吐いたりして。本当はどうしたいの?」
こいつ、分かってたのか。やっぱこいつにはエスパーの力があるらしい。
そこで、俺の中に自然と笑いが込み上げてきた。それがついに表にまで現れて俺は笑ってしまう。
「ちょっと、何笑ってんの?私は本気で怒ってるんだけど」
後ろ姿で言われても怖くは無いのだが、本気なのは伝わるので素直に答える。
「ごめん、でもさ。俺が今やりたい事って言うと……」
一拍置いて俺は志乃に話す。今俺がやりたい事を。ゆっくりと噛まずに、こいつの耳に確実に入るように。
「……歌う事なんだ。バカだよな。俺はカラオケで満足するだけの素人なのに。剣道を捨ててまでやりたい事が、結局カラオケなんだぜ?
俺は遊びじゃないって思ってるけど、それは俺の価値観だ。他の奴らとは違う。カラオケは本来皆で楽しむための場所だ。歌専門は養成所とかにでも行けって話だよな」
これは本音だった。俺は歌いたい。それが今やりたい事だった。けれど、俺はカラオケで満足している。全国採点で高得点と高順位を出して満足している。バカな話だ。歌って食うならもっと本格的な場所でやらなければならないのに。
「それは、今までが厳しかったからそう思うだけだよ」
俺が自虐的に笑っていると、志乃がこちらを向いてそんな事を言い出した。その目はわずかに赤くなっている。まるで、満月に浮かぶウサギのようだった。
「兄貴はこれまで剣道を通して厳しい生活を送っていた。だから、極端になっちゃってんの。何もかも本気で構えようとしてんの」
「そんなの、当たり前だろ。中途半端は一番良くない」
「だって兄貴、『どうでも良い』ってそういう意味でしょ?」
そこで俺はハッとする。俺は、こいつに言われるまで気が付かなかった。そうだ、どうでも良いって言うのは全てを放棄するという事。つまり、全てを途中で終わらせるという事なのだ。
「俺は兄貴失格だな」
「兄貴失格なのは昔からだから大丈夫。それより」
……そこはフォローしてくれないんだ。まぁ、素直に褒められても恥ずかしいだけなんだけど。
「兄貴は今、歌うたいんだよね。それは確かなんだよね」
「……おう。俺は歌いたい。それは本当で、偽り無い答えだ」
俺は歌いたい。でも養成所に通う事は金銭的な話で難しい。カラオケなら抑えられる。他にやりたい事はあるか。否。あったとしてもそれは熱中するような事では無い。
自問自答を繰り返して、俺はそう言った。剣道の次に俺が努力と言える事をしたもの。剣道の道を外れた今、それ以外にやるべき事は無かった。
それを志乃に伝えると、こいつは顔を俯け、やがて決心したように俺の顔を見据えた。
「ど、どうした?」
「……役」
「ん?声小さくて聞こえない」
「引き立て役」
「……は?」
「兄貴は私のピアノの引き立て役。ひたすら歌って」
こいつはよく突拍子もない事を言い出すが、これは理解が追い着かなかった。
だが、俺は良い意味の中途半端で、考える事を放棄してしまう。
だって、いつもは不機嫌そうな妹が、可愛らしい笑みを少し浮かべていたんだから。こりゃ仕方無いだろ。
乗りに乗って、俺は聞いてみる。
「ちなみにさ、志乃」
「何、兄貴」
「その、俺の歌上手かった?」
「上手かった」
……妹が変だ。俺をこんな素直に褒めるだなんて……。
後書き
妹の真摯さを現実で味わう事はおそらく出来ないです(独り言)。
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