銀河英雄伝説~悪夢編
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第二十話 返しすぎだ、馬鹿野郎!
帝国暦 487年 5月 18日 オーディン 帝国軍中央病院 エーリッヒ・ヴァレンシュタイン
身体が上手く動かない、もどかしい思いを覚えつつ目が覚めた。真っ白い天井が視界に入った。綺麗だ、天井が高い、なんともいえない開放感がある。此処は何処だ? グリンメルスハウゼンの元帥府ではない、俺の官舎でもない様だ。だが何処かで見た事があるような気がする、ここは……。いや、それ以前に俺の身体はどうなっている? ほとんど動かない、何が有った?
「閣下、目が覚めたのですか」
心配そうな女性の声だ。近寄ってきたのはヴァレリーだった。心無し目が赤い。右手にギブスが付けられているのが分かった。左手は? 左手は動く。
「まだ、動く事は出来ない筈です。大人しくしてください。今、元帥府に連絡を取ります」
ヴァレリーが俺に動くなと言うように身体を手で押さえてから部屋を出て行った。個室、多分病院だろう、少なくともホテルではない、あまりにも殺風景だ。何故俺はここに居る? 暫くするとヴァレリーが戻ってきた。
「ここは?」
「帝国軍中央病院です」
「帝国軍中央病院……」
やはりそうか、俺は怪我をして病院に居るらしい。しかも状況からするとかなり酷い怪我をしているようだ。
「一体何が有ったのです?」
「覚えていらっしゃいませんか?」
「確か元帥府から官舎まで車で送ってもらったと覚えていますが……」
「その途中で襲われたのです」
「襲われた?」
記憶にない。覚えているのは酷い衝撃が有った事だけだ。いきなりドアに叩きつけられたような感じがしたが、あれは事故じゃなかったのか……。その後を覚えていないという事は俺は気を失ったのか……。
「水を下さい」
「はい」
ヴァレリーが差し出してきた水差しを口に含み一口水を飲むと猛烈な渇きを感じた。二口、三口と水を飲む。飲む度に美味いと感じた。
水を飲んで一息ついた時だった。部屋に入ってきた人間が居た。目を向けると白衣を着ているのが見える。女性、医者のようだ。
「目が覚めたのですね、私はクラーラ・レーナルトと言います。閣下の担当医です。ご気分は如何ですか?」
「問題ありません。私は一体どういう状態なのです? かなりの怪我をしているようですが……」
レーナルト女医の表情が曇った。年の頃は三十代半ばだろうか、余り背は高くない。美人というよりは可愛らしい感じの女性だ。髪は茶色、目は優しそうな明るい青だった。彼女がちょっと困ったような表情をしてヴァレリーに視線を向けた。ヴァレリーが頷くと彼女も頷いた。
「事件の詳細はフィッツシモンズ中佐にお聞きください。閣下は地上車の後部座席、右側に座っておられました。T字路で閣下の地上車に左側面から別な地上車がかなりの勢いで突っ込んだのです。閣下の地上車の左側面は大きく凹みました。そして右側面は壁に押し付けられこちらも凹んだのです。閣下の御怪我は右側に集中しています」
なるほど、ギブスも右側だ。待て、左側にはリューネブルクが居たはずだ、奴はどうなった?
