空を駆ける姫御子
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第八話 ~花言葉 ~Language of flowers~ -終花-【暁 Ver】
前書き
『暁』移転版の第八話。前、中、後の後編。少し、長いかも知れません。
──────── 桜色の嵐
季節外れの桜が満開だった。暖かな風が、梢を揺らし花びらが蝶のように舞っている。それはとても幻想的で……桜の木の根元には死体が埋まっていて、だから綺麗な花を咲かせるのだ──── 有名な小説の一節ではあるが、この光景を見るとあながち間違っていないかも知れないと『黒い男』は思った。
二人の男がいた。片方は幾分顔色の悪い線の細い男で、管理局の制服を着ている。もう片方は頭のてっぺんから足のつま先まで黒く烏のような男。この光景には大凡似つかわしくない二人が、風を挟んでお互いを見つめていた。線の細い男は幾分苦笑した面持ちで口を開く。
「初めまして……でいいのかな?」
黒い男も線の細い男と同じような面持ちで、返答する。
「はい……それで間違ってはいません」
再び落ちる静寂。風が何度か花びらを舞上げた頃、再び線の細い男が口を開いた。
「その様子だと僕の事は知っているみたいだけど……一応自己紹介しておくよ。スギタ・サイトだ」
「私は……あなたが機動六課で事情を聞いた娘の兄です。桐生と申します」
スギタ・サイトと名乗った線の細い男は、幾分驚いた様子だった。
「桐生……あぁ、あの子か。とても印象に残ってるよ」
それを聞いた黒い男──── 桐生は苦笑する。
「少々変わっていますが、とても良い子ですよ?」
それを聞いたスギタは懐かしいものを見るような優しげな表情をして、桐生に問いかけた。
「心配じゃないかい? 管理局の魔導師は程度の差はあれ、危険な任務に就く事もある。ましてや六課の魔導師だ。ロストロギアや次元犯罪者……常に危険と隣り合わせだよ?」
「とても心配ですよ。ロストなんとかだの、次元犯罪者だの私にはどうでも良いことです。可能であるならば……鳥籠に閉じ込めておきたいくらいです」
桐生はそこまで言うと空を飛んでいる鳥を見上げる。
「……ですが、空を飛べない鳥が翼を持っていないと考えるのは間違いでした。彼女の翼は、大きすぎて鳥籠には収まらないんですよ。困った事に」
「それは……困ったね」
「えぇ、困ったものです」
そう言いながら二人は笑い会った。
「それにしても良くここがわかったね。この墓地はあまり知られていない筈なんだけど」
桐生はそう問いかけられ、少しばつの悪い顔をする。
「あなたの事は……失礼かと思いましたが、調べさせて頂きました」
「へぇ……凄いね。管理局の人間を調べるのはかなり骨が折れると思うけど。ハッキングかい?」
それを聞いた桐生はまさかという顔をする。
「私にそんな技量はありませんよ。私は……バークリーの人間なんです。妹共々、養子ではありますが。普段はミドルネームを名乗っていませんけどね」
それを聞いたスギタの目が見開かれる。
「バークリーってあの元財閥の? ……驚いたな。そうか、それなら可能かもね」
バークリーを母体としている関連企業の幾つかは管理局へ技術提供をしている。随分昔に施行された新法によって財閥を解体されてからは医療機器メーカーとして出発し、現在ではミッドチルダに於いて代表的な多角経営企業の一つとして成長していた。言い換えれば、様々な分野に強力なパイプを持っていると言っても良い。それを使えば簡単とは言わないが、不可能ではないだろうとスギタは考えた。
「創設者の親族ではあるんですが、諸事情がありましてね。経営などには一切携わっていませんし、資金援助もないんですが……調べ物などには、協力してくれるんですよ」
「そうか……養子? 君はもしかして」
「えぇ、次元漂流者です。元ですが。あなたと……いや、あなた達と一緒ですね」
スギタの目が細められる。
「本当に知っているんだね。どこまで?」
「恐らく……全て」
桐生は続ける。
「昔は、就職に苦労しましてね。人様に自慢できるような大学も出ていなかったので。その頃の教訓を生かして使えるコネは全て使う主義です。他人の事をこそこそ調べるのは気が引けたんですが……無理を言って調べて貰いました。あなたと一緒にこの世界へ来た弟さんの事も、その彼女の事も。ですが、あなたの弟さんもその彼女も一年前に……一体、何があったんですか?」
