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ヴァレンタインから一週間

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第28話 誓約

 
前書き
 第28話を更新します。

 次の更新は、
 9月6日  『蒼き夢の果てに』第71話。
 タイトルは、『名前』です。

 その次の更新は、
 9月11日 『ヴァレンタインから一週間』第29話。
 タイトルは、『黒の破壊神』です。 

 
「デートはどうでしたか、忍くん」

 夕刻。午後の七時を回った頃に水晶宮に辿り着いた俺と有希を待って居たのは、人の悪い笑みを浮かべた、この水晶宮の現在の長史和田亮で有った。
 もっとも、確かに今日一日の俺の行動は、世界の命運を賭ける戦いに臨む人間の行動と言うにはあまり切羽詰まった人間の悲壮感漂うソレでも無ければ、自暴自棄に成った人間の物でもない、ごく平均的な休日を過ごす学生の姿で有った事は間違いないのですが。

 但し、俺自身はこんな経験……最悪の場合は、一命を以て邪神や魔王を封じるようなギリギリの状況に追い込まれた経験は、実は一度や二度では有りません。故に、今更慌てても仕方がない事が判って居るからの、この余裕の態度なのですけどね。
 いや、一命を以て封じた事が一度や二度ではない、……と言い直した方が正しいですか。

 神を相手にするのに人間の為せる方法はあまりにも少ない物です。
 普通にやれば、倒す事も殺す事も叶わない神を相手に其の一念を通すには……。
 残念ながら、生命を賭けるしか俺はその方法を知りません。

 最後の最期。命有る者が今際の際に刻むもっとも強い想い。その強い想いを持って神と相対すしか方法を知りませんから。

 もっとも、今回のケースは厳密に言うと、そのギリギリの状況ではないのですけどね。

「相手は最高。平日の昼間やから他に余計な連中もいない。これで後ろにショウも無い仕事が待って居なかったら、もっとノリも良かったんやけどな」

 以前の彼に対する口調とは異なった口調で、昨日訪れた時に腰を下ろしたソファーに納まりながら、そう軽口にも似た答えを返す俺。
 その口調、及び普段とは違う……。昨日、ここを訪れた時とは違うややぞんざいな態度に、少し訝しむような雰囲気を発する有希と、表情ひとつ変えずに少しの笑みを浮かべた表情で俺を見つめる亮。

 そんな亮に対して、

「それで、頼んであったモンは準備出来ているかいな」

 ……と、更にぞんざいな口調でそう問い掛ける俺。

「それでは、この仕事が終わった後に、こちらの世界で二、三日、ゆっくりと過ごしますか。私たちは、むしろその方が嬉しいのですが」

 俺の質問は無視をするかのように、そう問い掛けて来る亮。
 確かに、時間的な余裕が有るのならそれも楽しいかも知れない。

 しかし、その前に……。

「その前に、亮。質問が有る」

 相変わらず、まるで親しい友人に話し掛けるように水晶宮の長史に問い掛ける俺。
 もっとも、今の俺にすればむしろコッチの方が自然。まして、相手の方もそう感じて居る可能性が高いはずです。

 昨夜の綾……。玄辰水星の反応から判断するのなら。

「この世界の貴方の事ならば、貴方が考えて居る通りですよ」

 俺が質問する内容を口にする前に、答えを先に返して来る亮。
 成るほど。それで、俺がこの世界に呼び戻されたと言う事か。

 相変わらず、意味不明と言う気を発し続ける有希。いや、これは明らかに俺に対して説明を求めて来て居ますね。
 それならば、

「有希が三年間暮らして来たこの世界は、輪廻転生が存在する世界」

 俺は、具体的な行動としては視線のみで。そして、微かに感じる雰囲気で俺に対して説明を求めて居る少女に対して、一連の意味不明の会話の解説を始める。
 もっとも、ここまでの説明をすれば大体の事情は察すると思うのですけどね。

 一週間、共に過ごして来た彼女ならば。

「俺は昔……。玄辰水星が少女だった頃に、この世界で暮らして居た事が有る。そう言う事」

 この世界には俺の異世界同位体が居なかった。いや、既にこの世界の俺は、異界の湖にて魔王と呼ばれる存在と相打つ形と成って消えている。こう説明する方が正しいですか。
 そこで、異世界からわざわざ同じ魂を持つ俺が召喚されたのでしょう。

