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冥王来訪

作者:雄渾
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第三部 1979年
迷走する西ドイツ
  暮色のハーグ宮 その2

 
前書き
  

 
 バスチアン宅のマサキは、一旦仲間を集めて、作戦会議を行った。
キルケに聞かれぬよう、白銀たちと日本語で話し合っていた。
「バスチアンの証言だけではダメだ。
緑の党の女党首の話では、KGBの浸透工作の実態は見えてこない。
ヒッピー野郎の集まりという事で、ドイツ国民は納得しないだろう。
ただの学生運動として切り捨てられる可能性がある」
 渋面(じゅうめん)を作る白銀や鎧衣を前に、マサキは続けた。
内に抑えた憤懣から逃げるようにして、タバコに火をつける。
「そんな事より、国民の反感として残るのは、駐留米軍の存在によって引き起こされる問題だ。
早く言えば、核戦争の恐怖だ」
 1970年代末から1980年代初頭にかけ、ドイツで懸念になっているのは米軍による核の持ち込み問題だった。
KGBやシュタージの影響下にあった知識人による宣伝煽動により、核戦争の恐怖が広がった。
 欧州で反核運動が盛んになる中、1982年に突如として出たのが「核の冬」論であった。
米国の天文学者カール・エドワード・セーガンが唱えた内容は、こうであった。
 核戦争の結果、煤煙や炭化した塵が舞い上がって、太陽光線を遮る。
その結果、地球を取り巻いている大気の温度が下がり、農作物が大打撃を受ける。
核の炎は、結果的に全てを凍り付かせ、食料を断たれた動植物は死に絶え、死の星になるという学説である。
 広島型の原爆が、50発ほどポーランドでの限定戦で使われただけで、地上の生命は全て死に絶える。
そのように当時から喧伝されていた。
 しかし、セーガン等の学説は、1991年の湾岸戦争で早くも崩れ去った。
イラク軍によるクウェート侵攻により、各地の油田や製油所が燃やされ、数か月間煤煙が巻き上がる事態になった。
 ちょうどそれは、核戦争によって発生する大量の煤煙が太陽光を遮断する状況に相似していた。
だが、煤煙によって地球規模の気温低下が起こらず、ペルシャ湾岸地域で一部若干の気温低下があったものの、それ以外の場所にまで気温変動が起着なかった。
 つまりは、「核の冬」は虚構であると実証されたのだった。
後年、セーガンは自著の中で、自らの誤りを認め、1996年に失意のうちにがんで病没した。
 KGB大佐で第一総局勤務であったセルゲイ・トレチャコフ(1956年ー2010年)の回顧によれば以下の通りであった。
ユーリ・アンドロポフKGB長官の指示の下、KGBが「核の冬」という概念を発明したという。
理由は、NATOのパーシングIIミサイルの配備を阻止するためにである。
KGBは、ソ連科学アカデミーによる核戦争の気候への影響に関する「終末報告」にという偽文書に基づく工作を実施した。
 トレチャコフの語るところによれば、偽情報(デズ)を、平和団体、環境保護運動団体、環境問題の雑誌「AMBIO」に配布したと言う。
米国亡命後に、カナダの国会議員や国際原子力機関(IAEA)の専門家、国連当局者らをKGBの協力者(アゲント)に仕立てたことを明らかにした。


