Blazerk Monster
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
夢も未来もない旅立ち
ポッポやスバメたちの鳴き声が聞こえ始める早朝。涼香はフレンドリィショップのアルバイトを終えて自宅の小さなアパートに入る。時期はポケモンリーグの開催間近、本格的な夏が始まるというのにパーカーのフードを被って、視力が悪くもないのに眼鏡をかけている。もしそのサングラスの下の目を見た人間がいれば、こう思うだろう。若い女の子なのに、なんて淀んだ眼をするのだろうと。
玄関で靴を脱ぎ散らかし、カップ麺の容器が放置された台所を通って、テレビの電源をつけることもなくそのまま固いベッドになだれ込んだ。勢いがつきすぎて少し痛かったが、どうでもいい。
涼香は一人暮らしで、一緒に暮らすポケモンはいない。このアパートはポケモンとの同居は禁止だし、彼女は自分の意思でここを選んだ。隣町に家族はいるが、もうずっと会っていなかった。会えなかったのだ。
レジには立たず、商品の仕入れと点検を行うだけの退屈な仕事を終えた彼女は朝食を取ることもなくそのままベッドで寝転がる。決まった時間に食事を取るなどという習慣は、とうの昔に崩壊していた。ここに来てから、もう何キロ痩せただろう。以前ポケモントレーナーとして旅をしていた時の、女の子らしくも鍛えられた立派な体は、怠惰な生活によって見る影もなく衰えていた。
サングラスを外し、安っぽいチノパンを脱ぎ捨てる。もうこのまま寝てしまおうと思った時、ポケベルの画面が光った。涼香に連絡を取ってくる相手など、迷惑メールの類くらいだ。だが、写った相手に涼香は少なからず驚く。
「四葉……」
表示されたクローバーのアイコンは、涼香の親友だった少女からであることを示していた。メールのメッセージは、こう書かれている。
『あれから一年経ったね。大事な話があるんだ。今日の夕方、君の家に行ってもいいかな?』
もう一年か、と思った。だがそれよりも、何故今更彼女が自分と会いたがるのかがわからなかった。
だって自分は、一年前彼女を裏切ったのだから。
あの時の恨み言か。堕ちた自分への嘲笑か。それとも、友人としてやり直そうとでも言ってくれるのだろうか。意味のない想像をしながら、涼香の意識は沈み、その脳は一年前の記憶を映し出した。
涼香と四葉の目指したポケモンリーグ。予選を勝ち抜き、トーナメントへの出場資格を得た二人の少女がポケナビで通話している。
「ついに二人ともここまで来れたわね、四葉」
「うん……ここまで長かったよ、涼香」
涼香と四葉は、同じ町で育ち同じ日にトレーナーとして旅立った友人でありライバル同士だった。有り余る元気でそこかしこに寄り道しながらポケモンを鍛える涼香と、体があまり強くないため最短、最高効率でポケモンを鍛える四葉。
旅立つ時点で優秀なトレーナーとして活躍するだろうと言われていた涼香と、そもそも各地を回り歩くこと自体出来るのかと心配され、一部の心ない人達には無謀だと嘲笑われていた四葉。旅そのものは二人は別の道を歩んだため違っていたが、しょっちゅう連絡は取りあっていたため新しいポケモンを捕まえたことやジムバッジの取得数など、お互いに競い合っていた。
「旅を始めた時から、いつかお互い全力でバトル日が来るといいねって何度も言ったよね。本当に四葉がここまで来たのはびっくりしたけど」
「そうさ……だから」
だが旅立つ前はポケモンを持たず、旅立ってからは今まで直接会うことはなかった二人は。実際に勝負をしたことはないし、来るべき時まで会うことはしないと約束していた。
「決勝で会おうね」
「決勝で会おう」
示し合わせたように、運命のように二人で言う。ポケモンリーグはトーナメント形式で、お互いに反対側にいた。だから戦うとすれば、それは優勝をかけた舞台なのだ。かくして二人は勝ち進み、決勝の直前。控室で再会する。
「……ほんとは、決勝のステージで再会といきたかったんだけどな」
「しょうがないさ、大会の決まりだもの」
二人の旅したキリヤーグ地方のポケモンリーグは、自分の手持ち6匹のうちから3匹を選び戦うルールとなっていた。戦う前に相手の手持ちは公開され、相手が何を出してくるかを読んで選出を行う。この読み合いこそが勝負のカギであり、バトルの勝因を8割近く決めるといってよい。
よって対戦する相手はバトルの直前に同じ部屋で、お互いのポケモンを決めるのだ。