 但し、この想定が正しいとするのなら彼女。長門有希と言う名前の人工生命体に発生した魂と言う物も、偶然や、まして自然に発生した訳ではなく、某かの縁に因って発生した魂だと言う事になるのですが。
 そうで無ければ、わざわざ俺のような存在が、異世界から召喚されるような異常な事態は起こらないはずですから。

 何らかの縁や約束に因って、俺は彼女の前に現われたと言う可能性が……。

 そう考えながらも、そんな事はオクビにも出す事もなく、

「まぁ、そう言う訳やから、俺のここでの発言はあまり気にせんでええで」

 ……と、続けた。
 それに、前世の絆や縁など、今この場で考えたトコロで情報が不足し過ぎて居て、仮説すら立てられない状態。そんな無駄な事に費やしている時間は流石に有りませんから。

 もっとも、この世界で生きて居た、と言う台詞をちゃんと聞いた後に考えを巡らせたのならば、かつてこの世界で生きて居た俺は既に死亡して居ると言う事も簡単に類推する事が可能でしょう。

 そして当然その部分に気付いて居るはずの有希でしたが、その部分に関しては何も問い掛けて来る事もなく、首を微かに動かす事によって俺の科学的ではない言葉を信じてくれた。
 それに――
 それに彼女も気付いたのでしょう。

 昨夜の玄辰水星の反応から、この世界の俺の最期についても……。

「それで、亮。ジイさんのトコロから、頼んで置いた封印具は持って来て貰えたんやろうな」

 取り敢えず、有希は納得してくれたようなので、この話題はここまで。これ以上、俺の前世に関してツッコミを入れられると前世の最期の部分と、今回の事件との類似性を指摘されて、俺自身がこの事件の最後の部分に関わる事を彼女に阻止される可能性が高く成りますから。
 流石に、彼女が一命を賭して俺の行動を阻止しようとされた場合は、俺自身の方が折れるしか方法が無くなりますからね。

 そして、今回の事件も、最後の最期。本当にどうしようも無くなった場合にのみ、その選択肢を選ぶ心算ですから――――
 自分の生命を置いて行く事によって何かを残す事が出来るのなら、それも一興。

「ちゃんと用意して有りますよ」

 そう言いながら、亮が目の前に何かを差し出して来た。
 それは……。

「成るほど。針か」

 女性のソレと比べると当然のように大きな手では有るのですが、それでもかなり繊細な雰囲気の細い指先にそっと摘ままれている細い金属製の物体を目にして、そう呟く俺。
 そう。彼の手の中に有るのは間違いなく針。全長五センチメートルほど。太さも普通の縫い針レベル。但し、あのジイさん。……兜率宮で宝貝(パオペイ)を作り続けて居る太上老君と言う道教の最高神とも言うべき老人の元から出て来た代物ですから、どう考えても普通の縫い針とは違う物なのでしょう。
 おそらく、西洋で言うならオリハルコン。日本で言うならヒヒイロカネ。仙族的に表現するのなら神珍鉄製の針、と言う事だと思いますから。

「但し、これは精確に仙骨や、琵琶骨周辺に刺さらなければ効果を発揮しない代物です。ちゃんと、目的の箇所に刺されば羅睺(ラゴウ)星の霊気を吸い上げて、彼の身体を縛る戒めと成るはずです」

 俺に、一束の針を渡しながら、そう説明を続ける亮。
 成るほどね。つまり、自動的に相手を追尾して命中させてくれる訳でも無ければ、命中補正すら行ってくれる訳でもない。
 相手。羅睺(ラゴウ)星に命中するまでは、見た目通りの普通の針でしかない、と言う事ですか。

「まぁ、これは仕方がないか。そもそも、羅睺(ラゴウ)星の気を吸って、ヤツの動きを制御する拘束具の機能さえ果たしてくれたら文句はない」

 ため息を吐くような雰囲気で少し肩をすくめて見せながら、それでもそう答える俺。
 まして、梱仙縄(コンセンジョウ)のように不特定の存在を絡め取るような宝貝では、相手の実力が使用者を上回った時には簡単に無効化されて仕舞います。それよりは、フェンリル専用の鎖グレイプニルのように、羅睺(ラゴウ)星専用の縛めと成る宝貝を作って貰った方が、確実にヤツを拘束する事が可能と成るはずですから。

