Blazerk Monster
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巡る季節が奏でる出会い
――夢の中の自分はいつだって曖昧だ。
――名前もない。性別もわからない。そもそも自分は何の生き物だったっけ。
――疑問を口に出そうとする。でも何も喋れない。喋れたとして何を言うんだろう。僕、私、それとも我が輩?
――体の一部を伸ばして、必死に誰かを掴もうとする。それは手か足かそれとも首か、それすらわからない。
――自分が何者で誰なのかを、与えてもらうために。
――伸ばした体は何も掴めない。代わりに音が聞こえてきた。生き物の声ではない、しかし明らかな意思の込められた旋律。
――ああそうだ。やっと思い出した。やっとこれであの人に手を伸ばせる。
――俺は。もうあの人を置き去りにはできないから。
瞳を開く。体を跳ね起こし旋律の聞こえる方に顔を向けると、そこには少年が立ってフルートを吹いていた。くるくるとした金髪に、線の細い顔。全体的に丈の余った黒いタキシードを着ている少年はフルートを口から離し、起きた自分の方に振り向く。そしてこちらを見て言った。
「……どうしました巡(めぐる)兄さま? 先ほどまでまたうなされていたようでしたけど……」
「そうだったのか? うーん……なんでだろうな」
「心配しましたが、とにかくお寝坊されなくてよかったです。今日は大事な出立の日なんですから」
夢の中の出来事とは、覚醒と共に忘却の彼方に消えていくものだ。巡と呼ばれた少年はさっきまで眠っていたベッドで用意していた服に着替えて、近くにある鏡台で自分の姿を見る。
あちこち跳ねた薄紫色の短髪に、服装は白の長袖シャツにポケットがたくさんついた青のダウンベスト。同じくポケットの多い黒ズボンは動きやすさと運べる小物の多さを重視している。顔は弟とは違って勝気でいたずら小僧じみている。
「……そうそう、未来のポケモンマスターこと巡の冒険は今日から始まるんだ!!」
今日から旅を始めるポケモントレーナーとしての日々が本格的に始まることを思い出し鏡の前でガッツポーズ。その様子をフルートを金髪の少年はケースカバーにしまいながら咎める。
「大げさですよ巡兄さま……僕らは確かにポケモントレーナーとして旅をしますが、あくまで一年前の成人の議や習い事のコンクールに出るのと同じ通過儀礼の一つなんですから」
「奏海にとっちゃそうかもだけどさー。俺にとってはこれが初めてなんだぜ?」
奏海は巡の双子の弟だ。生まれた時間はほんの十分程度の差らしいが、巡は活発でじっとしているのが苦手なのに対して奏海は落ち着いていて物腰も柔らかい。彼らの家はかなりのお金持ちだ。たくさんの農家に畑を貸して、そこで取れた作物の一部や儲けをもらっている地主というやつらしい。つまるところお坊ちゃんである二人は昔からやれ習い事だのパーティーだのに参加させられてきた。……のだが、巡にその辺りの記憶はない。一年前に弟と一緒に成人した時も親戚総出のパーティーが開かれたらしいが、忘却の彼方なのである。
「そうでしたね……あの時はびっくりしましたよ。成人の儀を終えて一か月後に突然高熱を出して……お医者様が来てすぐに面会謝絶、一週間生死の境を彷徨ってやっとお会いできると思ったら全部の記憶が無くなってたんですから」
「はは、その話もう耳にタコができるくらい聞いたんだぜ?」
巡は記憶喪失だ。約一年前からの記憶がすっぱりと無くなっている。体も心もぐにゃぐにゃに溶けそうなくらいの熱さにずっと苛まれて、目が覚めたら何もかもが初めての世界だった。両親や周囲は大層戸惑い、腫れものを触るように扱われたが弟の奏海だけは自分に対して熱心に巡はどういう人間で自分たちはどういう人生を過ごしたのか教えてくれた。ちょっとルールや生活習慣にうるさいところがあるけれど、巡にとってはかけがえのない弟だ。