スギタの顔は病人のような土気色になっていた。そして、訥々と語り出す。
「……大方予想はついているんだろうけど。つい最近までわからなったんだ。なぜ弟が……カイトとエミリーが自殺してしまったのか。本当にわからなかったんだ。六課での話は聞いていたんだろう? あの時……メッツェルダーの個人端末からデータを見つけたのは僕なんだ。その中に彼女の名前があったよ」
──── エミリー・ギオー 22歳 【人の女を思い通りにするのは、最高の博打であり、快感だ】
「巫山戯てると思わないかい? 仮にも管理局の一等陸佐ともあろう人間が、だ。データ中にはね、この事件の共犯者の名前も記録されていた。僕の先輩……リチャード・エヴァットの名前もね。この男は女性を物色するのが役割だったみたいだ。エヴァットがターゲットとなる女性を見つけ、メッツェルダーに知らせる。そして、Heavens Doorを使い……乱暴する。どうやって服用させたかは知らない。知りたくもない。そしてエヴァットはそのおこぼれに預かる。Heavens Doorの特性を考えれば、合意の上だったと主張する事も出来るしね」
そこまで黙って話を聞いていた桐生が口を挟む。
「服用させられた女性を調べればわかるのでは?」
「……無理、だろうね。ナノマシンは役割を終えると、排泄物と一緒に体外へ排出されるらしいね。Heavens Doorも同じで、約六時間後には体外へ排出されてしまう。恐らく使われたという自覚もないだろうしね。なにより……訴える女性が稀だ。彼女もそうだったよ。丸二日、行方がわからなくて。ふらっと僕たちの前に現れた一週間後に……カイトと一緒に死んでいるのを僕が見つけた。二人一緒に手をつないでいてね。最初は眠っているのかと思ったくらいだ」
スギタは目を閉じその光景を思い出しているのか、唇を噛んだ。
「……データの中からエミリーとエヴァットの情報を削除した。その時の僕の気持ちがわかるかい? 狂喜したよ。カイトとエミリーが死んでから惰性のように生きて、いつ二人のところへ行こうかそればかりを考えていた僕に訪れた好機。その時だけは、いもしない神様に感謝した。カイトはその方法を選ばず、僕は選んだ。ただ、それだけの話さ」
──── 兄貴、兄貴、聞いてくれよ! えぇとな、彼女が出来た
「とても良い子だったよ。大人しくて控えめで……だけど笑うと向日葵みたいだった。本当にカイトにはもったいないくらい。幼い頃、弟と一緒にこの世界に来て、僕たちを保護してくれた管理局員に引き取られて。感謝はしてるけど、どことなく引け目を感じていた。彼女の御陰でカイトも随分救われた。勿論僕も。だからこそ」
スギタは鋭く桐生を射貫く──── 許せるものか。
「僕は間違ってるかい? 桐生さん」
彼は……自分とよく似ていると桐生は思った。境遇も大切な肉親がいる事も。桐生もそうだから。彼はもう一人の自分だ。たまたま立場が違っていただけなのだ。愛しい人は彼の手のひらから零れ落ちて、桐生の手はまだ縋るように握りしめている。『彼女』が自分の手のひらから、するりと零れ落ちたら──── 自分は一体どうなるのだろう。桐生はそこまで考えたところで、悪夢を振り払うかのように頭を振った。
「私も二つほどお聞きしたい事があります」
桐生は彼の問いには答えなかった。答えられなかった。自分はその答えを持ち合わせてはいないし、何よりどんな答えを返しても彼にはもう、意味など無いのだから。
「どうぞ」
スギタは特に不満に思っている様子もなく淡々と返した。
「あの時、なぜあの様な会話を?」
スギタは訝しげに首を傾げていたが、やっと思い至ったように桐生へと答える。口調も心做しか明るい。
「あの時の会話って……もしかして、アレに気がついたのかい? 殆ど思いつきの即興だったんだけどな」
──── 本当に正気の沙汰とは思えませんよ……抜いて見てみたいですね
「思いつきの即興だったからこそ、気が付いたんです。最初はただの違和感でした。ですが──── 変わった言い回しをする人だとしても、あの言い回しはやはりおかしいんですよ。それが、ずっと引っかかっていたんです。エヴァット氏も言ってたじゃないですか。あなたは普段の言葉遣いには厳しいと」
桐生は肩に乗った花びらを優しく払いながら、尚も続ける。
「そして、調べて貰ったあなたに関する報告書を読んで気が付いたこともあります。……スギタさん。あなたは普段、人に対して名乗る時は『サイト・スギタ』とは言っていませんよね? 何故か『スギタ・サイト』です」