 この様に、史実では、「核の冬」は、KGB第一総局が関わった偽情報工作であることはつとに知られている。
だが、マサキが来た異界では、「核の冬」は、大真面目に信じられていた。
 それを補強するようなことが起きてしまう。
BETA戦初期にあったソ連の中央アジアにおける連続核攻撃と、米国によるアサバスカ湖のICBM攻撃である。
 米軍の行った核攻撃は、カナダ東部という極寒の僻地であり、人的被害はほとんどなかった。
だが、放射線に対する恐怖からカナダ東部では急激な過疎化が進んだ。
 ソ連の場合は深刻だった。
ソ連は、BETAのウラル以西への進軍を防ぐ目的で一度に10発から数十発の核爆弾を投下した。
大部分は光線級に阻止されたり、粗悪な電子部品の為に不発弾となったが、核の影響はすさまじかった。
 原爆の閃光や威力は言うまでもなく、予測不可能で長期的な副作用をもたらした。
中央アジアで放射線障害による奇形児の多発や、原爆の戦術的効果より被害が大きいという事態にまで
発展した。
 この世界に来てマサキが驚いたのは、時代的にはあり得ない核の冬という言葉がユルゲンたちの口から出た事だった。
どうやらソ連の野放図な核爆弾投下の為に地球慣例化が起きたという説がまことしやかに述べられているようだった。
 1976年の世界的な冷夏は、ラニーニャ現象とエルニーニョ現象が続けて起きただけと学術調査で判明しているが、ユルゲンたちは核の冬を疑いもしなかった。
西ドイツ人のキルケやドリスもおんなじ考えだったので、恐らく4発の原爆投下の後遺症だろうと考えるようになった。
 核爆弾の被害を受けた日本人として、この異世界のドイツ人の心情は理解することはできるが、納得はできない。
本当に核廃絶を望むなら、米国の核戦力を西ドイツや日本から引き下げるだけではなく、ソ連や中共の核ミサイル基地をすべて爆破解体するところまで進めねば、駄目だ。
 日本を代表とする自由主義陣営は、世論を反映した政治体制だ。
政権の基盤は国民の意見や社会の動向によって左右される。
 したがって、G7各国の世論がソ連の望む方向に導かれれば、ソ連は労せずして自国優位を維持できる。
この様な工作を一般的に「積極工作(アクティブ・メジャー)」といい、反戦・反核運動は、KGBの十八番(おはこ)である。 
 核廃絶運動は、実現性は別として、人類の悲願の一つである。
善男善女の想いを巧みに利用し、ソ連の軍事的優位を維持する反核運動の欺瞞。
 孫子の謀攻篇にも書かれているように、戦わずして勝つというのは最善の策である。
ソ連が裏から西側の平和運動に人・物・金を提供するのは、非常に合理的で利益に見合った行動なのだ。
マサキは、遠い記憶と共に、欧州の反核運動に深い憂慮を覚えた。 

 過去の追憶から戻ったマサキは、二、三服の煙草をゆったりくゆらす。  
白銀が、なんの気もなく言った。
「鍵はヴェーバーか……」
それまで黙っていた鎧衣が口を開いた。
「危ないな……」
「うん?」
マサキは鎧衣の意図がつかめないまま、返事をする。
「確かにヴェーバーを捕まえて、KGBとの関係を吐かす……
東側のスパイ工作を実体化するいい方法だ。
だが、向こうもそう考えていたら、どうする?」
 おそらくKGBはこの機に乗じて、ヴァーバーを消すことも考えられる。
或いは、ソ連国内に連れ出す準備をしている。
 ボンのソ連大使館に逃げ込まれたりすれば、外交特権で手出しできない。
いや、大使館ごと殺しても良いが、そのことを理由に日本は外交特権を失いかねなくなる。
 目の前にいるKGB工作員か、或いはハーグ宮の王配殿下か……
マサキ達は難しい判断を迫られる状況に陥ってしまった。

 ヴェーバーを捕まえて、西ドイツのスパイ網の一端を暴露させれば、西ドイツでのソ連の影響は削げる。
だが、ビルダーバーグ会議の陰謀から遠のく。
 ハーグ宮に乗り込んで、王配殿下と話を付ければ、ビルダーバーグ会議の妨害は落ち着くだろう。
だが、KGBやシュタージの影響は残ったままでは、欧州の政治状況はよくはならない。
 アイリスディーナやベアトリクスを取り巻く状況は悪化するかもしれない……
或いは西ドイツが今以上に左傾化し、キルケやココットにも迷惑がかかる……
「前門の虎か、後門の狼か」
 マサキは、こういって後は眉をしわめたまま黙ってしまった。
倒すならKGBか、ビルダーバーグ会議か、それを考えあぐねていたのである。
 白銀も、それを真似して眉を顰める。
しばらくは、どっちからも口を開かずに、沈思黙考というふうである。
 悪知恵をめぐらす頭も、自然にシンと落ちついてくるらしい。
やがて白銀が、こううなった。
「ゲーレン翁に相談してはどうですか」
 ゲーレンの自宅に連絡を入れたが、彼はココットと共にボンに来ているという。
これ幸いとばかりにバスチアン宅を後にし、ボン市内に車で乗り出した。
 車はバスチアンの愛人のオペル・カデットを拝借し、運転はキルケに任せた。
一応美久はゼオライマーで待機させたまま、上空から二台の無人誘導の戦術機を随伴させる。


