無明のささやき
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第二章
朝礼が終わり事務所に戻ると電話が鳴っており、急いで受話器を取り上げると箕輪の野太い声が響いた。
「おい、ひさしぶりだな。噂は聞いてはいたが、まさか本当にお前が来るとは思わなかったぜ。なんせ、生き馬の目を抜くやり手ナンバーワンだからな。そいつが何故って、みな驚いている」
飯島の心に懐かしさがこみ上げてきた。微笑みながら答えた。
「ああ、俺にとっても晴天の霹靂だった。まさかこの俺が抽選で当たり籤(くじ)を引くなんて、思ってもいなかったからな。」
「当たり籤なもんか、ハズレもいいとこだぜ。どうせ、因果を含まれてのことだろう。」
相変わらず冗談の分からない奴だが、それさえ今は許せる気分だ。
「ああ、お前を含めて、ここにいる社員全員を早急にリストラしろってことさ。」
「まったく、世間じゃとっくのとうにリストラを終えて、ようやく業績も上向いて利益が出始めているというのに、相変わらずこの会社は一歩も二歩も遅れていやがる。それで、お前はどうする気なんだ。」
「俺もだいぶ悩んだ。ここの席に座る直前まで、お前らを首にするにはどうしたらいいか無い知恵を絞っていた。だけど、朝礼の時に思いついたんだ。考えてみれば、みんな第一線で活躍した営業マンだ。つまり即戦力だ。その気になりさえすれば就職口はある。俺の顧客にあたってみることにした。」
「お前がハローワークの真似事をしようってわけか。」
「しかたがないだろう、それしか思いつかん。そういえば、お前はどうなんだ。お前ほどの談合屋であれば引く手あまただろう。」
「いや、もう談合屋の時代じゃない。とは言え、すでに何社から声はかかっている。だけど、今は行く気はない。俺にはリハビリの時間も必要だ。酒と女で腐りかけた体を鍛えなおしている。ここの仕事はリハビリにはもってこいだ。だいぶ筋肉も戻ってきたしな。それよりどうだ。今晩は無理としても明日、池袋の例の店で。」
飯島が誘いに乗ったのは云うまでもない。
学生時代、飯島は日本拳法をやっていたが、箕輪とは何度となく対戦し、互いにライバルとして意識していた。飯島は学生最後の個人戦で箕輪を破り優勝した。それは勝利の女神がたまたま飯島に微笑えんだにすぎない。
学生時代は互いに意識しすぎていたためか、親しく付き合うことはなかった。そんな二人は思わぬ場所で再開した。それは業界で「勉強会」と呼ばれる談合の席である。二人はたまたまゼネコンに就職し、営業マンとしてそこで再会したのだ。
飯島の顧客は民間が多かったため、めったに談合には参加しなかったが、箕輪の会社は土木工事専門で、どっぷりと談合の世界に浸りきっていた。箕輪が業界で頭角を現すのに時間はかからなかった。
数年後、飯島の会社の官庁営業マンにそれとなく聞くと、箕輪は押しが強く度胸もあり、若い世代のリーダー格だという。飯島は上司と相談し、箕輪をリクルートした。なかなか首を縦に振らなかったが、飯島は上司とともに一年かけて彼を説得したのだった。
飯島の思惑はあたった。箕輪は談合屋として実力を発揮し、官庁からの受注は確実に増えていった。バブルがはじけ、苦しい時代も他の官庁営業マンなど比較にならないほどの受注を獲得した。しかし、箕輪は南常務を軽蔑していた。それがここにいる理由なのだ。
憂鬱な気分を忘れて、しみじみとした思いに浸っていた。そんな時、いきなり耳障りな電話の電子音が響いた。同じ電話の音なのに何故そう感じたのか分からない。だがそれは箕輪の時と異なり確かに耳障りに聞こえたのだ。緩んだ頬を引き締め、受話器をとった。
「飯島さんですか、石倉です。どうです、初日の感想は。」
思わずため息が漏れそうになるのを飲み込み、ありきたりの言葉を選んで応えた。
「ええ、難しい仕事だとは思いますが、鋭意努力してゆきます。大変な使命に緊張しているところです。」
石倉は再度、使命について念を押してから電話を切った。箕輪がくれた清涼感など胡散霧消していた。
飯島の言った「使命」という言葉については、昨日、石倉から本社に呼ばれ改めて念を押されたのだ。使命とは言うまでもなくリストラ、しかも早急にというおまけまでついている。石倉は昨日、最後にこう結んだ。
「とにかく、心して対処して下さい。何度も言いますが、これが出来るのは、飯島さんしかいません。私の判断は間違っていないと思っています。どうか、期待に応えて下さい。」
「ええ、分かっております。」
飯島は、これ以上言うべき言葉を持っていなかった。石倉のこの言葉ほど空々しいものはない。石倉は飯島が失敗することを心から望んでいる。二人の視線は奇妙に絡み合う。沈黙を破ったのは勿論石倉だった。
「それでは、そういうことで。」
箕輪が言った例の店とは、社会人になって二人が再開したその晩、初めて二人が訪れた店である。その時以来何度となく待ち合わせをした店だ。飯島が入ってゆくと、マスターは首を横に振った。まだ来ていないという意味だ。
カウンターだけのこじんまりした店で、マスターは店のオウナーで、たまたま箕輪の大学の先輩でもあった。飯島がカウンターに着くと、マスターは迷うこともなく大ジョッキを棚から取り出している。飯島はこの数日のストレスが氷解してゆくのを感じた。
