東京レイヴンズ 異符録 俺の京子がメインヒロイン!
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邯鄲之夢 5
物資は陸路だけではなく海路も使ってモンゴル軍の陣営に送られてくる。
戦地より遠く離れた泉州の地から木材や食糧を満載した船団はしかし、目的地である崖山にたどり着くことができなかった。
泉州。中国大陸の東南海岸に位置し、この時代は国際貿易として栄えていた。日本や東南アジア諸国をはじめ、インド、ペルシア、アラブなどの商船があつまり、何十万人もの外国人が居住し、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教、ヒンズー教などの寺院が建ちならんでいる。
『アラビアン・ナイト』の名でも知られる『千夜一夜物語』の中で語られる多くの物語の中のひとつ『アラジンと魔法のランプ』の冒頭、アラジンが母親とともに住んでいた街はこの泉州ではないかという説がある。なにせアラブ系の住人だけでも何万人もいたのだからその説もうなづける。
アラビアン・ナイト――千夜一夜物語――。
妃の浮気を知ったことで女性不信におちいった王は不貞の妃を処刑し、毎晩清らかな乙女を寝所に呼んでは翌朝に首を刎ねるという常軌を逸した行為をくりかえすことになる。
大臣がこまり果てていると、彼の娘である美しくて賢いシェヘラザード姫がその役目を買って出る。 シェヘラザードは夜な夜なおもしろいお話を語り、王を魅力的な物語の虜にしてしまおうと考えたのだ。
聡明なシェヘラザードの唇から紡がれる数多の物語世界に引き込まれていく王。だが朝になればシェヘラザードは口を閉ざしてしまう。続きを知りたい王は彼女を殺せず、生かしておかずにはいられなくなる。
そのようなやりとりが千と一夜にわたってくりかえされる。それゆえ千夜一夜物語――。
最終的には改心した王が蛮行をあらため、シェヘラザードも死なずにすむという結末なのだが、これは原典には書かれていない、後世につけたされたものだ。
『千夜一夜物語』には、はっきりとした底本というものが存在しないという。千一夜という言葉は大江戸八百八や八百万の神々と同様、単純にその数を指すのではなく、数えきれないほどたくさんあることや、終わりのないことを意味している説がある。
最初から結末が存在しない、終わりのない物語。無限の可能性を感じさせる、なんとも魅惑的な設定だ。
閑話休題。
「出航した船がことごとく戻ってくるとはなにごとだ。しかも中には積み荷をなくしたものまであるというではないか!?」
宋朝を見限り、モンゴル帝国に協力して身の保身に走った泉州の政商、蒲寿庚は地団太を踏み、紫檀の机に拳を叩きつけた。一〇〇年間に三センチしか成長しない紫檀はその美しさや珍しさから金と同じように高額で取り引きされていた。この蒲寿庚という人物の財力のほどが知れる。
このままでは保護を求めていた宋の皇族を殺害してまでして手に入れた信頼をうしないかねない。
「乗船していた者が言うには、崖山の近くまで来るとどこからともなく美しい歌声が聞こえてきて、それに聞き惚れているうちに気づけば帰路についているとか……」
そばにひかえていた側近のひとりがそう答える。
「歌で人を惑わすとは、まるではるか西国に伝わる羅蕾萊の塞壬ではないか……」
蒲寿庚という漢名を名乗ってはいるが、彼はアラブ系の色目人であり、遠くヨーロッパの伝説にも通じていた。
「そうだ、歌が耳に入らぬように綿でも詰めて栓をしてしまえ」
「はい、すでにこころみました。そうすると十隻中に一、二隻は妖しき歌の影響を受けずに進めるのですが、そのような船はやがて大量の鳥や虫に襲われ、船員はついばまれるわ刺されるわ、積み荷のうち食糧はむさぼり喰われるわでさんざんな目に遭うそうです」
