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無明のささやき

作者:ミジンコ
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第九章

 朝礼が終わり営業部員達は、お年賀を詰め込んだ紙袋を両手にさげ、足早に部屋を出てゆく。新年の挨拶廻りは毎年の恒例行事だが、考えてみれば二週間前、カレンダーと手帳を配りながら年末の挨拶を終えたばかりなのである。
 新人が酒の席で、この無意味な出費と労力を批判していたが、こうして1歩退いて眺めてみると、確かにその通りだと思える。とはいえ、飯島も、一年前までは、先頭を切って新年の得意先廻りをしていた。今は昔としか思えない。

 飯島は、ざわめきと共に始まる朝の営業部の様子をぼんやりと眺めていた。その中に章子に良く似た女性を見出し、視線を止めた。同期入社か、或いは後輩なのか、一人の男を君付けにして、小言を言っている。
 その男は、にやにやしながら、頭を掻いているだけで、反省の色は見えない。新入社員のようだ。頭の髪の毛がそそり立っている。あれが流行らしい。女性はため息をつくと、いかにも匙を投げるといった調子で、持っていたペンを机に放り投げた。
 飯島は昔の章子を見ているような気がして、懐かしさがこみ上げて来た。章子も肩肘張って生きていた。いや、確かに実力もあったのだ。だから能力のない同輩や後輩には容赦しなかったし、それで、何人もの男達を敵に回した。
しかし男に伍して生きてゆくことに疲れ、章子は結婚に逃れた。しかし、その結婚にも破れた。この女性はいったいどうのように生きて行くのだろう。飯島は心の中で彼女にエールを送った。かつての章子にしたように。

 飯島の古巣である第一営業部は、すっかり代替わりして、知った顔は課長の淺川くらいである。淺川の後ろに控える奥園部長は、南が大阪から呼んだ人間で、何度か会議で見かけたことはあるが、話したことはない。
 目をきょろきょろさせ、飯島の視線を避けているのは見え見えである。落ち着き無く机の抽斗の中を掻き回している。淺川は、飯島が第一営業部の係長時代、新人として配属され、何かと面倒を見てきた部下の一人である。飯島と立ち話するだけでも憚れる雰囲気の中、通路を通りかかった飯島に淺川が声を掛けてきたのである。話があると言う。
 以前、エレベーターで鉢合わせした時には、人の後ろに隠れて、飯島の視線を避けていた。その淺川が、今日は別人のように振舞っている。何か事態が変わったのだろうか。淺川は、飯島を接客テーブルに座らせ、自分は給湯室へ消えたのだが、その淺川がコーヒーの入った紙コップを両手に持って、にこにこしながら近付いて来る。
「しばらくご尊顔を拝していませんでしたが、お元気そうじゃないですか。」
「ああ、ヤケ酒を、がぶ飲みしてるけど、今のところ体に異常はない。」
と笑いながら答えた。淺川が急に声をひそめて言った。
「名古屋支店の石川から転職の話、どこまで聞きました?」
「ああ、匂わすような言い方だったが、もう決まっているんだろう。」
「ええ、㈱ヨシダ建設です。土産にごっそり顧客を持って行くみたいですよ。あいつは飯島さんも理解してくれたと言ってました。なんせ、あいつの引き継いだお客は飯島さんの開拓した先ですからね。」
「全部が全部って訳じゃない。でも、力のあるディべロパーや不動産会社が多いのは確かだ。育ててもらった会社に弓引くことにはなるが、しょうがないよ。みんな生活がかかってるんだから。」
「実は、私も転職します。私も飯島さんから引き継いだお客さん、競争相手に持って行くことになると思います。申し訳ありません。」
「なんだ、お前もかよ、全くしょうがねえな。ところで、お前さんは、いったいどに行くんだ。」
「実は、石川と一緒です。あいつは名古屋本社、私は東京支社です。」
「えっ、お前も㈱ヨシダ建設かよ、ひでえ話だな。まあ、俺も辞めるつもりだから、どうでもいいけど。」
「しかし、全く、頭にきますよ。奥園部長も日経産業大ですよ。南常務は完璧に学閥を狙ってますよ。ふざけんじゃねえって言うの。東大、京大の学閥やっている奴等に聞かれたら、笑われちゃうって、日経産業大の学閥なんて。」
飯島は思わず吹き出した。淺川が続けた。
「ところで、石川から聞きましたよ。飯島さんが臼井さんに、南と竹内の周辺を探るように指示したって。ぜひ、私にも協力させて下さい。あいつら、名古屋で絶対に後ろめたいことやってますよ。何かわくわくしますね、こういう話は。」
「おいおい、冗談は止してくれよ。俺は会社を辞めるつもりだ。もうそんな余裕はない。全く、臼井の爺さんは余計なことを言いまわって、俺を担ぎ出そうという魂胆らしいが、俺はその手には乗らないよ。」
「えっ、やる気ないんですか、臼井さんの話、あれって嘘なんですか。そんなこと言わないで、どうせ辞めるなら、やりましょうよ。後に残る皆のためなんですから。ねえ、飯島さん。」
飯島は立ちあがりながら言った。
「おい、淺川。やるなら自分達でやれ。俺はもうごたごたはたくさんだ。静かにこの会社を去りたい。遣り残した仕事を片付けてから、辞表を出す。じゃあな。」
飯島は、歩き出した。淺川が尚も後ろから追い討ちをかけた。
「飯島さん、石倉が資材物流センターに行くって知っています?」
これには飯島も度肝を抜かれ思わず振り返った。
「おいおい、それは初耳だ。いったいどういうことだ。」
「私にも分かりません。とにかく、この会社、このところ変ですよ。あいつは、南の学閥のエリートじゃないですか。それが何でそうなるんです。」
飯島は少し考えてからこう答えた。
「さあ、よく分からんな。ただ、何かが起こりつつあることだけは確かだ。俺もその渦に巻き込まれている。」
「それって、どういう意味ですか。」
「まあ、いずれ機会があれば話すよ。それまで、俺にかまうな。とにかく、慎重にやれよ。転職のことがばれれば、どんな邪魔が入るか分からんからな。それじゃあな。」
こう言って、飯島は営業部を後にした。

