ソードアート・オンライン ~無刀の冒険者~
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ALO編
episode1 灰色で楽しい日常3
「ふぅ……っと、やべっ」
数分のじゃれあい(俺にとっては真剣勝負)を終え、家の門前に帰ってきたときには既に腕時計は六時十五分を回っていた。うん、やばいな。三毛犬にのしかかられ、その際仔犬に舐めまわされたため、俺の体は今その痕跡が色濃く残っている。端的に言えば、相当に獣臭い。軽くシャワーでも浴びたいが、その時間はなさそうだ。
(……しゃーない、タオルで拭うだけでも……)
再び鴬張りの床を歩いて、部屋まで戻る。
この、いわゆる「裕福なお屋敷」であるこの家には、なんとリアルな「お手伝いさん」なる人物がいるのだ。さすがにその格好は某東京の一部の町にて熱狂的な人気を誇る例のあの服装でこそ無いが、あの着物にエプロンというファッションもなかなか…いや、そんなことはどうでもいい。問題は、そのお手伝いさんが毎朝俺の部屋(なんとこのお屋敷には「私室」なるものが宛がわれている)に起こしに来るということだ。
時間も測ったように正確で、六時二十五分。
(それまでに、部屋まで戻らねえとな……)
その時間に俺が部屋にいなければ、騒ぎになるかもしれない。
……しかしなぜ二十五分なのだろう。この屋敷の朝食の時間が三十分だから、その時間に起きたら五分で身支度せんと間に合わんのだが。
いや、それも今問題にすることではない。
(うっし……時間は、オッケーっと……)
音もなく鴬張りの廊下を進み、時計を見てまだ彼女のやってくる時間ではないことを確認する。間に合った安堵に胸を撫で下ろしながら、廊下の角を曲がる。これで部屋に戻って体だけ拭いておけばそれなりには誤魔化せるだろう……などと、油断しきった状態で。
恐らく。
「お待ちしておりました、御主人様」
「……オハヨウゴザイマス」
声をかけられた俺は、相当に間抜けな顔をしていただろう。
◆
深々と頭を下げたその人から、俺は気まずく視線を逸らす。
……いや、この気まずさでその感情の消えた表情は直視できねえよ。
「お早う御座います。挨拶が先でした、失礼いたしました」
「いや、それはいいですが…」
いつから待っていたのか、俺の前に佇んだその「お手伝いさん」が、仰々しく頭を下げる。
そして、そのまま沈黙。うん、何とも言えない気まずい空気だが、やはりここは俺が口を開くべきなのだろうか。まあ、彼女が開くべきならもう既に開いているだろうからには、俺の役目なのだろう。がんばれ俺、聞くだけだ、難しいことは無い。
「ど、どうされたんです? 牡丹さん」
若干どもりながらの声に、目の前の臙脂色の着物に白エプロンをつけたお手伝いさんが、その切れ長の
目を半眼に開く。この家にもう長いこと勤めているのだろうこの女性……名前は神月牡丹さん。
年は俺よりやや上といったところだろうが、やや茶色く染められた長い髪が後ろで緩く一つに結ばれており、体は凹凸のでにくい和服でありながらも十分に女性的のシルエットを描いているおかげで随分年上に見える。いかにもやり手の女将…さもなければ、メイド長だ。いついかなる時もピンと伸びた背筋は、当然今も普段通りのキレだ。
普段と違うのは、いつもは隙なく前に組まれている手に、お盆が抱えられていることくらいか。
……体を拭うのにちょうどよさそうな手ぬぐいの乗った。
「当主様の御指示で、御主人様に体を拭うものをお持ち致しました。朝食までお時間がありません。使われるのなら急がれた方がよろしいかと」
わーおやっべー、爺さんにばれてんのか。
「……分かりました、有難く使わせて頂きます。支度が出来たら向かいますので、牡丹さんは先に食堂に戻られてください。……それと、「御主人様」は勘弁してください。俺にだって名前ってもんがあるんです。あと、できれば敬語も」
「できません。当主様より、御主人様がこの屋敷にいらっしゃる間は名前で呼ぶことを一切禁じるとの指示でございます。また、私のことは名字で呼び捨てにしてくださいませ。敬語も結構です」
「……スミマセンデシタ」
一応試みた弱弱しい批判は、取りつく島なくバッサリと切られてしまった。
ちなみにこの妙なやりとりは、既にこの滞在で幾度となく繰り返されているものだ。いつかは牡丹さんが折れてくれると信じて、抵抗を続けている。残念ながら自分は、そのように呼ばれる事に快感を覚える人種では無いのだ。
とりあえずお盆の上の濡れタオル……きちんと温めて用意してくれたようで、まだ十分に心地よい暖かみを保ったそれを手に、部屋の中に入る。見れば既に布団は片づけられており、更には着替えまで置かれている。これも、全く慣れない。昔のお貴族様はこんな生活ができていたのかと驚くばかりだ。
(っと、そんなこと考えている場合じゃあないな、急がねえと!)
