戦国御伽草子
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壱ノ巻
毒の粉
6
「あー!」
あたしはそう無駄に叫んで衾の上を仰向けに転がった。乱れた合わせをなおしながら、ふうと息をつく。
今日は大変な日だった…。
傷は兄上が不振がられない程度に治してくれたから、きっと痕は残らないだろう。
ただ、髪はそのままだ。不揃いなところは兄上が小刀で綺麗に切ってくれた。見た目は前と比べてそんなにはっきり変わったわけじゃないけれど、やっぱり、なんか寂しい。外見が普通といわれるあたしにとって、髪が綺麗ってのは結構な自慢だったんだけどな。
まぁ、命あってのモノダネだから、髪で済んでよかった、って思うべきなのかもしれないけど。
ふと、ぎらりと光る刃を思い出して、あたしはすっと体が冷たくなった。
本当に、今から考えても、よく、助かった、わよね…。
相手は確実にあたしを殺すつもりだったろう。
やっぱり、高彬か兄上あたりに稽古つけてもらおうかなぁ。戦の世であればいつまたあんなことが起きるかもしれない。
「………」
あたしはむくりと起き上った。
そういえば、兄上は霊力であたしを治してくれたけれども、人を癒させることは、肉体的に酷く疲れてしまうのだと昔言っていた。この世の理に反するものだから。最近はそんな派手な怪我をすることもなかったから治してもらうような機会もなかったし、さっきの兄上は治し終っても別段普通にしていたから、今まで気にしてなかったけど…。
もしかして、無理してたんじゃ…。
兄上の霊力のことは姉上様も知らないという。心の優しい兄上だったらあたしを気遣って平気なふりするぐらいやるだろうし、そしたらきっと誰も気づかないじゃない!ああもうあたしの馬鹿!なんでこんな大事なこと忘れてたの!
考えれば考えるほど不安になってきて、あたしは足早に自分の室を出た。
焦りから、兄上の室に向かう足は段々はやくなる。
けれど、半分ぐらいまで来たところで、あたしはゆっくりと足を止めた。
気軽に遊びに行っていた昔とは、もう、違う。兄上は結婚して、姉上様と同じ室にいるはずだ。
そんなところに、こんな夜に、いきなりあたしが行っていいわけがない。
そもそも、本当に体調が悪くなっていれば、兄上がいくら隠したとしても誰かしらが気づいてしまうだろう。今あたしが騒ぎ立てるまでもなく。
立ち止まってしまえば足の裏に縁の冷たさがじんと凍みた。静かに冷えた秋の夜の空気は指先から温もりを奪っていく。
…戻ろう。
そう思ってあたしが踵を返そうとしたその時、ひゅうと空っ風が吹いた。
「寒、」
反射的に両肩を抱いて体を縮めたあたしは、そのまま声を失った。
あたしから十足あまりの近さに、兄上が、いた。月を見あげていた。
時すら凍ったように思えた。
それほどその光景は美しく、儚かった。
兄上には、姉上様のほかに、好きな人がいる―…。
その瞬間にあたしは悟った。
姉上様から聞いたときは、絶対にそんなことないと思ったけれど、今はそれを疑う方が愚かに思えてくる。
月を見上げる兄上の瞳は、狂おしいまでに強く何かを乞うていた。手の届くことがない月に恋してでもいるように。
それが姉上様ではないことも、なぜか、わかった。
だってあの目はきっと手に入らないものを求めている。絶対に手に入らないとわかっているのに、それでも諦められない、そんな恋が、あるの?
