三年目の花
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12部分:第十二章
第十二章
「けれど動いたのは事実や」
「はあ」
コーチの声はやはり力なかった。
「動くのはある時急に動くんやないで。前もって何かしらの力があって動くんや」
物理の基本的な話をした。野村は話が上手い。選手達に対してもよくまず人生論等から入り話をした。頭の回転の速さだけでなく長年培ってきた経験もそこに深みを入れていた。
「これもや。そしてな」
彼は言葉を続けた。
「一旦動いたもんを止めるのはそうそう簡単やないんや」
「そんなものでしょうか」
「そんなもんや。まあ見とくんやな」
打席に荒井が入った。彼はプロとしては決して大きくはない身体であるがアマ時代には全日本で四番を打ったこともある。打撃には確かなものがある。
「もしここで打ったら」
荒井はふと考えた。
「サヨナラか」
野球をはじめてからサヨナラの経験はなかった。もし打ったらと思うだけで手が震える。
「打てるかな」
逆に怖くなった。だがマウンドの中西にそれは気付かれなかった。
投げた。荒井はバットを出した。
だがそれはファウルに終わった。中西はまずはストライクを稼いだ。
「ファウルか」
荒井は打球を見て呟いた。だが弱ってはいなかった。
「振れたな」
それだけで充分であった。
最初は振れるかどうか不安であった。しかし初球から振れたことで気持ちが楽になった。
「いけるな」
彼はバットを見て頷いた。そして落ち着いて構えをとりなおした。
「来い!」
そして中西を見る。マウンドにいる彼も抑える自身があった。
「左やがわしにはそうそう勝てへんぞ」
彼も優勝の時のストッパーである。甲子園で気迫の投球を見せている。その自負があった。
投げた。渾身の力を込めた。だが荒井のバットはそれに対して不自然な程に自然に出た。
「いける!」
流した。打球は三遊間をライナーで抜けた。
「やったぞ!」
三塁ランナーが笑顔で走り抜ける。これで激戦に決着が着いた。
「勝った、勝ったんだ!」
「連勝だ!」
ヤクルトナインが一斉にベンチから出て来た。そして一塁ベースにいる荒井を囲んだ。
「え!?」
彼はまだ何が起こったのかよくわかっていなかった。そんな彼をナインがもみくちゃにした。
「荒井さん、よくやってくれました!」
「あんなところで・・・・・・本当にな!」
彼はナインの言葉を聞いてようやく事態を飲み込めてきた。そんな彼の前に一人の男が立っていた。
「荒井」
それは野村であった。
「監督」
だが野村は何も言わなかった。急に両手を大きく広げた。
「!?」
荒井は何をするのかと思った。野村はそれより早く彼を抱き締めた。
「よおやった!」
彼もまた泣いていた。そうした感情を表に出さないタイプの彼までもが泣いていた。
「凄い試合やった、これだけ必死になって野球をやったのははじめてやろ」
野村はナインに対して言っていた。
「は、はい」
その通りであった。彼等は誰もが生まれてはじめてこれだけ必死に野球をした試合はなかった。高校の時よりも必死に野球をした。
「わしもこんな試合は滅多に見たことあらへん。そう、わしでもな」
野村は今まで多くの死闘を経験してきた。杉浦忠の血染めのボールを受けたこともある。西鉄との死闘もあった。怪童と呼ばれた尾崎行雄と真っ向から勝負したこともある。頭から血を流しながらもホームランを打ったこともある。西本との戦い、阪急との優勝争い、鈴木啓示や山田久志といった名だたるピッチャーとも戦ってきた。思えばその野球人生のぶんだけ多くの死闘を経験してきた。その彼が言ったのである。
「そやからようやった、ホンマにようやった・・・・・・」
泣いていた。彼は明らかに泣いていた。
それがヤクルトの運命を決定付けた。この勝利によりヤクルトは単独首位に躍り出た。そして阪神戦に勝ち越しも決めた。流れは完全にヤクルトのものとなった。
「まだや!」
だが諦めていない者達がいた。
