銀河英雄伝説 異伝、フロル・リシャール
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
第1部 沐雨篇
第1章 士官学校
007 鍵は情報
宇宙曆786年8月、夏の終わりのことである。フロル・リシャールは自由惑星同盟軍士官学校卒業を二か月前に控え、校長室に呼び出されていた。
シドニー・シトレは校長の安楽椅子に座りながら、一分の隙もない待機の姿勢を続けるフロル・リシャールに目をやって、小さく息を吐いた。そして机の上のレポートをパラパラと捲りながら、話しかける言葉を選んでいた。
「シトレ提督、その青年が、例の?」
だがシトレが声を発する前に、この部屋にいるもう一人の将軍がシトレに声をかけた。
ドワイト・グリーンヒル准将、同盟軍における良識派、そして有能で名を知られる少壮の名将である。グリーンヒルは机の前のソファに腰掛けている。
「ああ、そうだ、グリーンヒルくん。この青年が、あのフロル・リシャールだ」
シトレはグリーンヒルに大きく頷いて見せた。
このレポートこそ、後のRレポートである。
Rとはフロル・リシャール(Frol Richard)の頭文字から来ている。
宇宙歴840年、軍事機密法の第24条によって、B級機密資料であったこのレポートが公開され、大きな話題を呼んだ。その内容が、同盟軍の稀代の英雄に対する一大スキャンダルだったためでもあるし、それを執筆した人間が、あのフロル・リシャールであるためであった。
そのレポートは卒業2か月前を控えたフロルが、戦略論の卒業試験レポートとして提出したものであった。初め、これを受け取ったトマス・テイラー教官はその内容をただの妄想の産物として処理し、フロルにF評価——落第——を与えようとした。だがその内容が真実であった場合の重大性を考え、士官学校校長のシドニー・シトレに報告したのである。
それを読んだシトレは舌を巻いた。その内容の大胆さに驚愕したのもあるし、わざわざ証言を得るために夏休みを使って同盟内の辺境まで足を伸ばしていたフロルの行動力にも驚いたのであろう。内容は多少の推測と推量を含みながらも、理路整然とし、またそれを裏付ける人物証言は十分かに見えた。
シトレはテイラーに箝口令を敷き、更には彼の信頼できる部下、つまりドワイト・グリーンヒルを呼び出したのである。
フロルにとっても、これは博打だった。このレポートが本当にF評価を受けていれば、彼は士官学校を卒業することができず、つまりは放校処分になるところだったのだ。彼が軍に在籍し続けたとしても、彼の出世は士官学校卒業後のそれとはまったく違うものになったであろうし、彼のその後の様々な活動は制限されたであろう。
だがその一方で、同盟軍、あるいは帝国軍にとって決して表に出すことのできないスキャンダルを材料に取り引きができれば、彼には一転大きなチャンスとなり得る。
更には、このスキャンダルを自力で嗅ぎつけたという事実をしかるべき人物に評価してもらえれば、自分の有用性を相手に印象づけられる。
すべてが上手く行けば、という条件付きであり、危険な賭けというべき暴挙であったが、彼はその大博打に勝ちつつあることを悟っていた。
彼の前には未来の宇宙艦隊司令長官であるシトレと、未来の宇宙艦隊総参謀長のグリーンヒルがいるのである。
「『ブルース・アッシュビーの戦術における帝国内スパイ網について』、私も読ませてもらった。非常に面白い……いや、失礼。興味深い内容だった」
「恐縮であります、グリーンヒル閣下」
フロルは極めて真面目に、そう答えた。
フロル・リシャールは、卒論のテーマにブルース・アッシュビー元帥を扱ったのだ。あの輝ける同盟の英雄の功績が、帝国軍からの亡命軍人マルティン・オットー・フォン・ジークマイスター中将待遇と、帝国軍クリストフ・フォン・ミヒャールゼン中将によって作り上げられたスパイ網によってなされたものだと告発したものだった。これをまともな軍人に見られていれば、フロル・リシャールという軍人の将来は閉ざされていたに違いない。だが、シドニー・シトレは優れた軍人ではあったが、普通ではなかった。