「偶々、じゃないかな」
「そうでしょうか? 現にあなたは先程『スギタ・サイト』と名乗りましたよ」
夏場だというのにまるで春一番のような強い風が、桜の花びらを舞い上げる。その所為で、スギタの表情はわからない。
「日本人の性なんでしょうかね。私もラストネームが先に来るのは未だに慣れません。書類などにサインする時はミッドの慣習に従いますが。それなのに、何故あの時に限って変えたんでしょうね」
桜色の風が止んだ時。見えたスギタの表情は少し、楽しげだった。スギタは先を促すように頷いて見せる。
「あなたの名前をじっと見つめていたら唐突に思いつきました。恐らくあんな閃きは二度とないでしょうね。……『たぬき言葉』ですよね? 『沙汰』を『抜く』んだ、あなたの名前から。サイト・スギタから、さたを抜くと、『イト・スギ』……糸杉。糸杉の花言葉は、『死・哀悼・絶望』」
スギタは笑っていた。本当に楽しそうに。悪戯が成功した子供のように。
「うん。その通りだよ。即興にしては上手く出来たと思ったんだけど。まさか気がつく人がいるとは思わなかった。……糸杉の花言葉は僕にぴったりだと思わないかい?」
だからこそ。桐生は気が付いてしまったのだ。
「何故、あのような真似を?」
「ただの悪戯さ。強いて理由を挙げるとすれば……エヴァットに対する嫌がらせかな?」
スギタは、尤もあの男はまるで気がつかなかったけどと付け加えた。
「なぜティアナさんを巻き込んだんですか?」
桐生にそう問いかけられたスギタは、それまで楽しげだった表情を消した。
「……彼女には申し訳ない事をしたと思っている。彼女にはここに来る途中だったのを見られてしまっていたんだ。あたし達と言っていたから、三人で遊びに来ていたのかもね。僕を見かけたのは彼女だけだったようだけど」
そう言ったスギタは、恐らく弟であるカイトとその彼女……エミリーの墓標に視線を移した。桐生もつられ目をやると片方には紫苑が供えられ、もう片方には白い薔薇。両方とも幾日か経っているのか、薔薇の方は風に煽られでもしたのであろう何本か茎が折れている。桐生はそれを複雑そうに見ていた。
「僕は花言葉にはそれほど詳しくなくてね。一所懸命に調べたよ。エヴァットの周りにあったのは花蘇芳だ。花言葉は『裏切り』と『不信』。あの男にはお似合いだろう? 紫苑は『思い出』、『君を忘れない』、『追憶』。白い薔薇は『純潔』と『高貴』。で、あっているかな? うん、カイトにもエミリーにもぴったりだ」
スギタはそう言って……本当に綺麗に笑った。桐生はそれを見て涙が溢れそうになる。
「どうかしたのかい?」
「い、いえ。何でもありません」
スギタは桐生の態度を若干、不思議そうに見ていたが何も言わなかった。
「だから……可能性は低いとは思ったけど、彼女……ランスター二等陸士が、僕からカイトとエミリーの件に辿り着くかもしれない可能性があった。『僕の最後の目的』の為には、捕まるわけにはいかない。不安要素は潰しておきたかった。……僕が言う資格はないけど、本当に彼女には済まなかったと思っている」
「もう一つお聞きしても宜しいですか?」
「質問が随分と増えてるけど、二つじゃなかったのかい? いや、冗談だよ。なんだい?」
「なぜ遺体にわざわざ花を?」
「世間じゃこの事件をなんて言ってるか知ってるかい?
──── Murder language of flowers
「そのままで、センスがないよね。うん、お察しの通り少しでも世間の注目を集める為。殺人は本来、隠蔽するのが当たり前だけど、僕がやろうとしていることの為には隠蔽しちゃ意味がないんだ。マスコミに友人がいてね。僕が『ある状態に陥る』と、この事件の真相を彼に報道して貰う事になってる。勿論言い逃れできない証拠と一緒にね。あんな屑どもを放置していた管理局にも、つけを払って貰うよ」
何かを決意し、成し遂げる為だけに生きている人間の目。彼の姿に桐生は自分を見ていた。そして、彼は既に終わっているのだ。
「僕を止めて……罪を償わせるかい?」
桐生は彼に会うまで、何とか救えないものかと考えていた。だが、それは。何と傲慢なことなのだろう。
「……いえ、止めるつもりはありません」
肉親、愛情、家族、愛しい人達──── 全てを失った彼に説教の一つでもした挙げ句に生きろとでも言うつもりだったのか。
「私は管理局員ではありませんし」
桐生は、彼が何をするか理解している筈なのに。
「お話を聞きに来ただけですから」
──── ……助けてあげられる?
