東京レイヴンズ 異符録 俺の京子がメインヒロイン!
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邪願 1
夜風になびく薄の穂が、月の光を浴びて光り輝いている。涼しく澄んだ秋の夜風に吹かれ、薄の穂がこすれ合う音がさらさらと響きわたり、なんともいえない趣を出していた。
秋の薄野腹はあたかも銀色のさざ波を浮かべた大海原のようだ。
銀薄の海を一艘の舟がたゆたう。
水の上に浮かんでいるのではない、呪力によって浮遊しているのだ。
乗っているのは僧侶のように頭髪を剃った短身痩躯の青年と、金に近い亜麻色の髪をハーフアップにした少女。秋芳と京子だ。
ふたりはしばらくのあいだ無言で景色を堪能した。秋の美を凝縮したかのような絶景に声も出なかったのだ。
「音がきれい……」
ややあって京子が口を開く。
「お月様に照らされて銀色に輝く薄もきれいだけど、風の音がとっても心地良いわ」
ここは元・闇寺、聖蓮寺。
宿坊に宿泊して写経や座禅、水垢離などの修行体験をして心身を清め、茶の湯や精進料理を提供するほか、敷地内で呪術をもちいたアクティビティもおこなっている。この浮遊舟もそのひとつで、少しでも呪術に対するアレルギーを緩和しようと、陰陽庁のお墨付きでこのような呪具の貸し出しもしている。
けっこうなことだ、と秋芳は思う。
国を治めるために必要なのは武力や金だけでなく、文化という見えざる力も大いにある。娯楽とは、すなわち文化だ。呪術を使ったレクリエーションが一般に浸透し、理解してもらえれば、おそろしいもの、こわいものといった印象が払拭されることだろう。
そして実用性のみならず、おもしろいもの、楽しいもの、遊び、娯楽として受け入れてもらえるのが理想だ。
秋芳は先日刀会の打ち上げでこの聖蓮寺を使ったのだが、折り悪く京子は来ることができなかった。そこで今日はふたりだけで楽しみに来たのだ。
「薄の海や月の光のうつろえば波の花にも秋は見えけり」
「名に高き二夜のほかも秋はただいつも磨ける月の色かな」
詩心を刺激され、ついついそのような言葉が口から漏れる。
「これで紅葉もあればさらに良いんだがな、あいにくとカエデもイチョウもこのあたりにはほとんど生えてないそうだ。……林間に酒を煖めて紅葉を焼く、石上に詩を題して緑苔を掃う」
林でかき集めた紅葉を焚いて燗をつけ、緑の苔をはらって石の上に詩を書きつける――漢詩に詠われる風雅な光景が心に浮かぶ。薄のむこうに燃えるような紅葉の幻を見た。
じゅうぶんに景観を堪能したのち、どちらかもともなく持参した重箱を取り出す。
「おう、これはみごとな蒔絵箱じゃないか」
「でしょう、秋芳君の好きそうなのを選んだのよ」
「かすかに螺鈿も入れているな。うん、たしかに俺好みだ。俺はこういう小さくてキラキラしてるやつが好きだ」
手に取ってしげしげと鑑賞する。
うつろう四季や風景、動植物などの自然を題材にしていて、木の枝や花びら。細部まで緻密にほどこされた細工が作り手の高い技量をうかがわせた。
「俺のはただの黒漆塗りで、いささか芸がないな」
「うちにいっぱいあるから、倉橋家に婿入りすれば全部秋芳君のものよ」
「なかなか魅力的な提案だが、倉橋の家に入るとなると相応の勤めにつかなきゃならんだろう、それがめんどくさいなぁ」
「楽な役目をまわすよう、お父様にお願いしてみるわ」
「そのときはぜひそうしてくれ。楽な閑職に就いて日がな一日読書や茶の湯に興じるのが俺の夢のひとつだからな」
「陰陽Ⅰ種を取って一二神将になるつもりは……ないのよね」
「とうぜん。あんなのになってみろ、休むいとまもなくなるわ。人は生きるために仕事をするのであって、仕事をするために生きているのではない。どんなに収入があっても、自分の時間がないんじゃ生きている意味がない」