シトレはそのレポートの中に、真実だけが持ちうる微かな匂いを嗅ぎ分けたのだ、とは後世の歴史家の論である。
「君は暗殺されたミヒャールゼン提督の部下であったという、ケーフェンフェラ—大佐に会いに、惑星エコニアの捕虜収容所まで行ったそうじゃないか。随分な行動力だ」
グリーンヒルは鋭い眼光をフロルに浴びせかけた。その怜悧な目線だけで、フロルはこの目の前の人物が、同盟軍きっての頭脳派であることを理解した。そしてこの人物が持っている肩書きの重さをも、理解した。
未来の宇宙艦隊総参謀長の今の役職は、国防委員会情報部戦略作戦局長。
同盟軍全諜報活動の指揮を一手に担っているのは、目の前の紳士なのだ。
「リシャール候補生、このレポートは非常に理路整然としておるし、傍証としての証言も十分だ。だが確固とした証拠に欠けている。それについては認識しておるかね」
シトレはフロルに問い掛けた。
「承知しております」
フロルは一切の動揺を見せず、そう言った。
「だが君はこれを提出した。校長がシトレ中将であったから良いもの、これが君の将来に暗い影を及ぼすとは思わなかったか」
グリーンヒルの質問は、既に詰問に近かった。
「あるいは、そうなったかもしれません。ですが、グリーンヒル閣下がこちらにおいでになっているということは、その中身がそう的外れでもなかった、ということでしょう」
フロルはそこでようやく、いつものように笑った。零れ落ちた笑みであった。
「君の推察通り、同盟軍がジークマイスター提督の情報網を利用していたことは事実だ。だがそれとアッシュビー元帥を結びつけた人間は、ましてや帝国で暗殺されたミヒャールゼン提督をアッシュビー元帥と結びつけた人間はいない。見事な洞察力だ、と言っておこう。だが——」
グリーンヒルはそこまで言って、ソファから立ち上がった。立ってみると、その上背はフロルとほとんど変わらないものであった。だがその体の発する威圧感が、フロルにはひしひしと感じられた。まるで自分よりはるかに大きな人間を見上げているような、そんな錯覚すら感じている。
「——これは公表されて良いようなものではない、それはわかるかね?」
フロルはそう言われてから、ジークマイスターと同盟の蜜月を認めたこと自体が異例であることに気付いた。そしてグリーンヒルがそれを認めたのも、不注意からではない、ということも。
グリーンヒルはフロルに、同盟軍の隠された事実に手を伸ばしたフロルに、褒美として真実の欠片を伝えているのだ。フロルはカンニングをしただけ、なのだが。
「はい、もちろんです」
例え一学生の卒業論文であっても、それが同盟軍の名誉に関わることであるならば、それが公開されるはずはない。しかも内容はあの偉大な英雄の影に纏わる話なのである。
「それで、君はなぜこのレポートを出したのかね?」
グリーンヒルの問いは、フロルの意図を完璧に理解した上で発せられたものであった。フロルが、その内容でもって何かを取り引きしたいと考えていることを、察している。
「シトレ校長にお願いがあったからです」
だからフロルは、余計な前置きを省いてそう言った。視線をシトレに向け、そしてそれをまたグリーンヒルに戻す。
「そしてそれはグリーンヒル閣下にも関係することです。ですからグリーンヒル閣下ご自身がお越し下さったことは、私にとって幸運でした」
「何かな、君のお願いというのは」
グリーンヒルはもう一度ソファに座り直し、紅茶を一口飲んだ。だが視線だけは、フロルを鋭く睨み付けている。
「卒業後の配属先を、閣下の元にお願いしたい」
シトレは小さく顎を引いた。
