| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

無明のささやき

作者:ミジンコ
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

第十二章

 悪い夢をみていたのか、びっしょりと汗をかき、その冷やりとする感覚で目覚めた。額の汗を拭うと同時に頭痛と吐き気が飯島を襲った。胃液が食道をさかのぼる。それを押さえようと必死で唾液を飲み込んだが、間に合わずに苦い液体を一気に吐き出した。
 深呼吸して息を整えたが、その息はことのほか酒臭い。時計を見ると、既に午後5時を回っていた。ここ数ヶ月、ヤケ酒と嘔吐が繰り返され、朝の頭痛は年中行事のようになっていた。ゴミタメのような部屋に異臭が漂っている。
 そんな部屋から一歩出る時は、糊のきいたワイシャツにカフスを飾る。そもそも和子がいればこそ、飯島の生活のバランスは保たれていた。その要が失われた今、自宅は蛆が湧きそうなほど汚れきっていた。
 買い置きの水をガブ飲みし、その口から漏れた水がシャツを濡らした。諦念という言葉を反芻した。和子は既に別の男と暮らしている。この事実を冷静に受け止めるしかない。濡れたシャツもいつしか乾くように、心の空洞も満たされる時もいつか来る。
 飯島は、昨日の石原との約束を思いだし、その場で南に電話を入れた。南の女と噂される秘書の戸惑ったような対応に苦笑いしながら、飯島は煙草に火をつけた。ややあって、南の甲高い声が響いた。
「なんだ、誰かと思えばお前か。まだ会社にいたのか、とっくに辞めたのかと思っていたよ。」
「馬鹿言うんじゃない。有給休暇は3ヶ月も残っている。本来なら5月末まで籍を置くことも出来るが、二ヶ月おまけしてやる。有難く思えよ。ところで、石倉のことだが、可哀想なことをしたな。まさかあんなことになるなんて。」
南は押し黙ったままだ。
「あいつは、自殺するような玉じゃない。恐らく、佐久間に殺されたんだ。」
飯島は誘い水をさしたのだが、南の反応は飯島を落胆させた。
「殺しても死にそうもない奴ほど、あっさり自殺してしまう。世の中はそんなものだ。石倉もそうだったんだろう。」
「おい、まじで言っているのか。お前だって、佐久間の仕業と思っているはずだ。あの写真のことを思い出せ。」
少し間を開け、南が答えた。
「写真、何のことだ。俺はそんなものは知らん。」
飯島は努めて冷静に言った。
「おい、おい、南、俺は刑事じゃない。本音を言ったらどうだ。お前が、それを隠したいのは分る。俺も、その気持ちを尊重するつもりだった。しかし、考えが変わった。何故なら、石倉が殺されたからだ。考えてもみろ、石倉をセンターに異動させたのは佐久間だ。お前がそう言ったはずだ。とにかく、俺は警察にあらいざらい話すつもりだ。」
「勝手に話せばいいるだろう。しかし、おれは、何も知らないし、何も見ていない。まして佐久間が石倉をセンターに異動させたなんて馬鹿げている。誰がそれを証明するんだ。お前は、夢でもみたんじゃないか。」
「どうあっても、証言するつもりがないって訳だ。」
「ああ、拷問されても喋らん。」
「いいか、写真は和子も見ているんだ。」
「夫婦の趣味がエロ写真収集ってわけか。キモイ夫婦だぜ。夫婦揃ってエロ写真のモデルを佐久間と勘違いした。夫婦共々ノイローゼってわけか?警察がそんな話を信じると思うのか。俺たちが否定すれば、警察は動きようがない。」
「この野郎、言いたいこと言いやがって。そうか、まだ脅迫が続いているってことか。えっ、そうなんだろう。竹内にも脅されているんじゃないのか?」
