銀河英雄伝説~悪夢編
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第四十五話 俺は宇宙一のヘタレ夫だ
帝国暦 488年 9月 22日 オーディン ヴェストパーレ男爵婦人邸 アンネローゼ・フォン・グリューネワルト
弟達がヴェストパーレ男爵婦人邸にやってきたのは夜八時を過ぎたころ、食事が終わって男爵夫人に用意して貰った部屋で寛いで、いや何をするでもなく呆然としていた時だった。考える事と言えばあの人の事、もう帰宅しただろうか? 私の作った粉ふき芋とカボチャのクリームスープを食べてくれただろうか? ニシンの塩焼きは気にいってくれただろうか? そんな事ばかり考えていた。
多分、二人は食事時を外して来たのだろう。来るだろうとは思っていたが実際に来られると溜息が出た。あの人との思い出に浸る事も出来ない……。男爵夫人に案内されて二人が部屋に入ってきた。四人でコーヒーを飲みながら話しをする事になったが何とも重苦しい雰囲気が漂う。男爵夫人も場を和ませようとはしない、しても無駄だと思っているのだろう。彼女には私の気持ち、そして今日何が有ったのか、大凡のところは話してある。
ラインハルトとジークが窺うように私を見ている。そしておずおずとラインハルトが切り出した。
「姉上が最高司令官と離婚されたと聞きましたが……」
「ええ」
「姉上からそれを望まれたとか……」
「そうよ」
私の答えに二人が顔を見合わせた。
「何か嫌な事が有ったのでしょうか、我慢出来ない事が……」
「いいえ」
また二人が顔を見合わせた。
「アンネローゼ様、私達に本当の所をお話し頂けませんか、一体何が有ったのです?」
「何も有りません。私の方から別れて欲しいとあの人にお願いしただけ」
二人が困惑している。ヴェストパーレ男爵夫人が痛ましそうな表情をした。彼女の目にもこの二人があの人を不当に貶めようとしている、そう見えたのだろう。
「内乱が終結した後、あの人から言われたの。一度はっきりさせた方が良いだろうって」
「はっきり、ですか、姉上」
「そう、自分達の結婚は上から押し付けられた不当なものだった。お前が今でも不当だと思っているなら、別れる事を望むのなら自分はお前の意思を尊重するって……」
誰も私を人としては見なかった、私の意志が尊重された事は無かった。後宮に入った時からずっとそうだった。あの人に下賜されるまでずっと物として扱われてきたのだ。あの人だけが私を物として扱わなかった……。私を物から人に戻してくれた……。
今でも覚えている。あの人は眼を逸らしたまま私を見ようとはしなかった。珍しい事だ、多分自信が無かったのだと思う。あの人は私が別れると言うのではないかと怖れていた。いや多分別れると言い出すと思っていたのだ。それでもあの人は私の意志を尊重すると言ってくれた。私を物ではなく人として扱うと言ってくれた。辛かっただろうと思う、それだけにあの人の誠実さと勇気が身に沁みる。
「本当は何か酷い事をされたのではないのですか」
「いいえ」
「ですが」
「アンネローゼ様」
「ラインハルト、ジーク、本当に何も無いの」
私が否定してもこの二人はあの人に非が有ったのだとしたがっている。あの人の言う通りだ、私の存在がこの二人を縛り付けている。この二人も私の意志を尊重しようとしない、物としてしか見なかった人達とどう違うのだろう……。溜息が出そうになって慌てて堪えた。
「では何故離婚を? もしかするとあの事件の所為ですか? あの件で責められたとか」
「違います、失礼な事を言わないで、ラインハルト。一度だってあの人に事件の事で責められた事は有りません」
少し強い口調になったかもしれない。二人ともバツが悪そうな表情をしている。でもあの人は一度だって私を責めた事は無かった。逆に私の方が不思議に思ったほどだ。あの人は本当に私に罪は無いと思っていた。