桐生はまた。『彼女』に嘘をつくことになった。
桐生は桜舞う墓地を後にした。桜色の花びらが舞う並木道を黙々と歩く──── 乾いた発砲音。桐生が足を止めたのは刹那。振り返ることなく歩み出す。途中で墓参りに行くのであろう親子とすれ違った。母親の手を小さな手で握りしめている少女に、まだ小さかった頃の『彼女』の姿が重なる。だけどそれも一瞬で。そうして桐生は……彼と同じ目をした黒い男は、桜色のベールに包まれながら消えていった。
──── ねぇ、ママ。さっきのおじさんないてたよ
──── そうね。ここは大切な誰かに会う場所でもあるし……お別れする場所でもあるから
ティアが消息を絶ってから六時間が経過している。探そうにもアンカーガンの反応も無く追跡出来ない。念話にも応答しない。八神部隊長の命令で、なのはさんとフェイト執務官がスクランブル。一瞬でバリアジャケットを纏った二人は、シグナム副隊長とヴィータ副隊長と共に大空へと飛び立っていった。
待機命令を受けたあたしはあろう事か、八神部隊長へ掴みかかってしまった。到底納得できなかったからだ。掴みかかったあたしへ八神部隊長は眉一つ動かさずにこう言った。これが理由だ、と。冷静じゃないのは自分でもよくわかっている。今すぐにでもあたしだって飛び出していきたい。だけど、あたしを踏み止まらせていたのは……アスナだった。彼女は、女子寮の玄関の前で立ち尽くしたまま動かないのだ。
「アスナ……雨降ってきたよ。中に入ろ?」
彼女は子供のように首を振る。雨に濡れた髪が飛沫を落とした。
「風邪引いちゃうよ」
彼女は普段何の感情も伺わせない瞳に少しだけ熱を乗せながら言った。
「……ティアナをまってる」
声を上げて泣きそうになる。だったら中で待とう……とは言えなかった。こうなってしまうとアスナは、梃子でも動かなくなる。零れ落ちそうになる涙を誤魔化すように意味も無く空を見上げた。
「……ティアの馬鹿」
あたしのその呟きは鈍色の空へ吸い込まれ消えていった。結局あたし達は、体調がまだ思わしくないアイナさんに説得されるまで雨の中を立ち尽くしていた。
フラッターから送られてくるのは……久しく聞いた事の無かった彼女の泣き声。大切な友人の名を呼びながら声を押し殺して泣いている。桐生はそれを無表情に聞いていた。
『桐生。血が出てるよ』
ボブに指摘され右手を見ると手のひらから血が出ている。強く握りすぎたようだ。それも直ぐに消えていく。
「……ボブ。アスナに端末を立ち上げて、こちらと繋げるように言って下さい」
桐生はそれだけ告げると手早く着替え始めた。
『アスナ以外の人間がどうなってもかまわないんじゃなかったのかい?』
「……そんなもの、アスナの為だったらいくらでも棚に上げておきますよ。そのまま降ろさなくてもいいくらいです。それと今日、ダウランドさんから頂いた彼に関する資料で気が付いたことがあります。ティアナさんが消息を絶った事との関連性はわかりませんが、放置するわけにはいきません。それに……」
黒のレザージャケットを着込む。
『それに?』
「……偶には兄らしい事をしてやらないと嫌われてしまいますから」
ぶっきらぼうに、そう言った。ボブには照れ隠しにしか思えなかったが、それを告げるのは野暮というものだろう。
『了解したよ』
「ダウランドさんにも連絡を。バークリーで経営している医療施設を幾つか……そうですね、秘匿性が高くて腕の良い女性医師がいるところを。いっその事、産婦人科でも構いません。いつでも受け入れられる準備をしておくようにと。……出来れば、六課の方よりも先に保護したいですね」
『桐生……それは』
モニタの中でボブが、息をのんだ。
「あくまで万が一に備えて、です」
端末が繋がる。スクリーンの中には泣き腫らして真っ赤な目をした彼女が。良く見れば鼻も赤くて鼻水が出ている。桐生はそれを見て少しだけ困ったように笑うと、表情を引き締めた。モニタの前に立つ桐生の姿が、電波状況の悪いテレビ画像のように歪んだかと思うと一瞬にして吸い込まれるように端末の中へと消えていった。
アスナは端末のスクリーンから溢れ出した砂鉄のように黒い粒子が、兄の姿に再構成されるのを確認すると泣きながら桐生の胸に飛び込んだ。桐生は愛おしげに彼女の髪を梳くと無言でハンカチを差し出す。アスナはそれを受け取るとぐしぐしと涙を拭いた後、鼻をかんだ。桐生は苦笑を浮かべながらアスナの目を真っ直ぐに見つめると指示を出す。