情報部戦略作戦局は、大層な響きとは反対に裏方の組織である。華々しい活躍というのは大抵、帝国軍と直に砲撃を撃ち交わす宇宙艦隊が為し得るものであって、情報部の行う諜報活動はそれを補佐するものでしかない。だがフロルは、その補佐がなければ、まともな艦隊戦もできないということを知っていた。
諜報活動というものが、いかに大切かということを、知っていた。
ある時、ヤンはフロルに言った。戦争もまた、広義の外交手段である。だが狭義において戦争は外交の失敗を意味している、と。
そして諜報活動とは、まさに外交のための道具、なくてはならない道具である。
それを理解していたから、アッシュビーは常勝の英雄となり得たのだ。彼はジークマイスターからもたらされる玉石混淆の情報を天才的な才覚によって利用し、そして戦場の覇者となった。
だから、フロルはアッシュビーのことを原作で知り得た時も、まったく失望を感じなかった。むしろ、その情報を扱う手腕に対して、賞賛の思いを抱いたのだ。
それは今も変わらない。
情報の重要性。
それをもっとも強く知っていることが、フロル・リシャールという軍人の特徴であったろう。そして転生者として誰も持ち得ない情報を持つ者として、縋り付きたい神の名前だったのだ。
彼が、彼だけが持ちうる強み。
原作の知識という名の、情報。
だからこそ、彼は彼の神を信じ続けた。
それに裏切られるまで。
「国防委員会の組織とは言え、情報部は他部署のように名ばかりの形骸化した組織ではない。少なくとも、私が戦略作戦局の局長になってからはな。君が楽をしたいと思っているならば、オススメしない。戦場での華やかな活躍を期待しているならば、それもオススメはできない」
「理解しております」
グリーンヒルは言葉を重ねた。シトレはそれを見て、小さな笑いが零れるのを抑えきれなかった。
——大した度胸だ。
「君は人を殺せるかね、自分の手で」
フロルはグリーンヒルの言葉を聞いて、もう一度頬に笑みを浮かべた。それは震えるのを抑えつけるような笑みだったろう、とフロルは彼の日記に書いている。
「殺すなら、自分の手で殺さなければならないでしょう」
だがグリーンヒルには、犬歯を剥き出しにしたその笑みが、まるで狼の笑みのように見えたという。
***
フロル・リシャールが卒業を迎える。
フロルはヤンやラップより一つ、アッテンボローより3つ年上である。当然、フロルはヤンやアッテンボローよりも先に士官学校を去ることになる。キャゼルヌも、原作通りであればあと数年は士官学校の事務局次長を続けるはずであった。
フロルの四年間、特にヤン達と過ごした期間というのは、短くもフロルにとっては貴重な時間であった。そしてそれは、どうやらヤン達にとっても同じであったようである。彼らにとっては士官学校に入ってから、ずっと面倒を見てくれた先輩がいなくなるわけで、まるで非現実的なものにしかなり得なかった。
それだけフロルが彼らに影響を与えていたとも言えるだろう。善きにしろ悪しきにしろ。
また一緒にいることも多かったキャゼルヌにしてみせれば、「ヤンやアッテンボローはフロルというガキ大将に引っかき回された被害者たち」であって、「第二・第三のフロルになり得る逸材」とのことだった。
自由惑星同盟士官学校を卒業した者は、みな等しく少尉として任官される。つまり卒業したてでいきなり下級将校となるわけだが、すぐに現場に行っても役に立つわけもない。定期的にいろいろな部署をたらい回しされるはずで、最終的にそれぞれの適性にあった部署に居着くことになるだろう。
フロルだけは、決まっているのだが。
「先輩が卒業するだなんて、なんだか信じられませんね」
アッテンボローは退屈な卒業式後の打ち上げで、こう言った。
「なんだ、おまえ、もっと俺と一緒にいたかったのか?」
「私にそんな趣味はありませんよ」アッテンボローは苦笑いをする。
「ですが、美味しい紅茶が飲めなくなるのは残念ですね」
ヤンはビールを傾けながら言った。
「自分で淹れればいいじゃないか」