「こうして面と向かって話してると、故郷の村を思い出すわね」
「そうだね。あなたの大事な弟は元気だった?」
「元気とは言えないけど……最近、自分の将来について考え始めたみたい。自分にもできることは何かって。しばらく直接話してなかったけど。ポケモンリーグに出るって言ったら嬉しそうな声で応援してくれたわ。ありがとう」
「それはいいことだね」
涼香には、病気の弟がいた。生まれた時から難病を背負い、他の子供のように走り回ることも、太陽の光を浴びることも出来ない子供だ。旅に出る前、お姉ちゃんは外に出れていいなと言われたことは鮮明に覚えている。だから旅に出てからは後ろめたくて話せなかった。だけど四葉の勧めで、一度直接報告することにしたのだ。四葉もやや病気がちで線の細いところがあったので、涼香の弟のことは気にかけてくれていた。
リーグチャンピオンには莫大な権力と富が与えられる。弟を日向で生きられるようにするために、彼女はここまで研鑽を重ねてきた。だから絶対に、負けられないのだ。どの参加者にも、勿論ライバルの四葉にも。そう思いながらここまで来た。
(……このリーグで優勝すれば、莫大な賞金が手に入る。そうすれば、あの子を治してあげられる)
「ねえ涼香。もし僕が勝っても……賞金はあなたに渡すって言ったらどうする?」
「え……?」
「僕は涼香がどんな思いでここまで来たかは知ってる。賞金をあげるから負けろっていうんじゃない。涼香とは……心から楽しめるバトルがしたいんだ。お金や地位に囚われるんじゃなくて、昔一緒にトランプで遊んだ時のような……」
「四葉……」
四葉は飄々としていて感情を表に出すタイプではないが、その実貪欲に駆け引きを楽しみを求める性格だ。旅に出る前はよくおもちゃのコインを賭けてポーカーやドンジャラで遊んだものだが、ゲームの腕前だけでなく言葉巧みにこちらの心理を誘導するのが上手く、いつも涼香が負けて困った顔をしていてそれを見る度四葉は楽しそうに笑っていた。
だから自分と純粋にバトルがしたい。そう言ってくれているのだろう。
「ありがとう、四葉。だけど……その言葉には甘えられないわ。あの子と約束したの。絶対に優勝するって。百パーセントあなたに勝てる自信はないけど……それでも、やってみせる」
「そう……でも、その方が涼香らしいよ」
ともすれば厚意を無碍にするような言葉だが、四葉はニヒルに微笑んだ。責任感の強い涼香がそう答えることは、半ば聞く前から分かっていたからだ。
「でも、やっぱり後で賞金くれって言ってもあげないからね?」
「女に二言はないわ」
「それ、男が言うセリフだよ」
男勝りな涼香の態度に軽口を言うのも、いつも通り。その後、二人は本格的に思考する。連絡は取りあっているから、お互いのポケモンのことは自分のポケモンの様に知っている。だからこそ、簡単には相手の手を読めない。相手の手を知れば知るほど思考は複雑化する。
(それでも、四葉のマシェードに私のゴウカザルをぶつけられれば勝てる。後はその状況にどうやって持っていくか……)
旅するときに貰ったのは、涼香がヒコザルで四葉がナエトルだった。タイプとスピードを考慮すれば、自分のゴウカザルが勝つはずだ。だが四葉の思考の裏を書くのは並大抵の難易度ではない。先の話で出たトランプで遊んだ時も、どれだけ裏を掻こうとしても丁度その一枚上をいくのだ、四葉という少女は。先に決定したのは、四葉の方だった。
「……決めた」
「もういいの?読みに見落としがないといいけど」
「完璧だよ、涼香の考えることなんてお見通しさ。……さて、僕は少しお花でも摘んでこようかな」
「……そういうところ、変に気取ってるよね」
「友人同士とはいえデリカシーは大事だからね。――くれぐれものぞき見なんてしないでおくれよ」
「もう、そんなことするわけないでしょ」
そう言って、四葉は控室から出ていった。残された涼香は、再び思考に没頭する。しかしその1,2分後。大地が急に揺れて、集中が途切れた。震度5はあっただろう。
「わっ……何?」
幸い程なくして揺れは収まった。驚きつつも椅子に座り直して――その時、涼香は見てしまった。
四葉のモンスターボールが3つ、床に転がり落ちている。それを何気のなしに拾おうとして、気づく。『くれぐれも、のぞき見なんてしないでおくれよ』
(もし、これを拾ってしまったら……)
決定されたポケモンは大会用にボールに取り付けられたボタンを押すことで情報が送信され、エントリーされる。もしこの3匹が四葉の選んだポケモンだったら?