「状態は良くありません」
「それは死にかけているという事ですか?」
「いいえ、そうでは有りません」
「では軍には戻れないと?」
「いいえ、それも有りません。怪我が治れば軍への復帰は問題ありません」
「ならば問題は有りません。続けてください」
リューネブルクも怪我をしてるのかな、多分そうだろう。看護婦に手を出すんじゃないぞ。
「右肩を骨折、そして下腕部を複雑骨折しています。残念ですが下腕部の複雑骨折は治っても以前の様に重いものは持てなくなると思います」
「問題ありません、元々重いものなど持った事は有りませんから」
レーナルト女医がまた困ったような表情をした。やせ我慢とでも思ったか。だが俺の言葉に嘘はない、ペンとナイフとフォークが持てれば十分だ。俺は肉体労働者じゃない。
「それと閣下の右足首から先は失われました」
「失われた?」
「前部座席に挟まれ抜けなくなったそうです。そのため已むを得ず切断したと聞いています」
腕の無い軍人や足の無い軍人は幾らでもいる。俺もそれの仲間入りという事だ。今更驚く様な事じゃない。
「痛みが有りませんが?」
「痛み止めを閣下に投与しています。今果義足を用意しています。後五日ほどで出来上がるでしょう。それと右大腿骨骨幹部を骨折していましたので手術で対応しました。今閣下の右足には髄内釘が入っています。今後快癒しても歩行に多少の不自由を感じるかもしれません」
「分かりました」
良く分からんが右足の太腿の骨が折れた、だから何かを入れてくっつけてるって事だろう。こいつも問題ない、宇宙艦隊総参謀長が旗艦の中をうろうろ歩き回るようでは負け戦だ。俺は負けないように頑張ればいいだけだ。簡単だな、言葉にすると。実際に行うのは至難の業だが。
「他には?」
「右側の肋骨が三本折れています。そのうち一本が肺に突き刺さりました。そのためかなり危険な状況になりました。足首の切断を躊躇えば危ないところだったと思います」
やれやれだな、どうやら本当に死にかけたらしい。
「他には?」
何が来ても驚かんぞ、そう思ったがレーナルト女医は首を横に振った。
「有りません、それだけです」
「どのくらいで退院できますか」
俺が問い掛けるとレーナルト女医が少し考えるそぶりを見せた。
「入院そのものは一カ月ほどになります。ただ退院後もリハビリに通っていただかねばなりません。大体それが一カ月とお考えください」
「分かりました」
二カ月か、ちょっとかかるな。それにしても随分と派手に痛めつけられたものだ。誰がやったのかは分からんがきっちりとお返しはさせてもらう。いかん、もう一つ訊くのを忘れていた。
「今日は何日です?」
「今日は十八日です」
「十八日……」
俺が負傷したのは十三日、今日で五日目か……。五日間、何が有った?
レーナルト女医が安静にするようにと言って部屋を出て行くと入れ替わりにクレメンツ、ミュラーが入って来た。二人とも心配そうな表情をしている。
「気が付かれましたか、心配しました。皆が来たがったのですが大勢で押し掛けては御迷惑かと思い私達だけできました」
「済みません、心配をかけたようです。一体何が有ったのです」
クレメンツがヴァレリーに視線を向けるとヴァレリーが首を横に振った。“話してないのか”、“話していません”、そんな感じだな。
「閣下を襲ったのはベーネミュンデ侯爵夫人の意を受けた者達です。彼女は今回の一件の背後に閣下が居ると思ったようです。閣下が国務尚書を動かしたと思った……」
「馬鹿な……」
有り得ない、あの女なら背後に居るのはアンネローゼだと思うはずだ。それが何故俺になる?
「それで侯爵夫人は如何しました?」
クレメンツとミュラーが顔を見合わせた。
「自殺しました。飲み物に毒を入れて……、服毒自殺だと思われます」
「違う、自殺じゃない……」
あの女が自殺などするはずが無い。自殺とは罪を認めるか絶望した者がとる行為だ。あの女は自分が被害者だと信じていた、罪など認めるはずが無い。そしてアンネローゼが居なくなればフリードリヒ四世は自分の所に戻って来ると信じていたのだ。絶望などするはずが無い。
「殺されたと?」
「そうだよ、ナイトハルト。彼女の狙いはグリューネワルト伯爵夫人だったはずだ。それを私にすり替えた人間が居る。その人物が侯爵夫人を殺した。多分屋敷の誰かを買収して飲み物に毒を入れさせた。そんなところの筈だ」
誰だ? 馬鹿八人衆か? 或いはブラウンシュバイク公? 他の貴族の線も有るな、随分と手際よくやったものだ。余程俺を殺したかったらしい。
「確かに捜査に当たった憲兵隊の話では幾つか不審な点が有るそうですが……」
「ギュンターを、いやキスリング中佐を呼びますか?」
「いや、今の私は動けない。暫くは向こうの芝居に付き合うしかない。他言はしないでください」
クレメンツとミュラーが頷いた。
「他には?」