「不当だと思ったのよ」
「不当?」
二人がまた顔を見合わせた。
「私にとってもあの人にとっても私達の結婚は不当だと思った。御互いの意思を無視して行われたのだから。だから私から結婚を解消して欲しいと頼んだの、それだけよ」
あのまま一緒に居たらどうなっただろう? 弟達はあの人に敵意を持ち続け、あの人も私もその対応に苦しんだと思う。あの人は私と弟達の間で板挟みになり私はあの人と弟達の間で板挟みになるはずだ。あの人が公正で有ろうとすればするほど弟達の立場は悪化するだろう。
あの人はその事で私に負い目を持つ筈だ。そして私はあの人が正しいのだと思いつつも何処かであの人を怨むに違いない。そしてあの人はその事で苦しむだろう……。あの人が酷い人ならいい、我儘で冷酷な人なら怨んでも構わない。でもあの人はそんな人じゃない。そんな人なら私を人間として扱おうとはしない筈だ……。
冷徹、非情、皆があの人をそう評している。でも本当はそうじゃない、冷徹、非情なのは表面だけ、その奥には温かく優しい心が存在している。あのまま一緒に居たらいつか私はあの人の優しさに甘えてあの人の心を傷つけ壊してしまうだろう。それどころかあの人の心が壊れるのを望んでしまうかもしれない……。
一緒には居られない、そう思った。あの人にもそれを正直に話した。それが私なりのあの人への誠意だと思った。そして私の事は諦めて欲しいと思った。あの人は一言も口を挟むことなく黙って私の話しを聞いていた。そして私に“それでも私はお前に傍に居て欲しいと思う。よく考えてくれ”と言ってくれた。
私は泣き出してしまった、ずっと心を殺して生きて来た、泣く事など無かった、それなのに泣き出してしまった。あの人が私を必要としてくれているのが嬉しかった。私はこの人の前でなら泣けるのだと思った……。だから一緒には居られないと改めて思った。この人の前では感情が溢れてしまうから、いつか酷い事を言ってしまいそうだから……。
ラインハルトとジークが困惑した表情を浮かべている。この二人を私が縛ってしまった、狂わせてしまった。あの人は私の所為じゃないと言ってくれた。でも私が原因で有る事は否定できない、そこから眼を逸らすのは正しい事ではない……。
「姉上、これからどうされるのです?」
「そうね、住むところを決めなければならないし領地も見て回らなければ……、忙しくなるわ」
「……姉上がグリューネワルト伯爵夫人に戻られたのは知っています。しかしお金は有るのですか?」
“伯爵夫人”、その言葉に胸が痛んだ。あの人に“伯爵夫人”と呼ばれた時、一瞬何の事か分からなかった。自分の事だと分かった時どうしようもないほど動揺している自分がいた。どうして“アンネローゼ”、“お前”と呼んでくれないのか……。そう思っている自分がいた。
三つも年下の夫に“お前”と呼ばれる、最初は抵抗を感じたことも有る。でも“伯爵夫人”、その言葉のなんと余所余所しい、寒々しい事か。それに比べれば“お前”という呼びかけはなんて温かみのある呼びかけなのだろう。私は“お前”と呼んでくれる人を失ってしまった。私はもうあの人にとっての“お前”では無くなってしまったのだ。私は一人になってしまった、他人になってしまったのだとあの時思った。
「大丈夫よ、あの人が二百万帝国マルクをくれたから。金銭面で心配はいらないの」
二人が驚いている。
「私はもう大丈夫なの、誰にも束縛されていないし不当にも扱われていない。だから、貴方達も自由に生きなさい。私のためにでは無くて自分のために生きて。良いわね?」
二人が困惑したように頷いた。
「それと当分私達は会わない方が良いと思うの」
「姉上!」
「アンネローゼ様!」
「それぞれが自分の道を見つけ歩き始めるまでは会わない方が良いわ、そう思うの」
