ボリス=ゴドゥノフ
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第二幕その三
第二幕その三
「ようおかみさん」
彼等はそのおかみに声をかけてきた。
「何だい、坊さん達」
「寄進をされませんか」
彼等はやけに馴れ馴れしい様子で彼女に声をかけてきた。
「寄進?」
「左様、寺院建立の為」
「小銭でもいいですぞ。寄進されれば神の御加護がありますぞ」
「はいはい」
おかみはそれを聞いて立ち上がり宿の中に入り小銭を何枚か持って来たのであった。
「どうぞ」
「これはどうも」
「おかみさんに主の御加護がありますように」
「いやいや」
だがおかみは二人の御礼に対して鷹揚に返した。
「こんなことは当たり前ですからねえ」
「その御考えこそ素晴らしい」
「いや、御見事」
二人は口々におかみの気立てのよさと信仰心の篤さを褒めていた。褒められるとおかみも悪い気はしない。
「寒くありませんか?」
おかみは二人に尋ねてきた。
「少しばかり」
「酒であったまりたい気分ですな」
そしてかなりわざとらしく催促した。だがおかみはそんな二人にも気前よく頷いた。そして言った。
「それじゃあちょっと待っていて下さいね」
「はい」
二人はにこりと笑って頷く。
「お酒を持って来ますから」
そう言って店の裏にある蔵に向かった。二人はそれを見送った後で顔を見合わせて笑い合った。
「なあワルアラームの」
赤い髪の男が黒い髪の男の名を呼んだ。
「何だ、ミサイールの」
黒い髪の男はそれに応えるように赤い髪の男の名を口にした。
「親切なおかみさんだな」
「そうだな。まさか酒までくれるなんて。いいロシアとの別れになりそうだな」
「そうだな。修道院から逃げ出した時にはどうなるかと思ったが」
「うん」
「全く。どうやら運が向いて来たわい」
「全くじゃ」
どうやらこの二人は修道院でよからぬことをして逃げ出してきたらしい。実はこの時代は二人の様な聖職者がロシアでは多かった。
実はこの二人はあまり字は読めない。そして酒を好み素行もよくはない。こうした聖職者が多くなり、当時のロシアにおいて深刻な問題の一つとなっていた。彼等はまさにそうした素行と識見に問題のある聖職者達なのであった。酒を愛し、女を愛する。だが信仰は仮だけである。こうした僧侶がいるのは何時の時代でもそうであるがこの時代のロシアにおいてもそれは同じであった。
二人が酒を楽しみに待っているとそこに若い僧侶がやって来た。見ればグリゴーリィであった。
「おい、そこの若いの」
ワルアラームが彼に声をかけた。
「今からリトアニアに行くのかい?」
「ええ、まあ」
グリゴーリィは彼に顔を向けて答えた。
「それが何か」
「奇遇だな、わし等もそうなんだ」
「旅は道連れというやつだ。一緒に行かないか?」
ミサイールも声をかけてきた。
「けれど私は」
「細かいことは言いっこなしだ。ここで逢ったのも何かの縁」
「まあ一杯やってけ」
「酒ですか」
思えば身体がかなり冷えていた。ここに来るまで碌に何も食べていなかったからそれも当然であった。グリゴーリィはごくりと喉を鳴らした。
「少しいいですか」
二人の方へ歩み寄って尋ねた。
「ああ、いいとも」
「ロシアとの別れに一杯やろう」
「一杯でなくてどんどんな」
「はい」
「おや、もう一人おられたんですか」
おかみが戻って来てこう言った。見ればグリゴーリィは二人と一緒に木のテーブルに座っていた。
「どうも」
グリゴーリィはペコリと頭を下げた。
「今通り掛かった若い僧侶でしてな」
ワルアラームがおかみに説明する。
「ここで会ったのも何かの縁。それで誘ったのですよ」
「そうだったのですか。まあ人数が多い方が楽しいですからね」
気さくなおかみはミサイールのその言葉にも頷いた。二人のいささか図々しいと言えるような態度にも全く眉を顰めさせはしない。懐の広いおかみであった。ロシア女の気質と言うべきか。
「それじゃまずは一杯」
「どうも」
木の大きな杯に酒を入れる。おかみも入れての乾杯の後ワルアラームはその大きな杯の中にある酒を一気に飲み干した。そして顔を赤らめさせて立ち上がった。
「それでは酒の御礼に一興」
「何をしてくれるのですか?」
「歌を。宜しいですかな」
「歌?」
「はい、イワン雷帝の歌です。宜しいでしょうか」
「悪くないねえ。それじゃあそれを」
「では」
ワルアラームは恭しく頭を垂れた。そしてミサイールが手で拍子をとる。彼はその手拍子に合わせて歌いはじめた。
「その昔カザンの街であったこと、イワン雷帝祝宴張って上機嫌」
彼は朗々とした声で歌いはじめた。調子のいい歌でミサイールの手拍子は絶妙だった。ワルアラームの歌も中々見事なものであった。
「街を牛耳るタタールを、見事に破って上機嫌」
「タタールを」
「そう、タタールを」
歌の合間におかみに応える。これはサービスであろうか。
「大砲を持って来てドカンと派手にぶっ放した。そしてタタール共を吹き飛ばし」
「タタール共を吹き飛ばし」
ミサイールも乗ってきたのか歌いはじめてきた。
「四万と三千も倒してやった」
「四万と三千も倒してやった」
「これがカザンであったこと。雷帝はその街をロシアに下された」
「雷帝はその街をロシアに下された・・・・・・ん!?」
ここで二人は黙り込んでいるグリゴーリィに気付いた。
「おい若いの」
そして彼に声をかけてきた。
「ノリが悪いな。どうしたんだ?」
「いえ、何でもないです」
だが彼はそれに答えようとはしなかった。
「そうか。何か顔色がよくないぞ」
「そうでしょうか」
「まあもっと飲め。人が飲んでいる時は自分も飲む。それで楽しくやろうじゃないか」
ワルラアームはそう言って自分が酒を飲んだ。ミサイールもである。二人の顔はさらに赤くなった。見ればおかみも二人程ではないが酒を口にしていた。
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