箕輪が来たのは約束の時間を30分過ぎてからだ。野武士のような風貌に口髭が良く似合う。ジーンズにTシャツということは一度家に寄ったようだ。大きな体をかがめ隣のスツールに腰を落ち着けると、「生ビール大ジョッキ」とマスターに声をかけた。そしてにやりと笑って、口を開いた。
「この間は悪かったな、せっかく誘ってもらったのに。ちょっと用事があってな」
「半年も前のことなんて覚えていないよ、お前と違ってこっちは忙しいんだ」
「それはそうだ。しかし、お前さんも苦労が絶えないな。どうするんだ、これから。」
「電話で言った通り、皆の就職の相談に乗る。それしかできない。」
「でも、200人だぜ。全員就職させようなんて思っているわけじゃないだろうが、はっきり言って、クズもいる。そんなクズは捨てることだ。」
「俺は自分に出来ることをするだけだ。それより、お前の就職先はどうなっているんだ。」
「俺のことは心配するな。三度目の就職だ、じっくり将来を見据えて決めるつもりだ。独禁法が改正されて、談合も以前ほど楽じゃない。その辺も見極めなくちゃならない。」
「そうらしいな。でも馬鹿げている。マスコミは知っていて書かないのか、それとも本当に知らないのか。常に俺たちゼネコンが槍玉にあがるが、談合やってるのはゼネコンだけじゃない。ありとあらゆる官庁発注の入札で談合は行われている。つまりすべての業界においてだ。」
「ああ、はじめに官製談合ありきだ。役人はOBのいる企業に優先的に仕事を回す。俺達は、役人がどの企業に受注させたいのか意向を確認し、それを業界に伝えた。意向がないとわかれば、さてどうするってことになる。それが談合の始まりだ。」
「ああ、今はやりのプロポーザル方式だって、役人が受注させたい企業を好き勝手に選べる仕組みにすぎない。まったく次から次と美味い方法を生み出すもんだ。」
「まったく、官僚っていうのは民間のあがりを掠めとるヤクザみたいなもんだ。中間で国の予算を掠め取るシステムが幾重にも張り巡らされている。」
「ヤクザだってコストは10パーセントを切れないって言うぜ。人件費や事務所経費をいれたら、恐喝だってそのくらいのコストは掛かる。官僚は下手をすればコストゼロで民間の上前を撥ねるんだからヤクザ以上ってことだ。」
「しかし、仕事が欲しければ官庁OBを雇うしかない。日本はやっぱり役人天国ってわけだ。」
「結局、俺達が就職に際し民間を選んだのは間違いってことかもしれない。そう思うことないか?」
「いや、違うと思う。あの当時、俺達は役人になろうなんて、これっぽっちも思わなかった。それだけ、世間を知らなかったってこともあるが、どう考えたって民間の方が刺激に満ちていた。今、こうしてリストラ寸前でいるのだって、考えてみれば刺激的だ。違うか?」
「それで、一年近くもここに居座っているわけか。」
「いや、そういうわけでもないんだ。はじめは長年世話になった先輩諸氏にご挨拶に立ち寄っただけだ。しかし、佐久間さんに会って、興味をそそられた。この会社に就職する前、佐久間さんとは何度も会って話した。その熱意にほだされ俺は転職を決心した経緯がある。佐久間さんを好きになったからだ。」
「ああ、俺も尊敬している。」
ここで、箕輪は苦虫を噛みつぶしたような顔で言った。
「だが、その佐久間さんは死んだ。今の佐久間さんは別人だ。何かに取り憑かれている。」
「復讐か?」
「ああ、そんなことだろう。俺も仲間に誘われた。報酬は金だ。金づるがあるんだそうだ。それを、俺に持ちかけた時の顔は、ちょっとしたホラーだったぜ。」
「まさか、あの人が・・・」
飯島は暗然として押し黙った。箕輪が言った。
「佐久間さんは確実に何かを引き起こす。俺は、何が起こるのか見たい。それに佐久間という人間がどう壊れていくのか見ていたい気もする。」
「それがここにいる理由か?」
「勿論それだけじゃない。しかし、興味があることは確かだ。普段はまったく普通だ。冗談も言うし、笑いもする。だけど、心は壊れかけている。」
「昨日、電話があった。来週の月曜に駅前の飲み屋で待ち合わせている。」
「あの汚ねえ飲み屋か。兎に角、会って確かめろ。恐らく最初から本性は現さない。そのうちだ。」
その晩、二人は酔いつぶれるまで飲んだ。東長崎に住む箕輪はまだ電車があったが、飯島はタクシーで帰る羽目になった。車の冷房が心地よく飯島の頬を撫で、ここ一ヶ月、冷たい視線に晒されて強張っていた頬が一瞬緩んだ。あの時の情景が瞼に浮かんだのだ。
日本拳法は剥き出しの闘志を以って相手と対峙する。防具に身を包んでいるため容赦はいらない。倒れた相手の面を踏みつけても一本だ。飯島はそんな男同士の戦いが好きだった。しかし、実社会の男同士の争いはそれこそ女の世界より陰湿でじめじめしている。
いじめはいじめと認識されず、無能力を憎む感情に置き換えられる。民間では無能力は憎まれて当然の資質なのだ。無能力を放置すれば会社の存続が危ぶまれることになるからだ。飯島もその烙印を押された。しかし、今の飯島はそんなことも忘れて微笑む。
飯島の夢うつつの脳裏に、箕輪と初めて対戦した時の情景が浮かんでた。リングサイドで相手チームのコーチが叫んだ。「おい箕輪、柔道三段だろう。相手を投げ飛ばしてやれ。床に叩きつければ、それでも一本だ」これを聞いて、飯島は闘争本能を剥き出しにしてコーナーを飛び出した。飯島は高校で柔道を少しかじって初段だったからだ。
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