| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

【ユア・ブラッド・マイン】~凍てついた夏の記憶~

作者:海戦型
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
 

流氷の微睡み

 
 エデンは、疲れていた。エイジもそうだ。

 初めての課外授業でリック先生にBIS伝票(タグ)を渡され、いきなりそれを使うことになってテロリストと戦い、リック先生が全部解決するかと思ったら同級生が豹変。目まぐるしい事態にもついていけないし、胸にしこりばかりで「生き残った」とか「勝った」とかそういった清々しい感覚はなかった。

 エデンはこれ以上歩くのも面倒になり、自分の部屋より数メートルだけ近かったエイジの部屋に彼と一緒に入り、ベッドを借りて寝転がった。もともと共に行動することが多いので、エイジの部屋も自分の部屋のようなものだった。エイジの部屋は物が少なく広いので、実はエデンの服の一部もこちらに置いてあった。

「……ねぇエイジ」
「なに?」

 ベッドを占領されたためにソファに座っていたエイジが、こちらを見る。

幻実症(ファントム・フォーカス)って何だろ。ルーシャ先生が言ってたけど、美音ちゃんの様子がおかしかったのとやっぱ関係あるのかな」
「分からない。幻実症(ファントム・フォーカス)についての知識はあるけど」
「聞かせてくれる?」

 エイジは説明する。幻実症(ファントム・フォーカス)とは何かを。

「OI能力者の『歪む世界(オーバー・ワールド)』による認識と世界のずれは、魔女との契約によって解消される。でも『歪む世界』とは別に、トラウマが発生することがある」
「トラウマ?『歪む世界』での認識の違いが原因で、人間関係が壊れたり?」
「僕には分からないけれど一般的にはそう言われている。『歪む世界』がなくともトラウマは発生するから、本来『歪む世界』とトラウマには直接的な関係はない」

 つまり例えばの話で言えば、エイジが寒い世界をみつめていることと、それが原因で言動がおかしいと周囲の心ない行動や対応を受けて心に傷を負うことは、関連性はあっても現象としては別の事ということだ。

「でも、『歪む世界』の苦しさとトラウマが重なると、よりトラウマが強化されてしまう事がある、らしい。苦しみの記憶、幻の痛み……トラウマが蘇ると同時に、まだ契約していなかった頃の精神的な苦しみを同時に思い出し、精神と世界の二重のズレが一時的に精神に異常をきたす……それも術の発動中に。坑道から逆流する過去の幻影、それが幻実症(ファントム・フォーカス)
「美音ちゃんが……あっ、そうかあの子ってAFS……」

 そうだ。美音は確か、エイジと同じくAFSの診断を受けていた。
 つまり『歪む世界』が重篤な苦痛を生み出しているのだ。
 エイジは「それもあると思う」と同意した。

「そもそも幻実症(ファントム・フォーカス)は極めて稀有な例。通常では考えられない劣悪な環境――嘗て行われていたという魔女や製鉄師への人体実験の過程で初めて発見されたとされている。そして、その他ではAFS患者での発症例しか確認されていない」

 この精神疾患は、魔女と契約を結ぶ前の段階で心に深い傷を負い、その後魔女と契約した人間でなければ発生しない。症状にも多少は個人差があり、彼女とは逆に術を全く使えなくなってしまうこともあるらしい、とエイジは語った。すべては普通は知ることさえない情報だ。
 もやもやした。そんな重要なことを言わなかった古芥子姉妹の気持ちは予想は出来るが、もやもやした。そして、それを知らないで今まで過ごしていた自分自身にももやもやした。ふと、自分は更にもやもやするのではないかと思う事を聞く。

「エイジは?エイジの寒がりも、もしかして――」
「疑われたけど、違ったよ。幻実症(ファントム・フォーカス)は、トラウマを想起させるトリガーが必ず存在する。僕にはそれはないし、そもそも僕は常に寒がりだから理屈に合わない。その寒さもエデンがいればへっちゃらだし」
「そう……」

 一つだけもやもやが消えた。しかしエデンは他のもやもやした感情をたくさん抱え込み過ぎて、何を考えればいいのか分からなくなってきた。頭を整理しようと思っても、似たような言葉がひたすらぐるぐると脳裏を堂々巡りして何も進まず、やがて疲れたエデンはそのままベッドの上で寝息を立て始めた。

 エイジはそんなエデンを起こさないようベッドにきちんと寝かせ、布団をかけようとし、自分の布団のかけ方では暑いかと思って普段は三重にしている布団を二枚どかした。



 = =



 自己嫌悪の渦。
 ベッドの上で目を覚まして感じたのは、ただただそれだけだった。

 あの瞬間、あの二人の前で感情が抑制できなくなり、挙句の果てに先生の手を焼いた。言葉通り、高熱で焼いたのだ。抑制剤を打たれて醒めながら沈んでゆく感覚の中で、リック先生の手が赤く爛れているのを見てしまった。
 最悪だ。自分の中の醜い自分を晒し、失態ばかり。
 大人の事を馬鹿にすることが出来ないほどに幼稚で、そうだと分かっているのに変える事が出来ない自分がどうしようもなく矮小に思えた。