「何を言っているのか分からんな。竹内だって、誰だそいつは。」
「とぼけるのもいい加減にしろ、この野郎。名古屋のクラブで竹内にお酌していたじゃないか、左手まで添えてな。どうなんだ、奥さんを襲ったのは佐久間と竹内じゃないのか?」
「知らんな、お酌していたって?誰かと見間違えたんじゃないのか。飯島はノイローゼだって噂だが、どうやら本物のようだ。」
むかっ腹が立った。
「お前がそこまで知らばっくれるなら、写真のネガのコピーを警察に提出するしかないな。お前の言うとおり、俺はあの種の写真の収集家なんだ。どうしても秘蔵して置きたかったんだ。」
「なにー。」
南が初めて気色ばんだ。飯島はほくそえみながら言った。
「そんな目ん玉ひん剥いて驚くんじゃねえよ。俺が用意周到でないことは、お前が一番よく知っているだろう。嘘だよ、嘘。まあ、喋れないのは、義理の親父の厳命なんだろうから、しかたないか。」
「おい、飯島、本当に、コピーを持ってないんだな。もし、持っていれば大変なことになるんだぞ。分かっているのか。」
「分かっているさ、会長の気性は十分にな。それに、どんな娘でも我が子は可愛い。」
南が叫んだ。
「貴様、どんな娘とはどういう意味だ、この野郎、言わせておけば、図に乗りやがって。会長に言ってやる、貴様がそう言ってたってな。」
苦笑いして飯島が言い返した。
「おいおい、子供の喧嘩じゃあるまいし、パパに言いつけてやる、だって。ふざけるな、この野郎。お前は忘れているんじゃないか。俺は既に辞表を出している。お前等一族なんて怖くはない。それにお前の女房の浮気性は会社でも有名だった。だからこそ、あんな目に遭ったんだ。」
こう言うと、飯島は、乱暴に受話器を置いた。
 飯島はわくわくするような興奮を覚えていた。悔しがり屋の南のことだ、地団太踏んで悔しがっているに違いない。間違い無く、飯島の言ったことを西野会長に報告するだろう。最悪の場合、南はネガのコピーの存在を匂わせ、会長をたきつける可能性もある。
 飯島が興奮しているのは、組織人としてそれまで抑圧していた感情を解き放ったからだ。いや、それだけではない。何もかも失った男の絶望が、全てを敵に回して闘争することを欲していたのだ。何かが飯島の心に芽生え始めていた。
 佐久間の次のターゲットは飯島である。どんな手を使ってくるか分からない。その上、ヤクザが加われば、命がいくつあっても足りない。しかし、そんな追い込まれた状況こそ、飯島を興奮させているのだ。飯島の闘争本能が深い眠りから目覚めつつあった。

 翌日の朝、斎藤から緊急の呼び出しがあった。支離滅裂でドモリまくる斎藤に苦笑いして電話を切った。飯島は八王子から車を飛ばして、10時過ぎにセンターに到着した。事務所の横の駐車場には黒塗りのベンツが置かれている。
 車をゆっくりとベンツの隣に横付けし、所長室を見ると、スキンヘッドの男が窓から飯島を窺っている。どうやら、呉工業の社長の息子、向田敦が動き出したようだ。会長の差し金に違いない。
 西野会長は佐久間の居所を探すため、呉工業の向田社長を通じて裏の世界の協力を仰いだ。向田社長の息子、敦が所属するのは八王子を根城とする博徒の飯田組である。斎藤の切羽詰った声がそのことを物語っていた。
 飯島は車を下り、事務所に向かって歩きだした。何か良い策はないかと思案したが二日酔いで頭は回らない。このまま倉庫の方に行ってしまえば奴等に会わずに済むが、隠れているのはかったるい。まあ、何とかなると高を括りドアのノブを回した。
 事務所には、太っちょのスキンヘッドが窓を背に立っていた。わざとらしく凶悪そうな目つきをして睨んでいる。背はあまり高くない。背広が窮屈そうだ。その背広の下には恐らくバーベルで鍛え上げた肉体が収まっているのだろう。