この世は楽で満ちている。
美味い酒や料理、美しい絵画や彫刻、面白い映画や小説、玲瓏たる音楽や演劇、友や恋人との語らい――。
自分は生きるのが楽しいのだろうと、秋芳は思う。
「しかし実務以外にもお勤めはあるしなぁ、儀式とか式典とか。ああいうのはかったるくてきらいだわ」
「そういう『式』を司ることこそ、陰陽師の本来の仕事でしょ」
「いや、俺は呪禁師だし」
「じゃあお医者さんにならないと」
「陰陽医は資格を取るのがおっくうだ、それに俺は人の命をあつかうような責任ある仕事はむいていない」
呪禁師。禁じられた呪いの術。などという不気味な字面をしているが、実際は医術であり、律令制時代に典薬寮という薬をつかさどる部署に属して薬草を栽培したり呪文を唱えて体に障りをもたらす悪しき気を祓う任を負っていた。
道術には禁呪法という呪符をもちいるまじないがあり、これが元になっているとされる。奈良・平安時代のものと見られる木簡に書かれた呪符が日本全国で発掘されており、これを書いたのが呪禁師だ。
疫鬼退散、病気快癒を祈祷するものだが、たんなる迷信と簡単に切り捨てるものでもない。プラシーボ効果的な意味があった。抗生物質もないような医療の未発達な時代、薬の効果もたかが知れている。ならば呪符のほうが効き目がある。そう信じることで実際に症状が改善することもある。
これも一種の乙種呪術であろう。
ちなみにこの呪禁。日本に根づくことはなかった。
陰陽道の安倍晴明や真言密教の空海のようなカリスマ、スターが現れなかったこと。また典薬寮に呪禁師を置いたのは唐の制度を模倣しただけで、当時の貴族たちが凶事に遭ったさい頼りにしていたのは僧による祈祷や神社への供物奉納であった。
飛鳥、奈良、平安――。
時代が経つにつれ呪禁師の零落はいよいよ顕著になり、平安時代に陰陽師や密教が台頭することで呪禁師は完全に存在感を失ってしまう。貴族たちは密教の加持祈祷を薬以上に効果があるものと信じていたのだ。
陰陽道と呪禁道はともに中国古来の民間信仰から生まれた呪術で親和性が高く、呪禁道は陰陽道に吸収され、呪禁師という役職は陰陽寮に職を奪われ典薬寮から消えることになった。
陰陽道のように技術や知識の体系化が成される前に消滅し〝道〟にまで昇華することができなかったのだ。
閑話休題。
「あら、これってお豆腐?」
「ああ、豆腐をごま油でさっと炒り、たまり醤油で煮込んでミョウガを散らしてみた。――この利休焼き、よくできているな。魚の身にゴマがよくからんでいるし、皮もよく焼けていて、なおかつやわらかい」
「自信作よ」
秋芳と京子はいまだに『仲の良いクラスメイトと弁当の中身で料理勝負』をしている。今夜もおたがいに手料理を振る舞い、味を楽しんだ。
「この裏巻き寿司はアボガトと鮭の皮ね」
「そうだ。カリカリに焼いた鮭の皮とアボガドを芯にしている」
「アボガドがマグロの感触に似ていて、鮭の皮も香ばしくてご飯に交ざったゴマの風味ともマッチしていて美味しいわ」
「んん、この卵はなんだ?」
「それはお祖母様に教えてもらったの。卵の上に穴をあけて中の白身と黄身を先に吸って、その中に研いだお米と水、お醤油を少し入れて炭火で炊いたやつ」
「この醤油ご飯の味、なんとも淡旨……!」
重箱の中身をたいらげ、食後のお茶を喫む。
杯に茶をそそぎ、そこにグミの実をひとつつまんで落とし、茶とともに噛むと茶の苦さと果実の酸味が口中に広がり、なんともいえない味わいがする。
「甘露、甘露。ああ、神仙にでもなった気分だ」
ふたりはやがてどちらともなく肌を寄せあった。秋の夜風でかすかに冷えた体が、おたがいのぬくもりであたたまり、なんともいえない心地好さに浸る。