「それに、老君が作った宝貝なんやから羅睺(ラゴウ)星に刺さらない、なんて言うマヌケな状況には陥らへんのやろう?」

 一応、確認の為にも、そう聞いて置く俺。
 それに、相手は狡猾な事で知られている羅睺(ラゴウ)星。ヤツが顕現するには、決められた手順で、決められた場所に顕われるしか方法がない以上、ある程度の対策。金属に因り傷付けられる事を禁じる、などの仙術で身を護って居る可能性も高いはずですから。

 俺たちだって、物理反射や魔法反射の呪符を貼り、有希には木行無効の護符(タリスマン)も既に装備して貰っているのですからね。

 しかし……。

「そう言えば、老君からの伝言が有りましたね。その時は、オマエが対処しろ、だそうですよ」

 涼しい顔で、そう答える亮。コイツ、前に会った時と別人やないか。
 但し、これがコイツの本性。そして、ジイさんの方も相変わらず、仕事をしようとしない仙人そのものの対応。
 故に、あのジイさんは妖怪食っちゃ寝。命名は俺。

 それにしても……。

 禁呪を禁止する仙術は……。ヤツの抵抗が大きい可能性が高いからかなり厳しいか。
 針に金属以外の属性を与える。
 いや、それを行っても、相手の施した術式を完全に解読しない限り、効果のある術を組むには時間が掛かる。

 俺は、自らの傍らに佇む少女に視線を向ける。
 彼女の方も、俺を真っ直ぐに見つめ返した。但し、どうやら彼女の方は、俺の視線に気付いたからこちらに視線を移した訳では無く、初めから俺の横顔に視線を送って来ていたと言う事。

 そうして、

 彼女の視線に不安げな雰囲気はない。これは彼女が俺の事を信じてくれている証拠。
 その視線に、思わず自嘲的な笑みを漏らして仕舞う。

 こんないい加減で、行き当たりバッタリの適当な人間の何処に其処までの信頼が置けるのか。その辺りに対する自嘲が、思わず笑みの形と成って表面に現れて仕舞っただけ。

 しかし……。
 しかし、その笑みの後に、ゆっくりと首肯いて見せる俺。
 そうして、

「策は有る」

 有希と、そして何より自らを安心させるように落ち着いた口調でそう言う俺。
 そう。確かに策は有る。そして、その策は既に彼女には告げて有る。

 次善の策として。

「もっとも、あれは最悪の想定。最初の段階で針がひとつでも刺さってくれたら、いくら不死身の邪神とは言っても、俺と正面から戦う事は出来なくなるはずやから」

 次善の策については、時空結界の施されたあの喫茶店で彼女には説明をして有るから大丈夫。
 それに、ここが幾ら水晶宮とは言っても、それを過信する訳には行きませんから。

 何故ならば、今夜、異界化した東中学で直接相対する敵は羅睺悪大星君(ラゴウアクダイセイクン)ですが、この世界は這い寄る混沌の暗躍の気配を感じる世界で有り、今回の事件は、ヤツに代表されるクトゥルフの邪神が関係する事件から始まった事件ですから、警戒し過ぎるぐらいでちょうど良いはずです。

 まして、俺が口にしたように、最初の針に因る攻撃が成功したら問題は有りません。
 それ以後の羅睺(ラゴウ)星からの苦し紛れの攻撃や、異界化した空間から逃げ出される事を防ぎながら、残った個所を封じたら良いだけ。
 晴明桔梗印結界が有る程度機能してくれるなら、能力の強化を行った俺と、能力が著しく低下した羅睺(ラゴウ)星では勝負にならないはずですから、そんなに困難な内容となるとは思えませんしね。

 問題は、ヤツの目標が俺ではなく、有希に向いた場合のみなのですが……。

「有希さんの防具に関しては――」

 そう言いながら、何かを差し出して来る亮。
 彼の右手の上に存在していたのは……。紅玉と銀らしき金属で出来たブレスレットで有った。

「物理無効の念が籠められて居ます。確かに限界は有りますが、それでもこの戦いの間ぐらいなら、裏旋刃の一撃で有ろうとも耐えきるはずです」

 有希にブレスレットを手渡し、その効果を口にする亮。
 確かに、この部分に関しても術を無効化する事は当然可能です。但し、その為の術式を組むには、このブレスレットに籠められた術式を解き明かす必要が有ります。
 そして、その間は当然、攻撃も防御もそれなりの対処しか出来なく成ります。そんな隙を俺が見逃す訳は有りませんから。