(拾っちゃ、ダメだ)
一度エントリーしたものは取り消せない。拾う時に見てしまったからもう一度選び直せ、とは言えない。このまま放置するべきだ。だけど。
(でもこれを見れば、私は……)
弟に誓った優勝。相手の手持ちが全てわかれば勝利をこの手に掴んだも等しい。そうだ、自分は絶対に優勝しなければいけないのだ。さっき賞金を渡す話に頷いていれば、やはり理性が勝っただろう。だが、退路は自ら断ってしまった。こんなことになるなんて思わなかった。拾って元に戻すだけだ、その時うっかり見えてしまっても、責められる謂れがあるだろうか。いや、だが、しかし……
(私は、私は――!!)
こうしている間にも、四葉は用を足して帰ってくるかもしれない。バトルの最中以上の窮地に追い詰められ、少女は――
「……ただいま。おや、涼香も決めたのかい?ちょっと地震があったようだけど、集中できた?」
「え……ええ。大丈夫よ」
四葉が戻ったとき、彼女のボールは、ちゃんと元の位置に収まっていた。それが答えだった。選定が終わり、しばらく談笑する二人。楽しそうな四葉に、硬い表情の涼香。さすがに決勝戦なので緊張もするだろう、と四葉は気に留めない様子を示していた。その後大会のアナウンスが鳴り、二人はフィールドに移動する。
「じゃあ……行こうか、涼香。最初で、最後の、最高のバトルをしよう」
「……うん」
そして決勝戦は……四葉の勝利で終わった。
途中までは、ポケモンの選定を読み勝った涼香の優勢で進んでいた。それに四葉が技で食らいつくという形で大歓声に包まれていた。だが――四葉が最後の一体を出した時、けたたましいアラームが鳴り響き。
控室に仕掛けられていた監視カメラによって涼香の、試合前に相手の使用するポケモンを事前に見る不正行為が発覚。勝負は中止され、四葉の不戦勝となったのだ。
これが二人の夏の終わり。勝たなければいけないという執念と、偶然が生んだ、悲劇。
その、はずだった。
「……久しぶりに、この夢見たな」
昼過ぎ。目を覚ました涼香は濡れた瞼を拭い起き上がる。この事件が起きてから半年ほどは毎日のようにこの夢を見てうなされ、罪悪感に苛まれ。眠るのが怖くなるほどだった。
あの一件以来涼香はポケモンバトルの表舞台から追放。旅立つときにもらったトレーナーIDは剥奪され、自分の仲間であるポケモン達は全て没収された。神聖なるポケモンリーグを穢した邪悪な人間には、ポケモンという力は持たせられないからだ。
旅の途中で出会ったトレーナー達にも、蟒蛇の如く嫌われてしまった。素顔を晒して歩けば、トレーナーの恥さらしだと罵られた。もうポケモンを持っていないのをいいことに、かつて負かしたトレーナーに身ぐるみを剥がされたこともあった。
そして優勝を約束した姉が不正を犯したことで、家族との関係も壊れてしまった。弟は、自分が涼香に絶対に優勝してほしいなどと頼んだがために姉が不正をしてしまったと自分を責め、その命を絶ち。両親からは、お前が弟を殺したと言われ、勘当されてしまった。
トレーナーとしての未来も、ポケモンも、家族も、友人も全てを失くした。今の自分に出来るのは、ただ日々を食いつぶすように生きることだけだった。いや、もう自分は死んでいるのかもしれない。
「来なくて、いいよ……もう私には、何にもないんだよ」
昔の男勝りな言動が嘘のように震え、怯えた声で独り呟く。メールに結局返事は、していない。裏切り、全てを無くした自分を親友に見せたくなどなかった。いっそ今すぐ死んでしまおうかとも思った。だけどそんな無茶が出来るなら、とっくにやっていた。死ぬのは、怖いのだ。
せめてこのアパートから今日一日だけでもどこかに逃げようか。だけどそもそも、四葉には自分が今住んでいる場所など教えていないのだ。なのにいる位置も聞かずに来ると言ったということは、自分のいる位置など把握されているということではないだろうか。そんな思考が働いてしまう。