 常務室は社長室と同じ作りで、隣の専務室よりも豪華である。それは南が会長の娘婿だからこそ許されるのであろうが、親族経営もここまでくると、お笑い種である。その常務室のゆったいりとしたソファに、飯島はふかぶかと腰掛けた。
 思えば人の運命ほど面白いものはない。70人近くいた同期も、今では十数名しか残っていない。その同期の中でも、南はどう贔屓目に見ても出世するタイプではなかった。頑張り屋だが、物事をあまり深く考えず、調子が良いだけのどこにでもいる男である。
 それが、今、役員室にふんぞり返り、1000名近い社員を思うがままに動かし、意に添わぬ者を冷酷にリストラする立場にある。その結果、二人の男は死に追いやられた。飯島は苦い思いを噛み締めた。
 靴音が響いた。ドアが開かれ、ことさら冷徹な印象を与えたいのか、南が眉間に皺を寄せ部屋に入ってきた。ソファに座ったまま立とうとしない飯島に一瞥を与えると、自分の机に向かった。どうやら、飯島と同じ目線で座りたくならしい。
 どっかりと皮張りの椅子に座り、重厚な木製の机に両手をつき、幾分高くよく響く声を発した。
「飯島君は、とうとう辞める決心をした。そういうことですか。」、
南が、立ちあがろうとしない飯島に腹をたてているのは見え見えだった。思わず笑みを浮かべて答えた。
「お前に、心を見透かされるくらいならな、やっぱり、立ち上がって挨拶すべきだったか。ご慧眼、恐れいりますってところだ。」
「ああ、以前の飯島君であれば、直立不動で立ち上がり、ぺこぺこしたはずだ。」
「別にぺこぺこしていたわけじゃない。敬意を表して、お前の望む俺を演じていただけに過ぎん。いつだって、後ろを向いて舌を出してたんだが、それに気付かないとは、実にお前らしい。それに、立ち上がろうと思ったけど、ソファが深すぎてね。」
「それにもう一つ。私に対して優位に立てる材料を持っている。強気でいられるわけだ。」
「ああ、これのことだろう。」
そう言うと、飯島は胸のポケットから封筒を取り出し、テーブルの上に放り投げた。南は封筒に一瞥を与えただけで動こうとしない。そして、深いため息をつくと口を開いた。
「そいつを交渉の材料としないところは、潔さが信条の飯島君らしいな。今日呼んだのは、それを持っているかどうか確認したかったからだ。まさか本当に持っていたとは。」
「佐久間が郵送してきたんだ。」
南は何度も頷きながら、
「佐久間は、お前が自分の仲間だと言い張った。その写真を撮ったのは飯島だから、ネガは飯島から受け取るように指示してきた。5000万円をせしめておいて、ネガを返さないなんて、ふざけた話だ。」
と言って舌打ちした。飯島が話を引き取った。
「ほう、5000万円も強請り取られたわけだ。そいつはお気の毒だったな。ところで、俺の元女房も佐久間に襲われた。と言っても、奴が直接手を下したわけではない。奴の配下の者だ。そのネガと写真はその直前に送られて来た。」
「ああ、その事件のことは聞いている。佐久間の仕業にちがいない。」
「幸い未遂に終わったが、俺は、佐久間にそのことを問い詰めた。そしたら、奴は、あっさり犯行に関与していたことを認めた。襲った奴は女房に言わせれば、ヤクザっぽい奴だ。その写真を撮ったのも、そのヤクザだと思う。」
「そうかもしれん。」
「警察も佐久間を重要参考人として探している。もっとも会社に届けていた住所はもぬけの殻だった。完全に姿を消した。ところで、お前、佐久間の居所を知っているんじゃないのか。すくなくとも、金を渡したってことは接触があったってことだろう。」
「いや、やり取りはすべて電話だった。それに金は振り込んだ。」
「ふーん。そう言えば、確か会長は元ヤクザの、うちの下請け会社の社長と友達だっただろう。その線で探させたんじゃないのか。」
「元ヤクザだが、今はれっきとした実業家だ。」
「分かった、分かった。そんなことより、俺の質問に答えろよ。」
「ああ、その人の手蔓で裏の世界の人間を動かして佐久間を探させた。それはやったよ。だが、見つからなかった。本当だ。見つけていれば、佐久間はどうなっているか分からん。」
この言葉を聞いて、飯島は佐久間の意図にようやく気付いた。
「佐久間は、会長が裏の世界に手蔓があるのを知っていた。つまり、俺が香織さん襲撃に関与していれば、会長が復讐のためにその手蔓を使って俺を襲わせると期待したのかもしれん。だから、俺がネガを持っていると言ったに違いない。」
南はにやりとして答えた。
「何故、佐久間はお前を陥れようとしている?佐久間に狙われる訳でもあるのか?」
飯島はそれには答えず、聞いた。
「会長は俺のことをどう思っている?俺が関与したと思っているのか?」
「お前でもヤクザは怖いのか。安心しろ、会長も、お前が佐久間の仲間だなんて思ってもいない。お前は、どんなに追いこまれてもそんな卑怯な真似はしないってことは、俺が一番良く知っている。会長にもそう言った。」
「別にヤクザが怖いわけじゃない。たとえ一瞬でも会長にそう思われるのが厭なだけだ。とにかく、もし、お前が、会長にそう言ってくれたのなら、感謝しなくてはな。」
「ああ、感謝しろよ。俺も、そこまでお前を追い詰める気はない。」
この言葉を聞いた途端、飯島の顔色が変わった。怒りを顕にして怒鳴った。
「何だと、そこまで追い詰める気はないだと。と言うことは、お前は俺をそれなりに追い詰める気でいたってわけだ。いったい、それは、どうしてなんだ。俺は、東京支店では確実に実績を上げてきた。それが今じゃ赤字転落じゃねえか。」
「自惚れるのもいい加減にしろ。それはお前が抜けたから、そうなった訳じゃない。時代が悪いんだ。だから、今、組織を大改造して対処している。今の時代、組織力学を最大限に発揮することが出来なければ、組織そのものの存続が危ぶまれる。」
これを聞いて、飯島は呆れ果て鼻でせせら笑った。
「面白い冗談だ。組織力学が聞いてあきれるぜ。イエスマンを回りにはべらせていだけなのに、そうな難しい言葉を引用することはないだろう。」
「なにー、貴様、俺を馬鹿にするのか。いつだってお前は俺を馬鹿にしていた。分かっているんだ。」
南が激昂して立ち上がった。飯島も負けてはいない。
「馬鹿にされて当たり前だろう。アメリカかぶれもいい加減にしろよ。日本人は昔から外来文化をうまくアレンジして取り入れた。お前のやったことは、そのまんまじゃねえか。頭が足りないから馬鹿にされる。当たり前のことだ。」
これを聞いて、南はわなわなと震えだした。いきなり拳を机に叩き付けた。そしてどっかりと椅子に腰を落とした。飯島は興奮を押さえながら言った。
「そう、興奮するな。お前も相変わらず短気だな。何のために年を重ねたんだ。少しは大人になれよ。それから、もう一度、確認するが、佐久間は、見つからなかったんだな。」
南は未だ興奮冷めやらず、頬をぴくぴくとさせ苦虫を噛み潰したような顔で答えた。
「ああ、警官が部屋を訪ねるずっと前から、例の奴等が佐久間の草加のアパートを張っていた。しかし、そこには、とうとう戻って来なかった。それは事実だ。」
「分かった。それから、俺は、佐久間が女房を襲撃したと認めたことは警察に通報したが、この写真のことは警察には何も言ってない。奥さんのプライバシーは尊重せんといかんと思ってな。それに会長が手先に使っているヤバイ線の奴らのことも警察には秘密にしておこう。そのほうが、いいだろう。」
「ああ、そうしてくれ。」
互いの落とし所は、若い頃からの経験で分かっていた。これ以上相手を怒らせれば、後は殴り合うしかない。飯島は立ち上がりドアに向かったが、ふと、斎藤のことを思い出し、振り返ると口を開いた。
「そうそう、副所長の斎藤のことなんだが、今月末で辞令交付だったが、俺も3月末で辞める。センターの運営に斎藤は必要だろう。だから斎藤は勘弁してやったらどうだ。」
「ああ、いいだろう。それから、石倉がそっちにゆくことになった。佐久間の指示だ。いずれ戻すつもりだから、しばらくそっちで面倒みてくれ。」
「なるほど、そういう訳だ。佐久間の指示ってことか。成る程ね。石倉もおもわぬ災難を蒙ったわけだ。ざまみろって言いたいよ。まあ、せいぜい苛めてやるよ。」
こう言い残し、飯島は常務室を後にした。


