剣の丘に花は咲く
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第十章 イーヴァルディの勇者
第二話 囚われの……
前書き
原作沿いですのでつまらなかったら済みません。
ガリアとトリステインとの境に広がるラグドリアン湖。そんなハルケギニア一と名高いラグドリアン湖の近くに、古ぼけた一軒の屋敷があった。
その屋敷が何者の物なのかは、入口の門に刻まれたガリア王家の紋が示していたが、その紋章の上には不名誉印として十字の傷が刻み込まれていた。
不名誉印が刻まれたその屋敷は、タバサの母親が暮らす家―――旧オルレアン家の屋敷であった。
そんな屋敷の前に、草木を揺らしながら風竜に跨った一人の少女―――タバサが舞い降りた。
風竜を横に従え立ち尽くすタバサは、細めた瞳で不名誉印が刻まれた門を見上げる。
雲一つなく広がる青空から振り注ぐ陽光に、目が眩んだかのように細めていた瞳を完全に閉じたタバサの脳裏に、夜明けに破り捨てたガリア王家の版が押された手紙の内容が過ぎった。
手紙には、短く。
『シャルっロット・エレーヌ・シュヴァリエ・ド・パルテル。右の者の『シュヴァリエ』の称号及び身分を剥奪する。追って上記の者の生母、旧オルレアン公爵夫人の身柄を王権により拘束する保釈金交渉の権利を認める由、上記の者は、一週間以内に、旧オルレアン公爵に出頭せよ』
と、そう二つのことが書かれていた。
一通り手紙に記載されていた内容を思い出したタバサは、杖を持つ右手に力を込める。小さな掌に包まれた大きなふしくれだつ木の杖が、ギシリと悲鳴を上げた。
目を閉じたまま顔を下ろしたタバサが、そっと瞼を開く。
巫山戯た奴らだと、タバサはギチリと奥歯を噛み締めた。
何が『保釈金の交渉』だ。
仰々しい言葉で着飾らせても、言っていることはただ―――『お前の母親は人質だ。さっさと投降しろ』。
……大人しくその言葉に従って投降すれば、裏切りに対する形だけの裁判が開かれ……運が良ければ絞首刑……悪ければ―――っ考えたくも、ない。
タバサの脳裏に、この三年の間に見た様々な地獄の光景が過ぎる。
その中には、何の力も持たない女たちが、男たちの欲望に餌食になる姿もあり。男たちの中には、自分のような体付きの少女を好む者がいることを……タバサは良く知っていた。
「―――ッ」
喉の奥からこみ上げる吐き気をゴクリと飲み干したタバサは、春の暖かな空気を孕む風に髪をなびかせながら歩き出す。柔らかな陽光に温められた風は、しかし冷たく凍えたオーラを身に纏うタバサに触れた瞬間、極寒の地に吹きすさぶ風へと変わる。
タバサの足が、門を一歩超えた瞬間、『きゅい』と風竜が小さく震えた声を上げた。
足をピタリと止めたタバサが振り返ると、門の向こうで『ちょこん』とお座りした自分の使い魔と目が合う。
風竜の大きな瞳が、投降するの? と問いかけていた。
「……あなたはそこで待ってて」
待つように指示するタバサの言葉を否定するように、シルフィードは立ち上がると歩き出した。歩きだしたシルフィードは、タバサの目の前で立ち止まると、自分よりも遥かに小さな主を見下ろした。
「……何時ものように、あなたは空」
睨み付けるように自分の使い魔を見つめるタバサ。しかし、シルフィードは視線を逸らすことはない。
シルフィードは分かっていた。
自分の主が今、一体どんな状況に陥っているのかということを。
自分の主が王家を裏切ったことにより、母親が人質に取られ、投降を促されており、もし投降すれば殺されるだけであり。だから、主は投降することなく、戦ってでも母親を奪い返すつもりだということを。
だが、そんなことは相手も予想しているということも、シルフィードは分かっていた。
王家が今までタバサに命の危険がある任務を命じていたのは、理由があった。
それは、タバサを父親のオルレアン公と同じように謀殺した場合、旧オルレアン公派が何をしでかすか分からないためだ。そのため、これまでは、命の危険がある任務を命じることで、何とか処分しようとしていたのだが、しかしタバサは命じられた全ての任務から生き残ってきた。
そのことに対し、歯噛みするものは多かった……だが、今回の件で、彼らは大手を振ってタバサを殺す機会を得た。
こんなチャンスを彼らが逃す筈はない。
王家は今まで、自分たちが必殺の思いで命じてきた任務をくぐり抜けてきたタバサの実力を知っている。
そんなタバサを確実に殺すためのものが、この屋敷に必ず仕掛けられているだろうことを、シルフィードは感じていた。
人か罠か……それとも別の何かか……。
屋敷から漂ってくる冷たい気配に、シルフィードは自分の全身を覆う鱗がささくれ立つ気がした。
「ついてきてはだめ」
見つめ合う主と使い魔。
最初に目を逸らしたのは、主であるタバサであった。
心配気に見つめてくる自分の使い魔の瞳から、逃げるように顔を逸らしたタバサは、シルフィードに背中を向ける。
主に背中を向けられたシルフィードが、小さく「きゅい」と鳴く。
実のところ、シルフィードは今までタバサが受けた様々な任務において、直接戦闘に参加したことはなく。あれこれと任務の手伝いをしたことはあったが、直接的な戦闘になる時は、必ず空の上で戦いが終わるまで待機していた。タバサに理由を問いただしても、『帰りの足がなくなるから』と言うだけであったが、シルフィードはその言葉を素直に信じるほど馬鹿では……馬鹿では……馬鹿ではなかっ……た?