「とりあえず、部屋、片づけなきゃダメか……」
虫が湧くほどではないが、部屋は散らかっていて大分荒れている。かつての親友が来るのにこれではあんまりだと思った。こんなのくだらない現実逃避だとわかっていても、体と頭を動かさないとやっていられなかった。
台所のカップ麺を片付け、たわしで磨いて綺麗にする。部屋のあちこちに散乱したゴミをまとめて袋に入れて、ゴミの日などお構いなしにゴミ捨て場に放り出した。
掃除機もかけ、ひとまず自由に動き回れるだけのスペースを作った後部屋の整理をする。昔熱心に読んだバトルの参考書や、自分の育てたポケモン達の成長記録のアルバムを本棚に並べようとする。中身を見返しても辛くなるだけだと思い開こうとはしなかったが、重ねて運ぼうとすると上の方がばらばらと落ち、目を反らすことを拒否するようにページを開いた。
そこには、旅立ちの日の記念にと書かれていた。四葉と涼香。そして初めての手持ちのヒコザルとナエトルが写真に写っている。ヒコザルと揃って元気いっぱいの笑顔とピースサインを浮かべる涼香と、ぼんやりしたナエトルを抱えて静かに楽しそうに微笑む四葉。
何もかもが希望に満ちていたあの時。そこから先をなぞるように扇風機の風で、ページは進んでいく。ジムを制覇した時、手持ちが進化した時。6匹の仲間をそろえた時。写真を一枚一枚見なくても、一瞬視界に入るだけで記憶は蘇る。そして自分のしてしまったことに、忘れようとしていた罪悪感がぶり返す。
「あの子達、どうなったんだろう」
罪を犯したトレーナーの手持ちは没収される。場合によっては殺処分されるケースもあると聞いていた。危険な思想を忠実に実行するようなポケモンは人に害を及ぼすからだ。涼香の場合はポケモンには罪を犯させてはいないとはいえ、安否がわからないのは不安でしかない。四葉に聞けばわかるだろうか。だが聞く権利など自分にあるのだろうか。自分のポケモンを信じることが出来なかった私に。そんな思いが巡る。
「でも、もう……気にしても仕方ないんだ」
仮に生きていたとしても、もう何もしてあげることなど出来ない。だから自分は、考えるのをやめた。四葉に会うことも、最低限の相手をして帰ったらまたいつもの何の味気もない生活に戻るのだと漠然と考えていた。
掃除を終え、一年前の服装に着替える。鏡の前に立つと、今の自分はなんと死んだコイキングのような目をしているのだろう。いつ来るかと思うと、何もする気にならなかった。いや、それはいつものことなのだが。
果たして、その時は来た。大家さんが来た時以外は滅多にならないインターホンが鳴る。
なんて返事をすればいいのかわからない。心臓の鼓動が不規則になった気がした。何もできずにいると、声をかけられた。
「いるんだろう?久しぶりだ、よく待っててくれたね、涼香」
まるで躾の出来たポチエナを褒めるような口ぶり。声も口調も正しく四葉のものだった。涼香は、絞り出すように返事をする。
「なんで、ここに……?」
一番の疑問はそれだ。あの時以来、連絡の一つもなかった四葉がどうして今更。何のために。
「ただの挨拶だよ?ポケモンリーグ前のね」
「……」
「ドア越しで黙られてもわからないよ。僕の方から勝手に入るのも失礼だから、こっちに来てくれないかな?」
涼香は言われるままドアに近寄ろうとする。だが今の涼香にとっては、2人を隔てるドアはまるで分厚い鉄板のようにすら感じられた。開けることなど、出来ない。四葉が向こうでため息をつくと、涼香の体が淡い光に包まれる。次の瞬間には、涼香はアパートの廊下に出ていた。四葉はすでに自分の方を向いており、傍らには彼女のオーベムが控えている。『テレポート』か『サイドチェンジ』を使って涼香の体を転移させたのだ。四葉は戸惑い青ざめる涼香を頭の上からつま先まで眺めている。無理やり対面させられ、一方的に気まずさを感じる涼香が先に口を開いた。