ラップが笑いながらヤンの腕をどつく。
ヤンは零れそうになるビールジョッキに慌てて口を付けた。
「ヤンには家事の才能が欠落してるからな、茶葉が無駄になるだけだろうよ」
キャゼルヌはつまみのチーズを口に運びながら言う。
「頑張ってみたんですけどね、ヤンの家事能力は絶望的です」
フロルにとって、ヤンの料理に対する適性のなさはもはや絶望という表現でしか思いつかなかった。何度となく、紅茶の淹れ方を指導したのだが、ヤンが入れるとまともなものができなかったのである。ヤンが将来、ユリアンに頼り切りになるのも頷けるというものだった。
フロルの紅茶とて、人よりは多少マシというレベルでしかないのだが、ヤンに比べれば雲泥の差というわけである。
「そういえばフロル、おまえさん、卒業したらどこに任官するんだ?」
「さぁ、後方勤務を希望しておいたんですがね」
「へぇ、それは意外ですね!」
アッテンボローが大げさに驚いてみせたが、軽く目を見開いたヤンにしろ、小さく口笛を吹いたラップにしろ、フロルの所属希望は意外であったらしい。
「先輩のことですから、前線勤務を希望すると思いましたが」
「まぁ、俺も前線には行きたいんだが、下っ端が第一線に行ったところで、上司に恵まれなかったら悲惨な目に遭うからな。多少、偉くなってから行こうかな、と」
フロルは本当のことを話せないもどかしさを、一気に口に含んだビールと一緒に飲み込んだ。
「相変わらずセコいことを考えるが、俺にしてみれば」キャゼルヌは右手を挙げて通りかかった店員を呼ぶ。「おまえさんにはずっと士官学校にいて欲しかったもんだ。そうすれば現場に面倒がやってこないで済む。——あ、ビールをお願いしたい」
店員は他の面子にも追加注文を聞いていった。
2杯目でヤンがアップルジュースを頼み、フロルにいじられたのは余談である。
そして一人18歳に満たないアッテンボローがビールを飲んでいることに、突っ込む野暮もいなかった。
「……そういえば、あの彼女はどうなったんだ、フロル」
後輩達が聞こうとして聞けなかったことを、キャゼルヌが尋ねた。一瞬、フロルの手の動きが止まったが、フロルはそのままビールを口に運んだ。
「……今日の打ち上げに来るって言ってましたよ。今度、ハイネセン・フィル・ハーモニー楽団と共演するとかなんとか、そのリハーサルですぐには来られないらしいですが」
「なんだ、上手くいってないのか」
フロルは肩を竦めた。
「女の一人や二人、幸せにしてやるのは男の甲斐性だぞ」
「そういうキャゼルヌ先輩だって、独り身じゃないですか」
アッテンボローはフロルを気遣ってか、キャゼルヌに矛先を向けた。
「俺か? 俺はそのうち結婚するさ。料理が美味くて、亭主関白で家を守ってくれるような美人な女性とな」
キャゼルヌは無駄に胸を張った。
「どうですかね、きっと先輩は尻に敷かれて、子供に愚痴るような亭主になりますよ」
「なんだ、妙にリアルなことを言うな、フロル」
「いえいえ、ただの願望ですよ」
フロルはキャゼルヌがこれから3年の後に結婚することを識っていた。結婚相手は元上官の娘で、大層な美人で料理上手。しかも可愛い娘を2人も授かるわけで、こと家庭的な幸福度で言えば、原作上随一の幸せ者なのである。もっともキャゼルヌ夫人はなかなか押しの強い女性で、やりこめられることもしばしばであった。無論、フロルは必ず夫人に味方することを決めていた、既に。
「フロルは黙って立っていれば見てくれはそこそこなんだ。余計なことをしないでイエスを決め込んでいればいいのさ」
「それじゃあもはやリシャール先輩じゃないですね」ヤンがにべもなく言い捨てた。
「言うじゃないか、ヤン」フロルが軽く睨み付ける。
「その点、俺は黙っていたって女性に声をかけられる。まぁ、モテる男はいつだって辛いものさ」
「キャゼルヌ先輩の浮いた話も聞きませんけど」
ラップも身を乗り出して、話に参加している。