ゆっくりしている暇は無い。さっさと着替えないと、朝食に間に合わん。
俺が怒られる分ならまだいいが、残念ながらここではそうでは無い。
俺の為に二年…いや、十九年頑張ってくれた、母さんに迷惑がかかってしまうのだ。
◆
都内から若干離れた土地にあるこの巨大な日本屋敷の名は、「四神守」家。
読み方は、「しじんがみ」だ。
御大層な名前だが、聞いた話ではどうもそれに見合うだけの名家でもあるらしい。嘘かホントか家系はなんと飛鳥時代まで遡り、「王家(勇者だったかもしれん)の四方を守る尊い役目を仰せつかった」という伝説まである…らしい。らしい、とつくのは、この話は俺がSAOから脱出し、まだ入院しながらリハビリしていた時期に母さんから聞いた話だからだ。
ここらへんは、話せば長い。面倒くさいほどに。だからまあ、簡単に言おう。
一、母さんは、いわゆる「お嬢様」として名家に育った。
二、親父と運命の出会い、しかし爺さんはそれを許さず。
三、母さん妊娠、結果二人で駆け落ち。
四、まだ俺が物心つかぬうちに親父他界。
五、母さん、気力と根性で女手一つで俺を育てる。
となるらしい。ちなみにここから、「六、俺SAOへ。入院費等に困窮した母さん、意を決して実家に助けを求める」となって今に至る。母さんもかなり無理をして、助けを求めたのはSAO開始一年後の十一月になってからだったらしく、「もう一年耐えられたら、頼らなくて良かったんだけど」と力無く笑っていた。
涙ぐましい親の努力なのかもしれないが、俺に言わせれば、「バカか」といったところだ。
俺は生きてることが第一だと思う。そのためだったら、プライドなんて喜んで捨てるだろう。俺が同じ立場だったら、別に頭を踏みつけられてニジニジされようが助けてくれと泣き付くことに、なんの抵抗も無いだろう。他人がやってたらちょっと引くかも知れんが。
まあそこは母さんにも譲れない一線というものがあったのだろうが、その母さんを見て育った俺がこうなったところを見るに、親父の遺伝子か。もしそうだとしたら俺は親父の印象が記憶にないことを心の底から感謝する。「父の威厳」というものは、そんな俺のプライドの無さとは別に一応男として信じておきたい年頃なのだ。
とにかく。
こうして俺は、ひっじょーに気まずい関係にある、名家の領主である実の爺さんと、今現在一緒に暮らしているのである。
◆
(ふぅ、あぶねあぶね……)
焦らず、急いだ結果は、ぎりぎりセーフと言ったところか。名家の辛いところで、時間がヤバいからと走って馳せ参じられないのは大変だ。ああ、高校時代、パン一枚咥えて通学路を全力疾走していた時代が懐かしい。
到着した際、時間は既に三十分を回っていたが、まだ爺さんは現れていなかった。
先に食事の場についていた母さんが、不安そうな顔を嬉しげにほころばせる。
絹のように美しい黒髪をかんざしで美しく纏め上げた姿は、まさに「良家のお嬢様」だ。
それは、いいのだが。
(やっぱ、痩せた、よな……)
母さんは、もともと太かったわけではないが、それでも頬には健康的な膨らみがあったものだ。それが今は、完全にそげ落ちてしまっている。今は、というか、正確には、俺が囚われていた二年間の間に、ということになるのだろう。全く、親不孝な息子なことだ。心の中でだけ、ごめんと謝りながら、自分の席に着く。ちなみに日本家屋、食事は広間で畳に正座だが、母さんの教えのおかげで俺にとって正座はさして苦ではない。
するりと座って背筋を伸ばしたその瞬間、奥の襖がするすると空いた。
現れたのは、既に一人の老人。既に総白髪、口元の髭まで真っ白だが、身長は俺と殆ど変らず、体重は細身の俺より明らかに多いだろう。その伸びた背筋とがっちりとした立ち姿からは、既に七十近いというのに年齢による衰えは微塵も感じられない。
その「厳格な老人」を絵に描いたようなのが、俺の祖父…四神守宗源ということになる。その鋭い黒目がじろりと広間を見回して、広間の畳に十人分以上の朝食の盆の前にそこに空席が無いことを確認し、重々しく口が開かれる。
「朝餉が終わったら、道場に来い」
それは、いつもの朝食の始まりの挨拶では無く、俺に向けられた言葉だった。
マジかよ。
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