 紅い石に彩られたブレスレットを右腕に嵌め、有希は微かに首肯いて見せた。
 その時の彼女の麗貌に浮かぶのは決意。彼女自身が何かの覚悟を決めた証。
 いや、彼女の覚悟の内容は俺の覚悟の裏返し。俺が、最後の瞬間に彼女だけでも逃がす方法を考えて居るように、彼女自身も同じように俺を逃がす方法を考えて居るのは間違い有りません。

【矢張り、魔法の完全無効化の護符は用意出来なかったと言う事か】

 流石にこの部分に関しては【念話】で問い掛ける俺。
 その【問い掛け】に対して、軽く首肯くだけで応える亮。

 もっとも、この羅睺(ラゴウ)星事件自体が、クトゥルフの邪神の暗躍に対する世界の揺り戻し作用のような物。その事件を解決する為に、物理攻撃完全無効化護符及び、魔法攻撃完全無効化護符などを用意出来る訳は有りませんか。
 何処かで因果律が歪められて、入手自体を阻止されるのが当然です。
 むしろ、そう言う判り易い形で顕われてくれて助かったと言う状況ですから。

 ここは、もっと悪意の有る形で因果律を歪められなかっただけでも良しとしましょう。

「さてと」

 自らを鼓舞するかのように、勢いを付けて立ち上がる俺。
 そう。これからは戦闘モード。後は……。

「現地に行って、御仕事を終わらせるだけやな」


☆★☆★☆


「ちょっと、待ちなさい」

 対羅睺(ラゴウ)星用の結界の中心。ヤツが顕現する場所の東中学に向かう道。
 其処で掛けられる若い女性の声。

「よう、さつき。どうしたんや」

 振り返る前に、その声の主に話し掛ける俺。
 そう。この声の持ち主ならば、わざわざ、目で確認せずとも判りますから。

 その振り返った俺に目がけて優美な弧を描き、暗がりから煌めく何かが放り投げられた。

「?」

 蒼い月の光を受け煌めきながら、俺の目の前に飛んで来た小さな装身具を右手のみで、空中でキャッチ。
 それは……。

「それはお前にやる」

 長い黒髪を冷たい冬の風に靡かせて、少女はそう言った。
 彼女は輝くような瞳で俺ではない、俺の傍らの少女を見つめる。
 傍らの少女も、何故か彼女を見つめ返した。
 こちらは、普段の彼女のまま深い湖の如き瞳で……。

 静と動。炎と氷。その僅かな均衡。

 しかし、……と言うか、矢張り、

「いい。無事に帰って来なさいよ!」

 先に気圧されたように視線を外して仕舞った炎の少女が、何故か怒ったように俺を睨み付けながら、そう言う。
 その台詞自体もかなり強い口調。正直に言うと、この辺りの家の人間が男女の言い争うような声を聞いた、……と後に証言されるレベル。

 もっとも、現在は刑事ドラマやサスペンスなどの物語の中に存在している訳では無く、現実世界での出来事ですから、少々、路上で言い合いをしていたように聞こえたとしても、誰も気にする訳は有りませんか。
 妙な……しかし、現実世界で起きる可能性の有る事件が周辺で発生しない限りは。

「ひとつしかない命を、簡単に捨てられる訳はないやろうが」

 右手の中に存在する指輪から炎の精霊の気を感じ取りながら、そう軽口めいた口調で答える俺。
 その最中も、この指輪に籠められた霊力と、そして思いを感じて行く。

「判って居たらそれで良いのよ!」

 何か、この短い受け答えにすらギリギリ感を出しながらも、そう答えるさつき。どうもこの少女は世慣れないと言うか、人付き合いが苦手と言うか。
 そんなに怒鳴ってばかりだと、誰も寄って来てはくれませんよ。

