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冥王来訪

作者:雄渾
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第二部 1978年
狙われた天才科学者
  百鬼夜行

 
前書き
 不定期で祝日投稿しました。 

 
東ドイツ・ベルリン



 場所は、ベルリン郊外から少し離れた場所にあるヴァントリッツ。
ここに居並ぶ閑静な邸宅街は、主に東ドイツ政府高官、SED幹部の為の高級住宅街。
その一角にあるアベール・ブレーメの屋敷。

 屋敷の奥にある部屋で、二人の男が酒杯を傾けていた。
紫煙を燻らせながら男は、グラスを傾けるアベール・ブレーメに尋ねた。
「なあ、アベールよ。坊主の留学の話受けるか……」
静かに氷の入ったグラスを置くとシャツ姿のアベールは、面前の男に答えた。
「なぜまたコロンビア大学なのかね……ソ連研究ならワルシャワやわが国でも出来るではないか」

男はタバコを片手に持ち、室内を歩きながら語り始めた。
「援助の見返りという形だが留学を暗に進めて来た。恐らくは……」
「息子と娘を米国に人質に差し出せば、ドイツ国家を安泰させると……」
「ああ、下種なやり方かもしれぬが……。民主共和国には既に対外戦争をやる気力も能力もない」
喉を潤すようにソーダ水で割った酒を、一口含む。

「このまま、東西分裂が続けば、我国のは未来永劫ソ連の肉壁……」
アベールは男の話を聞きながら、右手で眼鏡を持ち上げる
「それはNATOや米国に(おもね)っても同じではないかね」
男は紫煙を吐き出すと、応じた。
「否定はしない。この国が生き残るには西側に入ってショウ・ウインドウになれば良い。
西側の望むは、対ソ防衛の壁であり、戦争リスクをドイツに押し付けて来るであろう。
我が国民は彼等から見返りとしての施し金を受け取り、その益に甘んじればいい。
両者納得の関係……。悪くも無かろう。」


 アベールは、男の一言で酔いが醒めるのを実感した。
1600万人の国を守るために、義子(ぎし)ユルゲンを差し出さざるを得ない。
思えばあの青年は、娘ベアトリクスの為に全てを投げたしてくれた。
宇宙飛行士の夢さえ捨て、戦術機を駆り、BETAやソ連との死闘を繰り広げた。
岳父として、彼の事を守ってやれぬことに、幾ばくかの不甲斐無さを感じていた。

 アベールは男から注がれる酒を注視しながら、答えた。
「ユルゲン君と言う男は、ドイツ一国で収まる人物ではないと思っていたが……」
男は、氷で満たされた自分のグラスに並々と酒を注ぐ。
「米ソ両国から注目されるとは思わなんだ。俺も奴には武者修行をしてきて欲しいと思ってたが……」
男は心苦しそうな顔をして、アベールの方を向いた。

「良い機会ではないのか……。二人とも新婚旅行にも行けてはいないのだし……」
その言葉に男は、相好を崩す。
「貴様も柄にもなく、父親らしい事を言うのだな」
「君が言うのかね……」
アベールは、ふと冷笑を漏らした。

 男は再び思いつめたような顔をして、アベールに尋ねた。
「所でつかぬ事を聞くが、アイリスディーナに好いた男など居るのかね」
「私も、義理の娘の事までは詳しく把握していないが……。
護衛に付けているデュルクや他の側衛官からの報告では、その様な話は聞いてないぞ」

男は一頻りタバコを吹かした後、こう告げた。
「男の影はないか」
そう言い放つと静かにグラスを傾ける男に、アベールは問うた。
「急にどうしたのだね……嫁ぎ先でも当てがあるのか」

 
 アベールは、今年19歳になるアイリスディーナの将来をふと思った。
東ドイツの女性の平均結婚年齢は21歳。学生結婚も珍しくなく若い母親も多かった。
国策として出産奨励金を第三子まで2000マルクほど出すのもあろう。
出生数は平均二人で推移し続けた。

 アイリスディーナは、兄ユルゲンの白皙端麗の容姿に劣らず、美貌の持ち主。
白雪を思わせるような透明感がある美肌、金糸の様な髪、サファイヤのごとき眼。
士官学校も女生徒では常に次席をキープし、知性も肉体も申し分ない才色兼備。
そのような彼女であっても欠点はあった。172センチの大柄な背丈……。
 戦前生まれのアベールにとっては、大女の婚姻の大変さは身にしみて判っているつもりであった。
周囲は、間もなく19になろうという彼女が独身で居ることに不安を感じ始めるのも無理は無かろう……
娘ベアトリクスの様に、ユルゲンの様な良き人が見つかって呉れれば違うであろうが……

 ユルゲンの事を息子の様に扱う男の口から出た、アイリスディーナの先行き……
「妙齢のアイリスディーナに、白無垢の花嫁衣装を着せてやりたい」
一女の父であるアベールは、男の言葉をその様に解釈した。

「君がアイリスちゃんの先々を想って行動するのなら、私なりに努力してみようと思う」
静かに酒杯を置いて、男の方を見つめる。
「済まぬな……」
男は右の手で目頭を押さえた侭、アベールへの相槌を返した。




 ユルゲンは宵の口に、義父の私宅を訪ねていた。
いよいよ十数時間後に迫ったソ連政府の『重大発表』の前日。
奥座敷に居たのは、義父と議長だった。
「少し娘と話して来る……」
そう言い残して義父は、部屋を後にした。