「久しぶりの相手に、随分な、呼び出し方ね」
「へえ、髪を切ったんだね。いいじゃないかさっぱりしてて。涼香にはそっちの方が似合うと思うよ」
「……四葉は前よりも伸びたんじゃないかしら。あまり長いと乾かすのが面倒だって言ってなかった?」
「チャンピオンとして人前に出るのに相応しい外見を装った結果だよ。もう旅は終わったから手入れに時間をかけるのは簡単だしね」
一年前は、お互い背中にかかる程度の長さだった。堕ちた涼香は手入れする気にもならずバッサリと肩より上まで切り落とし、四葉はチャンピオンとしての外見のために腰まで伸ばしている。見る人が見れば傷み具合もまったく違うのだろう。着ている服も涼香の物はもう一年前から新しい服は買っていない。四葉は上質な薄い生地で出来た首元までしっかり覆われた紫色の礼装を着ている。四葉は落ちぶれて生気のない友人を心から心配そうな……まるで素から落ちたヒナでも見るような目を向ける。
「それにしても顔は随分とやつれたようだ。昔は食べ過ぎて体の一部に余計な脂肪がつくくらいだったのに」
「そんなこと……もう四葉には関係ないでしょ」
「一番の友人に対してつれないね。そういえば……涼香の大切な弟は元気かな?」
「――――ッ!あの子は、あの子は!!」
四葉は自分の弟が死んだことを知らないのだろう。涼しげに言う彼女に、涼香の心に忘れかけていた昔の激しい感情が巻き起こる。だが悪いのは自分だ。何も言えない。だがその表情は彼に何が起きたかをはっきり物語っていた。
「そう……それは残念だったね。じゃあ面白い話をしようか」
「話……?」
四葉の会話は独特だが、今の自分が冗談を聞いて笑うような気分だとでも思うのだろうか。困惑する涼香に構わず、四葉は語りだした。
「涼香はあの決勝戦、控室で僕の使うポケモンを盗み見て、失格となった。だけどあの時の涼香は、優勝しなければいけない責任感。弟との約束……普通の精神状態ではなかったはずだよ」
「だから……だから何よ!だから『涼香は悪くない』とでも慰めるの?あなたのことも自分のポケモンのことも、全部全部裏切ったのに!!」
堰を切ったように、もうずっとあげていなかった大声を出す。喉が割れそうだったが、気にしていられない。昔の四葉は、熱くなりすぎて度が過ぎた行動をする涼香を庇うことがしばしばあったし、それに昔は助けられてきた。だけど、もうどうにもならない。
「まあまあ落ち着いてよ。お楽しみはこれからさ」
「どういう、ことよ」
涼香の激情を、心の底から楽しそうに、昔ポーカーで負けそうになって困る自分を見ていた時のような、でもその時よりずっと楽しそうな目で見ている。
「ではそんな涼香に、もし対戦相手がわざと自分のモンスターボールを転がしたとしたら?」
「え……?」
意味がわからない。あの時四葉は席を外していた。そもそも、何のためにするというのか。
「対戦相手が席を離れる前、のぞき見を示唆するような発言をしていたとしたら?」
理解できず困惑を深めるばかりの涼香に対し四葉の笑みが深くなる。昔の目と似ているのに、見たことのない表情。見たことのない四葉。
「そもそも。涼香が弟と決勝戦前に会話したこと自体偶然ではなかったとしたら……?」
サイホーンに足し算を教えるように語り掛ける四葉。一瞬、涼香には四葉の言っている意味がわからなかった。脳が理解することを拒否していた。
あの時ボールが落ちたのは、地震のせいだ。だけどポケモンの力があれば地震を起こすことなど容易に出来た。トイレに行く前、のぞき見なんてしないでくれとも言っていた。
涼香が自分の弟と会話をしたのは自分の意思だ。だけどそれを勧めたのは四葉に間違いなかった。
「まさか……私をはめるために、わざと……?」
理解してしまっても、信じられなかった。だって、四葉は、自分の、一番の、親友で。病気がちで変わり者だったから村の子供たちに馴染めなかった四葉を守ってあげていたのは、自分なのに。