あたしは知らない。そんな恋、したことない。
目頭が震えた。冷えた頬に涙は熱く溢れた。
悲しい。なんでだろう、ただ、ただ悲しい。
兄上と姉上様が相思相愛じゃないってわかってしまったのが悲しいのか、兄上がそんなあたしの知らないような切ない気持を抱いていたのが寂しいのか、そのどれもが違うのか、涙はあとからあとから零れた。
例え、兄上がいくらその人の事が好きでも、決して添い遂げることはできないだろう。
兄上の正室は姉上様だ。それはもう変わることのない事実なのだ。
兄上は優しいから、たとえこれだけ好きな人がいても、姉上様をけっしてぞんざいに扱ったりはしないだろう。
でも、きっとそれが姉上様にはお辛いんだ…。
兄上の視線が、はっと月からあたしに向けられた。思わずのように声なきその唇が誰かの名前をかたちどる。
何かに貫かれたかのようにあたしの心臓がどくんと大きく跳ねた。
その一瞬、まるで兄上が求め恋うているのが世界中でたった一人、ここにいるあたしだけでしかないかのように、その瞳は誤違わずあたしを射ていた。
妹のあたしですらどきりとするのに、兄上にこんなに求められたら、どんな姫だってきっと一目で恋に落ちるだろう、と思うの、に…。
また涙が溢れてきて、あたしは小さい童のようにしゃくりあげた。
「瑠螺蔚?」
兄上が足早に向かってきた。
それはもう、あたしのよく知る、いつもの兄上の顔だった。
「どうしたんだい。何か怖い夢でもみたの?それともまさか昼間の傷が痛む?顔を見せて。瑠螺蔚。泣かないで…」
そっと優しく仰向かされる。
心配そうに眉を寄せた兄上があたしを覗き込んでいる。
母上に似た、高い鼻、長い睫、儚げな眼差し、さらさらの髪にすべすべの肌。いつもいつも女なのにかなわないなって思うぐらいに整っている面差し。優しくて、綺麗で完璧な兄上なのに、なんでこんな悲しい恋をしなきゃならないんだろう。
「マホって子が好きなの?」
兄上は今まで見たことがないぐらいに驚いて、大きく目を見開いた
あたしは構わず言い募った。
「姉上様よりも?どうして?姉上様は、兄上のことが本当にお好きだわ。一緒にいて、あんなに楽しそうに笑っていたじゃない。お優しい姉上様よりも、そのマホって子の方がすき」
最後まで言えなかった。いきなり、あたしは強く抱きしめられた。
「愛している」
耳元で兄上が言った。感情を抑えようとして、抑えきれずに零れたような声だった。
かっと頬に熱が集まる。思わず胸を押し返そうとしたけれど、ふと思った。
あたしをマホって人と重ねているんだろうか…。
「この世のすべてよりも大事だ。他の何にも代えられない位」
あたしの耳の上ぐらいに兄上の唇がそっと触れる。
優しく、愛おしく、その言葉が真だと証明でもするかのように…。
「瑠螺蔚、体が冷えているよ。戻りなさい。夜風は体に毒だ」
またその一瞬の後には兄の顔に戻ってしまう。
あたしの髪を優しくなでて、ふわりと微笑む兄上。
そんな兄上しか知らなかった。あんなに何かを求める兄上なんて見たことがなかった。
「どこの姫なの?」
「ん?」
「マホって、どこの人なの」
もうこの話を終わらせたいのだろう兄上は困った顔をする。
そりゃあそうよね。妹に自分の恋話したい兄なんていないわよね。
でも聞きたい。
それで、できるなら叶えてあげたい。
「瑠螺蔚…」
「教えて、兄上」
「サホ、…かな。サホの巫女姫だったかな。もう忘れたよ」
だった…、もしかして、もう、その人は…。
サホなんて聞いたこともないけれど、巫女姫ってことは一生神に身を捧げ、夫を持つ事はそもそも許されない姫だ。
あたしは言葉に詰まった。
どのみち、実ることのない恋…。
「さぁもういいだろう?送ってあげるから戻りなさい」
兄上に促されるまま、あたしは気の利く言葉の一つも言えずに室まで送り返された。
「兄上…」
勢いをなくしたあたしがぽそっと言う。
「ん?」
「そんなに人を好きになるって、どういうことなの?」
兄上はふと笑ってあたしの額に優しくくちびるを押しあてた。
ひやりと名残が残るのはあたしの顔が熱いせいか。
「こういうことだよ」
「やだ兄上、ふざけないでよ!」
「ゆっくりおやすみ、瑠螺蔚」
「ばか!もう」
笑いながら兄上は戻っていった。
こういうことしてるから、たまにあたしが奥さんに間違えられるんだってば!
怒ったふりをしながら、あたしは兄上の背中と月を見送った。
兄上は、月を見上げて何を思っていたのかな。
マホって巫女姫は、もうこの世にはいないのだろうか。
兄上を愛している姉上様の気持ちはどうなるんだろう…。
どうか、お月さま。あたしからもお願いします。
あんなに悲しい恋をする人がもう出ませんように。
兄上を、姉上様を、どうか幸せになれるように見守っていてあげてください。
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