「別に、美音が悪い訳じゃないよ」

 美杏の声。美音の手を温かくて柔らかな手が掬うように握った。
 親の顔よりたくさん見た、自分のような姉の顔がそこにある。

「美杏……」
「もっとちゃんと美音を導けないで足を引っ張った。もっと早く抑制剤を打てばよかった」

 悔いるような声。お姉ちゃんはいつもそうだ、と美音は思う。
 両親と呼ばれる『あれら』の所業の時も、施設に放り込まれた時も、そして今も、美杏はいつも自分こそが悪いと率先して罪を被り、割を食ってきた。
 場の空気を読めなくて説教されることもあるが、いつだって本当に悪いのは自分だったと分かっている。本当に頭の悪い自分に歩調を合わせてくれていると分かっている。その優しさが嬉しくて心地いいのに、崩してしまうのがいつも自分であることが悲しい。
 
「先生に駄目な子供だって思われたかな……」
「幻実症は心の病よ。先生たちもそれは分かってたわ」
「エデンに酷いこと言った……」
「謝れば許してくれるわよ。エイジだって。きっと、そういう子よ」
「軽蔑されたかな」
「……それは、明日確かめにいきましょ?何も怖がらなくていい……美杏と美音は、いつも一緒よ」
「うん……」

 甘えるように美杏の手を取り、両手を握り合う。
 心細い日も哀しい日も、いつだって隣にこの暖かさがあったから生きてこられた。
 どれほど握り合っていただろう。不意に、美杏から話しかけられた。

「先生、助けに来たね」
「うん……」
「ジャミングが切れるより前に変だって気付いて、町に向かってたんだって」
「うん……」
「あの時、生徒がどこにいるか探してたとき、美音の助けてって声が聞こえたって」
「そんなつもりで、言ってない……」

 あれは、八つ当たり。不条理だと思う者に対して不条理に当たっただけの言葉。悲劇のヒロインが紡ぐ美しい音色では断じてなかった。でも、そんな声に駆け付けたリック先生はナンダを一蹴し、そして美音が暴れている場面に戻ってきた。

『駄目、注射が打てない……お願い美音、ちょっとだけでいいからじっとして!』
『俺が動きを止める。止めたら慌てず確実に注射を打て』
『え、センセ――』

 じゅう、と、肉の焼ける音がした。力ずくで押さえるのではなく怪我をさせないようにした押さえ方だったが、その分だけ美音の鉄脈術の熱を浴びやすい。シャツと手袋で見えなかったが、微かに視界に映った手袋とシャツの継ぎ目は、皮膚の爛れが目に見えた。

 信用していないと叫んだ大人に、そこまでのことをさせてしまった。
 あれならば先生の言う通り昼寝でもしていた方がまだマシだった。
 それが美音にはどうしようもなく自分を惨めな存在に思わせた。

「呆れさせたかな。面倒な子って思われたかも。もう近づきたくないって、きっと、これまでみたいに……」
「美音」

 また自己嫌悪の渦に沈みそうになる思考を、美杏が遮る。

「先生、美音をここまで運んだのよ。お人形さんより優しく抱いて……起きたら無理しなくていいから休ませろって。自分も火傷してるくせに、変だよね」
「……うん」
「先生、これまで美杏たちの見てきた先生とも大人とも、違うんじゃないかなって……最近、ちょっとだけ思うの」
「………」

 美杏の言葉だからか、それともまだ抑制剤が効いているのか。或いは、自分もそれを心のどこかで認めているのか――分からないが、感情は高鳴りつつも暴走はしなかった。

「最後に、ね。最後に一回だけ……先生を信じてみて、いいかな」
「きっとまた裏切られるよ。いつかまた裏切るよ」
「裏切られたらお生憎。人生いっつもそうだったでしょ?今更スコアの一つくらい、気にする古芥子姉妹じゃないわ」
「………一回だけ、だよ?」

 ああ、まただ。本当は自分が言いたかったことを、美杏が察してこう言ってくれるのだ。素直に割り切ることの出来ないひねくれた妹の為に。でも、そう思うくらいに、リック先生という大人の大きな背中を何度も思い出してしまう。

 明日、本当の事を言って謝ろう。それで先生が許してくれるのなら――もう一度だけ、信じさせてください。



 = =



「お嬢はどうだ、ナンダ?」
「疲れて眠っちまったよ。元々来る予定がないのに無理言って着いてきたからな。疲れたのさ」

 聖観学園から脱出し、警察や軍の追跡を振り切って日本の排他的経済水域の外まで逃げた3人のテロリストは、そこに潜伏させてあった潜水艦の中で体を休めていた。魔鉄光学迷彩を脱いだ男はくたくたのまま部屋の隅に座り込み、ナンダは帰還後すぐに治療を受けたので体が包帯やガーゼだらけになっていた。

