戦国御伽草子
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壱ノ巻
青の炎
2
「発六郎。至急の用とは何なのですか?」
「そうですよ」
今日、主と、俊成と、…瑠螺蔚は天地城に出掛けていった。
渡りに船と残る女二人を離れに呼び出した。奥と俊成の妻だ。
手始めにこいつらを殺して、帰ってきた男二人を殺して、それから、…………。
いや、今は目の前のことだけに集中するべきだ。女だと侮ると痛い目にあうかもしれない。失敗という文字は、ない。失敗はすなわち死、だ。
俺は、無言ですらりと太刀を抜いた。
「は、発六郎!?何を・・・」
震える声を聞きながら、俺は目を閉じた。
瞼裏に、不意に瑠螺蔚の顔が滲んだ。
『なんでもないから』
その女は、だから大丈夫だと、そう言った。
静かに震えながら、気丈にも涙を拭って、笑って見せた。
なんでもない?そんなわけないだろ!とふとすれば怒鳴りつけそうだった。だっておまえは泣いているじゃないか。
ただの強がり。
けれど俺に慰めてやるなんて甲斐性があるわけないし、ましてや殺そうと考えている女にそんなことをしてやれる程、優しくもない。
けれどそのまま立ち去るには、強がる瑠螺蔚の姿は痛々し過ぎた。
その涙を目にすれば苛立って、何かしてやれることはないかと考えた自分にも腹が立った。
いや、ここで疑われては今までの苦労が水の泡だ。媚びておくにこしたことはない。俺が即座に立ち去らないのは、そうだ、たったそれだけの理由に決まってる。
気がつけば俺は懐を探って、ぐしゃぐしゃの布を差し出していた。差し出してから俺は後悔した。いくらなんでも、前田の本家の姫に、こんなぼろ布を差し出すなんてどうかしている。俺はこんなものしか持ちあわせていないし、瑠螺蔚ならばこの百倍もいい布を普段から使っているだろう。
この手はもしかしたら振り払われるかもしれない。無礼者、と罵られるかもしれない。しかし、姫とはそういうものだ。気位が高く、扱いづらいものだ。そういう暮らしをしている者のことを姫と呼ぶのだ。そもそもこんな真夜中に姫の部屋に下男が入っているなど、ありえないことだ。首を落とされても仕方がない。
瑠螺蔚は驚いたように目を見開いた。
今更ながら、俺はじわりと全身に汗が滲むのを感じた。
俺は、何をやっているのか。
手を引っこめようとしたその時、瑠螺蔚は微笑んだ。
「ありがとう」
そう言って、俺の手から布を受け取った。
その笑顔は、涙に濡れていても、はっきりと美しかった。
瑠螺蔚は決して美人と謳われる類ではない。けれど、その笑顔は瑞々しく純粋で、素直に美しいと思えるものだった。
人の笑顔を、いや、人を綺麗だと思ったことなどなかった。そもそも俺は他人のことをあまりよく見ていなかった。外見など、他人を識別する目印にしか過ぎないと考えていた。
俺は自分が不愛想なことも理解しているし、村雨家では裏で動いている関係上、あんなにてらいなく俺に笑いかけるような人間もいなかった。
汚れた俺に、あの笑顔は眩しすぎた。
俺はゆっくりと目を開いた。
怯え震え立ち尽くす二人の女。
今は、こいつらを殺す。それだけを考えよう。
俺は太刀を振るった。一太刀、二太刀で、悲鳴を上げさせることもなく、女は二人とも動かなくなった。
「………」
思わず漏れた溜息に我ながら軽く驚いた。
