死んだふり
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第八章
第八章
「延長戦にもっていくつもりか!?」
西本はそれを見て言った。
「ノム、残念やがそれはさせんで」
そしてベンチにいる一人の男を見た。
高井保弘であった。代打ホームラン記録を持つ代打の切り札だ。阪急にはまだこういう切り札があった。
この裏、その切り札を投入するつもりであった。西本が最後の最後まで温存していた最強のカードである。
そう考えている間に佐藤は三振に終わった。あと一人だ。おそらくこの裏には阪急は一気に攻勢に出る。そうなれば如何に今日の佐藤の調子がよくとも危うかった。ましてや球威が落ちる頃である。
「よし」
次の打席は島野育夫である。足は速いが非力である。
ここで野村は動いた。代打を告げたのである。
「代打、スミス」
助っ人の左打者スミスである。何とここでの代打だ。
「おい野村、御前今さっき寝とったやろ!」
「さっきの佐藤のところで代打出さんかい!」
南海側ベンチから野次が飛ぶ。だが野村はそれを平然と聞き流していた。
「監督、いいんですか?」
コーチの一人が曇った顔で尋ねてきた。
「ええんや」
しかし野村は落ち着いた声でそれに答えた。
「あいつには山田のことはよおく言ってあるさかいな」
そう言ってニヤリ、と笑った。
「まさかここで代打を出してくるとは思いませんでしたね」
阪急のベンチではコーチの一人が西本に対してそう言っていた。
「そうやな。といいたいが島野はあまり力がないからな。一発を狙ってスミスを出してきたんやろ」
西本は相変わらず腕を組んだままでそう言った。
「一発ですか」
コーチはそれを聞いて少し眉を顰めた。
「まさかとは思いますが」
スミスは左の長距離打者である。山田に対しては有利な男だ。
「大丈夫や」
だが西本はそんな彼に対して言った。
「あいつやったら抑えられる。今のあいつやったらな」
そう言ってマウンドの山田を見た。
山田は確かに怖ろしいピッチャーである。その頭脳の冴えもいい。
だがそこに弱点があった。その冴えを野村に警戒されていたのだ。
野村のノート、そこに書かれていたのは山田のデータであった。彼は野村に細部まで見られていたのだ。
何時どういう時に何を投げてくるか、そこまで細かく書かれていた。当然そこには対右、対左、長距離打者、アベレージヒッター、そうしたことまで書いていたのだ。
「で、スミスは左の長距離や」
野村はスミスを見ながら呟いていた。
「しかも今はランナーはおらん。そういう時に投げるパターンももうわかっとる」
恐るべき情報収集及び分析能力であった。山田は知らないうちに野村にそこまで調べられていたのだ。
実は野村はスミスを代打に送る時に彼に対して耳元で告げていた。何時、何がどのコースへくるかも。そしてそのボールをどうするかも言っていた。
「思いっきりスタンドに叩き込んだれ」
「オーケー、ボス」
スミスはニヤリと笑って打席に向かっていた。西本と山田はそれには気付いていなかった。
「まあこっちもそれは隠しとったがな」
野村は山田とスミスを見ながら呟いている。
「わしは意地が悪いよってなあ。手の内は全部見せへんのや」
彼はほくそ笑んでいた。
「とっておきの時までな。そしてそれが今や」
山田が大きく振り被った。そして投げた。スミスは全身に力を込めた。そしてボールにバットを合わせる。
スミスは振り抜いた。打球は一直線に飛んでいく。
「まさか!」
山田は打球の方へ顔を咄嗟に向けた。それは恐るべき速さで飛んでいた。
打球はスタンドに突き刺さった。まさかのソロアーチであった。
スミスは満面に笑みを浮かべてダイアモンドを回る。山田はそれを歯軋りしながら見ていた。
「あれを打つか・・・・・・」
絶対の自信があるボールだった。まさかホームランにされるとは夢にも思わなかった。
スミスはホームを踏んだ。南海に待望の一点が入った。
だがまだ一点だった。阪急の打線なら九回でもどうということはない。山田を気をとりなおすことにして次のバッターである広瀬叔功が入った。
小柄な男である。どちらかというと非力でアベレージヒッターと言える右打者であった。武器はその足である。
「山田はバッターによって攻め方を変える」
野村は山田から目を離さなかった。
「さっきのスミスにしたってそうや。打席に誰がいるか、ランナーがおるかおらんか、そして何処におるかで全部変えてくる。ホンマに大したやつや」
そう言いながらも山田から目を離さない。
「そう、こういう時に広瀬みたいなのに対する投げ方も」
山田は振り被る。そして身体を沈めた。
「わしは全部知っとるんや」
ニンマリと笑いながら言った。その瞬間広瀬のバットが一閃した。
「またか!」
西本はその打球を見て思わず声をあげた。打球はその時には既にスタンドに叩き込まれていた。
「まさかこんな時に・・・・・・」
阪急ナイン、ベンチだけでなくファンも皆呆然としていた。こんな時に思いもよらぬバッターからホームランが飛び出るとは。
広瀬も満面の笑みでダイアモンドを回る。三塁ベースを回ったところで南海ナインが一斉に出て来て彼を出迎える。
「よおやった」
まず野村が言葉をかけた。既にプロテクターを着けている。
「有り難うございます」
広瀬は笑顔でそれに応えた。そしてそこにナイン達が駆け寄る。
「広瀬さん、お見事!」
彼等もまた笑っていた。このアーチが勝敗を決するものであると誰もがわかっていたのだ。
広瀬は彼等の歓喜の中ベースを踏んだ。これで二点目が入った。
「まさかこんな時に二発も・・・・・・」
マウンドにいる山田は愕然としていた。打たれるとは夢にも思わなかったのだ。
「配球を読まれとったな」
西本はうなだれる山田を見て言った。
「ノムの奴、それも調べとったわ」
西本はその口をへの字にしていた。
「まさか山田の配球まで調べとるとはな、それもわしの考え付かんとこまで」
彼は野村のそうしたデータ収集能力をよく知っていた。そして警戒していた。だが野村はそれ以上のことをしてみせたのであった。
「やってくれよるわ。わしの負けや」
彼は苦渋に満ちた顔でそう言った。
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