「ふ~ん、それは嘯だね」
「むむ、なにやつ!」
いつのまにか執務室の中に見知らぬ青年の姿があった。褐色の肌に漆黒の髪。上等な絹の服を着て、ルビーやサファイヤ、エメラルド、ダイヤモンドといった貴石をあしらった金銀の装飾品を身につけた、インドの藩王もかくやという豪勢な身なりである。
容姿もまた彫が深く端麗なのだが、少々鼻のサイズが大きいのが玉に瑕だった。
「嘯、あるいは長嘯。歌声や旋律、楽曲に呪力を込めた呪歌ともいえる呪術でね。鬼神や風雨や鳥獣を召喚して意のままにあやつるほかにも人の精神に働きかける効果のある呪さ」
妙に甘ったるい、鼻にかかるような声でそう説明すると、ゆったりとした所作で手にした杯をかたむけ唇を濡らす。この青年、こともあろうに主のことわりもなく秘蔵の酒に手を出している。
「なにものだと問うておる!」
蒲寿庚の手が腰に帯びた新月刀へとのびる。この男は商人であると同時に海賊であり武人でもあった。かつて張世傑ら宋の武将らが泉州で再起を図ろうとした際に、泉州にかくまわれていた宋の皇族を殺害し、その報復に挙兵した張世傑の軍を計略をもちいて防ぎ、元の援軍到着まで約三ヶ月も持ち堪えたいくさ人である。
弁舌だけの商人とは異なる迫力が、本物の殺気を漂わせていた。
「淡旨! この黄酒、なかなかの美味じゃない」
「とうぜんだ、なにせ紹興は鑑湖の名水で醸した銘酒だからな」
「ほっほ~う、これがうわさの紹興の酒かぁ。うんうん、甘露、甘露。銘酒出處、必有良水。……銘酒あるところにかならず良水ありとはこのことだねぇ~」
まるで水でも飲むようにすいすいと喉に流し込み、いっぱいに満ちていた酒壷の中身はすぐに半分ほどになってしまった。
「でも酒は命を削る鉋という言葉もあるし、ほどほどにしておこう」
「酒で縮む命の心配よりも……」
「うん?」
「たったいま命の危機に直面しておるわ、たわけー!」
新月刀が鞘走り白刃が褐色の首を断たんとうなりをあげる。
「हूं(ウーン)」
褐色の肌の青年の口から出た金剛夜叉明王の種字真言が鋼の刀身に変化をおよぼした、刃が蛇身となり蒲寿庚の喉へと喰らいつかんとする。
蒲寿庚はとっさに片手で蛇の首をにぎり、毒牙を制す。
「金生水。金気の塊である刃には水が生じやすい。蛇は水気の生き物ゆえ変化もたやすいってね」
「お、おまえは呪術者か!?」
「いかにも、たこにも」
「…………」
「…………いまのは『いかにも』の『いか』と『たこ』をかけた地口だよ」
「そんなことはどうでもいい! 呪術者がどうしてここにいるっ」
「ぼくの名は智羅永寿。天竺では少しは名の知れた存在さ。東安王メデフグイ殿下の客将、方臘どのの要請でモングル軍の加勢にまかりこした次第だよ」
「ああ、そういえば大量の呪術者をつのっていたな……」
「そう。それで現地でひと働きする前にこちらで一服していたんだよ」
「英気を養いたいのなら街にでもくり出せばよかろうに、なぜよりにもよってこの場所で酒を盗み飲むか」
「泉州でもっとも上等な美酒と美姫を求めるなら、蒲寿庚の邸だと思ったからだよ。いや、泉州どころか中華中の美酒と美姫がこの街にあるんじゃないかな」
泉州の繁栄ぶりはあのマルコ・ポーロやイブン・バットゥータが『東方見聞録』や『大旅行記』に記している。「海のシルクロードの起点」とまで称した海上貿易の拠点たる港湾都市だ。
「美姫だと、おぬしまさか……」
「あら~ん、智羅さまったらこんな場所にいたのね」
「んもう、だまっていなくなるなんて、いけず~」
蒲寿庚の誰何は嬌声に掻き消された。かこっている妾たちが目の色を変えて闖入者にしなだれかかっているではないか!
