嘆き
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
第一章
第一章
嘆き
人というものは実にわからない。急に変わることがままにしてある。
どうしようもない人間がある時急に聖人君子になる。これはきっかけによってなるものだ。悪が善になるのはひとえにきっかけからである。何事もきっかけからなのだ。
そしてこれは逆のことについても言える。善から悪になるのも、それもまたきっかけによってである。これはある人物が妄執により変わり果てた話である。
江戸時代初期の頃らしい。ある寺に一人の僧侶がいた。名前を法善という。彼のいる信濃においては有名な高僧だった。学識も人徳も持った非常に素晴らしい人物であった。
彼は年老いるまでその徳を積み続け多くの者達の尊敬を得ていた。彼を慕う弟子達も多く僧侶として非常に幸福であると言えた。その中でも一人の弟子をとりわけ愛していた。
彼の名を法宝という。若いが非常に聡明で人格も優れ法善の自慢の弟子であった。法善は彼をとりわけ愛し己の全てを授けようとしていた。しかしであった。
信濃を流行り病が襲った。それは法宝も襲い彼は病に伏すようになった。法善は何とか彼を救おうと医師を呼び何としても彼を救おうとした。しかしそれは適わなかった。
法宝はあえなくこの世を去った。まだ三十にも達していなかった。彼の死を前にして法善の悲しみはこの上ないものであった。葬儀の際もその後も嘆くことしきりであった。
「僧正様」
弟子達は見るに見かねて彼に対して声をかける。その間も彼は嘆くことしきりだった。
「法宝殿は亡くなられたのです」
「嘆かわしいことですがそれでも」
「これが嘆かずにいられるか」
法善は嘆きを抑えることなく彼等に対して言う。その嘆きで顔は変わり果てていた。痩せこけ荒れていた。それまでの穏やかな顔立ちは消えてしまっていた。
「法宝だぞ」
「はい」
「わしの教えを伝える者がいなくなったのだ」
彼の嘆きはそれが原因だった。
「あれ以上の学識と人徳を持っている者はいなかったというのにだ。これが嘆かずにいられるか」
これが彼の言葉だった。そしてそれから彼は誰に会うこともなく嘆き続けた。その嘆きは信濃はおろか天下にも伝わることとなった。
「信濃のことだが」
「はい」
話は江戸の、将軍の側近にも伝わった。今その話を聞いているのは松平伊豆守信綱であった。知恵伊豆と呼ばれている幕府きっての切れ者だ。彼が側近から話を聞いていたのだ。
「どうやら法善僧正殿は変わり果てられたらしいな」
「そのようです」
その側近は信綱に対して述べる。彼はそれを聞いて如何にも鋭そうな知的そのものの顔を曇らせた。そこには無念さと残念さもあった。
「残念なことに」
「弟子を失った嘆きは抑えられなかったか」
「あの様な方でも」
側近は述べる。
「それは無理だったようです」
「特のある僧侶であっても人は人」
今度彼が言ったのはこれであった。
「それを考えればこれも当然か」
「当然ですか」
「人は所詮思いから離れられん」
こうも言う。
「法善殿であってもな」
「弟子を失った悲しみから逃れられませんか」
「そうだ。問題はだ」
ここでまた言う信綱だった。
「これだけではないのだ」
「これだけではないというと」
「そうだ。最早法善殿はあれだな」
信綱はまた言葉を出す。
「御命も短いのだろう」
「元々高齢の方でありましたし」
側近はそれに応えてまた述べる。
「やはり。御身体が弱っておられて」
「嘆きをどうしても抑えられずだな」
「その通りです」
側近はこのことも信綱に述べるのだった。
「嘆きに嘆かれ。飯も喉を通らず」
「左様か」
「御命が尽きるのも時間の問題です」
「いかんな」
ここまで聞いて信綱は。心を押し殺したようにして言ったのだった。
ページ上へ戻る