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スペードの女王

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第一幕その八


第一幕その八

 だが彼女は今はそのロココ調の様々な装飾にも目がいかなかった。開けられたバルコニーから見える夜空を見ているだけであった。 
 その空は澄んで清らかな闇をたたえていた。彼女はそれを見上げて物思いに耽るのであった。
 思うことは一つしかなかった。昼に出会った彼のことであった。
「何かしら、あの人は」
 ゲルマンの名は知らない。だが妙に心に残ったのだ。
「少し見ただけなのに心に残る。あの悩ましげな顔が」
 公爵のことは頭には残ってはいなかった。残っているのはどういうわけかあの男のことだけであった。それが何故なのかは彼女にもわかりはしなかった。
「あの方がおられるのに。素晴らしい方が」
 公爵のことである。彼が非常に素晴らしい人物であるのは彼女もわかっていた。だが人はそれだけでは満足しないのだ。魅力はそれだけではない。光だけが魅力ではないのだ。
「裏切りなの?これは」
 ゲルマンのことを思う自分自身に問う。
「夜の空だけは聞いてくれるかしら。私の懺悔を。私はあの人のことを今思っている」
 ゲルマンのことを。
「堕天使にも似たあの方を。夜の闇の中に誘い込む悪魔の様な姿のあの人のことを。安らぎと平安が奪われた闇に沈む私の心を」
 そこまで言うとバルコニーから顔を離す。そしてそこに背を向けて俯く。だがここでバルコニーから物音がした。
「!?」
 その物音に振り向く。するとそこにその堕天使がいたのであった。
「貴方は・・・・・・これは夢!?」
「いえ、夢ではありません」
 軍服の上からマントを羽織ったゲルマンが。そこにいたのである。そして彼女を見ていた。
「どうしてここに」
「理由を言わなければなりませんか?」
 部屋に入りながらリーザに問う。
「どうしても」
「人を呼びます」
 リーザは怯える声で近寄るゲルマンに対して言った。
「それ以上近付いたら」
「では呼んで下さい」
 ゲルマンは思い詰めた顔でそれに返した。
「呼んで下さるのなら。もとより覚悟のうえです」
「覚悟のうえ」
「ええ。貴女に御会いする為にここまで来たのですから。最後に」
「最後にって」
「貴女はもう決められた方がおられます」
「ええ」
 こくりと頷く。公爵のことだとすぐにわかった。
「僕はその前から貴女をお慕いしていたのです。気付かれていなかったでしょうが」
「そうだったのですか」
「はい。ならば僕にはもう生きている意味がない」
 リーザの目を見据えて言う。
「死ぬだけです。全ては潰えてしまったのですから」
「そんな・・・・・・」
「ですが僕はあえて手に入れたい。貴女を」
「私を・・・・・・」
「そうです。その為にここに来たのですから」
 そしてまた言った。
「全てを手に入れるか全てを失うか」
「その全ては」
「それこそが貴女なのです」
 またリーザを見据えた。
「貴女は僕の全てなのですから」
「リーザ」
 ゲルマンは歩み寄ろうとする。だがここで伯爵夫人の声がした。
「いるの、リーザ」
「御婆様」
「スペードの女王」
 ゲルマンはその声を聞いて呟いた。
「彼女が今扉の向こうに」
「いたら返事をしなさい。そこを開けて」
「はい、只今」
 それに応えながらゲルマンに顔を向ける。咄嗟のことに思い詰めた顔になっていた。
「まずはこちらへ」
「ええ」
「いるの?いないの?」
「います、今行きます」
(早く)
 応えながら小声でゲルマンを急かす。
(あそこへ)
 そう言ってカーテンの中に隠した。ピンクの、やはりフランスから持って来たカーテンである。何処までもフランス風であった。
 ゲルマンを隠した後扉を開ける。そして祖母を部屋に迎え入れた。
「すいません」
「どうしたのですか、いるならいると」
「うとうととしていまして」
「それならよいですが。それなら」
「はい」
「バルコニーは閉めておきなさい」
「あっ」
 言われてはっとした。あまりのことにそんなことすら忘れてしまっていた。バルコニーが開いていなければそもそもゲルマンも入っては来ないからだ。彼女は忘れていた。
「いいですね」
「わかりました」
「それでは。お休みなさい」
「お休みなさい」
 挨拶の後で伯爵夫人は部屋を後にした。リーザはそれを見送ってから扉を閉めた。そしてカーテンの奥に隠れているゲルマンの方に顔を向けた。
「もういいですよ」
「ええ」
(伯爵夫人、また)
 ゲルマンは扉の方を見ていた。そしてあの伯爵夫人をそこに見ていたのである。
(三つのカードの秘密。それさえわかれば)
「それで」
「はい」
 カードの考えは中断した。そしてゲルマンはリーザに顔を戻した。
「さっきのお話ですけれど」
「ええ」
「私に何をお望みなのですか?」
 俯き加減に問う。
「私に出来ることは」
「僕の運命です」
 彼はそこにはリーザを見ていた。だが同時に三枚のカード、即ち伯爵夫人も見ていた。もう何を見ているのは自分でもわからなくなっていようとしていたがそれは彼にも気付いてはいなかった。
「貴方の運命」
「はい、そうです」
 彼は答える。
「僕の運命なのです」
「それは・・・・・・」
 だがリーザはそれを言えなかった。心では違っていたが彼女は貞節をまだ重んじたかった。堕天使を前にしてそれは儚いものであったが。
「僕は貴女がなければ」
「その先は言わないで下さい」
「では」
「・・・・・・・・・」
 言葉が出ない。だがそれはほんの一瞬のことでしかなかった。リーザも遂に折れた。そして口を開いた。
「私で宜しければ」
「よいのですね」
「・・・・・・はい」
 こくりと頷いた。それでリーザは堕天使の中に落ちたのであった。
「貴方と共に」
「ええ、貴女と共に」
 二人は抱き合う。だがその後ろで雷が鳴り響き夜の中で暗雲が立ちこめていた。それは不吉な未来を知らせるように闇の中にあった。
 
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