「こ、こらおまえたち。そんな得体の知れぬ妖術使いに色目を使うとはなにごとだ。おまえらの主人は私だぞ!」
「あは~ん」「うふ~ん」「ジュテーム」「アモーレ」
主人である蒲寿庚の言葉などどこ吹く風、褐色の肌をした青年――智羅永寿に艶めかしくしなだれかかる。
あきらかに様子がおかしい、妖しげな術に囚われているようだ。
「漢人、喫丹人、勃海人、女真人に高麗人。波斯人や羅馬人の女もいるよね。やっぱりぼくの読みはあたっていた。泉州には美姫がそろっている。極楽、極楽」
その言葉のとおりペルシア、インド、アラブ、中央アジア。さらには遠くヨーロッパの生まれと思われる美女たちにかこまれて、猫のように目を細める。
「きさま、わが妾どもになにをした!」
「なぁに、龍猛の真似をしてちょっとした悪戯をね」
「龍猛……、龍樹菩薩のことか」
龍樹菩薩。あるいは龍樹大士、龍猛とも。二世紀頃のインド仏教のバラモン(司祭)で、幼いころから天才的な学識をもっており、それを鼻にかけるところがあった。龍樹は自分と同様に才能にあふれた三人の友を持っていたが、ある日のこと「学問の道は究めた。これからは快楽に尽くそう」と思い立ち。隠形の術をもちいて王宮に入り浸っては王の寵姫らに淫らなおこないをし、子を宿す者さえ出た。
これに驚き怒った王は龍樹らを捕らえようとするが穏形術の前に手出しができない。そこで一計を案じ、砂を門に撒いてその上にできた足跡を衛兵にたどらせて三人の友人を処断した。しかし王の影に身を潜めていた龍樹だけは発見されずに一命をとりとめた。
おのれの浅慮愚行に反省した龍樹はこれを機に仏教に帰依することになったという。
つまり――。
つまりこの智羅永寿という呪術者はこともあろうか泉州一の実力者から女を寝取ったというのだ。
それもいちどに何人も。
「この痴れ者めがっ!」
使い物にならなくなった新月刀を投げ捨てた蒲寿庚の手が壁にかけてある火矛槍(マスケット銃)へとのびる。
火薬は唐の時代に発明され、宋代の前半には黒色火薬の製造も公表されていた。宋と金が戦った采石機の戦いでは霹靂砲という火薬兵器が使用されており、この時代にこのような物があっても不思議ではない。
雷が落ちたかのような轟音が鳴り響き、銃口から火箭が放たれた。至近距離からの発砲。智羅永寿の身体に風穴が開いたかと思われたのだが、銃弾は智羅永寿の身体ではなくうしろの壁に穿たれた。
「なに!?」
「おおっと、火薬の力で鉛玉を弾き飛ばすとは、なかなか考えるね。けれでもムーラダーラ・チャクラを修めたぼくにはあたらないよ」
「よ、避けたというのか……」
「ジー・ハーン(そのとおり)」
「その言葉、いまの業。天竺から来たと言ったが、瑜伽の使い手か」
「ジー・ハーン」
ふたたびおなじ言葉を使い肯定した。
「伊達や酔狂で美姫を誘惑したわけではないよ、煩悩即菩提、菩提即煩悩。ぼくにとっては彼女たちと遊ぶことは修行のひとつさ。ぼくに美女を提供することはすなわちモンゴル軍への援助につながる。アッチャー・バーバー(おわかり)?」
「……では、その修行で得た験力でもって早々に亡宋の余灰を吹き飛ばしてこい!」
「ついでだからこの娘たちをもらってゆくよ」
「勝手にしろっ、妖術使いの手垢のついた女などいらんわ!」
「そのお言葉に甘えさせてもらうよ。――अघासुर」
アガースラ。蒲寿庚の耳にはそう聞こえた。
その不思議な韻律をもった異邦の言葉をつぶやいた、そのとき。足元の影が膨張し、智羅永寿と籠絡されし妾たちを飲み込んだ。
蒲寿庚がおどろきの声をあげる前に影は陽炎のようにかき消える。
あとに残されたのは妖術に翻弄された商人と、その側近のふたりのみ。
「天竺渡りの好色淫乱な妖術使いが、好き放題しおって……。だがやつの力はあなどれぬ」
壁に打ち込まれた鉛玉を見て蒲寿庚はそう独言した。
崖山沖。のちに香港と呼ばれるようになるあたりを大量の船団が走る。
