樹界の王
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1話 ハガキノキ
初めに感じたのは、匂いだった。
深い森の香り。
目を開けると、風に揺れる青い葉々が見えた。
ゆっくりと立ち上がる。頭が重い。どれくらい眠っていたのだろうか。
周囲を見渡すと高い樹々が広がっていた。見慣れない樹だった。
重い身体を引きずって、近くの木に近づく。十メートルはありそうな巨大な樹木。キャンプ場の近くにこんな木はないはずだ。
じっと周囲を見渡す。風によって揺れる樹々の音。人影はどこにも見られない。
携帯を取り出すと、圏外の文字が飛び込んできた。途端に不安になり、ボクはもう一度周囲を見渡した。
「由香?」
一緒にキャンプに来ていた幼馴染。その姿はどこにもない。
慎重に森の中を進む。知らない植物ばかりが広がっていた。
嫌な汗が額に滲む。
遭難。
そんな単語が頭に浮かんだ。
それならば、下るのは危険だ。頂上を目指して山道を探しながら進むべきだ。
バックパックを下ろし、荷物を確認する。透明なスーパーの袋に入ったままのガム。そして未開封のペットボトル。その他ナイフが一本に雑多品。食料はない。
山道に出るまでにどれくらいかかるか分からない。漠然とした不安感が沸き起こり、そしてある光景がフラッシュバックする。
赤色の空。そびえたつ鉄塔。うるさい警報。無人の電車。
ここで目を覚ます前に見た光景。あれは、何だったのだろう。夢、だったのだろうか。
それよりも、ボクは何故こんなところにいるのだろう。
疑問は尽きる事がない。しかし、今は動くべきだった。日が落ちる前に山道に出て、人を見つけたい。
道のない森の中を、慎重に進む。
しかし、高低差が分からない。
広がる森に起伏はなく、どの方向が頂上なのか見当もつかない。
本格的にまずい、と判断する。当てもなく歩き回るのは遭難者の得意技だ。そしてボクはその得意技を修得するつもりがなかった。
目印が必要だ。
太陽の位置を確認しようと空を見上げる。そこで奇妙な事に気づく。太陽が二つに見えた。
幻の類だろうか。あるいは、何らかの理由、例えば光の屈折により二つに見えるのだろうか。目を細めて頭上をよく観察するが、確かに二つ太陽があるように見える。
ボクは少し迷った後、手頃な植物の茎を折って、それを地面に向けてぶら下げた。影は、二つできた。
目眩のようなものを感じ、ボクはその場に立ち尽くす事しかできなかった。
これが幻覚か、あるいは別の現象によるものかは問題ではない。ボクは方向を確認する術を失っていた。それはすなわち、完全なる遭難を意味する。
この地点は、キャンプ場からさほど離れていないはずだ。由香とも合流できる可能性が高い。無闇に動き回るよりは、月が出てから方向を決めて動くほうが遥かに合理的なはずだ。
しかし、夜を待つのは怖かった。夜の森は危険だ。足元が見えず、転落する危険性もある。何より、水の心配があった。ペットボトル一本分。今日一日しか手持ちの水は持たない。
分岐点だった。ここで道を誤れば、死に至る可能性もある。
長期的に考えれば、昼間はここを動かずに夜に動く方が確実だ。短期的に考えるならば、水があり視界が確保出来るうちに山道に出なければ生命の危険がある。
熟考している間に、樹々の間から降り注ぐ太陽光によって身体中の水分が奪われていくのがわかった。
間違いなく、近いうちに水が底を尽く。
その事実がボクを突き動かした。
第一に水の確保だ。夜まで待つ場合も、このまま闇雲に動く場合も、必ず水の問題にぶつかってしまう。
バックパックに入っていた透明なスーパーの袋。それを取り出して、周囲の手頃な植物に近づき、手をかざす。
目を閉じると、穏やかな波が感じられた。この植物に敵対心は感じられない。有効な毒は持ち得ない。
ボクは、植物の心を読む事ができる。もちろん、植物に中枢神経系は存在しない。そこに高度な知的活動は存在しえない。それでも、ボクは感情に近いものを読み取る事ができた。
青々とした葉をスーパーの袋に入れ、固定する。
葉温、と呼ばれるものがある。人間の体温に相当するもので、葉温が上昇すると一部の蛋白質が変質するため、人が汗をかいて熱を下げるように、植物も体内の水を放出して葉温が上昇しないようにする。蒸散と呼ばれる働きだ。
この蒸散によって放出される水の量は無視できるものではない。放っておけば袋内に水が貯まり、緊急時の飲水として利用できる。一日に必要な水の量には到底足りないが、完全に水を失う自体は避けられる。
次に周囲の植物から出来るだけ大きな葉を探し出すと、それをちぎって裏面に枝で傷をつける。同様にいくつかの植物から手頃な大きさの葉をちぎり、葉裏を傷つけていく。
ハガキノキ、と呼ばれる木が存在する。正式名称はタラヨウ。日本郵便がシンボル・ツリーに指定している木で、葉に傷をいれると傷つけた箇所が黒く浮かび上がる性質がある。この性質を利用してハガキに利用する事ができ、定形外の120円切手を貼れば実際にハガキとして使う事もできる。
この性質はハガキノキのみが持つものではなく、様々な植物に見られる。
ボクが傷つけた葉の一部が黒ずんでいく。これは、人間のかさぶたのようなものだ。傷口から病原菌が侵入することを防ぐ事を目的としている。しかし、今は紙として利用させてもらう。
ボクが目を覚ました地点。その付近の樹々に根本に0の印を描いた葉を小石で固定し、それから5メートルほど真っ直ぐ歩いた地点に1と描いた葉を置く。目印だ。
この葉がどれほどの間、小石によって固定されるかは分からないが、森の中は強い風が吹かない。当分は大丈夫だろう。
五メートル間隔で目印の葉をおきながら、ボクは森の中を進んでいく。面倒だったが、完全に道を見失うよりはずっといい。
そして、ボクはたった一人のサバイバルを開始した。
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