「ティアナさんを助けに行きましょう。スバルさんを呼んできて下さい、誰にも知られずに。それと……ティアナさんが普段身につけていたものがあれば持ってくるようにと」
アスナは桐生の指示に頷くと風のように部屋を飛び出していった。我が妹ながら殺風景な部屋に苦笑いをしながら暫く待っていると、スバルがアスナと一緒に部屋へ飛び込んできた。……その手に下着を握りしめて。
「……スバルさん?」
「洗ってません!」
余計に悪い。アスナと同年代である少女の下着を握りしめている自分を桐生は想像する。……ただの変質者だ。アスナの冷たい視線に、若干腰を引きながら下着以外のものをお願いした。再び戻ってきたスバルの手に握られていたのは、ティアナが普段髪を結わえているリボンだった。なぜ最初からこちらを持ってこなかったのだろうと思いつつも受け取る。
「さて、これから外へ出ます。私の体の何処でも良いので触れて下さい。デバイスを持ったまま外へ出てしまうと……行動がばれてしまかも知れませんが……まぁ、適当に誤魔化して下さい」
桐生は一番肝心な問題を彼女たちに丸投げしつつ……跳んだ。
あたしは、あっという間に変わった景色に驚いて辺りを見回していた。魔法を使っている様子はなかった。魔方陣すら展開されていない。違和感もなかった。それなのに瞬きをしている間に転移していた。もしかして、座標計算もしていないのかな。これが『瞬間移動』ってヤツなんだろう。
「取りあえず、外へ出ただけですので。本番はこれからです」
お兄さんはそう言うと、あたしが手渡したティアのリボンを拳に巻き付けるように握り込んだ。なるほど、下着を渡さなくて良かった。……お兄さんに見られてしまったけど、黙っていればバレない。きっと。
お兄さんが何をするのか興味が出てきたあたしは、黙って見ていたけど何も起こらない。あたしの頭の上にはきっとクエスチョンマークが踊っているはずだ。そんなくだらないことを考えていたとき。お兄さんの影が──── ぶるりと震えた。
変な声が出てしまって慌てて口を押さえた。影は意志を持っているかのように、お兄さんの足下から離れると、地面を滑るようにして進みだした。呆けていたところをお兄さんに肩を叩かれ、慌ててアスナと共に影を追いかける。月明かりに照らされた街を一つの影と三人が疾走する。あたしは先行している全身真っ黒な人の背中を見た──── ホント、何者なんだろ? この人。いや、そんなことはどうでも良いんだ。この人は、アスナのお兄さんで、ティアを助けようとしてくれている。それだけで十分だ。
あたしの隣で併走しているアスナは、その背中を誰よりも信頼しているように見つめていた。ちょっと悔しいけど仕方ない。お兄さんは三十過ぎのおじさんを走らせないで下さいとか言ってる。自分でやった癖に。うん、だけど……ティアは必ず無事に見つかる。その背中を見てるとそんな気がした。
あたしが目を覚ましたのは数分前。性格なのか、管理局員としての質なのかあたしが真っ先にやったのは、状況の確認だった。古びたホテルのような一室。だけど室内の痛みが激しい為に、元ホテルだった建物の一室と判断。室内には男が三人。プロレスラーの様な大男が一人に、中肉中背の男が二人。
自分の状況。両手足を拘束されている。バインド系の魔法ではなく物理的な手段で。そして、ホテルの備品だったのだろう古びたベッドに転がされていた。デバイスは……当然ながら手元にはない。念話は……今のあたしには距離がありすぎる。人を拉致したというのに三人の男は酷く落ち着いている。彼の仲間だと判断すれば、あたしが管理局員だと言うことも理解している筈なのに。以上の状況から総合的に判断した結果は──── 最悪だ。
「しかし、どうすんだよ。アイツは『その時』が来るまで、閉じ込めとけっていったけどよ」
大男は体に似合わず不安そうな声で問いかける。問いかけられた男は呆れたような口調で叱責した。
「バカヤロウ。だからオメーはダメなんだよ。その時まで……楽しめばいいじゃねぇか」
男の一人はそう言いながら、好色な色をした目をあたしに向けた。
「本気かよ? 管理局員だぞ。いくら金払いが良いからって」
もう一人の男が口を開く。
「俺たちを雇ったあの男も管理局の人間だぞ? ……堂々と身分を明かした時は驚いたがな。その目的も。いかれてやがる」
「というわけだ。そろそろ時間だ。金受け取ってこいや」
「なんだよ、俺だけ仲間はずれかよ」
「でけー図体して拗ねんじゃねぇよ、気色悪い。しゃーねぇだろう、金の受け渡しは現金でって言ってんだからよ。大胆なのか、用心深ぇんだかわからんな。……安心しろよ。オメーの好きな尻は残しといてやっからよ」