内陸広い中華の地に住む多くの人々にとって、海というのはある種の異界だ。
海に馴れ親しんだ島国にすら「板子一枚下は地獄」という言葉がある。
まして河北や中原、遠く西域や北方から連れて来られた兵士たちにはかすかな潮騒すら不安を掻き立てる不吉な騒音に聞こえた。
生まれてから一度も海を見たことのない者も少なくはない。
兵士たちは不安と恐怖にさいなまれていた。
「……こんどのいくさ」
「あ?」
立哨の番に立っているふたりの兵士のうちひとりが慣れない波音と心細さに耐えられず沈黙をやぶった。このふたりもまた海から遠く離れた荊州南部は長沙の出身で、泳ぎもろくにできない。
「こんどのいくさは妖術使いや妖怪が相手だって言うじゃないか」
「ああ、そのために道士や僧侶を多くつのったんだろう。この船にもたくさん乗ってるぜ」
「あてになるのかねぇ、なにせ相手はひと晩で山に城を築いたほどの神通力の持ち主だぞ」
「ひと晩ってのは谎言だろ。三日はかかったそうだぞ」
「なに言ってやがる、それでもじゅうぶんすごいだろ。人間業じゃねぇ」
「まあ、な」
「そんな人妖がいる戦地に飛ばされるなんてついてねぇぜ、まったく」
ふたたび沈黙のとばりが落ちた、そのとき。
「破無明闇、日月光明。急ぎ急ぎて、律令の如くせよ!」
なにものかの音声がとどろくや、漆黒の夜景が一変し、あたりが明るく照らし出された。甲板上に大きな光の球が浮いており、それが小さな太陽のように煌々と輝き、光を放っているではないか。
「なな、なんだ!?」
「ひえぇぇっ、妖怪だ、妖術だ、敵襲だ!?」
周章狼狽するふたりの前に光球を背にしてひとりの男が姿を見せる。浅黒く精悍な顔つきで背中に長剣を負い、頭には冠巾をかぶり、足には雲履という下履き。いかにも道士といった装いだが全身にこれでもかというほど呪符霊符を貼りつけており、首から奇妙な文字や獣の顔が刻まれた盾を下げて胸当てのようにしていて、なんとも異様だ。
「くっくっく、、おまえらが夜闇に怯えているようだったので、明るくしてやったのよ」
「そ、その光の球はおまえの方術によるものなのか?」
「しかり。――破無明闇、日月光明。急ぎ急ぎて、律令の如くせよ」
異装の道士がまたもおなじ呪を唱えて身につけた呪符のひとつを打つと、となりを走る船にも光球が浮かび上がり、煌々と行く手を照らす。
さらに一隻、二隻、三隻……。
もはや夜とは思えぬ、真昼の明るさにおどろいた乗船者たちが甲板に姿を見せ、喧騒につつまれた。
「聞けい、元の兵士たち。わが名は高唐州にその名も高き高廉。わが方術をもってすれば太陽を生み出し、闇を切り裂くこともたやすい。敵の妖術使いなぞ恐れるにたりない」
高廉。これまた『水滸伝』に登場する人物で、雷雨を起こし妖獣を召喚する術に長けた妖術使いなのだが、包道乙や鄭彪と同様この時代の人ではない。
どうもこの世界、時代考証がむちゃくちゃだ。
その高廉の思いがけない表演にやんや、やんやと拍手喝采。
兵士らは手をたたきながら、大声でほめたたえる。
「おおう、これほど達者な道士さまが味方とは心強い。こんどのいくさは勝てそうだ」
「これは大いに期待できますなぁ」
つい先ほどまで不安にさいなまれていた兵士たちのあいだに安堵が広がる。
するとどこからともかく美しい女性の歌声が聞こえてきた。
比爱深的感情 海中産生
全部结束时也 我不输
在小星上 照射道
遥远的旅途 不迷道
比爱强的感情 调动我
空的话海的青 成为一个
请返回故乡 回来了 回来了 回来了……
聞いていると胸が熱く、せつなくなってくる。
帰りたい。
一刻も早く故郷に帰り、家族の顔や生まれ育った山河の姿を目にしたい。
「うぬ!? これは長嘯術か。いかん、おのおのがた、耳をふさげ」
言葉のひとことひとことに呪力の込められた呪歌は聞く者の胸に望郷の念を起こさせ、
故郷に帰りたいという衝動によってその場を立ち去らせようとした。
崖山の近くまで来るとどこからともなく美しい歌声が聞こえてきて、それに聞き惚れているうちに気づけば帰路についている――。