「でもさ、旅して強くなってポケモンリーグで優勝出来るくらい強くなれば父さんや母さんだって俺にポケモントレーナーとして生きていいっていうかもしれないだろ?」
「……もしかしたらそんなこともあり得るかもしれませんね」
「奏海、俺には無理だって思ってるだろ」
「そうは言いませんが……でもチャンピオンなんてそうそうなれっこないですよ。兄さまは地主の子として生まれてきたんですから」
「大丈夫大丈夫だって! この半年でもう貰ったポケモンだって進化したんだし、お前にも家のポケモン持ってる人たちにも最近は負けなくなったんだしさ! なっ、クロイトにスワビー!」
巡の上着ポケットの一つには、既にモンスターボールが二つ入っている。中身は空ではなく、既にポケモンがいた。アリゲイツにオオスバメだ。慣例に則れば旅を始める今日ポケモンを貰うのだが、今年からはチャンピオンの提言で旅のルールがかなり変わっている。概ね、旅の簡略化と安全性を重視した変更だったのでその点は非常にありがたいと奏海は思っていた。巡はワニノコとスバメを貰ったのだが一か月前に進化させ、それからはまだ負けていない。この短期間でポケモンを二体も進化させるなんて才能があると褒められていた。
「確かに四葉様のおかげで旅をする半年前からポケモンは頂けましたし僕のポケモン達は進化してませんけど……とにかく、兄さまの旅はあくまで嗜みですしお身体のこともあるんですから、それを忘れないでくださいね」
「一年前とか夢の中のことって覚えてないんだけどさ……ほんとなんなんだろうな」
「さあ……僕にはなんとも」
奏海は目を逸らす。周囲の話によれば巡は時折寝ている間に必死に何かを掴もうと手足を伸ばして呻いていることがあるらしい。起きた時には忘れているがなんとなく胸が焼けるような感覚を覚えることはある。腕利きの医者に何人か見てもらったが原因はまるで不明だった。
「とにかく四葉様が決めたルールを守って、安全な旅を心がけましょう。それが一番です」
「わかったわかった。せっかくだし、楽しまなくっちゃな。可愛い女の子と一緒に旅するのにあんまり強くなることばっかり考えるのもよくないし!」
ルールの変更点の一つとして、今までは同時に複数人が旅に出てもみんなそれぞれ一人で旅をするものだったが今年からは原則三人以上で旅をすること、また旅を監督する経験あるトレーナーがつくことになっている。成人したとはいえまだまだ大人として認められたわけではないので一人旅は危ないとのことだった。その三人目が、ドアをノックした後入ってくる。
「……巡、奏海。入る」
「おはようアキちゃん、今日もカワイイね!」
「明季葉さん、おはようございます。今日からよろしくお願いしますね」
片目が隠れる程度に長い薄緑の髪、小柄な身体に対してゆったりとした青と白のエプロンドレス。指の先まで袖に隠した服装は一見動きづらそうだが彼女は苦にしていないようだった。彼女は巡の褒め言葉……というか口説き文句に対して、平坦な声で答える。
「アキじゃなくて明季葉……。それとこの服は極力肌が直接見えないようになってる。だからその表現は相応しくない」
「違う違う、そう言うことじゃないぜ」
「男の人は露出の多い女性を可愛いと思うと聞きましたが」
「まあまあそれは否定しないけどー。俺が言ってるのはアキちゃんという女の子がここに存在してること自体が可愛いってことだぜ!」
「巡の言うことはよくわからない……後、アキじゃなくて明季葉」
「二人とも、そのやり取り飽きませんか?」