そう言って納得出来ないというような顔をしている大男をよそに男二人は、知性のかけらも感じられない声を上げて笑い出した。
「さて、嬢ちゃん? 気がついてんのは知ってるぜ」
男は下卑た笑い顔を浮かべながら、あたしへと近づき足枷せを外す。その時に触れた男の指で、全身に鳥肌が立った。男はポケットから何かを取り出し、あたしに見せつけるように指で摘む。……それは、アンプルのようだった。
「何のアンプルだと思う?」
知るものか。知りたくもない。男はアンプルを銃のようなものへセットした。
「ん? あぁ、これか? 短針銃っつってな。鎮静剤をセットしてから錯乱して暴れる患者なんかに使うんだけどよ。本来はな」
男はそう言ってあたしに銃口を向けた。……冗談じゃない。
「……Heavens Doorだ。新しい世界を見せてやるよ。二度と戻ってこれねぇがな」
プロレスラーのような屈強な男は金を受け取るべく廃棄区画の路地を歩いていた。今回の仕事はどうにも嫌な予感がする。早々に降りた方が懸命かもしれない。そんな事を考えながら、懐に隠し持っている銃を服の上から確かめた。そして何気なく。本当に何気なく自分の足元を見ると、月明かりに照らされて出来た影の隣に──── 自分以外の影がいた。
「はぁ?」
間の抜けた声を上げた屈強な男へ不意に。背中から声が掛かる。
「私の『影』が、何故あなたに反応したんでしょうか。『対象』を探し出すはずなんですが……少しお話を聞かせてくれますか?」
屈強な男が振り返ると……全身黒ずくめの優男が路地の暗闇から染み出すように姿を現した。温和な表情を浮かべながら。何故かは理解出来なかったが──── 屈強な男は、叫び声を上げたくなった。
「お待たせしました。少し手間取りましたが、ティアナさんの居場所がわかりましたよ」
廃棄区画に入って間もなくだ。お兄さんは突然立ち止まり、何かに気が付いたように路地を見つめると、あたし達にここで待っているように言った。見れば、お兄さんの影がいつの間にかいなくなっている。何の説明もなく暗闇の中へ消えていったお兄さんは、十五分ほどで何事もなく戻ってきて──── さっきの台詞だ。わけがわかんないです。
あたしとアスナが少しむくれていると、お兄さんは苦笑しながらあたしとアスナの額に壊れ物を扱うようにして、そっと指を触れた。その瞬間あたしの頭の中に、ある建物への道順とドアに『312』と書かれた部屋の映像がするっと入ってきた。……驚いていたあたしを落ち着かせたのは。粗末なベッドに寝かされているティアの姿だった。
「ここからさほど離れてはいません。二人の足ならばすぐでしょう」
あたしはお兄さんの言葉に頷くと走り出そうとして……その場から動かないアスナに気が付いた。アスナは、お兄さんを見つめたまま立っている。
「……お兄ちゃんは?」
アスナの問いかけに対して、お兄さんの表情に少しだけ影が差しように見えた。
「私は……少し、やる事が出来ました。先ほどの男を読んで話を聞かなければいけない人がいることがわかりましたので」
「……助けてあげられる?」
アスナの言葉にお兄さんが息をのむ。何の話をしてるんだろう? 先ほどの男と言うのもわからないし、話を聞かなければいけない人もわからない。お兄さんは少しだけ俯いた後、顔を上げるとはっきりと頷いた。
「はい。きっと」
アスナはこくりと頷くと、子供がするような仕草で手を振る。あたしはお兄さんにお礼を言い、アスナと一緒に走り出した。アスナは走りながら、お兄さんの姿が見えなくなるまで手を振っていた。
お兄さんが言った通り目的の場所へは、ものの数分でたどり着いた。廃棄されたホテルだ。アスナと共に中へ侵入する。エレベーターは当然死んでいた。階段を使う事になるが、幸いにも三階だ。階段を駆け上がり目的の部屋を見つけると……あたしはドアを蹴破った。作戦? そんなものは知らない。
部屋へ侵入したあたしの目に飛び込んできたのは、驚きに目を見開く男が一人と……粗末なベッドの上でティアにのしかかっている男が一人。視界が朱に染まる。自分でも驚くようなスピードで飛び出した。唸りを上げる自作のローラーブーツと共にあたし自身も咆哮を上げる。
即座にリボルバーナックルのカートリッジを一発ロードし、空薬莢が排出されると共に男の顔面へ拳をめり込ませた。鼻が潰れる鈍い感触と、空薬莢が床へ落ちる金属音と共に男を壁へと吹飛ばした。……全然足りない。