「大丈夫なのかよ、それ?」
「お嬢はミイラ女だって泣くかもな。ま、後遺症が残るようなもんじゃねえさ。じっとしてりゃ1週間ありゃ元通りだ」

 魔鉄医療で骨を繋ぎ留め、皮膚を覆い、ひとまず問題ない段階まで戻ったナンダは既にホットドッグを齧ってコーヒーまで飲んでいる。ただし潜水艦内にあった冷凍ドッグとインスタントコーヒーなのでさほど美味しくはなさそうだ。
 魔鉄で直接細胞を補う研究もされているが、そちらの研究はどうも課題が多くてあまり進んでいない。結局のところ、医療知識を持った魔鉄加工技師という高水準の人間にしかできないところがネックになっているようだ。
 
「で、お前は随分追い回されたみてぇだけどなんかあったか?」
「ターゲットの一人に不意を突かれて警備会社に追い回された。厄日だぜ……まぁ、おかげでターゲット一人から頂いたけどよ」

 そう言いながら、男は通信機より大切に抱えていたナイフを取り出し、部屋にあった試薬に先端を漬けて柄のボタンを押し込む。ナイフの先端から一滴にも満たない赤い液体が染み出し、試薬が銀色に染まった。
 スポイトナイフ。特殊な魔鉄素材で出来ており、僅かな毛細血管であっても斬ればその瞬間に血を吸収する事が出来るナイフだ。普通のナイフとしても使えるが、主な用途は液体サンプルの採集である。

「浜丘永海の血液サンプル。なかなかヤンチャなお嬢ちゃんだったが、やっと検査完了だ。あの子はターゲットじゃない。ただの発育がいい魔女だ。パートナーがどうかは分からんがな……そっちは?」
「悪いが収穫はナシだ。一発も掠らず凌がれた。あのセンセが来なきゃサンプルが取れたんだけどなぁ……」
「すまん。事前データじゃ長居悟の鉄脈術は受信は出来ても送信は出来ないものと思ってたんだが、違ったかもしれん。にしてもリック、リックねぇ……」

 男は難しい顔で考え事をしたが、やがて首を横に振った。

(まさかな。鉄脈術も魔鉄器もパートナーも名前も違う。あの忌まわしい夏以来何年も会ってないし、他人の空似か……)

 何にしても、これでタダでさえ難易度の高かった調査任務が余計に困難を極めそうであることが判明した。本音を言うと降りたい任務だが、今回は組織の最終目的とかなり近しい事由が関係している。ジャミング系の鉄脈術など持ってしまうから任務に駆り出されるのに、世の中儘ならないものだ。

「俺たちの戦いは、あの特組の中に混ざってる『醜いあひるの子』が見つかるまで続くわけだ。はぁ……予言を疑う気はないが、本当に本当なのかねぇ?」
「本当なんだろうよ。現にそうなってるし」
「イヤだなぁ。もし見つかったら殺すんだろ?お嬢、分かってて着いてきてんのかなぁ」
「――分かってますとも」

 扉がゆっくりと開き、別室で寝ていた筈のルーデリアが眠気眼(ねむけまなこ)を擦りながら部屋に入る。すこし足取りは落ち着いていないが、その声ははっきりとしていた。

「見つかれば殺します。殺さなければなりません。だからこそ、私がその事実から目を背けて奥に引っ込んでいる訳にはいかないの。いずれは命令を下し、責任を背負う側になるのだから」

 迷いのない言葉。だからこそ男は心配になる。今の組織のトップに、彼女のような高潔な責任感を覚えないのだ。そこも含めて彼女が背負おうとしているのであれば、それは途方もない重責だ。彼女が組織を変える者になるか、それとも組織に潰され憑りつかれるか……ここで論じても答えなど出ない。所詮男はその程度しか出来ない。
 しかし、殺すのか、と自問する。
 大人の殺しには山ほど関わったことのある男だが、子供に銃とナイフを突きつけるのは想像以上の抵抗感だった。プロとしてベストは尽くしたつもりだが、もしかすれば浜丘永海を襲った際にベストを尽くせていなかったのではないかとも思う。

 こと、ナンダは殺しを好まない。星は巡り合うものという美学を持つ彼女は、殺さずに済むなら殺さない選択をする女だ。故に組織では実力があるのにどこか軽んじられている。そのナンダが、気の重そうな顔で呟く。

「あの少年少女たちの青春の輝きは、人間だと信じたいな……」

 互いに助け合い、互いに励まし合い、そして決して逃げなかった魔女と、その魔女を絶対に守ろうとした少年。ルーデリアも思う所があったのか、悲しそうに目を逸らす。

 彼女は今回の任務で、結局それをはっきりさせられなかった。
 次に誰かが何らかの方法で、確認しなければならない。
  
 

 
後書き
醜いあひるの子はだあれ
醜いあひるの子はだあれ

あひるのふりしてあひるに混ざり
あひるじゃないのにあひると信じる

いつか自分があひるじゃないと
見つける誰かを知らずに待っている

あなたはあひると歩めない
かえるべき場所にいずれはかえる

醜いあひるの子はだあれ
醜いあひるの子はだあれ 
ページ上へ戻る
ツイートする
 

感想を書く

この話の感想を書きましょう!




 
 
全て感想を見る:感想一覧