「俺が人に弱みを見せると思うか?」
「人に明かすことのできな女性関係とは、いったい裏で何をやっているのやら」
フロルもまた、舌戦では負けていない。舌戦と言うよりは、軽口の応酬であるが。
「できれば私も、フロルが裏で何をやってるか知りたいものね」
一同はその声に、女性的でありつつ凛とした響きを持つその声に反応し、その声の主に顔を向けた。
ジェシカ・エドワーズである。
青いナイトドレスに淡い青のストールを身にまとったその姿は、明らかにその騒がしい酒場には不向きな上品さを持っていた。
「やぁ、遅かったね、ジェシカ」
「不良士官候補生さんも、不良少尉殿になったわけね。フロル、卒業おめでとう」
「これはどうも、可愛いお嬢さん」
フロルは気障がかった仕草で、ジェシカの手を取り、その甲に口を付けた。そして自分が座っていた椅子を引き、彼女を座らせる。
「綺麗なドレスだ、ジェシカ」
「ありがとう、ラップ。ヤン……はどうしたの、口をぽかんとして」
「きっとジェシカ嬢の可憐さに呆然としているのさ。コンサートの件、ついさっき聞いたよ。是非、聴きに行かせてもらおう」
キャゼルヌは的確にヤンを揶揄する。
「ありがとうございます、キャゼルヌ先輩」
ジェシカはヤンにウィンクを送ってから、キャゼルヌに微笑みかけた。ヤンもそのショックに、意識を戻したようで、慌てて手に持っていたグラスを飲み干した。
「自分も是非行きますよ!」
アッテンボローの言葉に、ヤンも大きく頷いた。
「残念だが、俺は働き始めたばかりだから、行けないと思う」
フロルはどこからか椅子を持ってきながら、そう言った。ジェシカは小さく首を横に振る。
「そんなことだろうと思ったわ」
その声に混じる諦観の響きに、そのテーブルの誰もが気がついている。だから、誰も二の次を繋げられなかった。
沈黙に堪えられなかったヤンが救いを求めたのは、バーカウンターの上で点けっぱなしになっている立体TVだった。画面の中では、40代半ばの見てくれの良い男が、調子よく演説をぶっていた。
「そういえばキャゼルヌ先輩」気を紛らわせるためにそれを見ていたヤンだったが、キャゼルヌに話しかけたときには、既にそのことに思考が回転していた。あっという間に思考が切れ変わり、思索は地平線まで届いている。「この政治家、最近よく見ますね」
ヤンの声色の変化にもっとも大きく反応したのは、フロルだった。
それは画面の中の人物が、フロルにとっても注目に値する人物出会ったからである。
良い意味ではない。
最悪な意味での、要注意人物である。
「ああ、最近人気だっていうヨブ・トリューニヒトだな」
「あのいけ好かない奴か」
アッテンボローが下を出しながら顔を顰める。
「俺もあまりああいうのは好きじゃない。なんていうか、外面ばかりいいみたいな張りぼてみたいな印象がする」
ラップもまた苦手なようだった。
「私もあまり好きじゃないわ。見るからにナルシストって感じで」
ジェシカもあの自信に満ちあふれた、言い換えれば自尊心が透けて見える人間を毛嫌いしている。
「おいおい、世間の人気者だってのに、ここにいる連中は揃いも揃って辛辣じゃないか」
キャゼルヌはその反応が面白いようだった。
「恐らく、キャゼルヌ先輩の言う世間っていう大多数には、私たち少数派は含まれていないんでしょう。まだ毒にも薬にもなるか分からない新人議員ですけど、綺麗事ばかり言う政治家が、歴史を建設的に動かしたことなんてないんですよ」
ヤンは画面のトリューニヒトから目を離さず、そう呟く。
「フロルはどうなんだ?」
キャゼルヌに問い掛けられたとき、フロルはヤンの顔を見つめていた。ジェシカだけは小さく嗤っていたことに気付いていた。
「俺の邪魔にならなければ捨て置きますよ」
「じゃあ、邪魔になったら?」
ジェシカはそれが聞いてはいけなかった質問であることに、気がついた。フロルがジェシカを見つめたその目の中に、隠し切れていない狂気が見える。