「戦いはまだ終わってへんぞ!巻き返してこっちが優勝するんや!」
阪神ナインとファン達であった。彼等は敗れこそしたがまだ闘志を燃やしていた。
憤怒の形相で歓喜に包まれるヤクルトベンチを見ていた。誰もがその全身に炎を宿らせていた。
「行くで」
高齢の縞の半被を着た男が周りの者に対して言った。
「ああ」
彼等もそれに頷いた。そして神宮を後にする。
「名古屋や。そしてそっから反撃開始や。このままズルズルと負けてたまるか」
ベンチを後にし廊下を歩く中村がコーチ達に対して言った。
「はい」
いつもの落ち着いた様子はあまりなかった。声にはいささか激しさが宿っていた。
だがその背には暗いものがあった。しかし誰もそれには気付いていなかった。当の中村さえも。
九日の神宮でのヤクルト対広島はヤクルトの勝利に終わった。それに対して阪神は名古屋で中日に敗れた。
「終わったか・・・・・・!?」
「いや、まだや」
それでも彼等は諦めてはいなかった。
「甲子園で最後の戦いや、そこで連勝や」
「連勝か」
「そうや、そうしたらプレーオフや。そこまでヤクルトを引きずり込むんや」
三塁側は負けてもなお熱気に包まれていた。彼等とて優勝を見たかった。
それはナインとて同じだ。いや、彼等こそその思いが最も強かった。
「勝つで」
中村は一言だけであった。そして甲子園への帰路についた。
阪神ファンは無言で頷き彼に従う。そして最後の戦場に向かうのであった。
「阪神が負けたか」
野村はそれをベンチのラジオで聞いていた。
「負けましたか」
コーチの一人がそれを聞いて野村に話しかけた。
「ああ。これでニゲームや」
二ゲーム差。残り二試合。この時点でこれは確定的であった。だが。
「直接対決か、残りは」
「そうでしたね」
そうであった。阪神の最後の戦いの相手は他ならぬヤクルト自身であったのだ。
十日に両軍は甲子園に集結した。阪神ファンも甲子園を埋めた。
「連勝や!」
「そや、それでプレーオフにまで誘い込むんや!」
ファンも必死であった。阪神ナインにとっては常にいる有り難い援軍であった。
だがヤクルトは流れを完全に掴んでいた。彼等はもう負ける気がしなかった。
「気持ち良く投げて来い」
野村はこの日の先発に対して言った。
「わかりました」
それは荒木だった。彼は力強い顔で頷いた。
「この甲子園は御前の遊び場みたいなもんや。思う存分遊んで来い」
かって彼が甲子園を湧かせた事をあえて言った。彼の気持ちを乗せる為だ。
「はい」
彼は頷いた。そしてマウンドに向かった。
この日の荒木は完全に復活していた。阪神ファンの必死の応援も空しく阪神は彼に為す術もなく抑えられていく。それに対してヤクルト打線は好調であった。ハウエル、広沢がアーチを放つ。試合はヤクルトのものとなっていった。
抑えには伊東を投入する。彼も阪神打線を寄せ付けない。
九回裏遂に試合は終わった。
「やったぞ!」
伊東は思わず甲子園のマウンドで飛び上がった。
「やりました!」
古田もそれに飛びつく。そしてそこにヤクルトナインが集まる。
やがて野村の胴上げがはじまった。そしてヤクルトナインと駆けつけてきていたファンの喜びの声が木霊する。
「やった、やったぞ!」
「俺達は勝ったんだ!」
それを阪神ファンとナインは黙って見詰めていた。
「・・・・・・仕方あらへんな」
「これも野球や」
彼等はそう言って去って行った。彼等は確かに悔しかった。だが相手が球界の癌巨人でないだけ気が楽だったのだ。
ヤクルトは絶体絶命の窮地から遂に優勝を果した。野村の知略だけではなかった。そこにはナイン全体のひたむきな野球があった。
今我が国の野球は巨人とそれを支配する悪辣な男の手により瀕死の床にある。だがそれでも素晴らしいゲームは続く。そしてそれは永遠に語り継いでいかなくてはならない。守っていかなくてはならないのだ。
三年目の花 完
2004・9・29
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