秋芳の手が京子の髪をなでると甘い香りが鼻孔をくすぐり、思わず鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。
「んもー、犬じゃないんだからクンカクンカしないの」
「金に近い亜麻色の髪は月明かりに照らされて輝いて見える。その髪から漂う芳しい香りが、秋芳には麻薬のように感じられた」
「変な実況もしない」
「雄の本能を刺激する蠱惑的な甘い匂いに誘われて秋芳の男根がむくむくと起き上がり鎌首をもたげる」
「あーもう、セクハラ!」
「種づけ欲求に支配された秋芳の手が京子の柔肌を蹂躙する。首筋や太もも、胸や尻をなで回し、愛されマシュマロボディを堪能する……」
その言葉のとおりに秋芳の手が京子の全身をくまなく愛撫していくと、京子の口から湿り気をおびた甘い吐息が漏れはじめる。
「あン……、もうっ、ダメ。ダメよバカぁ……」
スカートの中に手を入れ、下着をずり下ろそうとするふしだらな手のひらをなんどもはたくが執拗に侵入を繰り返す。下に気を取られているうちに上着のボタンがはずされていく。
「ちょっ、あ、もうっ。ダメって言ってるでしょ、バカぁ……」
「は~い、汽車がとーりまーす。山越え谷越えシュポポポポ★」
「ひゃんっ」
「おっと、山の上に美味しそうなサクランボを発見。このサクランボはだれのものだい? 京子のもの? それとも俺のもの?」
「こ、このサクランボはあたしのものよっ、で、でも秋芳君がどうしてもって言うなら食べさせてあげる。――アッ、あ、ああっん……あ、ちょ、ちょっとまって秋芳君。そ、そこはダメっ」
「谷底に綺麗な泉を見つけたぞ。喉を潤わさせてくれ、水を汲むよ……」
「ああッ!? そ、そこはダメ! だめだめダメダメ! だめったら、もうっ。ちょっとストップ! まってちょうだい、お願い、やめて。ねぇ、まって。まってったらっ、まって……まちなさい!」
「ぬおっ」
「瘴気を感じるわ、それもそんなに遠くないところから」
「なぬ~!?」
蜜のように甘美なひと時に水をさされ、渋面を浮かべて見鬼を凝らす秋芳。なるほど、たしかに少し離れた場所からただならぬ気配を感じる。
「聖蓮寺の敷地外か……」
「この瘴気の強さ、動的霊災かも。隠形行ってみる?」
「住職に連絡して祓魔局にでもまわせばいいだろう、俺たちが出張る必要なんてないし、こちらに向かってきてもやり過ごせばいい」
キャーッ!
瘴気の方向から若い女性のものらしき悲鳴が聞こえた。
どうやら人がいるらしい、さすがに放置するのははばかられる。
「早く行かないと!」
「まったく、人の逢瀬を邪魔しやがって……」
衣類の乱れを正したふたりは悲鳴のもとへと駆けた。
少しさかのぼって、悲鳴を上げた人物の話になる。
その日、一八歳の誕生日をむかえようとしていた花園彩菜ははずむような足取りで帰路についていた。
誕生日が嬉しいのではない、ボイスレッスンのあと事務所のマネージャーである松岡からオーディションの話があったのだ。合格すれば来期アニメのヒロイン役を得がもらえ、さらにエンディングソングまで歌わせてもらえる。人気アニメの続編でかなりのヒットが期待されていた。
本格デビューのチャンスなのだ。
ずっと児童劇団にいて、高校に入学すると地下アイドルとしてライブ活動もしはじめた。そのさいに松岡に声をかけられて今の声優事務所に所属するようになった。アフレコ現場になんども立ってガヤや生徒Aなどの声をあてたことはあるが、きちんとした名前のあるキャラははじめてだ。
もっと大きな仕事をしてみたい。具体的にファンの数や売り上げといった数字で評価してもらえる仕事を――。
つねづねそう思っていた彩菜に千載一遇の好機がおとずれたのだ。