もう一人の男は無謀にもアスナにナイフ一本で挑んだ。突き出されたナイフを危なげなく左手で捌くと右手の掌底を男の顔面へ打ち込む。そのままの勢いで男の頭を両手で掴み、足払いを掛けながら後頭部を床へ叩きつけた。……まだ終わらない。アスナは呻いている男の無防備な顔面へ、全体重を乗せて膝を落とす。
それでもまだ飽き足らないのか、アスナは床に転がっている男の体をサッカーボールのように蹴り出した。打撃音と共に男の体が壁ぶち当たり、さっきあたしが気絶させた男の上へと落下した。……やり過ぎのような気もするけど、アスナの御陰で少し冷静になった。あたしはベッドで荒い息を上げているティアに抱きつく。
「ひゃう!」
……何とも可愛らしい声と言うか、艶っぽい声を上げた。
「ティア、大丈夫?」
「大丈夫、よ。何も、されて、ないわ。危なかった、けど、ね」
ティアは全身に汗をかいて肌もほんのりピンク色に染まっている。やっぱりなんか……色っぽい。
「何、見てん、のよ」
「ゴメンナサイ」
『Heavens Door、だね』
ボブが努めて冷静に告げる。あたしは慌てた。お兄さんに言われるまま飛び出して、何の用意もしていないことに気が付いたからだ。
『スバル、大丈夫だ。対処法はある。アスナ?』
ボブに促されアスナはティアに近づくと胸のあたりに両手をかざした。すると、アスナの手のひらから真白な粒子がティアに降り注ぐ。……綺麗だった。まるで雪が降ってるよう。アスナの手から降り注ぐ雪は瞬く間にティアの全身を柔らかく包み込んだ。だけど、アスナは治療魔法なんて……『Physical Heal』でさえ使えないはず。
『魔法ではないよ、スバル。これは極めて限定的ではあるが、医療用ナノマシンだ。ストックは十分にある。問題ない』
「ストックって、使えば減るの?」
ティアが不思議そうに問いかける。
『その通りだよ、ティアナ。ナノマシンというのは簡単に言ってしまえば『極小の機械群』だ。魔法のように空気中に魔力素があれば、使い放題なエネルギーとはわけが違う。そんな都合の良いナノマシンなど存在しない。謂わば……消耗品だ。製造コストもやたらと高い』
今やってるのは、ティアの体にいる悪いナノマシンを、良いナノマシンでやっつけてるってことなのかな。
『スバルらしい表現だが、間違ってはいない』
それを聞いたあたしは、ティアの体内でHeavens Doorを大勢のちびアスナが倒している光景を幻視した。ティアがジト目であたしを見ていたので、慌てて首を振る。
『終了だ。気分はどうだい?』
「ええ、問題ないわ」
相変わらず我が親友はちっとも素直じゃない。
「あれ、ティア。親友のピンチに駆けつけたのにそれだけ?」
「ハイハイ。感謝してるわよ。ところで、これ外してくんない?」
それにしても酷い目にあったわ。あたしは拘束されていた手首を摩りながらベッドから起き上り床に足をつけようとして──── 上手く立てないことに気が付いた。足が震えているいてまるで力が入らない。手も震えている。何だろう? Heavens Doorの影響が残ってるいるのだろうか。
「ティア……」
スバルが泣きそうな顔をしてあたしを見てる。どうしたって言うのよ。困惑しているあたしへ、スバルが呟くように言った。
「ティア、泣いてるよ」
……ああ、そうか。あたしは──── 怖かったんだ。
短針銃を撃ち込まれてすぐに耐え難い快楽が襲ってきた。冗談じゃないという理性と、このまま流されてしまえという欲望が鬩ぎ合い……男が、あたしにのしかかってきた時、全てを諦めかけた。スバルとアスナが来てくれなかったら──── 今頃、あたしは。
あたしは泣いた。スバルとアスナにしがみつきながら。二人の温もりを確かめるように幼子のように……泣いた。ごめん、今だけ。今だけだから。そして……スバル、アスナ、ボブ。……ありがとう。
あたし達が六課に戻ってきたのは、明け方近くだった。帰ってきたあたし達を迎えたのは……玄関の前で腕を組みながら仁王立ちした八神部隊長と、愉快な仲間達だった。理由の説明を求めるようにスバルを見ると、露骨に目を逸らす。まさか……無許可で飛び出してきたのか。待機命令無視とは、たいしたものだ。
帰る道すがら、お兄さんが一枚噛んでいたのは聞いた。だが、あの人は事後処理を二人に丸投げしたらしい。本当は二人を怒るべき所なんだろうけど、今回は怒れない。その御陰であたしは助かったのだから。お兄さんにも感謝しないと。そんな事をつらつらと考えていると、シグナム副隊長と目があったアスナが、脱兎の如く逃げ出した。獲物を狙うハンターのように追いかけていくシグナム副隊長。最近はアスナが何かしらやらかすと、シグナム副隊長がお説教をするという図式が確立しつつあった。