 その窓の右隣に飯島の机がある。その机に脚を投げ出し、両腕を組んで、男が笑みを浮かべながら飯島を見ている。細面の優男でどう見てもヤクザには見えない。高級そうな腕時計が重そうに細い腕から垂れ下がっている。
 ふと部屋の隅を見ると、斎藤がうな垂れて椅子に腰掛けていた。鼻にはティッシュが詰めこまれ、その先に血が滲んでいる。にやにやしながら、机に脚を投げ出している男が口を開いた。
「その男が、飯島さん、あんただと思ったよ。こんなふうに机に脚を投げ出してよ、ふんぞり返っていたもんだから。」
飯島も笑いながら答えた。
「ああ、そいつは次期センター長だ。決して行き過ぎた真似をしていたわけではない。一月後には間違い無くそんな風に、そこに腰掛けているだろう。」
男は指先を振って斎藤に出てゆくように指示した。スキンヘッドが動いて、斎藤を追い出しにかかる。「近くにいるんじゃねえ。見つけたらぶっ殺すぞ。」という怒鳴り声とそれに続くドタバタという重そうな靴音が聞こえた。
 男は机に投げ出していた脚を下ろし、飯島と真正面に向き直った。そしてドスの効いた声を響かせた。
「飯島さんよ、何しに来たか、分かっているんだろう。俺は、暴力沙汰は好きじゃねえ。だけど、飯島さんよ。後ろに控えたその男は何をするか分からねえ。人を殺すことなど屁とも思もっちゃいねえからな。」
振り向くと例のスキンヘッドが飯島の1メートル真後ろに立っている。取り合えず、動く気配なない。飯島は正面に向きなおり、男に向かって言った。
「ああ、何をしに来たか分かっている。その前に、名前を名乗ってもらおうか。俺は名無しの権兵衛とは話さない。おい、後ろのスキンヘッド。手前も同様だ。」
後ろの男が、一歩前に出て、飯島の肩に手を掛け、力を込めようとした矢先だ。鋭い声が響いた。
「いい度胸だ、飯島さんよ。その度胸に敬意を表して、名乗ってやる。俺は飯田組の向田だ。後ろの男は佐野と言う。これでいいだろう。」
右肩に食いこむスキンヘッドの握り拳を振りほどき、飯島が答えた。
「向田さん。あんたの探している写真のネガはここにはない。」
「では、何処にある。」
「警察に提出している。」
 向田は、ため息をつき、下を向いて笑っている。ふと顔を上げると、鋭い眼光で飯島を見据えた。突然、スキンヘッドが飯島を羽交い締めにして、た。ぐいぐいと首を締めつけてゆく。向田の冷たい声が響いた。
「そうかい、もう手遅れだってわけだ。ふざけた真似をしやがって。」
飯島は満身の力を込め男の腕に逆らって首を起こした。そして叫んだ。
「ああ、手遅れだ。警察は動き出した。もう誰にも止められない。いいか、もし、お前等が俺に暴力を振るえば、警察が黙っちゃいない。そんなことぐらいアホでも分かるはずだ。」
向田が答えた。
「どうかな、俺はどっちかと言えばアホだ。それに俺はお前が暴行罪で俺達を警察に訴えるとは思わない。お前はそんなアホじゃない。そうじゃないか。訴えればもっと怖い目に会うことになる。分かるだろう、飯島さんよ。」
「馬鹿言え、訴えるに決まってるだろう。俺はお前以上にアホなんだ。」
「そうかい、それじゃあ、試してみるか。」
と言うと向田が立ちあがり、近付いてきた。飯島が叫んだ。
「この野郎、二人がかりとは、卑怯じゃねえか。てめえ、糞野郎が、めっためたにしてやる。俺は今、ストレスが溜まってるんだ。」
飯島は、スキンヘッドの首筋めがけて右肘を渾身の力で振り下した。ガツンと手応えがあった。一瞬、羽交い締めしている力が抜けた。