 部屋に残された男は開口一番、ユルゲンに問うた。
「明日以降の駐留ソ連軍の扱い……どう考えている」
紫煙を燻らせながら椅子に腰かける男に、ユルゲンは応じた。
「巷で噂されている全軍撤退が事実ならば、宿営地で武装解除して、ロストック港より仕立てた帰国船に乗せるのが、一番安全かと存じますが……」
男は、すっとユルゲンに氷の入ったグラスを差し出す。
「やはり……、そうなるのかね」
ユルゲンは、レモネードの瓶の栓を開けるとゆっくりとグラスに注ぐ。
「現状の我が国の立場では、我々が生き残る道は選択肢が多い訳ではありませんから……」
男は、ふと冷笑を漏らすと、ユルゲンに皮肉交じりの言葉をかけた。
「君もすっかり、青年将校らしい口の利き方が出来る様になったな……」

 男は酔いを醒ます為に、レモネードを一気に呷る。
静かにグラスを置いた後、ユルゲンに訊ねた。
「話は変わるが、アイリスディーナの今後は如何思い描いている……」
奥の方より真新しいグラスを取ると、アイスペールから氷を数個トングで摘まみ、グラスに入れる。
「これは、俺からの提案だ……否なら断っても良い。お前さんとアイリスを俺の猶子(ゆうし)にしたい」
男からの提案は、ユルゲンの頭の中を真っ白にさせた。
杯事だけの関係ではなく、息子として取り扱ってくれるという提案に衝撃を受けた。

 グラスをユルゲンの方に差し出すと、男は『ルジェ』の『クレーム・ド・カシス』を注いだ。
ユルゲンは、自分が好きな酒の事まで調べていた男の気遣いに心を打たれる。
「ど、どうして、俺を……、これほどまでに特別扱いなさって下さるのですか」
いつの間にか、頬を濡らしていることに驚いた。


 男は、30年物のブランデーをグラスに注いだ後、静かに杯を傾けた。
そっと、グラスを置いた後、滔々と語り始めた。
「俺には、前の妻との間に、生きていれば、お前さんと同じくらいの倅が居てな……。
一目見た時から、知らぬ間に、死んだ倅の姿に重ね合わせている自分がいた……。
どうも段々と接している間に、ユルゲン、お前さんの事を他人とは思えなくなってきた」

声を震わせるユルゲンに、男は諭すように語り掛ける。
「アイリスディーナの先々を考えれば、俺の猶子になる事も悪くはあるまい。
アイリスディーナは並の女よりも聡く、そして純粋だ……。
もし君に何かがあった時の為だ。
一人……、この社会で生きる強さを求めるのは、18歳の少女に対しては酷であろう」
「確かに優しい娘ですから……」
「俺が後ろ盾になるから、盤石な相手に嫁がせてやりたい……」

 ユルゲンは、男の言葉の端々から政略結婚の意図をくみ取った。
自身が一介の戦術機乗りであったならば、激しく抵抗し拒否したであろう。
しかし今は、支配階層の姻族。
義父アベールや上司シュトラハヴィッツ少将の手助け無くしては容易に事も成せぬ事を実感してきた。
祖国や民族の為にわが身を捨てる覚悟は十分できていたつもりだ。
だが、妹の事となると……
溢れ出る涙を拭うのも忘れ、男の注いだ酒を一気に呷った。

 思えば己が夢は、幼い頃より父母の代わりに妹の事を立派に育て上げ、白無垢(しろむく)の花嫁衣装を着せて送り出す事であった。
もしそれがどの様な形で有れ、叶うのならば……。
一種のあきらめに似た感情が彼の心を支配し始めた。


「何れにせよ、ミンスクハイヴの攻略が成された今。米ソの対立構造や、欧州の安全保障環境は変わる」

 戦後30有余年、ソ連隷属下にあった東ドイツは資源・食料を通じてを深くソ連経済圏に依存してきた。
伝統的にドイツは、1871年の帝政時代以降、ロシアとの密接な関係こそが重要。
故にアメリカやECは距離を置くべきだとしてきた。

 親ソ反米は、何も東ドイツばかりではない。西ドイツも似たような考えであった。
彼等の運命は、敗戦の恥辱を受けながら政体を残し君主制を維持出来た日本と違い悲惨であった。
ソ連のシベリア抑留による500万人強の拉致に及ばず、米英占領地で100万人強の喪失……
鉄条網の引かれた荒野に軍事捕虜たちは放置され、飢餓やコロモジラミが媒介する発疹チフスなどの疫病に苦しんだ。
 ドイツ占領軍の対応も不味かった。
書類上にある捕虜の身分を変更し、米軍に責任が及ばぬようにし、食料供給を意図的に減らした。
英仏軍の恒常的な虐待も大きかろう……
 ドイツ国民の中には拭えぬ不信感が醸成されることになった。


 ハンカチで目頭を押さえた後、ユルゲンは立ち上がり、男に深々と頭を下げる。
「では、明日もありますので失礼します……」
「何かあったら俺の所に来い……」
ユルゲンは無言で静かにドアの前に行くと、其のまま部屋を後にした。

男は、立ち去ったユルゲンに呼び掛ける様に、一人呟く。
「俺がお前たちにしてやれることと言ったら、仮初(かりそめ)でもいいから家族の愛を知らせてやりたかったのだよ……。
シュタージに愛を引き裂かれた男に本当の愛をな……」
 
 

 
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