 飯島が退出すると、応接の横のドアが開いた。背の高い白髪の老人と、人の良さそうな中年の男が入って来た。老人が口を開いた。
「あの様子だと、やはり飯島は香織襲撃には関わってはいないようだ。」
「ええ、それはないと思っていました。しかし、佐久間を早く見つけ出さないと何をするか分かりません。」
中年の男が口を挟んだ。どうやら、社長のようである。
「しかし、飯島を自分の仲間だと思わせて、佐久間に何の得があるんだろう。」
西野会長は、哀れむような視線を息子に向けて言った。
「飯島も言っていただろう。佐久間は、俺が向田のコネで裏の世界の奴らを使うと思ったんだ。もし、佐久間の言っていることが本当なら、俺は飯島を半殺しの目にあわせていた。しかし、何故、佐久間は飯島を恨んでいるんだろう?」
「さあ、分かりません。」
南がそう答えると、西野会長は深いため息をつき、イスに座り込んだ。そして呟くように言った。
「佐久間は狂っている。電話で話した時、そう感じた。狂人ほど怖いものはない。何としても佐久間を探し出さなければ、枕を高くして眠れない。」
「ええ、おっしゃる通りです。キチガイを野放しにはできません。」
「しかし、まさか香織を狙うとは思いもしなかった。南君、香織を大事にしてやってくれ。香織は傷ついている。今が大事な時だ。」
「ええ、分かっています。」