 飯島は腰を落としながら両腕を抜いて、スキンヘッドのズボンの両裾を握り、今度は立ちあがりながら思いきりすくい上げた。バタンという大きな音が響いた。飯島は、すかさず振り向き股間を蹴った。スキンヘッドがうめき声を上げて転げまわる。
向田が、背中に飛びかかって来た。ふらふらと前によろめいたが、ちょろい相手だとすぐに分かった。とにかく体重が軽い。飯島は背負い投げを浴びせた。思わず感心するほど良く飛んだ。飛んで行く姿が可愛い。極端に長い両足がバタ足をしている。
 しかし、向田は思いの外敏捷で、両手を床につきふわりと着地した。そして両腕を顔の前に構えた。どうやらボクシングの心得があるようだ。腕と腕の間から顔を覗かせたが、その身軽さを披露できたことで得意満面である。軽くステップを踏んでいる。
 飯島もサウスポーで構えると、大袈裟なモーションで左パンチを繰り出した。思った通り向田はやや遅れぎみに右カウンターで応酬してきた。しかし、飯島の左パンチは見せかけに過ぎない。得意の蹴りのカモフラージュなのだ。
 向田は不意を突かれ、体を折り曲げながら後方に飛んだ。腹に受けた衝撃が納得いかないらしく、得意満面だった顔を歪ませている。これは、飯島が学生時代、ボクサータイプの相手によく使った手だった。
 向田はごろごろと床に転がり、みぞおちを両手で押さえ、呻き声を上げうずくまった。飯島が余裕で二人を見下ろしていると、スキンヘッドの手が背広の内側にすっと入った。飯島は近付いて、その手を踏みつけた。その手の先に冷たく光る拳銃が見えた。飯島はそれを奪い取った。
 ずっしりと重い感覚が、飯島を魅了した。モデルガンでは味わえないリアルな感覚だ。飯島の家には3丁のモデルガンが飾られている。安全装置を外して銃身をスライドさせ、銃弾を装填した。左手で銃身を触れたり摩ったりしていたが、しまいにはそれに頬擦りし、恍惚としている。
 向田はぜーぜーと息をしていたが、飯島の尋常ならざる様子をにやにやしながら見上げていた。突然、飯島が銃口を向田に向け、引き金に指を掛けた。向田の顔が横に反れた。ほとんど同時に、バンという音が響き、銃弾は向田の顔を掠め、床を突き抜けた。
 向田がひーと悲鳴を上げた。飯島の一瞬の作為である。二人にはこれがお芝居とは思えなかったであろう。横を見ると、スキンヘッドが仰天して目を剥いている。飯島がスキンヘッドに声を掛けた。
「おい、佐野君、これ、俺に売ってくれないか。」
そう言って銃口をスキンヘッドこと佐野に向けた。
「いえ、お金なんてけっこうです。」
佐野が震える声で答えた。よくよく見ると、佐野の顔立ちにはあどけなさが残り、それを隠すために頭を剃っているのだ。飯島が言った。
「佐野君、そういう訳にはいかんだろう。これは、売り物だ。そうだろう。そうそう、これはアメリカ製だ。雑誌でみたことがある。50万円でどうだ。」
佐野は、勇気を振り絞り、ようやく答えた。
「もし、よろしければ、もう50万頂けないでしょうか。そのー、何て言うか、輸入するのにもいろいろコストが掛かってますんで。」
飯島は笑いながら答えた。
「ああ、いいだろう。弾が欲しくなったら、どうすればいいんだ。」
「ここに、僕の携帯の番号を書いておきます。ここに電話下さい。それから振込先は後日ご自宅に連絡をいれます。」
スキンヘッドが震える手でメモ帳に書き込んでいる。飯島はそれを受け取り、振り向くと向田に言った。
「どうする、ことの一部始終を会長に報告しようか。西野会長はさっそくお前等の組長に電話を入れる。貴様等が俺に痛い目にあわされたってな。」
こう言って睨むと、向田は下唇を噛んで、ふいっと横を向いた。その仕種がどこか子供じみていて、飯島は思わず相好を崩した。