巡が年の近い女の子に対してあだ名で呼ぶ上にやたら褒めるのはいつもの事だしもう諦めているが、明季葉は毎回毎回訂正するので話が長引く。そして巡もあだ名で呼ぶのをやめようとしなかった。下手をすると延々続くこともあるので、奏海から聞く。
「ところで、何か用でもありました?」
「奏海の方が一つ年上なんだから普通に喋っていい……引率のトレーナーさんが、来た」
「えっえっ、こっちに?」
「予定では研究所で待っているはずでしたが……」
今の時刻は十時を回ったところであり、巡達は十二時に研究所へ赴いて引率のトレーナーと対面するはずだった。明季葉はだぼだぼの袖に覆われた自分の腕を伸ばしドアの向こうを示す。
「おじさんとおばさん……すごく驚いてた。まるでゴーストポケモンがいきなり出たみたいに……」
「何か危ないポケモンでも連れてたのかな?」
「引率に選ばれるトレーナーが人を無暗に襲うようなポケモンを連れているとは思えません。どうでしたか?」
この家はチャンピオンである四葉が子供の頃住んでいた家らしく、彼女の両親に昨日はお世話になった。二人とも温厚で、あまり表情が表に出る感じではなかったのでよほど何かあったのだろうかと奏海が明季葉に尋ねる。
「目つきの悪い……多分ヘルガー。でも大人しくしてた。それと後一匹」
「うんうん、後一匹は?」
「飾りつきの蝋燭みたいなポケモンだった……引率トレーナーさんが腕に抱きかかえてる。可愛い」
「蝋燭のようなポケモンですか」
「なあなあ……それってもしかしてこいつ?」
巡がドアの入り口を指さす。奏海と明季葉がそちらを見ると、毒々しくて趣味の悪い色合いのガラス玉がいくつも埋め込まれた白い円柱の体、頭に紫色の炎を灯したポケモンがのそのそとこちらに近づいてくるのが見えた。円柱についている黄色い一つ目が、じろりと明季葉を捕らえるのが巡にはわかった。
「このポケモン……もしかして」
「アキちゃん危ないっ!!」
「……!」
ドアの傍にいた明季葉が急いで飛びのこうとする。だが距離を離すよりも先に、蝋燭のようなポケモンが頭から炎を噴出し明季葉を襲い一瞬で明季葉の体が炎に巻く。明季葉は地面をもがくように転がったが、火が消える様子はない。慌てる巡。
「や、やばいって! 俺、今すぐ水を持ってくる!」
「巡兄さま、それより兄さまのポケモンを!」
「ポケモン……そうか!!」
奏海の指示で巡は腰につけたモンスターボールに目をやる。二つのボールの中にはアリゲイツとオオスバメが入っていた。この状況で出すべきなのはどちらか一瞬考える。
「よし、炎には水タイプだ! アキちゃんを助けてくれクロイト、『水鉄砲』だ!」
「バァア!」
巡にクロイトと名付けられたアリゲイツが大きな口からバケツに汲んだのをぶちまけるように水を放つ。明季葉の体を濡らし、火を消そうとするが――紫色の炎は一向に消える様子はない。
「消えない……!?」
「もしかしてこの炎……『鬼火』でしょうか」
「冷静に言ってる場合じゃないだろ! このままじゃアキちゃんが!」
「いえ、実際の炎ではなく『鬼火』であればひとまず命に別状はありません。このポケモンを倒せば炎は消えるはずです!」
奏海は自分のスーツケースの中からモンスターボールを取り出そうとしているようだが、鍵をかけてしまっていて中々取り出せない。炎に包まれたままの明季葉が、力のない声で言う。
「明季葉は、大丈夫……熱くない、平気……」
「そんな辛そうな声で平気なわけないぜ! 今助けるからちょっとだけ我慢しててくれよ……スワビーも頼んだ!」
巡は残るもう一匹、スワビーと名付けたオオスバメを出す。オオスバメは部屋の天井で旋回し、一気に蝋燭ポケモンを鷲掴みにしようとする。