アイドルになってちやほやされたいわけではない。自分が人に評価される、認められる姿を見て欲しい人がいるのだ。多くの人に認められれば、その人だって認めてくれる。それが彩菜の望みだ。
彩菜の家は都心から私鉄で三〇分。駅からさらに自転車で一〇分ほど。途中には街灯も少なく、週に三回のレッスンを終えて帰る頃にはあたりは真っ暗だった。
はっきり言って、こわい。
いつもなら録音したラジオ番組や音楽を聴いて恐怖をまぎらわせるところだが、あいにくと電池切れだ。なので自分で歌う。もしかしたらエンディングを歌うかもしれないアニメの前シリーズで使われたキャラクターソングで、歌っているのは彩菜とおなじ事務所の先輩だ。その女性はいまの彩菜には雲の上の人のように思える。
『でも、いつかは、あたしも――』
ふと見上げれば夜空に星。
自分もあのような高みへと昇れる。あんなふうに輝ける。
人けのない暗闇の道も今夜は星明りだけでじゅうぶんに思える。出るという噂の痴漢もいつ起こるかわからない霊災も、簡単に撃退できそうだった。先日ガヤで参加した陰陽師ものアニメでヒロインが霊災を修祓した場面を、彩菜は思い出した。
暗い道を抜け、明るい通りに出るところで歌が終わりかけた。サビのフレーズを口ずさむと体がふわりと浮き上がるような高揚感につつまれる。そのとき――。
ひっひっひ……。
笑い声が、はっきりと耳にとどいた。
「え? なに? ええ? えっ?」
あわてて自転車を止めた。ブレーキの音がなに者かの笑い声をかき消す。
厭な笑い声だった。
嗤い。嘲笑。嘲りの感情がこめられた、自分に対する明白な悪意を感じたのだ。おまえになんか、できやしない。そんなふうに言われた気がした。
「……」
あたりを見回してもなにもいない。どこにも動く影などない。
(空耳、きっとそうよ)
さっきまでの幸せな気分は氷解していた。早くこの場から離れたい。自転車に乗って数十秒もペダルをこげば、通いなれたコンビニが煌々と光を放っていることだろう。
自転車を動かそうとした、そのとき、視野の片隅でなにかが動き、かさこそという虫のうごめくような音が聞こえた。
猫だろうか、犬だろうか、ちょうどそのくらいの大きさに思えた。
だがそうだったならばかさこそという音を立てるだろうか。
たしかに聞こえた。先ほどの厭な笑い声よりもはっきりと。
(まるで大きなゴキブリみたい)
思わずそんな連想をしてしまったとたん、ぞくりと全身が粟立った。
自転車に乗り直して全力でペダルをこぐ彩菜の耳の奥で、なんどもなんども厭な嗤いが木霊していた。
その日はそれ以上おかしなこともなく、翌日になって登校する頃には厭な笑いのことなどすっかり忘れていた。
学校の帰りに事務所によって歌のテープと楽譜、歌詞を受け取った。近日中にデモテープを録るから練習しておけと言われたが、その日はレッスンはなかった。
家で大きな声は出せないので家路につく前、カラオケ店でしっかりと歌の練習をした。
さらに翌日。いつもの基本手なボイスレッスンのあと、前日にもらった曲を試しに歌ってみた。講師は厳しい表情でなにも言わなかった。
マネージャーの松岡も顔を出していて、彼のほうは褒めてくれた。彩菜の声をいつも評価する彼だが、歌に気持ちがこもっているとか、今日は特に褒めてくれた。
なので叱られなかったのは上手く歌えたからだと良いほうに解釈して帰路についたのだが、またあの暗闇にさしかかったとたん、不安がかま首をもたげてきた。
(なにも言ってもらえないのは見捨てられたからかも……。言うだけの価値なんかないって思われたのかも)
松岡の上機嫌な顔を思い出す。あれも、あの高評価も嘘なのかもしれない。営業もこなす松岡は機嫌が良くても悪くてもいつも笑っているではないか。
ペダルをこぐ力が失せて、彩菜は暗闇の中で止まってしまった。