いつも、仕事を終えたときー…人を殺したときに、こんなに重いものが付き纏っただろうか。
…駄目だ。この仕事はさっさと終わらせるに限る。
ぱたり、と刃を伝って、雫が垂れる。
赤い雫は銀の冷たい光を辿って、畳を染める。
瑠螺蔚も、あの笑顔も、そう遠くないうちにこうして血に塗れて二度と動かなくなるのだろう。それを惜しいと思うのは、ただの感傷か。
しかし俺はやらなければならないのだ。それだけが、俺が村雨家で生かされてきた意味なのだから。
その時、不意に人の気配を感じて俺は振り返った。それと同時に、背後の障子が大きく開け放たれた。
俺は、動きを止めた。障子を開けた奴も動かなかった。刀を伝う血が無ければ、まるで時が止まったかのようだった。
このまま時が、全てが止まってしまえばいい。その一瞬、俺は確かにそう願った。頭の奥のほうで鈍い音がして、眩暈がした。瑠螺蔚、と俺のくちびるが自然に動く。
こんなに、早く帰ってくるとは思わなかった。瑠螺蔚は最後のつもりだった。そもそもどうして普段は使わない離れなどに来たのか。
瑠螺蔚は、目を見開いて、俺の持っている太刀を凝視していた。おそらくは、それについている真っ赤な血を。彼女の姉と母の命を。
「発、六郎…」
瑠螺蔚が掠れる声で俺の名を呼ぶ。
それが、甘く耳に染みる。
ゆっくり、俺は瑠螺蔚に手を伸ばした。
「あんたー・・・家に来たのはこのため?義母上と義姉上を殺すため?それともーー・・・あたしを殺す、ため?」
思わず、伸ばした手が途中で止まる。動かない。動けない。手だけではなく、体が一寸たりとも動かない。
頭ではさっさと殺せと声が響いている。どうせ殺すつもりだったんだ、足を運ぶ手間が省けていいじゃないかと。
けれど体が動かない!どうして動かないんだ。どうして俺はさっさと瑠螺蔚を殺そうとしないのだ。なぜ!?
不意に瑠螺蔚がうつむいた。
「あのとき、あんたが傍にいてくれて嬉しかったのに」
小さく吐き出された声に、俺は虚を突かれた。
瑠螺蔚が、顔を上げる。俺をまっすぐに見た。こっちがいたたまれなくなるほどに、まっすぐ。
俺は、俺を映すその瞳に静かな炎が燻るのを確かに見た。
それは、憎しみの青の炎。
「あたしも殺すのね」
「瑠螺蔚」
からからに渇いた喉からやっと声が出た。その声は思いの外しっかりとしていたが、俺はそれよりも次に自分が言おうとしている言葉に驚いて、唾を飲み込んだ。
俺は、一体何を言おうとしている!?口を開けば弁解が出てきそうだった。何故そんなことを言おうとしているのか、自分で全く理解が出来なかった。
感情が大きくぶれていた。俺はなぜか動揺していた。
「あんたに名なんて呼ばれたくない」
「!」
瑠螺蔚が冷たく言い放った、その言葉が、その拒絶が、俺を強く射た。
震える足が、一歩、後ろに下がる。目の端で瑠螺蔚が懐刀を抜いたことには気づいたが、認識するには至らなかった。
くらりと眩暈がして、一瞬意識が飛んだ。また焦点が像を結んだときには、目の前で瑠螺蔚が懐刀を構えていた。今にも短刀を振りかざしそうだ。
女ごときに負けるとは思っていないが、このままではいろいろと面倒だ。気絶させようと咄嗟に思って、迷いを溜息と共にゆるく吐き出して、太刀を、一気に振るった。
「!」
けれど、俺が切ったのは瑠螺蔚の後ろの障子だけ。
よけた?まさか!