「クロイト、『噛みつく』で攻撃だ!」
アリゲイツも口を開けたままヒトモシに突っ込む、二体が同時に躍りかかった時、蝋燭ポケモンの炎が揺らめき妖しい光を放った。巡と奏海の目が一瞬眩む。そしてぶつかる音がした。
「やったか……!?」
巡は目を開ける。ヒトモシは倒れていない。それどころか様子がおかしくなったオオスバメがアリゲイツを攻撃している。アリゲイツは蝋燭ポケモンを狙おうとしているが、オオスバメの翼に叩かれて進めない。
「スワビー、どうしたんだ!?」
「巡兄さま、これは『混乱』状態です!」
「状態異常ってやつか……! 戻れスワビー!」
奏海の助言で巡はオオスバメをボールに戻す。仲間に攻撃され、傷ついたアリゲイツが戸惑ったように巡を見た。明季葉の体は炎に包まれたままだし、蝋燭ポケモンはまだ全然ダメージを受けていない。旅立つ前に訪れたピンチに巡も自分まで頭が混乱しそうだった。そんな状況で巡は自分のポケモンに対して、笑ってみせた。
「大丈夫だクロイト、お前の主人はいつも通りクールだぜ?」
「キュバウ!」
「ああ……お前が苦しい時程俺がクールじゃないとお前が困るもんな、俺はポケモントレーナーとしてあるために生まれたんだから」
自分に言い聞かせるような言葉の後、深呼吸。その間に蝋燭ポケモンは炎を吐く力を溜めている。奏海がやっとモンスターボールを取りだし、自分のポケモンを出そうとするが、巡が片手で制する。
「ここは俺に任せてくれ、また混乱状態で同士討ちになっても困るしな」
「しかし……!」
「いいから、兄貴を信じろって。クロイト、炎を受け止めろ!」
蝋燭ポケモンが放つ炎をアリゲイツは反撃せず身を丸めて受けるダメージを減らす。とはいえ何か技を使って防いだわけではないので体は焼け、頭のとさかが少し焦げて黒くなった。更にアリゲイツの周りを炎が渦巻き、行動を邪魔する。
「『炎の渦』……相手を逃げられなくしてさらに継続的にダメージを与え続ける技です。このままじゃ……!」
「いいや、これで準備は整った! いけクロイト、『激流鉄砲』!!」
「キュバアウ!!」
アリゲイツが顎が外れそうなほど口を開き、水を放つ。ただし今度は消防車がホースで出す水のように鋭く勢いのある攻撃だった。追撃の炎を放とうとするヒトモシの体を水が打ち抜き、後ろの壁までふっ飛ばして消火する。アリゲイツの周りや明季葉の体を包んでいた炎が、跡形もなく消え去った。アリゲイツの特性『激流』によりダメージを受けたことで水技の威力を上げたのだ。
「よしよし、よくやったぜクロイト!!」
「キュバア!」
巡はアリゲイツを抱きしめようとする。しかし触れた途端沸かしたヤカンに触ったような熱さに飛びのいた。炎は消えても、まだ熱は残っている。明季葉の方を見ずに巡は言った。
「アキちゃん大丈夫か!? 奏海、すぐに氷か何か冷やせるものを……」
「……アキじゃなくて明季葉。それと巡、心配するならこっちを見て言って」
明季葉の声は、元気がないがよく効けばそこまで痛みに苦しんでいるわけでもなさそうだった。決して少なくない時間炎に焼かれれば痛いどころか喋るのも難しいはず。どちらかというと風邪や熱によって力が入らなくなったときのそれに近かった。様子を確認したいが、巡は明季葉の方を向かない。いや向けない。戦闘中の自信とは裏腹なしどろもどろで言う。
「いやだって……炎で服とか焼けてるだろうし……もしそうだったら悪いなーって……」
「……巡は変態」
「違うぜっ!? ただアキちゃんが恥ずかしくないかなーと思って……」
「杞憂です巡兄さま。明季葉さんを襲った炎は霊的なもののようなので氷枕等は必要ありません」
「ほ……ほんとか? 嘘だったらハリーセン飲ますぜ?」