うわさはほんとうだった。
兵士たちはあらかじめ指示されて持たされていた綿を耳に詰め呪歌に備える。
それでも呪歌の影響を受けた者たちがいて、船の針路が大いに乱れた。このままでは目的地である崖山にたどりつけないどころか浅瀬や岩礁に乗り上げて座礁しかねない。
「こしゃくなやつめ、どこにおる!? 霊光透視、骨照魂現。急ぎ急ぎて、律令の如くせよ!」
高廉は霊符に法力を込めて目にあてた。すると両の眼から一道の金光が生じて、あたりを透かし見た。
隠形している存在の正体を見抜く霊光天眼通の術だ。
「そこか!」
手にした呪符を打つと光り輝く無数の火箭と化して舳先へと飛んだ。
「バン・ウン・タラク・キリク・アク!」
だが標的にあたる寸前、結界にはばまれ雲散霧消する。
「あらら、ばれちゃった。やっぱあたし隠形って得意じゃないかも。でもプロを目指している以上、そんなことも言ってられないわよね」
独語とともに額から一本の角が生えた白馬に乗ったひとりの少女が姿をあらわす。
なんと大胆不敵にも乗騎したまま船に乗り込んで歌を歌っていたのだ。
亜麻色の髪を絹の布でつつみ、動きやすい胡服を着た長身ですらりとした肢体の少女で、全身から自身と生気があふれて溌剌としている。
剣こそ帯びていないがまるで中国の武侠小説『児女英雄伝』の美しく勇敢な巾掴英雄十三妹を思わせた。
十三妹は架空のキャラクターだが、中国の歴史上、武装して戦場を駆けめぐったり武芸の達人として知られる巾掴英雄の数は創作や史実もふくめて実に多い。
まず中国最古の女将軍として知られる殷の婦好。殷王である夫とともに異民族を討伐した。
西晋の荀灌。この人は『三国志演義』に登場する荀彧の六代めの子孫で十三歳のとき敵中を突破して味方の援軍を呼びに行き、父親が籠城する城を守った。
隋の花木蘭。女であることを隠して従軍し、各地で戦功をあげた。ディズニー映画の主人公にもなっている。
唐の平陽昭公主。女性だけで結成された戦闘部隊を率いて奮戦し、父や弟の天下統一に貢献した。
宋の穆桂英や梁紅玉、明の秦良玉、太平天国の洪宣嬌……。
わざわざ男性を美少女キャラ化しなくても、魅力的な女性キャラが中国の歴史にはひしめいているのだ。
やたらと女性を主役にしたがる某国の放送局はいっそのこと『楊家将演義』でも放送したらいい。
それら歴史上のヒロインたちに勝るとも劣らない、あでやかな勇姿のこの乙女こそ、倉橋京子その人だった。
「この、魔女めが!」
望郷の呪歌の影響を受けていない数人の兵士たちが奮起して刀槍を突き立てようと群がる。
「ヒュ~イ~ッ!」
しかし角の生えた白馬――独角兽がいななき、後ろ足で甲板を音も立てずに蹴って跳躍し、船上をところせましと逃げ回り、攻撃はかすりもしない。
天空朗月 不想同看
暗天吐闇 游蝠踏宙
夜魔招来 夜子来々
天鼠偏福 飛鼠偏福……
襲いくる兵士らを翻弄しつつ、ふたたび京子の朱唇から玉を転がすような美声がつむぎ出される。
たちまち北西の水平線上に巨大な黒雲がわきおこり、一瞬ごとに拡大していく。
「蝙蝠だ……!」
兵士のひとりがうめいた。数百数千匹の蝙蝠の群れが黒雲となって押しよせてきたのだ。
竜巻のような音をあげて黒々とした蚊柱ならぬ蝙蝠柱が船体をおおう。
コテングコウモリ、ユビナガコウモリ、ヒナコウモリ、ヤマコウモリ、アブラコウモリ、ノレンコウモリ、カグヤコウモリ、ヒメホオヒゲコウモリ、クビワオオコウモリ――。
大小無数の蝙蝠の群体。一匹一匹はたいした大きさでも脅威でもないが、集団で飛んでこられてはたまらない。
顔や手足をかじられ、むしられるだけにとどまらず、羽ばたきによって生じられた風圧に吹き飛ばされて海上に落ちそうになった兵士たちは船内へとわれ先に逃げ出した。
「あたしもいつかは魔女になるかもだけど、まだそんな齢じゃないわ。どうせなら魔法少女って呼んでくれないかしら。あ、陰陽少女でもいいわよ」