「ははっ、やっぱり気づいてなかったんだね……だけど笑えるじゃないか。あの一件以来涼香はポケモンバトルの表舞台から追放。一方僕はキヤリーグ地方のリーグチャンピオン。昔に比べて随分立場が逆転したじゃないか?」
「四葉……なんで……なんでよっ!!」
涼香は細くなった腕を振り上げ、彼女に拳を振るおうとする。だがまた涼香の体が淡い光に包まれる。念力で動きを止められ、地面に這いつくばる。騙されていた悔しさ。弟の無念。今までの自分への罪悪感が全て四葉への疑問へと変わる。
「暴力はいけないね。さて、涼香はこれからどうしたい?」
「答えて……なんで、あんなことをしたの!」
「この状況でなんでなんでとはあまり賢くないね。答えたとしてそれが真実であるかどうかわかるのかい? 嘘でも何でもいいから納得したいのかな? 一番の友人に裏切られだれより大切な弟くんが死んでしまった理由を」
四葉の言葉が重く、念力以上にのしかかる。裏切られたこと、弟が死んだこと。それは四葉自身の意思で行われたし、自分はそれに気付くことが出来なかったことを。
「こんなふうに騙されて悔しいよね。涼香はずっと僕のことを見下してたんだから」
「何を言ってるの……?」
「自覚があるのかないのかは知らないけれど、君は弟のことも、僕のことも、大事にしているようで下に見ていた。頭はいいけど自分がいなければ四葉は何も出来ないみたいなこともよく言っていたよね」
四葉に違うと言おうとした。だけど否定できなかった。体の弱い彼女のことを心配していたのは事実だ。だけど自分が守ってやらねば危ういと思っていたその心に、見下す気持ちがないなどと言えようか。
何より涼香に今の発言を否定させなかったのは、四葉の浮かべる表情だった。普通、自分が見下されていると思って気分のいい人はいない。涼香ならはっきり怒りを示すだろう。でも、今の四葉は見下されていたと口にしながら、それを慈しむように笑っていた。
「それは……でも、そう思ってたならあんなことしなくても直接言えばよかった! そうすれば私だって改めてあげられた! なのに……」
「心配いらないよ。僕はそんな涼香が大好きだったし、今でも大好きさ。それだけは事実だよ」
うっすらと微笑を浮かべる四葉は真剣だった。長年の付き合いから、少なくとも嘘を言っているわけではないことを直感的に理解してしまう。だからこそ訳が分からない。でも四葉は教えてくれなかった。今の涼香には、真偽を確かめるすべがないから。涼香は無力さと悔しさに泣きながら
「ならせめて教えて……あの日から一年経って私にそのことを伝えた理由は何?」
「ふふ、涼香は頭はあまりよくないけど考えることは嫌いじゃないからね。きっとそう言ってくれると思ってた」
単に裏切りたかっただけなら、もっと早く教えても良かったはずだ。この一年間、自分の命を絶とうかと思った回数は一度や二度ではない。今日を迎えるまでにこの世を去っていた可能性もある。あるいはずっと教えなければ自分で罪を犯したと感じ続け苦しんだはずだ。なら今教えたのは理由があるはずだ。だがこの疑問も、四葉の掌の上らしい。いや、ここに来てからの会話は全てそうなのかもしれない。一年前も彼女の思うがままに不正を働いてしまったのだから。
「涼香、一番の親友である君に頼みがあるんだ。……これを受け取ってくれ」
「これは……トレーナーカード?」
四葉は一枚のカードを倒れた涼香の眼前に投げる。涼香が目を向けると、それはトレーナーとして旅することを認めるトレーナーIDだった。昔もらったものとは違う、新品の物。これがあれば、公的にはポケモンをバトルのために所有することが許される。ジムバッジを全て集めれば、リーグ挑戦も可能だ。
「君にもう一度、この地方を旅してほしい。ただし一人じゃなくて……とある新人のトレーナー達と一緒にね」