 ゲーレンの情報によれば、ヴェーバーはボン大学計算機博物館からほど近いホテルにいた。
元秘密情報部長官だけあって、部屋番号まで正確に調べ上げていたのには、マサキも驚かされた。
 4階の奥の部屋の前に着くと、鎧衣が音もなくカギを開けた。
キルケとマサキはカメラを持ち、その後ろから自動拳銃を持った白銀と鎧衣が続く。
 中に入ると男たちの密議が聞こえてきた。
会話はドイツ語だったので、マサキはすかさず録音し始める。
「5000万マルク、これでよろしいですかな」
「いや、ありがとうございます」
 部屋の中にいたのは、白髪頭に四角い眼鏡をかけた70歳前後痩身の男。
ゲーレンに聞いた人相からして、恐らくあれがヴェーバーだ。
 もう一人の禿頭の老人は、大きい十字架に、黒い無紋の袈裟はルター派の祭服だ。
マルチン・ニーメラで間違いないだろう。
「緑の党の候補者を立てるのに金に苦労していましてね。
まだ安心できない状況なんですよ」
 反対側に座っている恰幅のいい金髪の男は、恐らくドイツ人。
シュタージの工作員らしく、サングラスをかけて表情が分からない。
 脇に座っている黒髪のスラブ人風の男が、おそらくKGBだろう。
そのスラブ人がニヤリと笑う。
「これで大丈夫です。
これだけの実弾があれば、最後の詰めが撃てます」
 実弾とは、政界用語で現金の事である。
新聞紙上を騒がす、「実弾が飛び交う」という言葉は、選挙においての買収工作である。
 その瞬間!
ヴェーバーたちに、閃光が浴びせられる。
 キルケの持つ連写式のカメラからシャッター音が鳴り響き、閃光が続けざまに走る。
24枚撮りのフィルムが終わらないうちに、若いドイツ人の男は窓ガラスを割った。
そして、素早窓枠を躍ったかとみれば、翼をひろげた鳳凰(ほうおう)のように、10メートルほど下へ飛び下りた。
 スラブ人の男の怒気(どき)は、ムラムラと燃えた。
無防備だったマサキに、両手を広げて飛び掛かってくる。
 マサキは咄嗟に部屋にあったスタンドを振り回し、男の方に向けた。
その瞬間、男は雲手(うんすう)の姿勢になると、右の手でチョップを振り下ろしてきた。
「イヤー!」
 一瞬にして、金属製の電気スタンドは、手刀で両断されてしまう。
マサキは自分が拳銃を持っていることを忘れるほど、たじろいだ。
 じりじりと男が近寄ってくると、マサキも後退した。
その部屋のつきあたりまで、マサキを追いつめてきたかと思うと、いきなり、跳びついてゆこうとした。
飢えた狼が、鶏へ飛び掛かったように。
 一発の銃声が、ズドーンと鼓膜(こまく)をつんざく。
ぎょッとして向こうを見ると、モーゼル拳銃を構えた鎧衣だった。


 銃撃音を聞いた客が通報したのであろうか。
ボンを統括するノルトライン=ヴェストファーレン州の州警察の緑色のパトカーが現場に乗り付ける。
私服姿の刑事警察(クリミナル・ポリツァイ)が、マサキたちの周囲をぐるりと囲む。
事情を説明するよりも早くマサキたちに手錠をかけると、パトカーに乗せられた。
 近くで待機していたソ連大使館の秘密工作員たちは、事態を傍観しているばかりではなかった。
マサキがパトカーで連れ去らわれるの見て、すぐにボンのソ連大使館(今日の在ボン・ロシア総領事館)に電話を入れる。
「申し訳ありません。
日本野郎(ヤポーシキ)に逃げられてしまいました。
しかも地元の州警察に逮捕されてしまいました」
 KGBの現地工作員の電話相手は、大使館の警備担当者だった。
ソ連の場合、大使館職員の殆どが、KGBか、GRUの工作員だった。
「まあいい。
あの黄色い猿め(マカーキ)にはうんざりしていたところだ。
警察に連れていかれれば、我らが送り込んだスパイの手によって始末されるだろう。
ピストルを持った外人犯罪者として、内密に処理されるだろう。
こっちには、ニーメラやヴェーバーという反核の活動家がいるからな。
あれがあれば、何もいらん」
「す、すみません。
じ、実はヴェーバーも逮捕されてしまったのです。
われらがKGB職員と共に!」
 その言葉を聞いた瞬間、西ドイツのKGB部隊を取り仕切るKGB大佐は色を失った。
自分の首に手を当てて、縛り首のひもの長さをあれこれ考えるほどの慌てぶりだった。
「ば、馬鹿者!すぐに取り戻せッ。
ヴェーバーが居なければ、反核運動の旗振り役はいなくなるのだぞ!
何もかもが無駄になる……判っておるのか!」