ラインハルト、ジーク、私から解放してあげる。だから自由に生きなさい。そしてあの人も自由に生きて欲しい……。ヴェストパーレ男爵婦人が頷くのが見えた……。
帝国暦 488年 9月 22日 オーディン ヴァレンシュタイン邸 エーリッヒ・ヴァレンシュタイン
一人減っただけで随分と広く感じるな。それになんとも寒々しい。部屋に温かさが感じられない、こんな家だったかな? なんか昨日までとは別な家に居るような感じがする……。広すぎるな、売り払って官舎に移るか……。その方が良さそうだな。
アンネローゼは夕食の用意をしてくれていた。最後の手料理だな、味わって食べないと……。ニシンの塩焼きに粉ふき芋の付け合わせか、それとカボチャのクリームスープ。ニシンの塩焼きは温めてからレモン汁をたっぷりかけた。うん、美味いな、アンネローゼの料理の腕は随分と上達した。うん、美味い、お世辞じゃなくそう思える。ゆっくり味わいながら食べよう。
お前の意思を尊重するなんて言わなきゃ良かった。そのままでいれば良かったんだ、それなのに……。俺ってどうしようもない馬鹿だ、でもなあ、一度は言わなきゃならんだろう。俺はアンネローゼの気持ちを聞いていないんだから……。あのままじゃ俺達は何時までも中途半端だった。……粉ふき芋、美味しいな。
別れたいって言われて動転した。俺、何時の間にかアンネローゼを愛していた、いや愛していたんじゃない、強く愛していた。ずっと傍に居て欲しいって思ってたんだ。俺を傷つけたくないって言ってた、苦しめたくないって。そんなこと言われたら何にも出来ん、彼女は俺の事を思ってくれているんだ、切ないよ。
アンネローゼがグリューネワルト伯爵夫人の称号とか領地とか欲しがるとは思えん。でもなあ、俺にはそのくらいしかしてやれる事が無いんだ。彼女が生活に困らないようにしてやるしか……。権力なんて何の役にも立たん、俺って無力だ。
金を渡すのだって領民のためとか何言ってんだか……。素直に俺の気持ちだって言えば良かった、このヘタレの根性無しが。……リメスの祖父さんも許してくれるよな、俺は彼女に何かしてやりたかったんだ。祖父さんだって祖母さん相手にそういう気持ちになった事は有るだろう。
もっともリメスの祖父さんもちょっとヘタレっぽいからな、俺がヘタレなのはリメスの祖父さん似かもしれん……。それでも俺よりはましだ、リメスの祖父さんは祖母さんとの間に母さんを作ったんだから。俺なんて何もない、空っぽのこの家だけが残った……。
風邪引いたかな、鼻水が出てきた。おまけに粉ふき芋が滲んで見える。季節外れの花粉症かな……。考えてみれば新婚旅行もしていないし買い物にも付き合ってやれなかった。風呂にも一緒に入ってない。写真一枚残っていないじゃないか。忙しかったし重い物は持てないし右足がアレだから……、情けない夫だ、間違いなく宇宙一のヘタレ夫だ。……彼女との思い出ってこの家の中にしかないんだな、……売るのは止めだ、絶対売らない。他に残っている想い出は執務室だけだ、とてもじゃないがあれは懐かしいなんて思えん。
それなのに俺の印象に残っている彼女は執務室を出て行く彼女の後姿なんだ。ゆっくり静かに執務室を出て行った。服の色は覚えていない、色を覚えているのは離婚届を出した赤のショルダーバックだけだ。それだけは鮮明に覚えている……。笑顔なんて殆ど見た事が無い、印象に残っているのは最後の後姿、俺って不幸だ。
ヒルダが“宜しいのですか”なんて訊いてきたが宜しいわけがないだろう。だがな、離婚届にサインしているんだ、どうすればいいんだ。傷口に塩を擦り付ける様な真似をしないで黙って仕事をしろって言うんだ。怒鳴りつけてやりたかったが相手がヒルダだからな、諦めた。なんてったって原作世界では屈指の恋愛音痴のお嬢様だ、しょうが無いさ。もっとも俺は恋愛音痴を超える恋愛白痴、手の付けられない阿呆だ。