「どうしようかね」
その声色は、まるでフロルがデートの最中に発するように、優しいものだった。
だからこそ、ジェシカは怖かった。
ジェシカは目の前の、自分の彼氏が未だに理解できない。
丸2年も付き合ってきたのに、自分が好きになって付き合い始めた男なのに、ジェシカにはまだフロル・リシャールがわからない。
彼には誰も触れさせない闇がある。
それに気付いたのは、ジェシカが誰よりもこの2年間一緒にいたからだった。
2年間交際を続けてきて、手に入れた成果がそれだった。
それに知った時、自分が今までフロルという人間を形成するその表面だけを見ていたことに気付いた。
そして彼が時折抱く狂気。
ジェシカは知らなかったが、それは殺気と呼ばれるものだった。
人が人を殺したいという思い。
フロルが20年間生きてきて、ヤン・ウェンリーを救いたいという思いの果てに抱いた感情であった。
だが音楽を愛し、彼を優しく愛してくれる男を好んだジェシカには、それがなんなのかわかるはずもない。
わからないのに、怖かった。
ジェシカには、今のフロルが堪らなく怖かった。
フロルはジェシカの目に疾った怯えの色に気がつき、目を伏せた。
音の鳴らない舌打ちをする。
怖がらせる気はないのに。
どこで間違ったのかわからない。
いや、最初から無理だったのかも知れない。
もう、漠然と気付いている。
ジェシカとは、限界だ。
「なんだか、酔いすぎたようです」フロルは軽くふらつきながら、立ち上がった。
「おっと、大丈夫ですか、先輩」
アッテンボローがその肩を支える。
「珍しいな、お前さんが酔うなんて」
キャゼルヌがそう言った。
「気持ちの良い夜ですからね」フロルは外を見る。
外は雨だった。
「ようやく卒業できた記念の夜ですから」
フロルは椅子の背にかけていたジャケットを手に取る。
「ジェシカ、俺は疲れたからもう帰るよ。君はもうちょっと飲んでいくといい」
「先輩、でもそれじゃあ」
ラップがフロルの言葉に声を上げたが、ジェシカは黙ってフロルを見つめるだけだった。ヤンがラップの腕を押さえた。
「また、あとで連絡する」
「……ええ、待ってるわ」
彼女は笑おうとしたのに、顔はまるで強ばって動かない。
フロルはそっと、彼女の額にキスを落とす。
いつもより、長めに。
そうしてフロルはみんなを残してバーを出て行った。
持ってきた傘も差さずに。
***
フロル・リシャールという人間の軍歴は、ヤン・ウェンリーほどの華麗さこそなかったが、それなりに賑やかな事象で埋め尽くされている。
だが、彼が宇宙暦786年に士官学校を卒業し、同日付で国防委員会情報部に配属されてから、翌787年に第4艦隊分艦隊幕僚補佐を拝命するまでの一年間は、まったくの空欄となっている。
後に空白の一年と呼ばれるフロル・リシャールの一年間。
彼がいったいどこで、何をしていたのかは、一切の公式記録に残っていない。
後書き
有言不実行を地で行っている碧海かせなです。
どうもすみません。
リアルの多忙と、校正を頼んでいた友人の多忙で3週も遅れてしまいました。
なんともはや……。
本当にすみません! 今回がキレ良かったので、次回からは土曜の午前0時更新を目処にしていきます。今1時ですけど……。
さて、これで<第1章 士官学校>が終わりです。
次は<第2章 第4艦隊>です。
一部ではかなり好評だったジェシカとの仲ですが、正直この二人がくっつくのはかなり厳しいです。ジェシカがフロルとくっつけるとすれば、一度地獄を見てから、つまり原作で言うところのラップを亡くした後のジェシカだと思われます。
ただ、これで出番終了ではなく、今後も小まめに出していきますので、宜しくお願いします。
ご意見・ご感想をお待ちしております。やる気に直結するので、「読んだお(^q^)」だけでもいいのでコメントください(笑)
では、次は約束を破らないでいきたい……。
ではでは。
ページ上へ戻る