俺は驚きに目を見張る。
けれど俺が切ったのは紛れも無く瑠螺蔚ではなく、障子だけ。
瑠螺蔚の姿を探せば、いつの間にか瑠螺蔚は庭に下りていた。
俺は一瞬その真意を測り損ねて二の足を踏んだが、挑戦的な瑠螺蔚の視線を受けてたって、同じように庭に降りる。
瑠螺蔚はそれを確認してから、ついて来いとでも言うように走り出した。
俺もつられるように走り出す。
ただ走る瑠螺蔚の背を追いながら、俺は目を細めた。
瑠螺蔚には何か考えがあるのだろう。ただ走っているだけでは相有るまい。
けれど、その真相を考えることも億劫だった。俺は、酷く疲れていた。
屋敷の外に出た途端、喉に何かが当たった。
「!」
視線だけ動かしてみれば、当たっているのは懐刀。それを持っているのは瑠螺蔚。背には屋敷の外壁が当たった。
「動かないで」
瑠螺蔚が囁くように言う。
瑠螺蔚の顔が、息がかかるほど近くにある。
「・・・・・」
背筋がぞくりとして、俺は息を詰めた。
俺をまっすぐに見る、瑠螺蔚の視線が耐えられない。
視線を巡らせば、瑠螺蔚の上気した頬と赤い唇が目に付いた。
それに何か感想を抱く暇も無く、俺は大声で笑い出しそうになった。喉に当たるこの懐刀が無かったら、もしここに俺一人であったなら、きっと俺は笑い出していただろう。気の済むまで、大声で自分を嘲り笑っていたに違いない。
俺は、何をやっているのだろうか。
たかが、女一人。首に刀を押し当てられているけれど、そんなもの、本気になればきっと振り払えるだろうに、俺は何をしているのだろう。
どうして、さっき咄嗟に気絶させようなどと思ったのか。何故殺そうとしなかったのか。一思いに殺してしまえばよかったのだ。あの時に。人は咄嗟の時には本当の心が出るというが、それならば俺の誠の心は瑠螺蔚を殺したくないと思っているのか。
「どうして義姉上達を斬ったの…。あんたの目的は何?どうしてうちに来たの」
「…」
刃が俺の喉の上を薄く滑った。痛みは感じなかった。
俺は、くちびるを吊り上げて笑った。
前田家に来て、今まで信じて疑ってこなかった何かが欠けた。瑠螺蔚に逢って、俺の足元が崩れていくのを感じた。
今ここにいる俺は現。けれどそれ以外の、今までの俺は夢幻であるような気がする。
俺がわからない。自分で自分が掴めない。
いっそのこと、死んでしまった方が楽かもしれない。
ああ、そうだな。このまま、瑠螺蔚に殺されるのもいいかもしれない。
「あんたに拒否権はないわよ」
「俺は死んでもいい」
「使い捨ての駒ってこと?黒幕が別にいるの?」
「・・・・・」
「答えなさい」
「俺を殺さないのか。俺はおまえの姉と母を殺した。俺を殺さないのなら、俺はおまえを殺すぞ」
「!」
俺がそう言った途端、瑠螺蔚の懐剣が弾き飛ばされた。
はっと俺は近くの茂みを見た。若だ!若が弓を射て、正確に瑠螺蔚の手もとの懐剣を弾き飛ばしたのだ!
瑠螺蔚が痺れているだろう手を押さえて、一歩俺から下がった。
俺はその一歩分、進んで距離を縮めた。
瑠螺蔚に、何も考えずに手を伸ばした。
瑠螺蔚は俺の手を見て、唇を噛んだ。それから、身を翻す。
その足の先には、川。
「!」
瑠螺蔚が一瞬、俺を見た。
そして笑う。
そのまま躊躇いもせず、瑠螺蔚は川に飛び込んだ。
「っ、瑠螺蔚ーーーーーーっ!!!」
必死で伸ばした手は、敢無く空を切った。
川に落ちた瑠螺蔚の、その衣がゆらりと揺れて、すぐに流されて見えなくなった。
今なら、まだ間に合う!
俺は上衣を脱いで、川に飛び込もうとしたが、すぐに止めてしまった。
俺は何をしようとしている?これでいいのだ。
俺は、何を考えているのだ。
不意に肩に手が置かれたが、俺は振り向けなかった。ただ、瑠螺蔚の消えた川面を見つめていた。
「やったな発六郎。だが、3人だな。あと、男が二人かー・・。・・・おい?どうした?真っ青だぞ。発六郎?」
何も考えられない。俺を覗き込む若の顔さえ、わからない。
瞼裏に、瑠螺蔚の姿が浮かび上がる。
ありがとうと言った笑顔は消え失せ、瞳に青い炎を燈して、俺を静かに見ている瑠螺蔚。
焼きついて離れないその姿。
「あぁ…」
俺は呻いた。
「おい、どうしたんだよ。結構な騒ぎになってきた。このまま屋敷に戻ろう。三人殺したんだ。あとの二人はまた、ゆっくりと考えるさ」
三人、殺した…。
そうだ、俺が殺したんだ。瑠螺蔚を…。
俺は、顔を両手に埋めた。
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