「くだらん軽口が叩けるのもいまのうちだ」
ただひとり残った高廉は蝙蝠の嵐の中でも悠然としている。身にまとう守護の霊符が効果を発揮し、鳥獣の害をふせいでいるのだ。
「長嘯で船員を惑わし鳥獣を呼び積み荷を奪っていたのはおまえの仕業だな。――黒精玄武、壬、癸の気を以って調伏せん。急ぎ急ぎて、律令の如くせよ!」
先手をとったのは高廉。
かけ声と同時に呪符を打った。尾が蛇になった足の長い亀、玄武の姿が描かれている。水行符だ。それもかなりの威力。呪術の水流が瀑布となって京子にせまる。
「土剋水、急々如律令」
数多の対人呪術戦を経験してきた京子は動じずに高廉の水行術を相剋。しかしそのときすでに高廉は次の呪符を打っていた。金行符、火行符、木行符。しかし相生させるというわけではなく、それぞれ個別に微妙にタイミングをずらしながら放っていく。
呪符の乱れ打ちというのは霊力が豊富な証拠で、たんに技量に優れているだけではできない芸当だ。京子と秋芳以外の塾生で、このようなことができるとしたら土御門家の次代当主といわれる夏目か、その式神の春虎くらいなものだろう。
だが京子はそれらすべてを的確に相剋して高廉の呪術をことごとく処理していった。
船上を桜吹雪のごとく呪符が舞い散る。
「天兵および地兵を発起す、陰兵および陽兵を発起す、木兵および火兵を発起す、土兵および金兵を発起す、水兵を発起す。天の五行、地の五行を結びて霊脈を断つ。急ぎ急ぎて、律令の如くせよ!」
高廉はひときわ複雑な手印を結んで呪符を甲板上に貼りつける。するとどうだろう、乱打した符術に隠されていた術式が発動し、船と船のあいだ、海上に光の五芒星が浮かび上がった。
結界だ。
「ヒヒーン!」
独角兽の身体にラグが走り、蝙蝠が散り散りになって逃げだす。
通常の結界とはちがう。
京子は眉をひそめて独角兽の実体化を解いた。騎乗から徒歩の人になる。
「まわりの霊脈を断つ……、護法封じってわけね」
相手の護法式および使役式を封じる。
式符によって瞬間的に召喚する式神とは異なり、つねに召喚状態にある護法式や使役式。呪術によって操作され、一時的に式神状態にある蝙蝠の大群。これらのあいだには術者との密接な霊的つながり、霊脈がつながっている。高廉はそれを遮断したのだ。
「射人先射馬(人を射んとすれば先ず馬を射よ)。ちょこまかと小うるさい蝙蝠と馬の足を折らせてもらった。――天地至万物。気を以って生ぜざる者皆無也。天地万物の理を持ちて禁ず。三戒五縄七縛、急ぎ急ぎて、律令の如くせよ!」
汎式にも帝式にもない、いにしえの呪法が放たれる。だが、これは京子にとっては意外であると同時に御しやすい術式でもあった。
不動金縛りに似ているが、気そのものを禁じて束縛する術。これは秋芳がもちいる呪禁の、持禁の術に近い。
この世界のあらゆるものは全て気を有しており、それは物も人も例外ではく呪禁とはそうした気を禁じることで刀剣ならば斬ることを、鳥ならば飛ぶことを、そして極めれば人や動的霊災であってもその存在を禁じることができる呪だ。
強大すぎるがゆえに使用者を選び、一般に広がることができなかった呪術体系――呪禁。
土御門夜光が再編成した呪術全盛の日本においても滅多に見られないレアな術だったが、あいにくと京子は秋芳と行動をともにすることで、なんども目にしている。
それゆえにあわてずに対処できた。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、前、行!」
臨む兵、闘う者、皆、陣を列べて前を行く。
九字を切ると同時に四縦五横に足を運び反閇を踏む。秋芳ゆずりの強力な神仙系の早九字が高廉の呪縛を透かした。
「なんだと!?」
これには高廉もおどろいた。呪力に呪力をぶつけて粉砕する。盾としてふせぐのならともかく、こうも容易く回避されるのは予想外だったのだ。