 石倉が、センターに出勤してきたのは、それから一週間後のことである。リストラの影の責任者であることは、誰もが知っており、最初はおどおどとしていたが、次第に取り巻きが出来て、以前のふてぶてしい態度を取り戻していった。
 飯島には取り巻き連中の気持ちがよく分かる。南も言っていたが、今回の石倉の処置は佐久間の要求を受け入れたもので、あくまでも一時的なものに過ぎない。南から斎藤副所長に連絡があったのだろう。斎藤が石倉にぺこぺこするのを見て、目端のきく人間は、南の意向を汲み取った。
 皆、藁にもすがる思いで石倉に群がった。ここから抜け出せるチャンスをつかむためである。それを責めることなど誰も出来ない。生き残るためにプライドも連帯感も捨てる。そうして男は生きてきたのだ。
 その連中の中に、佐々木の姿が見え隠れするようになった。佐々木が飯島家に再就職を懇願しにきたのは昨年の9月頃だった。それ以来優先的に2社ほど会社を紹介している。しかし、飯島にコネクションがあったにもかかわらず、佐々木は採用されなかった。
 その佐々木は構内で行き会っても、飯島と視線を合わそうとはしない。考えてみれば、飯島が3月末に辞めることは既に知られており、彼の態度の変化も頷けなくはない。唯一の心の支えを失うことになるのだから、それを他に求めたに過ぎないのだ。