これまではそれで大丈夫だった。
タバサはそこらのメイジが束でかかっても、涼しい顔で勝つことが出来る程の実力の持ち主だからだ。
しかし、今回は違う。
違い……過ぎた。
今からタバサが立ち向かう相手は、これまでの幻獣やメイジ、亜人とは桁が、存在が違い過ぎる。
そう……相手は巨大なる力を持つ国。
そんな相手が選んだ、タバサを殺すための処刑人が今、旧オルレアン屋敷にいるのだろう。
ならば今の旧オルレアン屋敷は、タバサの思い出の場所でも、母親を取り返すための戦場でもなく……死地。
そんな場所に、愛する主を一人で行かせることは出来るはずがない。
シルフィードが無理にでもついていこうと心に決め、一歩踏み出そうとした瞬間―――。
「わたしの帰る場所は……もう、あなたしかいない。だから…………お願い」
ポツリと呟かれた小さな声が、その踏み出そうとした足を止めた。
シルフィードに振り向くことなく、タバサはそう言うと、屋敷に向かって歩き出す。
タバサの言葉によりまるで魔方が掛かったように固まっていたシルフィードだったが、不意に力なく首を垂らした。
シルフィードの瞳に映る、自分の愛する主の小さな背中が、滲み、歪む。
段々と小さくなっていく小さな背中から逃げるように、シルフィードは一気に空へと羽ばたいた。
シルフィードの瞳一杯に溜まっていた涙が、粒となって空を舞う。
きらきらと陽光を反射しながら落ちていく涙。
屋敷の玄関の前で立ち止まったタバサは、一瞬震えた口元を噛み締めると、扉に向かって手を伸ばし―――。
『―――ん? 改めて聞かれると……まあ、そうだな』
―――何故か、
『あ~……ん。ま、あるにはあるが』
タバサは唐突に彼のことを思い出した。
『ふむ。ならお前は何だと思うタバサ?』
屋敷の玄関には、鍵は掛かってはいなかった。
扉は軋みを立てながらもゆっくりと開いていく。扉が完全に開ききると、中から朝の冷えた空気が流れてきた。開ききった扉の前で立ったタバサは、ぐるりと見慣れた屋敷の中を見渡す。
人の気配は……ない。
タバサが帰ると、何時も飛ぶように迎えに来る執事のペルスランの気配も、他の使用人の気配もなにも感じない。
節くれだった杖を握る右手を握り直すと、タバサはゆっくりと屋敷の中に足を踏み入れる。
その姿には、緊張も何も見えない。何時のものように、何の感情も見えない顔でゆっくりとした足取りで歩いている。
ただ一つ。
違いがあるとすれば、その身に纏う雰囲気。
タバサが通り過ぎた道が凍りつくかのような、それほどまでに冷め切った気配。タバサが一歩足を進めるたびに、空気が軋みを上げている。
タバサが向かう先は、母親の居室。そこに至る長い廊下を、タバサは歩く。
ゆったりとした様子で歩いていたタバサだが、唐突に右手に握る杖を振るった。
瞬間。
タバサを中心に、前と後ろにある、廊下の左右に並んだ扉を破壊しながら、矢が一斉に襲いかかってきた。
しかし、その矢尻がタバサの身体に届くことはなかった。
その時には既に、氷の壁がタバサの周りを囲んでいたからだ。
数十の矢の鋒は、現れた氷の壁に深々と突き刺ささるが、一本たりともタバサに身体に辿り着いたものはなかった。
しかし、襲撃はそれだけで終わりではなかった。
破壊された扉の奥から、剣を構えた兵士たちがタバサに向かって襲いかかってきたのだ。前と後ろから剣を振りかぶりタバサに襲い来る人影、しかしそれは、人ではなく、魔法人形―――ガーゴイルであった。
一斉にタバサに襲い掛かるガーゴイルの数は十を優に超えていた。
死を恐ることがなく、しかも頑丈。ドット程度の魔法ならば、止めることも出来ずそのまま切り伏せられてしまう。そんなガーゴイルが前と後ろから同時に剣を振りかぶり襲いかかってきているのだ。しかもタバサの周囲には、未だ氷の壁があり、それで剣を止められる可能性は低く、逃げようにも氷の壁が回避の邪魔となっていた。