そのとき。
ひっひっひ……。
あの笑いが聞こえた。
それだけではない。
「~~~~」
かすかに声も聞こえた。日本語とは思えない、なにか、不思議な音の羅列のような言語。
彩菜の聞いたことのない言葉だ。だがなぜか理解することができた。
「あたしがだれかのものって、どういうこと? 一八歳になったらだれの花嫁になるっていうの?」
なにを口にしているのか、つぶやきが漏れてから彩菜は自分の言葉になんの根拠もないことに思い当たった。そもそもさっき聞こえた意味不明な音がどうして言葉だと思えたのか、しかも意味まで。
「~~~~」
また奇妙な音が、それも彩菜のすぐ耳元でささやかれたような気がした。ぞわり、と全身がふるえ、あわててペダルを踏みこんだとたん、なにかが自転車の前に投げ込まれた。いや、あるいは飛び込んできたのか。止まるには遅すぎたし避けられるほど彩菜の運動神経は優れていなかった。
「ミギャーッ!」
骨の折れるいやな音とともに耳をつんざく叫び。
「いやぁぁぁっ、嘘でしょう!?」
猫を、轢いてしまった。
無害な生き物を傷つけたことへの生理的な嫌悪感と罪悪感に駆られ、なかばパニックにおちいって明るい道へ突き進む。車道に飛び出しそうになるのをなんとか曲がり、自転車を地面にたおすように置いて、そのかたわらに座り込む。
「~~~~」
その奇妙な音は彩菜の耳にはこう聞こえた、『おまえはわしらのものだ』『花嫁になる約束を破ったらこうなるぞ』と。
「なんなのっ!? あたしはだれのものでもないっ、花嫁になんかならないっ、あっちにいって!」
がさがさがさがさ……。
暗がりのむこうになにかがいる、なにかが蠢いている。
人の頭をした巨大なゴキブリが迫ってくる――。
そんな連想をしてしまい、ひときわ大きく身震いして逃げようとするが、足に力が入らず転倒しそうになる。
「変質者にでも出くわしたのかい、マドモアゼル」
ベストにネクタイという、いかにもバーテンダーという恰好をした瀟洒な中年男性が声をかけてきた。
「あ、あの、えっと猫が、猫を……。あとなんか変なのが変な声で……」
「急に猫が? 轢いてしまったのかい?」
その男性は周章狼狽する彩菜を落ち着かせ、前後する説明を理解してくれた。
(あのアイパッチと義手? なにかのコスプレ? それにしても渋くて良い声……。衝撃波で空を飛んだりテレパシーで娘とつながっている貴族の末裔のおじさまみたいな声をしてる)
このバーテンダー。なにかの仮装なのか、右目に海賊のようなアイパッチ。左腕には鋏のような義手を装着しているのだが、妙に様になっていた。
「――それと妙な声が聞こえると、ふむ……」
「ほ、ほんとうなんです」
いきなりこんなことを言って、頭のおかしな子だとおもわれたかも。落ち着きを取り戻した彩菜はそんな危惧を抱いたが、バーテンダーは真剣な表情で彩菜が駆け込んできた暗がりを見つめていた。
視線の先の闇の中で、いまだに得体の知れない奇妙な存在がうごめいているような気がする。
バーテンダーが地面にころがる石ころを鋏でつまむと片方の手で印を切り、暗がりにむかって投げつけた。
すると不思議なことに闇の中にただよっていたあやしい気配は潮が引いたようにかき消えていった。
「え? いま、なにを……」
「なぁに、ちょっとしたおまじないさ。悪い虫が退散するようにってね」
「ひょっとして、おじ……お兄さんは陰陽師ですか」
のどまで出かかった「おじさん」という単語を飲み込んで彩菜がたずねる。
「陰陽師! Brilliant!」
「ぶり……」
「そう思ってくれたら光栄だが、あいにくと陰陽師ではない。だが呪術を愛する気持ちは彼ら以上だと自負しているよ。ほら、あそこ」
呪術BAR『メイガス・レスト』指さした先にある看板にはそう書かれていた。