 そう。少なくとも、笑う事は知って居るのですから。
 彼女はね。

「そうか」

 俺は、蒼白い人工の光が作り上げる丸い円の中に佇む黒髪の少女を見つめる。
 その瞬間、何故か、少し怯んだような気配を発するさつき。

 そんな、彼女に対して、

「心配してくれたんやな、ありがとう」

 ……と、告げた。
 その瞬間、何故か、更に怯んだような気を発するさつき。
 そして、

「か、勘違いしないでよね。アンタが簡単に死んだりしたら、其処の邪神の眷属を、あたしが如何にかしなくちゃならなく成るからなんだからねッ!」

 何故か、更に挙動不審と成って訳の判らないツンデレっぷりを披露するさつき。
 相手をしていて飽きない上に、彼女がギリギリの状態で居る事が手に取るように判るので、相対的にこちらの方が落ち着いて居られる。
 そう言う相手でも有りますね、相馬さつきと言う名前の少女は。

「まぁ、事実がそうで有ったとしても、オマエさんが俺の事を心配してくれたのは事実やからな」

 それに、確かに、さつきに有希の処分をさせる訳には行きませんか。
 もっとも、今の有希は以前の彼女。さつきに出会った当初の有希ではなく、俺の差し出した手を取った瞬間に、彼女の未来は大きく変わったのですが。

 それでも、その事を話して良い段階では有りませんか、今はまだ……。

「この指輪に関しては、俺の裁量で有り難く使わせて貰うな」

 俺のその台詞に、言葉の中に存在する真意を嗅ぎ取り、少し不満げな気を発したさつきでしたが……。
 それでも、

「それはアンタに上げた物だから、好きに使えば良い」

 やや不満を表すように鼻を鳴らした後、踵を返して立ち去って行くさつき。
 俺たちの方を顧みる事もなく、非常に彼女らしい潔い後姿。

「またな、さつき」

 その背中に対して、再会を約束する俺。
 そう。これは別れの挨拶などではなく再会の約束。

 立ち去る足を止め、少し顧みるさつき。そして、
 右目のみで俺を確認した後、軽く右手を上げ、背中とその右手で俺の再会の約束に応える。

 但し、その一瞬だけ顧みた彼女の口元が、普段の引き締められた形とは違う形が浮かんで居る事が確認出来た。

 そして……。
 そして、彼女の姿が完全に闇の向こう側に消えて行くまで、俺と、そして有希はその場に立ち続けたのでした。


☆★☆★☆


 完全に異界化の影響を受けない場所に設えられた基地(ベース)。もっとも、ベースとは言っても、大仰な施設を用意している訳では無く、有り触れた児童公園に人払いの結界を施した上で、数人の人間が存在して居るだけで有ったのですが。

「異界化の中心は、この道を真っ直ぐ進んだ先に有る東中学」

 紅い瞳に俺と有希を映した少女が、夜に相応しい落ち着いた声でそう語った。
 実用本位。もっとも、今回に関してはその異界化がどの程度広がる予想か、……と言う情報が不足していますが。

 ただ、それは、その異界化した空間に入り込む事が約束された俺と有希にはあまり関係のない事。そして異界化現象が起きた内部は正に異世界。
 外側から見た規模と、内部に侵入した際の規模が違う事はそんなに珍しい事では有りませんから。

 最初の一言を伝えて来た後、その紅い瞳に俺たち二人を見つめ続ける万結。

 その瞳に浮かぶのは……。

 いや、彼女の見つめていたのも俺ではない。その感情を示す事のない瞳に映していたのは俺の隣に立つ少女。
 相変わらず雲の多い夜空故に見える事のない蒼穹の下、蒼白い人工の光の元に佇む二人の少女が纏うのは、共に良く似たペシミズムとも言うべき雰囲気。
 触れると簡単に消えて仕舞いそうに感じる、儚いと表現すべき氷の芸術の如き容貌で見つめ合う姿は、何故か見ているだけで涙が出て来そうになる。

 そして、二人の間に流れるのは沈黙。
 俺以外のこの場に存在する人物。亮も、綾も。それ以外の良く見知った、そして本来は……異世界に住む俺が知らない人物たちも、何故か彼女ら二人の対峙を見守る。
 そう。それは沈黙と言う名の対峙。