だが、窮地に追いやられている筈のタバサの目に、焦りの色は欠片も見えなかった。
杖を握る右手を軽く上げる。
動作としては、ただそれだけだった。
しかし、その結果は劇的であった。
タバサを囲む氷の壁が、まるで爆発したかのように吹き飛んだのだ。
カタパルトで射出されたかのように、高速で打ち出された氷の壁は、巨大な弾丸となって迫るガーゴイルに襲いかかり。その命なき身体を粉々に砕いた。大きな屋敷であり、その廊下も広いとは言え、その廊下を塞ぐほどの巨大な氷の壁から逃れることが出来るはずもなく。抵抗する間も、逃げる間もなく車に轢かれた虫のようにガーゴイルは粉々に吹き飛ぶことになった。撃ち出された氷の壁は、ガーゴイルの引き壊した後も止まることはなく、そのまま廊下の突き当たり―――タバサの母親の居室の扉も粉々に破壊した。
木屑が、砂煙のように宙を舞う。
その全てが床に落ちると同時に、部屋の中に踏み入いる者がいた。
タバサだ。
タバサは母親の居室に踏み入ると、確かめるように部屋の中を見渡す。
―――ベッド。
―――小机。
―――椅子。
母親の姿は―――ない。
そのことに気付いたタバサの眉が、微かに動いた。
その時、パラパラと本がめくられる音が部屋の中に響いた。
全く気配を感じていなかったタバサが、反射的にその音が聞こえた方向に杖の切っ先を向ける。
タバサが破壊した部屋の扉の向かいに設置された本棚の前。
杖の先、タバサの視線の先にいたのは、薄い茶色のローブを着た、痩せた長身の男だった。男はつばの広い、羽が付いた異国のものと思われる帽子を被っており、その隙間からは腰まで届くだろう長い金髪が溢れていた。
男は壁沿いに設置されている本棚の前に立ち、タバサに背中を向けている。
開いている窓から風が吹き込み、タバサの足元に降り積もった扉の残骸である木屑が舞い上がり、視線の先に立つ男の長い金の髪が揺れた。
タバサの目が細まる。
母の居室には母親の姿はなく、代わりに見知らぬ男の姿が。
状況からすればこの男が自分に対する刺客なのは間違いないだろうが、敵を背に本を読みふける刺客などタバサは聞いたこともない。
だが、油断はしない。
男の背中に杖を向けたまま、タバサは口を開く。
「母はどこ?」
タバサの声の余韻が消えた時、パタンと本を閉じる音が部屋に響き。無意識に、タバサの喉がゴクリと動いた。
「ん?」
疑問の声を上げながら、男は振り返った。何も怪しい動きのない、普通の、ごく自然な所作。
だけど何故か、気味が悪く感じる。
「母……と言ったのか?」
男の声は高く。まるでガラスのグラスを打ち付けたような高く澄んだ声であった。
タバサを見る目は切れ長で、その瞳は薄いブルー。線の細い、美しい男だった。
だが、その年齢を推し量ることは難しかった。肌の色艶や体格等、見た目的には二十歳前後に見えるのだが、身に纏う雰囲気がそれを否定するのだ。線の細いその身体から滲み出る、奇妙な雰囲気により、年齢を推し量ることを難しくしていた。
だが、男の見かけや歳など、今のタバサには全く関係も興味もなく。
「……母をどこにやったの?」
再度変わらない声音で、タバサは男に問いただす。
タバサの問いに、男は口元に薄い苦笑いを浮かべると、閉じた本の表紙を撫で口を開いた。
「お前が言う『母』とは、今朝、ガリア軍が連行していった女性のことを言っているのか? 残念ながらわたしは彼らがどこに行ったのかは知らない」
男の返事を聞くと、タバサは無造作に杖を振った。中空に現れた氷の矢が男に向かって走る。
冷たく鋭い氷の矢が、男の胸を貫く―――ことはなかった。
氷の矢は、男の胸を貫く直前。その胸の前でピタリと停止していた。
タバサの眉がぴくりと動く。
障壁?