「……イゼルローン要塞が落ちました」
「いつです」
「十六日です。侯爵夫人の事件の所為で軍は混乱しました。小官はあれを十四日には上に出したのですが……」
クレメンツが首を横に振った。
「後回しにされたのですね」
「はい……」
一つ躓くと全てが駄目になるという事だな。ヤンが動いたか……、となると問題は帝国領出兵が有るかどうかだ。宇宙艦隊の編成が急務になるな。どうにかしないと、それなのに俺は動けない……。
「その責任を取ってミュッケンベルガー元帥が辞任しました」
「……後任は?」
「グリンメルスハウゼン元帥です」
溜息が出た。そんな俺をクレメンツとミュラーが辛そうな表情で見ている。溜息も自由に出来なくなったか……。
「ところでリューネブルク中将は如何しました?」
俺の問い掛けにクレメンツとミュラーがヴァレリーを見た。ヴァレリーは俯いている。
「話していないのか、中佐」
「申し訳ありません、ミュラー提督」
まさかな、確かに酷い衝撃だったが衝突事故だ、死ぬなんて事は無い筈だ。
「どういう事です、彼は何処にいるのです?」
「……リューネブルク中将は死にました」
クレメンツが俺に答えた。
「馬鹿な、所詮は衝突事故でしょう。私だって生きている」
「それだけでは有りません。衝突の後、動かなくなった地上車に連中は銃撃を加えたのです。後から付いて来た護衛が直ぐに連中を追い払ったので僅かな時間でしたが……」
「……」
気付かなかった、いや俺には記憶が無い。失神していたからか……。
「リューネブルク中将自身、衝突の衝撃で足を骨折していました。外に出て敵を追い払うことは出来なかった。それでとっさに閣下を庇って……。その御蔭で閣下は奇跡的に無傷だったのです」
「馬鹿な……」
馬鹿野郎、リューネブルクの大馬鹿野郎。大方借りがあるとか詰まらない事を考えていたんだろう。返し過ぎだ、その所為で今度は俺の方が借りを作ってしまった。それなのにどうやって返せばいいのか俺にはさっぱり分からん。どうして皆俺が困るような事ばかりするのか、リューネブルクの大馬鹿野郎!
帝国暦 487年 5月 18日 オーディン 帝国軍中央病院 アルベルト・クレメンツ
部屋を辞去して廊下を歩いていると沈痛な表情でミュラーが話しかけてきた。
「平静を装っていましたが総参謀長にはかなりのショックだったようです」
「そうだな」
フィッツシモンズ中佐は病室に泊まってゆく。今夜は彼を一人にしない方が良いだろう。
「ミュラー、例の侯爵夫人の一件、キスリング中佐に報せておけ。閣下の疑念の真実を確認させるんだ」
「宜しいのですか? 総参謀長は今は動けないと言っていましたが」
「このままでは真実が闇に埋もれかねん。極秘にだぞ、卿がキスリング中佐に話す事も彼がその真実を確認する事も、誰にも知られてはいかん」
「はい」
暫く歩くとまたミュラーが話しかけてきた。
「オフレッサー装甲擲弾兵総監の事、お聞きになりましたか?」
「いや、何かあったか」
「リューネブルク中将の装甲擲弾兵第二十一師団を自分の子飼いの部下に与えたようです。軍務尚書に直に頼んだとか」
「……」
ミュラーが俺の顔を見ている。
「まさかとは思いますが……」
「この一件に絡んでいると?」
「装甲擲弾兵総監は総参謀長の事もリューネブルク中将の事も好んではいません」
「……」
「今後、総参謀長が戦場に出続ければリューネブルク中将も戦場に出る事になる。当然武勲を上げるでしょう、昇進もする。自分の競争相手になる、そう思ったとしたら……」
「……或いはそう囁いた人物がいるか」
「はい」
「そのこともキスリングには伝えておけ」
「はい」
厄介な事になった。何処を見ても敵だらけだ。そして帝国の状況は僅か五日の間に驚くほど不安定になってしまった。前回の戦い以来平民達の間には貴族に対する大きな不満がくすぶっている。そんな時に今回の事件が起きた。ベーネミュンデ侯爵夫人の馬鹿げた嫉妬から総参謀長が重傷を負った。多くの平民達が皇帝に対して寵姫一人抑えられずに平民出身の総参謀長を危険な目に遭わせた愚か者、そう思っている。
そしてイゼルローン要塞が陥落した。総参謀長が無事だったら防げた可能性は十分に有った。今はまだ軍の一部、グリンメルスハウゼン元帥府でのみ囁かれているがいずれは皆が知ることになるだろう。そうなれば帝国の安全保障そのものに大きな損害を与えたと非難されることになるのは必定だ。
国務尚書がどう出るか……、全てが国務尚書にとっては裏目に出た。当然だが何らかの手で平民達の不満を払拭しようと図るはずだ。当然だがこちらを利用しようとするに違いない。一体どんな手を使ってくるのか……、帝国の内も外も敵ばかりだ、厄介な事になった……。
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