早九字。真言密教などでは『臨める兵、闘う者、皆、陣烈れて前に在り』という敵を打ち破る攻撃的な呪だが、九字の呪法とはもともと神山に入る前に唱える護身の呪である。
神山、すなわち異境。幾重もの異層を超えて、ここではないどこかへと向かうための呪。
つまり早九字というのは悪鬼悪霊を祓うだけでなく、異層異界へ通じる扉を開く呪でもあるのだ。
京子は巧妙に術式を組み換え、一瞬ではあるが肉体と精神を『ここではないどこか』へと移し、みずからに害をおよぼす呪を完全に無効化してしまったのだ。
塾生レベルの業ではない。
高廉の全身から呪力がほとばしり、霊風がうなる。帆柱がきしみをあげてしなり、それに張られた帆がはち切れんばかりになびく。そんな高レベルの呪術戦による余波が消えきらないうちに高廉が次の手に出た。
「千の将兵、師に随いて行け! 万の将兵、師に従いて起れ! 千将万兵、来たりて列陣せよ。急ぎ急ぎて、律令の如くせよ!」
背中の剣を抜き放ち、それをかかげて呪文を唱えると、身体中に貼りつけてあった呪符が乱舞し、式神と化した。虎、豹、狼、熊、猿、大蛇、牛、象、鷹――。数多の妖獣と化して牙をむく。
「式神作成、急々如律令!」
数には数を。京子も負けじと式符を放ち、こちらも獣を象った簡易式を召喚。それも一体や二体ではない。三〇を超える式神が妖獣の群れを迎え撃つ。
さらにそのあいだにも。
「海嘯の如く迫り万丈の蔓となり禽えよ。急ぎ急ぎて、律令の如くせよ!」
「土精を宿し金剛の如く硬く断て、急々如律令!」
水行符が生み出した水流を木行符が生んだ木梢がすかさず吸収。五行を相生させて威力の増した長くしなやかな木鞭が打擲せんとうなりをあげるも、対する京子の放った土行符が金行符と相生して生み出された鋼刃によりこれを両断。
余勢を駆って高廉を斬ろうとした鋼刃だが、高廉は火行符でこれを相剋。それによって生じた火炎を土行符で相生しようとしたところを京子が水行符を割り込ませ相剋。
まるで生きた教科書のような模範的な五行相生相剋を駆使した呪術戦が続く。
展開した式神群をすべて同時に統制しつつ、術者本人も戦いにくわわる。
プロの呪捜官や祓魔官とてこれほどあざやかな手並みを発揮できる者はまれだろう。たとえ十二神将でもここまでの手練れは限られている。
現在もっとも集団式神使役の技量にすぐれた陰陽師は滋岳俊輔(しげおか しゅんすけ)という十二神将のひとりで、彼は複数の式神を一つの部隊のように的確に指揮し、迅速に修祓を行う様から〝大佐〟というふたつ名をもっている。
その大佐とくらべても遜色のない戦いぶりといえた。
「ええい、これではらちがあかぬ!」
「そう、じゃあそろそろおしまいにしましょう」
「なんだと!?」
一進一退、互角の勝負をしていた式神たちの動きに変化が生じた。とつぜん京子がわの式神が優勢になったのだ。
高廉の妖虎を京子の白鷺がついばみ、妖蛇は黒猪に喰われ、妖猿は赤馬のひづめに蹴りつぶされ、妖狼は青兎に首をはねられた。
「これはいったい……、ハッ! もしや!?」
高廉は京子の式神に秘められた術式に気づいた。京子は式符に五行の符術を合わせて相生したのだ。虎も蛇も猿も十二支にある獣であり虎(寅)は木行、蛇(巳)は火行、申(猿)は金行にそれぞれあてはまる。そして鷺(酉)は金行、猪(亥)は水行、馬(午)は火行。
簡易式に練り込む呪力に五気をふくませる。十二支の五行に見立て、相生させることで式神の基本性能を高めるとともに相剋関係にある相手にぶつけ、戦いを有利にみちびいたのだ。
気づいたときにはもう遅い。あっという間に使役獣を全滅させられた高廉は京子の式神群にかこまれてしまった。
これはかなわない。
そう判断した高廉は即座に遁走することにした。
「――乗虚御空、飛霊八方、廻転舞天。急ぎ急ぎて、律令の如くせよ!」
首から下げていた盾をはずすと宙に放り投げ、呪文を唱えてそれに飛び乗る。
空を飛ぶ乗矯術を使い、この場から逃れるつもりだ。