恐る恐る巡が明季葉の方を見ると、確かに全く服や顔に変化はなかった。奏海が明季葉の腕や頬に触れて痛みませんか?などと確信にしており、明季葉もちゃんと受け答えしている。丈の余ったエプロンドレスには一縷の焦げやほつれもない。ほっとする反面、ほんのちょっとがっかりした感情は頭の隅に追いやることにして奏海に聞く。
「よ、良かったぜ! 霊的な炎ってどういうことなんだ奏海?」
「あの蝋燭のようなポケモンはヒトモシと言いまして、炎タイプの他にゴーストタイプを持っているんです。ゴーストタイプの『鬼火』は物理的に何かを燃やすのではなく生き物の心を燃やしてしまうもので……あまり長い時間受けると生きる気力や希望が無くなって死に至ると言われますが、この程度なら少し横になっていれば問題ないでしょう。明季葉さんはしばらく横になっててください」
「奏海……詳しい」
「奏海はこの旅に備えて色々勉強してたからな。ポケモンの特徴とか技の事とか……今のバトルでも助かったぜ!」
「いえ、結局巡兄さまに助太刀できませんでしたし。それよりも、あのヒトモシは何で僕達を襲ったんでしょうか」
奏海は水にぬれた向こうの壁を見る。まだヒトモシは倒れていた。明季葉の話では引率トレーナーが連れていたとのことだったが何故こんなことをしたのかわからない。するとヒトモシが目を覚ましたのか頭の炎を灯し、むくりと体を起こ……そうとしてガラス玉だらけの身体ではうまく起き上がれずそのままころころと玄関の方に転がっていく。
その体を、頭の炎をものともせず誰かが突然両手で抱え上げた。そのままヒトモシを腕組みして乗せる仕草には荒っぽいがどこか労りがあるように巡には見えた。
「引率の……トレーナーさん」
明季葉が立ち上がって呟く。その人間は20前後の女の人で後ろにはヘルガーを連れている。短く切った髪はところどころ跳ねていて、服装は巡達と違って随分と着古しているのがわかる。穿いているグレーのスニキーは元々そういうデザインなのかところどころ破れていた。トレーナーらしい旅の服装で小さなポケモンを抱きかかえているのに、巡達を見る眼光が全く可愛らしさをイメージさせない。髑髏を抱え使い魔を操る魔女と言った方が似合いそうだった。
「……あんた達が新人のトレーナーよね?」
「お、お姉さんが引率のトレーナーなのか? ひどいじゃないか、いきなりポケモンで襲うなんて!」
特に謝るでもなく聞いてくる女の人に巡は思わず抗議する。大事にならなかったとはいえ、ヒトモシを倒せていなかったらどうなっていたかわからない。女の人はため息を吐く。
「その通りだけど、質問に質問で返さないの。それと、いきなりポケモンに襲われるのが嫌なら今からでも旅をするのはやめた方がいいわ」
「なっ……!?」
「どういうことですか? 旅をするならこれくらい当たり前の事だと?」
「……あの子はこういうことは教えなかったのね」
やれやれと女の人は頭を振った。誰のことを言っているのか巡達にはわからない。それから巡の方を向いて諭すように言う。
「道路で草むらに入れば色んなポケモンが飛び出してくるし、時には餌にしようとしてくることもある。ポケモントレーナーもちょっと目が合っただけでこっちの状態なんてお構いなしでバトルを仕掛けて来るなんて当たり前。強盗や悪の組織が何の前触れもなく襲って来ることだってある。……ポケモントレーナーとして旅をするって言うのは、そういうことよ」
その言葉は決して脅しなどではなく、彼女自身が体験したであろう実感があった。言葉の重みに巡がごくりと息を呑む。反論が出来ない巡の代わりに奏海が手を上げて聞いた。
「でも、今年からは四葉様が旅の安全のためにいろいろルールを整えてくださっています。危険は少ないのでは……」