しかし、それにしては、まるで矢が自ら止まったような気がしたが……。
魔法―――なのだろうか……?
タバサの耳が確かならば、男が呪文を唱える声は聞こえなかった。
ぞわりと背中に走る悪寒に、タバサは腰を落とすと、男の動きを見落とさないように鋭く目を光らせる。
中空に停止していた氷の矢が、床に落ち澄んだ音を立て砕けた。
「ふむ。しかしこの『物語』と呼ばれるものは素晴らしい」
警戒を露わにするタバサを、しかし男は気にすることなく、手に持つ本の表紙を撫でた。
「我々にとって、『本』というものは、後の世に引き継ぐべき事柄や歴史を記したものであり、まず何よりも正確でなければならない。だが、お前たちは違う。歴史に独自の思想や考えを書き加え、娯楽として作り変える……ふむ、面白いものだな」
淡々とした声の中に、何処か笑いが混じらせながら、男は手に持つ本に視線を落とした。
「特にそう、これだ。お前はこの『イーヴァルディの勇者』という物語を読んだことはあ―――」
男の視線が動いた瞬間を逃すことなく、タバサは魔法を再度放った。放った魔法は同じ氷の矢。だが、数は最初の倍以上。全方位から男に襲い来る氷の矢。
だが―――。
「―――るか?」
氷の矢は男に突き刺さる直前中空でその動きを停止させると、床にその身を落とし砕け散った。
殺されかけたというにもかかわらず、男は変わらず話を続けている。
「対立しているはずの我らの聖者の一人を、お前たちは勇者と呼ぶとは……本当に興味深い」
タバサの頬を一雫の汗が伝い……床に落ちた。
わからない……何故、氷の矢がその動きを途中で止まるのか。その理由がわからず、焦りだけがつのり、タバサの顔に陰が差す。
魔法……だとは思う。
しかし、その魔法が何なのかがわからない。
ぐるぐると思考が回る。
しかし、解答は出ない。
風? 火? 水? 土? だが……そんな魔法は見たことも聞いたこともない。
系統魔法……ではない?
カラカラと空回りしているだけの思考が、ある考えに至ると共にカチリと止まった。
系統魔法ではないのならば、残るは一つしかない。
そう、この世界には、系統魔法以外にも魔法はある。
そのことを、タバサは身を持って良く知っていた。
北花壇騎士としてこれまで幾度も戦ってきた亜人が使用していた……それは、
「先住―――魔法」
「―――何故、お前たちは、そのような無粋な呼び方をするのだろうな?」
タバサの言葉に、男は本に落としていた視線を上げると、苦い声を上げた。
「その様子。ああ、もしやお前は、私を蛮人と勘違いしていたのか?」
タバサに顔を向けた男は、頭に被った帽子に手を伸ばし、それを頭から外した。
「私は『ネフテス』のビダーシャルと言う。この出会いに感謝を」
男が帽子を外すと、その下から現れたのは、金色の髪から覗く―――尖った長い耳。
男の正体、それは―――
「ッ?! ……エルフ」
ハルケギニア東方の砂漠に暮らす、人間とは異なる長命の種族―――エルフであった。
驚愕の声を喉で押し殺したタバサは、短く男の種族の名前を呼ぶ。
その声には、紛れのない恐怖の色が混じっていた。
人間の何倍もの歴史と文明を持ち、そしてメイジを遥かに超える強大な先住魔法を操る種族。
動悸が早まり、杖を握る右手に、じっとりと汗が滲む。
竜とエルフ。
その二つが、タバサが最も相手をしたくない存在だった。
成熟した竜の火力と生命力は、単純にメイジの魔法を凌駕しており、人の身でその存在に対することは自殺に等しい。
そしてエルフは、様々な伝説、伝承、噂で耳にするその魔法の力。
幼少の頃より囁かれ続けたエルフの恐怖が、歴戦の戦士であるタバサの心と身体を震わせる。
エルフの力、それがただの与太話ではなかったことは、今自分の目で確かめた。
フッ、フッと、何時からかタバサの呼吸が荒くなっていた。