「じゅ、呪術BAR!?」
「Oui 中で少し休んでいくといい。私はちょっと様子を見てくる。猫の死体をそのままにしておけないからね」
彩菜を席に座らせたバーテンダーは妖しい気配の去った暗い路地に消えていった。彩菜はだれもいない店のなか、どうしていいのかわからずかたまったまま、店主が返ってくるのを待った。
(うわぁ……、なにこれ。あやしさ大爆発)
血で書かれたかのように真っ赤な字の経文や、やたらと顔と腕の多い仏像。錫杖や独鈷杵、魚板といった法具。見慣れない漢字や梵字で書かれたお札。勾玉、ヒランヤ、ナザール・ボンジュウ――。
店内を埋め尽くすあやしい品の数々。本棚には月刊陰陽師が創刊号から最新号までそろっている。たしかに呪術好き御用達の店であることはまちがいないらしい。
五分ほど過ぎただろうか、ほかの客が来たらどうしようかと心配していたが、幸いなことにだれも来なかった。彩菜が落ち着きを取り戻したころにバーテンダーがもどってきた。
「かわいそうに、たしかに死んでいたよ。清掃局には私から連絡したからすぐに片づけてくれる」
そう告げた言葉の内に、かすかな憂いと怒気が込められているのを彩菜は感じた。
「あ、あたし、その……そんなつもりじゃ、なかったんです。急に目の前に……。ほうっておくつもりもなくて、ただ変な声とか、とびかくびっくりしちゃって……」
「わかっているさ、マドモアゼル。きみのせいなんかじゃない。あれは自転車で轢かれたような傷じゃあなかった」
「え?」
「全身に細かい傷がたくさんあった。それも刃物ではなく動物の牙や爪でつけられたような。猫同士のケンカとは思えないがね」
まだぬくもりの残る死骸からは一滴の血も流れていなかった。まるで全身の血を吸い取られたかのように
「なに者かがあの猫をいたぶり殺し、きみの自転車の前に放り投げたんだろう」
「そんな、ひどい……」
轢いた瞬間、猫は悲痛な叫びをあげた。あの時点では生きていたのだが、あまりのことにそのことはすっかり失念していたしバーテンダーも血の件もふくめ、あえて触れなかった。
「あたし、わからないです。あたしにそんなことするのがいるなんて」
そんなことをする人。とは言わなかった。
悪質なストーカーかなにかの仕業かと思いたかったが、彩菜は無意識のうちに猫ではなく自分が人ではない存在に狙われていると感じていた。
「しばらくのあいだあの道は避けたほうがいい。それとよくないものに狙われているのなら陰陽師に相談してはどうかね」
「はい。でも呪捜部とかは、ちょっと……」
彩菜くらい若い世代は陰陽師に対して偏見も忌避感も持っていない。
凶悪な霊災を修祓する祓魔官の勇姿など、純粋にかっこいいと思う。だが呪捜官となると話は別だ。厭魅や蠱毒といったおどろおどろしい呪詛。人の暗い情念をあつかう呪捜部はどうしても好きになれなかったし、なにより自分がだれかに呪われているなどと、認めたくはなかった。
「それに、祟られたり呪われたりする心当たりなんてないです」
「きみのような活動をしているのなら身におぼえがなくてもつけ狙われることはありえるだろう」
「え? なんのことですか?」
「おもに声の仕事をしている役者さんだろ。いや、正確にはその卵といったところかな」
「な、なんでわかったんですか? まさか、預言とか読心術とか呪術ですか!? 星読みとか」
「……普段は眼帯で隠してあるこの目。実は青紫水晶を磨いてできた翠竜晶を埋め込んで生来の目の代用としている。この呪王霊眼(オーディン・アイ)は優れものでな、浄眼とも呼ばれて、あらゆる穏形を見破ることができ、霊的存在の姿をも見ることが可能で、さらに一種の暗示をかけることもできる。そしてこの義手には気硬銃という霊気の弾丸を発射する銃が仕込まれている」