「……そうね。私もルールに目は通したけど、頭のいいあの子が考えるだけあって大分マシにはなってると思うわ。あなた達が理不尽に犯罪に巻き込まれないように気を遣ってる。……でも、あなた達自身が物見遊山程度の認識しかしてなかったら、何の意味もないわ。さっきのでなんとなくわかったでしょう? 引率のトレーナーであるわたしがいきなり襲い掛かるかもしれない。突然仲間が負傷したり何かの理由で仲間が裏切られるかもしれない。危険なんていくらでもあるわ」
「そんな……」
最後の方は彼女自身思うところがあるのか、言葉はどこか辛そうだった。巡はなんとなく、思ったことを口に出す。
「そっかそっか。じゃあお姉さんって……優しい人なんだね」
「巡兄さま……?」
「だってさ。今の言葉って……要するに、旅は危険なことがいっぱいあるんだって教えるためにやってくれたんだろ? だったら――」
「違うわ」
引率のトレーナーはぴしゃりと否定する。本心から言っているであろうことを察し、巡が戸惑う。
「半年前からポケモンは貰ってたって聞いたから、今のはあんたたちが現時点でどの程度対応力があるか見たかっただけよ。どれくらい面倒見ないといけないのかわからないと仕事上困るし。結局まともに見れたのは一人だけだったけどね」
「そ、そうなのか?」
「奏海……だったかしら。あんたはモンスターボールはすぐ取り出せる場所に持っときなさい。スーツケースの中に閉まってたら野生のポケモンとも戦えないわよ」
「は、はい……」
「……巡、はまあ悪くはなかったわ。ただ、知識は弟に頼るんじゃなくて自分で持ちなさい。いつでも家族が傍にいるわけじゃないんだから」
巡、と名前を呼ぶ時何かためらいがちになった気がした。その理由はわからない。
「明季葉って子は……ポケモンって言うのは見た目とは裏腹に凶暴な奴もいるから、外見で油断しないようにしなさい。ヒトモシが普通の炎で焼いてたら死んでたかもってことを忘れないで」
「……うん、油断した。気を付ける」
「それじゃあ、明季葉が回復したら出発しましょう。……いいわね? 私はあの二人とまだ話すことがあるから」
三人にそれぞれ指摘をした後、引率のトレーナーは踵を返しいまだに慄くように彼女を見るこの家のおじさんとおばさんの方を向く。巡が慌てて待ったをかけた。
「待って待って! ……お姉さんの名前は?」
「……涼香よ。それと、引率のトレーナーといっても私はやりたくてこの仕事をしてるわけじゃないから……自分の身は自分で守れるようにしなさい」
「わかったよ、俺ポケモントレーナーとして強くなって、いつか姉さんより強くなるから!」
「……姉さんはやめてくれないかしら。涼香でいいわよ」
「ええっ、でもそんな年上のお姉さんに向かって親しげすぎるというか距離が近すぎるというかなんというか」
痛みを堪えるような声で言う涼香に、顔を真っ赤にしてゴニョニョのように小さな声で呟く巡。しかし何かを思いついて尋ねる。
「そうだ、じゃあじゃあ、涼姉って呼んでもいいかな?」
「はあ……いいわよ。奏海と明季葉も姉さん以外なら呼び方は自由でいいわ」
「では僕は普通に涼香さんで……」
「涼香、でもいい?」
「ええ。別に敬ってもらうような働きをするつもりもないし……ともかく、これからポケモントレーナーとして旅をするんだから、各自しっかり心の準備をしておきなさい」
巡達に背を向けたまま言い、今度こそ離れていく。その背中を見ながら、巡はポケモントレーナーとして旅をすることについて改めて考え始めた。
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