 食堂で殊更大きな声で笑い合うグループに対し、憎しみの視線を向ける無言の中高年が取り巻くように座っていた。飯島が、遅く食堂に入って行くとそんな光景が目に飛びこんで来た。異様な雰囲気のなか、妙に興奮した石倉の笑い声が響いた。
 飯島は、その注目のグループを避けて隅のテーブルに着いた。その途端、頭にちくりと痛みが走った。振り向くと佐藤室長が満面に笑みを浮かべ、
「白髪を一本抜いてやったよ。」
と言うと、お盆をテーブルに置き、飯島の隣に腰を下ろした。怪訝な表情で見詰める飯島を無視して、佐藤が言った。
「奴等にはプライドってものが無いらしい。自分を陥れた奴におべっかをつかうなんて。」
飯島は不思議な気持ちで佐藤の屈託の無い顔を見つめた。佐藤は、ここ数週間、視線さえ合わそうとしなかった。しかしその態度が急変していた。納得のいかない気持ちを持て余しながら、飯島が答えた。
「まあ、しょうがないでしょう。生きるためには何でもやる。そうやって、我々の祖先も生きてきたから、今我々が存在しているわけでしょう。」
「何を悟りきったような口をきいてるんだ。」
と言って、声を上げて笑った。不思議に思いながらも、飯島もつられて笑った。
その間も、石倉のねちねちとした視線は飯島に向けられている。石倉の唇が「女房」、そして「逃げられた」と動くのが見て取れた。その含み笑いに続いて、取り巻き達のところかまわぬ哄笑が響いた。明らかに女房に逃げられた飯島を嘲笑しているのだ。
 飯島は、視線を佐々木に向けた。佐々木はちらりと飯島を見て、笑うのを止めると目を伏せた。佐藤は、飯島に向けられた揶揄の言葉など聞こえない振りをして、何か話し掛けてきた。しかし、飯島の耳にはその言葉は届かなかった。
 飯島は、立ち上がると、ゆっくりと石倉のテーブルへと近付いていった。一瞬、皆の笑い声が止んだ。石倉はまだ笑みを浮かべている。数人の男達は緊張の面持ちで身構えた。飯島が石倉の前に立った。そして言葉をかけた。
「何を、にやついているんだ。」
石倉が、幾分緊張ぎみに、やや余裕を残して、
「別に、何でもございません、所長殿。」
と慇懃に答えた。飯島もまだ冷静だった。
「俺に喧嘩を売るつもりなら、相手になってもいいんだぞ。」
石倉は、内容はともかく、飯島の思いのほか物静かな物言いにすっかり緊張が解けたようだ。まだまだ人を見る目がない。
「所長、そんな青臭いことは言わないでくださいよ。喧嘩を売るとか買うとか、いい大人が使う言葉じゃありますまい。」
足が勝手に動いた。石倉の座る椅子を思いきり横に蹴り飛ばした。石倉は不意を突かれ、ドスンという音とともに尻から床に落ちた。顔を引きつらせている。飯島がドスのきいた声を響かせた。
「舐めるなよ、この野郎。手前みたいな屑野郎がこの会社を駄目にしたんだ。ろくに考えもせず、これといった企業努力もせず、闇雲にリストラに飛びつきやがって。欧米ではいざ知らず、この日本じゃリストラは最後の最後の手段なんだよ。えー、分かるか。聞いてるのか、この野郎。」
飯島は両手で倒れた石坂の襟首をつかみ、立ち上がらせた。襟首の拳に力を入れ引き寄せながら叫んだ。
「分かっているのか。そんな情けない経営者のお先棒を担ぎやがって、皆を裏切りやがって、このゲス野郎が。もう少し皆に済まなそうな顔をしてるのなら、まだ許せるが、いつだってにやついていやがった。」
石倉の顔は恐怖に引きつっている。ぶるぶる震えながらその目は赤く染まっていった。涙だ。飯島が怒鳴った。
「何震えていやがる、それでも応援団出身か。」
その時、飯島は肩をぽんと叩かれた。振り向くと、佐藤が顔を紅潮させ頷いている。そして言った。
「もう、そのへんでいいだろう。そいつだって犠牲者だ。」
 飯島は急激に興奮が冷めてゆくのを感じた。佐藤の聖人君主然とした顔に違和感をおぼえたのだ。その顔を見つめながら、石倉の襟首から手を離し、犬でも追い払うように手先を振った。石倉は逃げるようにその場から立ち去った。そして、遠巻きに事態を見守っていた負け犬達の嘲笑と罵声がいつまでも続いた。

 石倉は、組織という権力機構に守られてその強さを演じていたに過ぎない。飯島はその組織からはじき出され、孤独と絶望に打ちひしがれていた。まして狂気が生んだ事件に巻き込まれ、女房にも逃げられた。
 自暴自棄が、剥き出しの粗暴さを露呈させたのだ。石倉は、飯島の心の深淵に潜む獣性を感じて、恐怖に襲われたのだ。石倉の涙を貯めた赤い目がそれを物語っていた。  
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