「実はな、向田。俺は、警察に写真を提出したと言ったが、あれは嘘だ。もし、俺の言うことを信じるのなら、会長には電話しない。どうだ。」
向田がきょとんとして視線を向けた。飯島が続けた。
「警察に提出したなんて嘘だよ。そう言えば、俺に手を出さないと思ったが、裏目に出た。お前等は何が何でも俺を痛めつけるつもりだった。組長からそう指示があったのだろう?違うか?」
向田は無言のままだ。ということは肯定したということだ。
「どうだ、組長には、俺を散々痛めつけたが、ネガのコピーなど無いと言い張ったと言えばいい。本当にそんな物持っていないんだからな。俺は南にも、そう言ったはずだ。」
向田が答えた。
「ああ、信じることにするよ。親父も、多分、写真は持っていないだろうと言っていたからな。それはそうと、最近の素人は気違いが多いよ。俺が咄嗟に避けなければ頬に穴が開いていた。」
飯島が笑いながら言った。
「しかし、あんたは本当にヤクザさんか。どうもそうは見えない。人品卑しからずって感じだな。箕輪が可愛がっていたってのも分かる気がする。」
この言葉は予想もしない反応をもたらした。向田が顔色を変えてすごんだ。
「テメエはあの糞野郎の知り合いか。どうりで胡散臭いと思ったぜ。いいか、お稚児さんじゃあるまいし、可愛がるなんて気色悪い言葉を二度と使うな。いいか、分かったか。それに二度と野郎の名前をほざきやがったら、ただじゃおかねえぞ。」
「おいおい、ヤクザのお前さんに、胡散臭いなんて言われたかない。まあ、何があったか知らないが、お前さんのご要望には応えよう。」
「テメエも、その名前を出せばこっちが軟化すると思ったらしいが、その逆だ。野郎の友人と分かったからには、遠慮はいらねえ。かえって仕事がやり易くなっただけだ。覚えておけ。」
「お前さんは俺に遠慮していたわけか?」
「当たり前だ。素人にはそれなりに気を使わんと面倒なこともある。もう容赦はしないってことだ。」
「分かった、分かった。そうかりかりするな。とにかく、組長でも会長でも、どっちでもいいけど、とにかく伝えてくれ。ネガのコピーなど撮ってないってな。」
向田が立ちあがった。思いのほか背が高い。飯島も180センチ近いが、目線が5センチほど上回っている。飯島を見下ろしながら、向田が口を開いた。
「おい、飯島さんよ、これだけは覚えておけ。今回はお前にやられたが、次回は分からん。いいか、俺達の仲間は日本中どこにでもいる。皆、人を殺すことなど何とも思わない連中だ。もし、警察に何か言えばお前もあの世行きだ。分かっているだろう。コンクリート詰にされて海の底だ。」
「ああ、分かった。俺もあんた達を敵に回したくない。」
「分かればそれでいい。俺だって殺しは最後の最後だ。そうだろう、殺しは、やった人間でなければ分からないが、ねばねばと心にまとわりつく。いつまでもな。」
「分かったよ、あんたはかつて人を殺したことがあるってことだ。俺も死にたくない。警察には何も言わんよ。言いたくても証人も証拠となる写真もない。」
「分かればいい。」
飯島の素直な返事に、向田はようやくヤクザとしての自尊心を回復したようで、汚れたコートを両手で何度か掃って、ドアに向かった。飯島が、その後を歩いてゆく佐野に向かって、声を掛けた。
「おい、佐野君。君は、いい営業マンになれるぞ。ヤクザなんて辞めて、うちの会社に来ないか。その方が出世するかもしれんぞ。」
佐野は、少しだけ飯島に顔を向け、照れくさそうに微笑んで頭を下げた。向田が、振り向いて、思いきりスキンヘッドの頭を叩いた。パシンという乾いた音がした。  
ページ上へ戻る
ツイートする
 

全て感想を見る:感想一覧