「やっぱり呪術師だったんですね! あ、でも陰陽師じゃないってことは、もぐりの人ですか?」
強力な動的霊災との激しい戦闘で霊障を負い、一線を退いた祓魔官。今は呪具の売買をしている特殊なBARのマスターで、店にあつまる情報や呪具を目あてに多くの陰陽師がよく訪れてくる――。
彩菜の脳裏にそんな筋書きが浮かんだ。
「……という設定だったらいいなぁと思っている」
「へ?」
「表向きはBARのマスター。だがその正体は凄腕陰陽師。そんなキャラになりたいなぁ、と」
「呪術者じゃ、ないんですか?」
「Oui」
「普通の人なんですか?」
「そう」
「ええと、元祓魔官かなんかで、実は裏で呪具の売買をしている特殊なBARだったりは……それにさっきの石を投げたのって、なにかの呪術なんじゃ……」
「言ったろう、あれはただのおまじない。乙種乙種。でも半分正解。この店ではきちんと許可を得て陰陽庁謹製の護符などをあつかっている。たとえばこんな」
彩菜は梵字がびっしりと書かれた一枚の札を手渡された。
尊勝仏頂陀羅尼。
平安時代に藤原常行という貴族が神泉苑のあたりで百鬼夜行に遭遇したさい、この陀羅尼の書かれた護符を身につけていたため難を逃れたという逸話が『今昔物語』に記されている。また『大鏡』では藤原師輔がこの陀羅尼を唱えることで同様に百鬼夜行をやりすごしたという話がある。
妖怪変化のたぐいに効果抜群のお守りなのだ。
「お近づきのしるしにどうぞ」
「え、でもこれ、高価なものじゃないんですか? あたしそんなにお金ありません」
「お代は出世払いでいいさ。きみがお酒の飲める年齢になって、女優として活躍するようになったらこの店を贔屓してくれ」
「女優だなんてそんな……。あ、そういえばさっきなんであたしが声優の卵だってわかったんですか?」
「なぁに純粋な推理だよワトソンくん。まずきみの動作。ほんの少しだが大げさな、芝居がかった感じがする。それに声。発声練習を受けたことのある滑舌の良さと力強さがある。それと荷物。べつに盗み見るつもりはなかったが、派手に自転車を乗りつけただろう。かごに入れたカバンの中身が飛び出していたが、そこにアニメの台本があった。たまさか私の知っている作品だったのでわかったが、あれはもう何年も前に終わった作品だ。リアルタイムで放送はしていない。つまり養成所なんかで練習用に使われる台本だろう。ちがうかね?」
「いえ、合ってます。あたし、声優の専門学校に通って勉強してる声優の卵です。アテレコや発声練習のほかにも、歌のレッスンも……。あの、ええと、あたし花園彩菜っていいます。マスターもひょっとして歌やお芝居の経験があるんじゃないですか? すごい渋くて良い声してますよ。素手でモビルスーツを壊したり布でビームを弾いたりできそうな声です!」
「ハハハ、そう言ってもらえると光栄だよ、マドモアゼル。そういうきみこそ、すべての人間を愛する妖刀を身に宿した巨乳の眼鏡っ娘みたいな魅力的な声をしているよ」
「あはは! なんですかそれ」
気づかい、慰めてくれる人の存在がありがたかった。
尊勝陀羅尼の札よりも、人のぬくもりに救われた彩菜は安堵の表情を浮かべて店を後にし、無事に家に帰ることができた。
「…………」
彩菜が店を出るとあとに残されたマスターは片目のアイパッチを軽くたくし上げると、そこには磨かれた翡翠のように緑色に輝く瞳があった。
「ふむ……、強力な陰陽師の助けを得る、か……。どうやら私が動く必要はなさそうだ」
霊眼が彩菜の行く末を視たが、大事には至らない。
そう確信したマスターは義手の鋏を振るい、器用に丸氷を作りはじめた。
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