季節の変わり目
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対面
前書き
今日は大晦日だ。病室に入るとヒカルはいなかった。カーテンと窓は開け放され、冬の昼の光が部屋を照らしていた。
「ヒカル・・・?」
私は窓から入ってくる冷たい風に吹かれた。何か心配になってきて来た道を戻ってナースセンターでヒカルがどこにいるかを聞いた。看護師の一人が「さっきご両親と一緒に庭に行きましたよ」と教えてくれて、安心してため息をついた。私は重い足でエレベーターへ移動し、1階のボタンを押した。
庭は1号館と2号館の間にあり、大体体育館2個分くらいの大きさだ。5メートルほどの木が数本あり、さすがに冬なので色とりどりの花畑、とは言わないがたくさんの植物が植えられていた。中央へと続く小道が何本かあり、病衣を着たヒカルはその中の一本を一人で歩いていた。ご両親と一緒だと聞いていたけれど。私はヒカルの元へと早歩きで近づいていった。ヒカルの後ろまで来て何と声をかけようか迷っていると、ちょうど彼が振り返った。ヒカルは目を大きくして驚いた。私もそんな彼に少し怖気づいてしまって、一歩退いた。
「こ、こんにちは」
会釈程度に頭を下げて、ぎこちない笑顔でそう言うと、一応ヒカルも挨拶を返してくれた。
「藤原佐為です」
「藤原、佐為・・・」
「はい、珍しい名前ですよね」
ヒカルは何か考え事をしているようだった。口元に手を当てて、何とも言えない表情をしている。
「どうしましたか」
「いえ、何でも・・・」
ヒカルは少し迷って、「昨日は来てくれてありがとうございます」と私にお礼をした。完全に私を受け入れようとはしていない。でも、こんなことでへこたれてはいけない。私は会話を続けた。
「私のこと、思い出せませんよね」
「ごめんなさい」
ヒカルは申し訳なさそうな顔をして私から視線を逸らした。別にまた傷ついたりはしなかった。
「きっと思い出せます・・・」
私はヒカルの揺らぐ瞳を捉えた。私は決心したのだ。私がヒカルの記憶を戻してみせると。ヒカルは動揺したようで体を震わせたが、少し置いて、私はしゃべり始めた。
「・・・私、ヒカルに囲碁を教わっていたんです」
「え?」
「去年の夏にネット碁を始めて、それからヒカルと知り合ったんです。和谷の紹介で」
ヒカルは思い出そうとしているようだったが、結局無理だったようだ。しかし、私のことが少し分かって警戒が解けたようだった。
「和谷の、友達・・・」
「はい。和谷ともネット碁で知り合ったんですよ」
「そういえば、あいつ院生の頃からやってたな」
ヒカルは感慨深げにそう言って、薄い笑みを浮かべた。それが何故かとても悲しそうに見えて、私は胸が痛んだ。
「和谷とネット碁ではなく、本当に会ってみよう、という話になって。待ち合わせの喫茶店に行ったら、和谷と一緒にヒカルもそこに座っていました」
「何で俺が・・・」
「一対一で会うのは少し抵抗があったようです」
ヒカルにこうやって話すのは変な気分だ。でも同時に、とても懐かしくて自然と笑顔になった。射し込
む太陽の光が植物を照らして、それも私を生き生きとさせた。そんな場合ではないのに。今思い返せば、ヒカルと出会った時、何故ヒカルが私を佐為と呼んだのだろう。和谷はhujiwaraというユーザー名しか分かっていないはずだった。私の空耳?でも、今でも耳に残っている。
「それ以来頻繁にヒカルに指導してもらいました。あと、ヒカルと知り合ってから、塔矢さんや伊角さん達とも交流し始めたんですよ」
「塔矢、とも・・・?」
「はい。それから、塔矢先生とも」
ヒカルは珍しそうに私を見た。私に興味が出てきたようで、質問してきた。
「藤原さんは、そんなに強いの?塔矢先生とも、親しかったの?」
それに私は言いよどんだ。私の強さ・・・。今、それについて考えだしたら止まらなくなる。私はぶん
ぶん首を振って考えを吹き飛ばそうとした。
「自分ではよく分かりません。塔矢先生とは、ネット碁で一回対局してから実際に何回か打ちました」
「塔矢先生、ネット碁やってたっけ・・・」
ヒカルは首を傾げた。一点を見つめて、何か変な様子だ。
「俺が、やらせたんだ」
「ヒカル?」
私がヒカルの顔を覗き込むと、ヒカルはハッとして私と目が合った。あまり顔色が良くなかった。彼は私に背を向けた。そして中庭を抜けて、病棟へ早歩きで、私を残して去っていった。
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