「一つ……要求をしたい」
『ネフテス』のビダーシャルと名乗ったエルフの男が、震え出したタバサを哀れんだ目で見つめながら口を開いた。
「……何?」
「なに、簡単な事だ。ただ抵抗しないで欲しいということだけだ。我らエルフは無駄な争いは好まない。だが、ジョゼフとの約束で、お前がどう思おうと、私はお前をジョゼフの元に連れて行かなければならない。お前には出来れば大人しくついてきてもら―――」
エルフの言葉を止めたのは、突然部屋の中に発生した凍えた強風であった。
ジョゼフ―――父親の仇の名が耳に入った瞬間、エルフの存在に震えていた心と身体がピタリと氷ついたように固まり。これまでに倍する怒りと憎しみが氷つく心を荒れ狂わし。その影響は、現実世界にも及ぼし始めた。
氷の粒が混じった風は、部屋の中で渦を巻きその強さを増し始める。
唐突に発生した局地的災害の発生源はタバサであった。
轟々と荒れ狂う風の中心で、タバサは平坦な声音で呪文を紡いでいる。
「ラグーズ・ウォータル・イス・イーサ・ハガラース……」
タバサが唱える呪文はトライアングルスペル。
だが、その力はトライアングルを超えた先、スクウェア。
何時からか、荒れ狂った怒りがタバサを一段階上へと押し上げていた。
更に強い感情は、魔力の総量を押し上げると言われる通りに、タバサが唱えるトライアングルの魔法は、スクウェアクラスに達していた。
呪文を唱え終え、魔法が完成する。
凍った空気の束が、タバサを中心に円環を作り。それが回転し風を巻き起こす。部屋の中に、嵐が吹き荒れた。
氷と風が混ざり生まれたその魔法の名は、『氷嵐』。
触れれば一瞬で身体を切り刻む死の風吹き荒れる嵐。
机、椅子、壁、本棚……死の嵐は部屋を千々に切り刻む。
タバサが杖を握る手を掲げると、荒れ狂う氷嵐の中心が、身体から掲げる杖に移動し。
「―――ッ!」
嵐を纏う杖を、タバサはエルフ目掛け振り下ろした。
一瞬で氷の刃が舞い狂う嵐がエルフの身体に食らいつく。
だが、タバサの顔に勝利の喜びは見えない。それどころか、顔には驚愕の色が浮かんでいた。
タバサは見たのだ。
エルフが氷嵐に飲まれる寸前、自分を見つめる瞳の中には、恐怖も怒りも敵意さえなく、ただタバサに対する『遠慮』しかなかったのを。
愕然とするタバサの脳裏に、最大級の警鐘が響く。
エルフを飲み込んだ氷嵐が、何の前振りもなく逆回転したと思うと、タバサに向かって飛んできたのだ。
「イル・フル・デラ―――ッ?!」
まるで壁に投げつけたボールのように跳ね返ってきた氷嵐に対し、反射的に『フライ』の呪文を唱え、空へ逃げようとするタバサ。歴戦の戦士であるタバサは一瞬で魔法を完成させると、地を蹴り迫る氷嵐から逃げようとする。
しかし、それは叶うことはなかった。
驚きに見開かれたタバサの目に映ったのは、まるで粘土のように形を変えた床が、自分の足を巻き付いている光景であった。
「先住魔ほ―――!?」
微かに開かれた口元から、こぼれ落ちるように漏れた言葉は形になることはなかった。
形となる直前、タバサの身体を氷嵐が飲み込み、己を生み出した主の意識を貪り食らったからだ。
元の形がわからなくなる程に荒れ果てた部屋の端に、タバサが壊れた人形のように転がっている。傷一つどころか、身に纏う服に皺一つ作ることはなかったエルフが、部屋の隅に転がるタバサに向かって歩き出す。力なく倒れ伏すタバサの身体は、氷嵐の氷の刃によって傷付けられた全身から流れる血によって真っ赤に染まり。魔法が消えたことにより、氷が溶け、タバサから流れる血と混じり合いタバサと床に敷かれた絨毯は、血と水にぐしゃぐしゃに汚れていた。
一見死んでいるかのように見えるタバサであるが、その胸は微かに動いており、まだ生きていることを示している。しかし、その動きは余りにも弱々しく、傍から見ても、その命がもう長くないことは明らかであった。