シグナム副隊長に正座させられ説教されている二人を横目で見つつ、あたしは事の顛末を八神部隊長へと報告した。勿論、『彼』の事も。その後あたしは、妙に過保護な八神部隊長の指示で検査を受ける為に、メディカルセンターへと行き簡単な検査を受けて、六課に戻ってきた頃には──── 全てが終わっていた。終わってしまっていた。彼──── スギタ二等陸尉の死という結末で。
その後、タイミングを見計らっていたかのように報道されたこの事件の真相。現役の管理局員を殺したのが、現役の局員だった事。殺された二人が、裏で何をやってきたのかも。そしてスギタ二等陸尉が、何故そのような暴挙に出たのかも。言い逃れが出来ないデータと共に。内々で処理しようと目論んでいた管理局は、火消しに躍起になったが、時すでに遅し。世論の多くもスギタ二等陸尉に同情し、矛先は管理局へと向かった。殺された二人を擁護するような発言を管理局がしたのもそれに拍車を掛けた。
結局、この事件により少なからず管理局は信用を失う事になり、女性を食い物にしていた二人の上司は降格処分となった。当然だと思うし、正直に言えば、ざまあみろという感じだ。
だけど……だけど。あたしも危険な目にあったから、色々と言いたい事はあるけれど……スギタ二等陸尉……スギタさん。あたしは……あなたは、間違っていると思います。復讐が間違っているとは言わない。間違っていたのは方法だと思う。出来れば、あなたが生きている時に言いたかったけど。
桜舞う墓地。それほど広くない墓地にひっそりと、それは存在していた。あたし達の前には真新しいスギタさんの墓標。その隣には恐らく弟さん……カイトさん。そしてカイトさんに寄り添うようにして、エミリーさんの墓標があった。
あたしはあの後、恐らく全てを知っているであろうお兄さんと連絡を取った上、問い詰めた。お兄さんは、あまり話したくない様子だったが、ぽつりぽつりと語ってくれた。あたしが感じていた違和感の氷解。そして虚しさ。お兄さんが、彼を救えなかったこと。やりきれなくて……あたしはその思いをお兄さんへと、ぶつけてしまった。良くは覚えていないが、随分と酷いことを言ったと思う。
お兄さんは言い訳をするわけでもなく、怒るでもなく。ただ、静かにあたしの言葉を聞いていた。その時のお兄さんの表情は、きっとこれからも忘れられないだろう。
スギタさんの墓標には菊。花言葉は『高貴』、『高尚』……『高潔』だそうだ。カイトさんと、エミリーさんの墓標にはお兄さんから聞いたとおり紫苑と白い薔薇を。スバルが、エミリーさんの墓標へ白い薔薇を供えようとした時、アスナが声を掛けた。
「……スバル。折れた白い薔薇はだめ」
「へ? なんで? ちょっとだけだよ?」
「……意味が変わるから」
スバルはよくわからないという顔をしていたが、恐らくアスナは花言葉のことを言っているんだろう。折れた白い薔薇の花言葉を聞こうとして止めた。知ったところでもう意味なんか無い。アスナも、それ以上は何も言わなかった。三人それぞれ複雑な思いを胸に秘めながら、黙祷を捧げると墓地を後にする。その時、一陣の風が吹いた。舞った桜の花びらが、あたし達を包み込む。
──── 俺さ……いや。俺たちさ、必ず幸せになっから。安心してくれよ
──── 馬鹿な弟だけど……宜しく頼むね? エミリー
──── ……はい!
「どうしたの、ティア」
「……ううん。何でもない。きっと……気のせい」
桜の木と三人の墓標を見つめる。もう、何も聞こえないし風も吹かなかった。誰一人として救えなかった。これはあたしの『エゴ』でしかないとは思う。だけど、スギタさんには生きていて欲しかった。もし、スギタさんの前に立ったのが、お兄さんではなくあたしだったら。……それでも──── 彼は季節外れの桜のように何の未練もなく散っていったのかも知れないけれど。
そんなあたしを心配そうに見ている二人の視線に気付いた。大丈夫という意味を込めて笑う。上手く笑えていたはずだ。そうして、あたし達は。誰一人振り返ることなく、今度こそ桜舞う墓地を後にした。
~花言葉 ~Language of flowers~ -終花- 了
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