 マサキたちが連れていかれたのは、ボン市内にある保安警察のボン本部ではなく、連邦内務省だった。
西ドイツでは基本的に地方自治が優先され、警察組織も各州ごとにゆだねられている。
 だが刑事警察は、国際スパイ事件や政治案件を担当する国家保安部門が置かれている為、中央の統制を受けた。
内務省には連邦刑事局が置かれ、各州の犯罪捜査を調整・支援するとともに、国際刑事警察機構(ICPO)との国際捜査協力にも当たっている。
 後ろ手に手錠をかけられたまま、マサキたちは内務省ビルの最上階に連れていかれる。
「どうなるの、私たち……」
 全員が押し黙る中、キルケが口を開いた。
キルケの諦めに似た言葉に、マサキは淡々と答える。
「まあ、最悪の事態になるだろうな。
今の西ドイツは、ビルダーバーグ会議の王配殿下の部下たちとKGBスパイに牛耳られているからな」
 エレベーターの中で、キルケは動こうともせずじっと扉と直面していた。
そのうちに、キルケの目頭(めがしら)は涙で一杯になり、扉が見えなくなった。
 最悪の事態といわれて、KGBスパイのヴェーバーは意気地なく乱れてきた。
外で見たなら、面貌(めんぼう)()(さお)に変っていたかもしれない。
 マサキには、ありありとそのさまが見て取れる。
ヴェーバーはこう嘆じた。
「因縁だな……」
 マサキは覚悟をしていた。
 死に直面しつつある。
最上階のドアの向こうには、誰が待っているのだろうか。
 エレベーターが最上階に着くと、マサキ達は最上階の内務大臣室に連れ込まれた。
彼等を待っていたのは、意外な人物だった。
青い顔をしたマイホーファー内相と、ヴィリー・ブラント前首相だった。
「まず、木原博士たちの手錠を外してやりなさい」
「はい」
 ブラントの鶴の一声で、刑事たちが一斉に手錠を外す。
マサキ達は解放され、ヴェーバーとニーメラはKGB工作員と共に別室に連れていかれる。
「今しがた、ヴァルター・シェール大統領が辞意を表明されました。
近日中に、ヘルムート・シュミット内閣が総辞職し、連邦議会は解散されることとなりました」
「エッ!」
「ドイツ連邦始まって以来の大騒動になりそうです」
「何が一体、どうなっているのだ?」
 突然、マサキの後ろのにある入り口が開いた。
振り返ると、裃姿の偉丈夫が立っている。
「御剣閣下、来てくれたんですね」
 白銀が感悦の声を上げ、御剣に駆け寄った。
「可愛い部下たちが窮地に陥っているのに、見過ごすわけにはいかんだろう」 
 鎧衣は凝視(ぎょうし)するのみで、何もいわなかった。
ただ無量な感慨につつまれている姿であった。
「外務省や情報省では(らち)が明かんからな。
国連経済社会理事会を通じて、直接ドイツ内務省に働きかけたんだ」
 経済社会理事会とは、国連憲章第10章の規定により経済と社会問題全般に関し、勧告等を行う委員会である。
内部組織に国連人権委員会があり、そこでは国家による拉致に関して、人道上の罪に問う措置をみせていた。
 国家による拉致とは、早く言えば秘密警察による司法手続きを踏まない拘束や逮捕の事である。
狭義の意味では、共産国家による悪辣な人権侵害事案――ソ連のシベリア強制抑留や北鮮の拉致事件、シュタージなどによる誘拐事件など――である。
「折角ドイツまで来たんだ。
このぐらいの挨拶はしなきゃな!」 
 

 
後書き
 実は、核の冬に関する話は「隻影のベルンハルト」でユルゲンの独白という形で、かなりのスペースを取る話なのです。
その為、マサキの独白という形で、核の冬に関する見解を書いてみました。
 核の冬自体は1954年の小説が初出なのですが、一般化するのは1980年代初頭にKGBがサガン(セ―ガン)を利用して以降です。
マブラヴ世界でなんでこの言葉がという事で、私なりの考察を書いてみました。 
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