そんな死に掛けのタバサの首筋に手を当て脈を確認したエルフ―――ビダーシャルは、そのまま呪文を唱え始める。
「この者の身体を流れる水よ……」
ビダーシャルが行使する魔法、ハルケギニアの人間が『先住』と呼ぶ『精霊の力』は、系統魔法の『治癒』を遥かに超える速度で、タバサの傷を癒していく。直ぐにタバサの身体の傷が完全に塞がる。傷は癒えるも、未だ血と水で濡れそぼったタバサをビダーシャルは抱え上げた。
腕の中のタバサに目を落としていたビダーシャルだったが、視線を感じ、顔を上げると視線を窓の外に向けた。窓の向こう、そこには一匹の風竜が怒りに燃える目でビダーシャルを睨みつけていた。
「……韻竜」
自分を睨み付ける風竜の目と合った瞬間、ビダーシャルはその風竜がただの風竜ではないことに気付く。
『韻竜』―――それは、今は絶滅したと言われる古代種であった。知能が高く、先住の魔法―――精霊の力を操り、人の言葉さえ操る幻獣。
ビダーシャルの目が、チラリと腕の中のタバサに向けられる。
メイジの使い魔は、使い手の実力を現すと聞くが……韻竜を使い魔にするとは……自分が『契約』した場所でなければ、危なかったかもしれなかったな。
心の中で感心の声を上げながら、ビダーシャルは自分を睨み付ける風竜―――シルフィードに話しかけた。
「韻竜よ。私にお前と争う意思はない。『大いなる意思』もまた、お前と私が戦うことは望んでいない」
ビダーシャルが口にした『大いなる意思』。
それはエルフや韻竜等、ハルケギニアの先住民が信仰する概念であり、『精霊の力』の源であった。つまるところ、人間にとっての神である。
神が戦うことを望んでいないと言われても、シルフィードは動揺するどころか、唸り声を上げ始めた。
ビダーシャルの眉がぴくりと動く。
自分を威嚇するこの幼い韻竜は、自分が己より強いことに気付いている筈だ。なのに何故、この韻竜は自分に牙を剥くのか。
「蛮人の使い魔になれば、韻竜と言えどここまで落ちるか」
はぁ、と溜め息を吐いてビダーシャルがかぶりを振ると、シルフィードが窓を破壊し襲いかかってきた。
だが、
「……哀れなものだ」
シルフィードの爪はビダーシャルの突き出された手に押し止めていた。
痩せたエルフが巨大な竜の爪を止める姿は、異常の一言に尽きた。ビダーシャルに爪を掴まれたシルフィードは、必死に身を捩り何とか逃げ出そうとする。しかし、シルフィードの爪を掴むビダーシャルの手は小揺るぎもしない。
そこには、傍から見ても分かるほどの力の差があった。
タバサを床に下ろすと、暴れるシルフィードの頭にビダーシャルは手をかざす。すると、ジタバタと暴れていたシルフィードの身体がピクっと一瞬震えたかと思うと、ゆっくりと瞼を閉じ寝息を立て始めた。
ビダーシャルが爪を掴む手を離すと、シルフィードの身体がドスン! と音を立て床に転がった。すぅすぅと床に転がり寝息を立てるシルフィードをチラリと見た後、ビダーシャルは床に下ろしたタバサを抱えなおすと、扉に向かって歩き出した。
意識が食い尽くされる刹那。
タバサの脳裏に過ぎったのは、囚われの母の姿ではなかった。
気を失うその最後。
タバサの脳裏に過ぎったのは、
『正しくて強い―――か……ま、確かにそうだな』
漆黒の騎士甲冑と―――
『とは言え実際のところ絶対に『これ』といったものはないと思うぞ』
―――赤い外套を身に纏う―――
『人それぞれ違うものだからな―――』
―――男の姿だった。
『―――正義の味方の定義……なんてものは、な』
後書き
感想ご指摘お願いします。
あ~……久しぶりにパソコンに触った……疲れた(; ̄д ̄)。
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