いかんな、落ち込むだけだ、仕事の事を考えよう。ラインハルトをフェザーンに送る、フェザーンに居る不平貴族は必ずラインハルトに接触するだろう。ケスラーには何も知らせないようにしよう。ケスラーからの報告とラインハルトの報告を突き合わせる事で情報の信憑性を確かめるとしよう。
問題はフェザーンの動きだな、連中がどう動くか。不平貴族という駒は幾らでもある、果たして何を企むか。ラインハルトが何処まで探れるかは疑問だな。いや、或いはフェザーンが直接ラインハルトに接触する可能性も有るか……。フェザーンにとっては利用しやすい駒だろう。可能性は有る。
原作通り皇帝誘拐を企むかな、実行者がヘボ詩人とラインハルト? 嗤えるな、そいつは。ラインハルトが一体どんな選択をするか、楽しみでもある。警告はしておいたからな、馬鹿はやらないだろう。だが馬鹿をやりそうになったらアンネローゼを不幸にするなと叱り飛ばしてやる。彼女との約束だからな、但し一度だけだ、二度目は無い。
駒が増えれば選択肢も増える、或いはフェザーンが接触するのはブラウンシュバイク、リッテンハイムという事も有るだろう。こっちも警戒が必要か……。国内の隙を連中に見せることは出来ない。金だけでは足りんな。ブラウンシュバイク、リッテンハイムの新たな名前が決まったら政府主催による親睦パーティーを開く。その時、俺はブラウンシュバイク、リッテンハイムに挨拶をし、彼女達と親しく話をする。かつて敵対したことなど無かったかのように話をするのだ……。
帝国宰相兼最高司令官が両家に礼を尽くす。百万帝国マルクの年金と合わせて両家のプライドを十二分にくすぐることが出来るだろう。人間、何が屈辱かと言って無視されることほど大きな屈辱は無い。そういう事をしてはせっかくの百万帝国マルクが何の意味も無くなる。
誰の目から見ても優遇されていると分かれば国内での反政府勢力に担がれる危険性は少なくなる筈だ。フェザーンの接触も可能性は低くなる。失敗は出来ん、アンスバッハ、シュトライトと打ち合わせをする必要が有るな。一度やっておけば二回目、三回目は一回目をアレンジすればいい、それほど難しくは無い筈だ。
ダンスを要求されるかもしれん。難しいな、右腕が弱っているから相手を支えられないし右足も駄目だ。ダンスは無理だな、代理で誰かに頼むか。若くて女性受けのする奴……、ミュラーとロイエンタールだな、この二人に頼もう。後はロイエンタールに馬鹿をするなと釘を刺しておかないと。
……アンネローゼは、……来ないだろうな、だがヴェストパーレ男爵婦人、シャフハウゼン子爵夫人は来るだろう。彼女達とアンネローゼの事を話せば良い。近況を知ることも出来るし、俺が彼女の事を気にかけていると皆が理解するはずだ。離婚はしたが関係は良好だと思うだろう。そうなれば彼女の立場も強化されるはずだ。
後は同盟だな。まず捕虜の待遇改善を行う。帝国の支配者が変わった事でこれまでの帝国とは違うという事を捕虜の心に刻みつけるんだ。その上で捕虜交換を行う。その際、捕虜達には同盟政府が捕虜達を見捨てようとしたことを伝える……。捕虜達は一体誰を信じるかな、同盟政府か、それとも……。まあ同盟政府はちょっとした爆弾を抱える事になる。俺が唆さなくても反乱が起きるかもしれないな……。
スープが冷めてしまったな、もう一度温め直すか……。この家に一人で居るのは辛すぎるな、でもこの家を失うのはもっと辛い。ここを失えば俺に残るのは執務室での記憶、立ち去る後ろ姿だけになってしまう。ここに居よう、地獄かもしれない、だが甘美な地獄だ、冷酷非情と言われ内実はヘタレな俺には相応しい居場所だろう……。
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