 真っ直ぐに紅い瞳で有希を見つめる万結は、何かを伝えていた。
 その瞳を、清澄な湖の如き静けき瞳で正面から受け止める有希。

 何か強い気が渦巻く数瞬の間。その間に交わされる言葉無き会話。
 その後……。
 先に視線を外した万結が、その瞳の向く先を有希から俺へと移した。
 但し、その瞳に浮かぶ色は、先ほどさつきが同じような沈黙の後に俺に向けた物とはまったく違う色。

 彼女に相応しい無色透明のそれで合った。

 そうして懐から一束の紙。一辺、二十センチほどの長方形の紙に、漢字に因る呪文を書き記した呪符の束を俺に差し出して来る。

「ありがとうな、万結」

 その呪符の束を受け取る俺。但し、俺はそんな物を必要とはしていない。
 いや、確かに、呪符を駆使してしか使用出来ない特殊な仙術を行使する心算ですが、それは俺の仕事では有りませんから。

 まして、当然のようにその事は万結も知って居るはず。
 何故ならば、それは彼女に因り今の俺に伝えられた技術。そして、それは不死身の邪神との戦いの趨勢を決するかも知れない切り札と成り得る仙術ですから。

 しかし、彼女は、それが判っていながらも俺に対してその呪符の束を差し出して来た。
 その理由は……。

「無事に帰って来て欲しい」

 彼女が、彼女に相応しい声でそっと囁いた。
 その声と共に吐き出された吐息が、その口元を季節に相応しい色にけぶらせる。

 この色も、彼女が生きて、今其処に存在して居る証拠。
 そして彼女が生きてここに存在して居るのに、俺がここ(この世界)に存在していない証のようにも感じられた。

「あぁ、無事に戻って来る」

 そう、強く答える俺。
 二人の丁度中心に存在する呪符を橋渡しにして、俺と万結が繋がる。
 今まで、絶対に繋がる事の無かった。双方が生まれてから絶対に繋がる事の無かった縁の糸が、再び繋がった瞬間でも有った。

 永遠にも等しい一瞬。その瞬間に確信する。
 彼女は、……彼女だと言う事を。

「その時に初めて、オマエさんの名前を呼ばせて貰うな」

 俺の意味不明な言葉に微かに。しかし、強く首肯いた万結が、もう一度、俺をその瞳に宿した後、再び有希を見つめた。
 有希の方も彼女を見つめ返す。

「この人を護って欲しい」

 共に戦い貫いたかつての戦友が、新しい戦友と成るべき少女に対してそう語り掛けた。
 その言葉に、今度は有希が微かに……。しかし、強く首肯いたのでした。


☆★☆★☆


 その境界線を越えた瞬間、世界が変わった。
 それまでと何ら変わらぬ風景。アスファルトにより舗装された道路が足元に存在し、周囲には住宅街に相応しい家々が立ち並ぶ。

 しかし、其処に漂う違和感。

 そう、道路には車が行き交う事が無く成り、
 同時に、それまで感じて居た周囲の家々に、人々が暮らす街独特の気配が消えたのだ。

 有りとあらゆる生命の気配が消され、ただ、無人の街が冬の夜の中、茫漠たる世界が存在する。
 感じるのは凍てつく冬の氷空と俺。そして、彼女の呼吸。

 俺は、それまでゆっくりとだが確実に歩みを進めていた足を止める。
 そして、万結から手渡された呪符の束と、さつきから貰った指輪を彼女に差し出した。

 そう。それは共に俺には必要のない物。
 更にこのふたつの品物は有希には必要で、同時に是非とも持って居て貰いたい物でも有りますから。

 俺の顔を正面から見つめる有希。その視線も、そして、彼女から感じる雰囲気も普段のまま。
 しかし、彼女は、その俺が差し出した品物を受け取ろうとはしない。
 そんな二人の間に、ゆっくりと時間が流れ去り、冬の属性を帯びた風が吹き抜けて行った。

「あなたは何故、わたしを簡単に信用出来るの?」

 何処かで……。何故か、遠い過去に聞いた事が有る。そんな質問を投げ掛けて来る有希。
 それに、これは奇妙な問いとは言えません。何故ならばこの戦い。羅睺(ラゴウ)星との戦いの趨勢を決めるのは、俺の立てた策では俺ではなく有希。
 そして、場合に因っては、俺のすべてを彼女に預けるように成る可能性にも言及して有りますから。