「新人トレーナー……?」
「そうだよ。チャンピオンになってから一年。僕は旅をして感じたトレーナーとして各地を歩く上での問題点の改善に努めた。涼香と会話したことも参考にね」
ポケモントレーナーとして旅立つ人間は研究所でポケモンを貰って一人で旅をするのが一般的だ。8つのジムを、ポケモンを捕まえ育てながら巡り、最後はリーグの挑戦を目指す。大体の地方と同じシステムに準拠している。だが一方でポケモンという大きな力を持ち責任を持って育てること、子供が一人で見知らぬ場所を歩く事には様々な危険が伴う。涼香も旅をして危ない目に合ったことや一歩間違えば死んでいたかもしれない出来事はあった。この地方におけるポケモンリーグのチャンピオンの権力は絶対に等しい上、トレーナーとして旅をした当事者であるなら鶴の一声で決定できることも多いのだろう。
「その一環として、新人トレーナーに地方を回ったことのあるトレーナーを一人つけることを決めたんだ。それを涼香にお願いしたくてね」
「……ふざけないで、なんで私が」
かつての親友……否、自分からすべてを奪い弟の仇となった相手をを睨みつける。気の弱い者ならその強い視線に怯むだろうが、四葉はペットのニャースに軽く引っかかれた程度にしか思っていない。
「なんで、は意味がないんだよ涼香。僕は君にこそ頼む理由がある。一応チャンピオンとしての権限もあるし、涼香は前科持ちだから断るなら今度こそ刑務所入りだ。僕が君を貶めた理由も教えられない。……それは嫌だろう?」
聞き分けの悪い子供を窘めるように四葉は言った。ショックと悲しみと怒りと不甲斐なさで頭の中がドロドロに溶けそうになりながら、涼香は呟く。
「親友だって信じてた時も、裏切られた後も……あなたの掌の上で踊るしかないのね」
「引き受けてくれるってことだよね。じゃあ明日の昼、僕と君が旅立ったあの研究施設に向かっておくれ。話は通してあるから」
昔と何ら変わらない、友人に対して少しお使いでも頼むような調子の四葉。自分を裏切って、弟を死なせて、今まで放っておいてなんでもない顔をしているのが自分の親友であるという現実にようやく、理解が追い付き始める。冷え始めた思考で涼香は言う。
「……教えてくれないなら、私は憎むわ。四葉の心を見抜けなかった馬鹿な自分を。まんまと罠に嵌まった自分の心の弱さを。そして何より弟を殺した四葉、あなたを……許さないから! 私はあなたに復讐する! ……それでいいの?」
「そう……いいよ。僕のことはいくらでも恨んでくれて構わない」
復讐、と強い言葉で訴える。自分の事を大好きだと言ったならあるいは本当のことを話してくれるのではないか言う儚い望みだった。だが平然と肯定する四葉の本心はわからない。踵を返して歩き出す。その後ろ姿を涼香は目に焼き付けていた。一陣の風が吹くと同時に四葉とオーベムの姿は消え、涼香の身体は自由になる。
「やってやるわ。四葉が何を考えていようと引きずり降ろして、本当のことを聞き出して……」
その後、どうするとは今は言えなかった。理由を聞けば許せるのか、許せなければどうするのか。その後自分自身はどうするのか。一年間魂が抜け落ちたような生き方をしていた涼香にはすぐに決められない。でもそんなことはどうでもいい。部屋に戻り、最低限の身支度を整え始める。自分が旅立った研究所まではここからそれなりにある。必要な準備を考えると急いでここを出なければいけないし、気持ちとしてものんびりなどしていられなかった。
「私は掴んで見せる……四葉の本心と、あの子の死の真実を!」
流れる涙を服で拭って、その腕を見る。色あせ、ぼろぼろになった旅の服。手持ちのポケモンは零。四葉はもう友達ではなく倒すべき敵。応援してくれる人は誰もいない。真実を聞いて、そのあと如何するのかもわからない。夢も未来もない旅が、始まる。
ページ上へ戻る