「最初に俺の荒唐無稽な話を信用してくれたのは、オマエさんの方や無かったか。
 信に対して信で応える事は、そんなに異様な話ではない、と俺は思うけどな」

 流石に、かなり真面目な表情で最初にそう答える俺。
 確かに、この世界に放り出された時の状況から考えると、俺の荒唐無稽な話を信用する土壌は有ったと思います。まして、彼女の存在自体もかなり不可思議な存在だったのは事実。
 しかし、だからと言って、俺の言葉を簡単に信用してくれて当然と言う訳では有りません。

「次に、有希からは俺に対する悪意の類を感じた事はない。
 逆に、俺の体調を気遣ってくれるような雰囲気を強く感じるように成って居る。
 その他にも雑多な気は色々と流れて来るけど、そのどれを取っても、俺に取って強いマイナスと成るような物はない」

 本当に、最初に比べたら、彼女からは色々な気が流れて来るように成りました。
 いや、最初の状態が、一時間もしない内に自らの存在が活動停止と成る未来しか予想出来ない状況だった故に、悲観的な感情しか持ち得なかった可能性も高いですか。それに、もしかすると本当に彼女と出会った当初の彼女は、心に相当する部分が未発達。虚ろな心の状態だった可能性も有りますが。

 其処まで彼女に告げてから、それまでの表情を崩し彼女に笑い掛ける俺。
 そうして、

「まして、最初から言って有るはず。俺は有希の事を信用するって。
 そもそも、信用出来ない相手に何時か真名を教える、などと言う約束はしない」

 俺としては、簡単に信用している訳ではないのですが。
 それに、俺が気を読む生命体である以上、相手が表面上でどんなに良い顔をしていたトコロで腹の底が透けて見えるのですから、今の有希には俺を偽る事など不可能だと思います。

 その上、玄辰水星に因って、思念体から施されていた仕掛けの類は、すべて除去されているはずです。
 この状況で、彼女の何処に信用出来ない部分が存在するのか。俺の方が教えて欲しいぐらいですよ。

「了承した」

 短く、肯定の言葉を口にする有希。
 しかし、未だ何か蟠りのような物を彼女から感じる。

 これは……。

「確かに、今回の作戦はかなり危険やし、はっきり言うのならぶっつけ本番」

 何故なら、一番重要な時期に俺がムカデの毒で寝こけて居ましたから。

「但し、もし失敗したとしても、完全に魂が虚空に消えるような事もない」

 そう。今までも……。かつての生命でもこんな経験は何度か有ります。
 魔王と呼ばれる存在をヤツが支配する魔界の湖深くに、俺の生命と引き換えに封じた時も。
 夢の世界に顕現しようとした水の邪神を、遙かな次元の彼方に存在する瑠璃の城に、俺の霊気を囮として再び封じた時も。

 どちらも、その時の生命は失いましたが、こうやって転生は出来ましたから。

「もし、失敗して、俺と、そして有希が共に転生を余儀なくされたとしても、次の生命でも必ず有希を見つける」

 本当は、有希を巻き込む心算はない。最後の最期の瞬間には、絶対に彼女だけは逃がす。
 これは、誰に誓う物でもない。たった一人。自分にだけ誓う誓約。
 自らの矜持と、存在のすべてに賭けて行う誓約。
 それに、それぐらいの事が出来る程度の能力は持って居る心算ですから。

 彼女も同じ事を考えて居るのは間違い有りませんが。

 そして、これから口にするのは彼女。長門有希と言う少女に対して行う誓い。
 この場で交わして置かなければ、最悪の場合は手遅れとなる大切な約束。

 それは……。

「その時はまた一緒に。また、同じ時間を共に過ごして欲しい」

 
 

 
後書き
 色々と意味不明の部分が有るかも知れませんが……。
 ただ、関連する作品の中で既に語られている部分も結構あると思いますね。
 もっとも、双方共にあまりにも文字数が多く成り過ぎて、どの部分に関係が有る内容が公開されて居るのか判らないと思いますが。

 それでも、すべてを見つける必要はないですし、この物語単体でも十分話は通じると思いますから、そう気にする必要はないのですが。
 要は、そう言えば、あそこで彼女が、彼があんな事をやって居た、言って居た理由、原因はこう言う事だったのか、と言う風に思って貰えたら私が嬉しいだけですから。

 それでは次回タイトルは『黒の破壊神』です。
 
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