かつて秋芳も同種の術を使い、渋谷から新宿まで飛翔したことがある。そのさいは身ひとつで空を翔けたが、高廉は盾を触媒に使い、この術をもちいた。
一種の飛鉢術だ。
飛鉢術。
厳しい修業を積んだ僧や行者が神通力で鉢を飛ばす術で『宇治捨遺物語』の寂昭や『信貴山縁起絵巻』の命蓮という僧が使ったとして有名だ。
盾は黒雲につつまれ、空を飛ぶ。それに乗って逃げようとしたのだが、それを見逃す京子ではない。
「オン・バザラ・タラマ・キリク・ソワカ!」
真言とともに練られた呪波が高廉に迫る。
それから必死に逃げる高廉。
飛翔する神盾はぐんぐんと速度を増してゆき、太陽のような光に照らされた船が影も形も見えなくなった。
空を翔けることのできる術者はそうはいない。京子の追撃がないことを確認した高廉は近くの浜辺に着陸する。
「ここまでくれば安心だろう、しかしあそこまで手強い術者が宋に味方をしているとは、これは用心せねば」
岩に腰を落としてひと息入れたあと、立ち上がろうとしたのだが、なぜか腰が上がらない。まるで無数の見えない手で上から押さえつけられているようだ。
「な、なんと!?」
ぽかり。
「あ痛っ」
うろたえた高廉の頭に、まるでだれかに殴られたかのような痛みが走る。
ぽかり。
まただ。
ぽかぽかぽかぽかぽかっ――。
「あ痛たたたっ! これはいったいどうしたことか!?」
ふところから取り出した茘枝の葉でまぶたをなでた。茘枝は邪気を浄化する力をもった霊果で、この葉で目を清めると見えない者が見えるといわれる。見鬼のない者に見鬼を、見鬼のある者の場合はよりいっそう力を高める働きをもつ。
するとどうだろう、手が見えた。
手だ。
数えきれない無数の腕が虚空からわき出し、高廉の身を押さえつけて殴打している。
高廉は逃走する間際に京子が唱えた真言を思い出した。
オン・バザラ・タラマ・キリク・ソワカ。
千手千眼観自在菩薩。観音の中でも特に功徳が大きく、観音の中の王という意味で蓮華王とも呼ばれることもある千手観音の真言だった。
千本の手がありその手の掌には目がついており、千の手と目はどんな人達でも漏らさず救済しようとする広大無限の功徳をもった仏の真言。この世のどこにいても救いの手をさしのべてくるその力は、同時に地の果てまでも追ってくる追捕の腕でもある。
逃げ切ったと思っていた高廉だったが、すでに京子の放った呪に捕らわれていたのだ。
『知らなかったの? 陰陽師からは逃げられないのよ』
遠く離れた場所にいるはずの京子の声が耳元に響く。
ぽかぽかぽかぽか、ぼかぼかぼかぼか、ボカボカッ、ゲシゲシッ――。
「ひぇえええっ、まいった、降参する、わしの負けじゃ。もう二度とおまえたちには手出しはしない!」
さんざんにどつかれ、シバキたおされた高廉は白旗をあげたのだった。
「居収五帝神将、 電灼光華、納則一身、保命上則、縛鬼伏邪、一切死活滅道――」
「詠唱長すぎ! 九天応元雷声普化天尊、急々如律令!」
「龍虎奔行 必神火帝、万魔拱服、天魔降伏、急ぎ急ぎて律りょ――」
「遅い! 急々如律令!」
「ノウマク・サンマンダ・バサラダン・センダンマカロシャダヤ――」
「हां(カーン)!」
高廉が遁走したあとにも乗船していた道士や僧侶といった呪術者が応戦し、京子に立ち向かったのだが、鎧袖一触。またたく間に打ち倒された。
武術と同様に八〇〇年前の呪術は現代のそれにくらべて洗練されておらず、無駄が多い。土御門夜光が改良編纂した帝式陰陽術を幼い頃から学び、秋芳から伝授されたいにしえの秘呪を習い覚えている京子の敵ではなかった。
呪術者達は当然のこと、並の兵士らも太刀打ちできない。剣も矢も見えない盾に弾かれ、そらされ、その身になにひとつ危害をくわえることもできず、武装を解除され無力化された。
「司馬法に曰く『国、大なりといえども、戦いを好むは必ず滅ぶ』。帰ってあなた達に命令を下している人に伝えなさい、これ以上しつこく軍隊を動員して他国を侵略したり、貴重な珊瑚を強奪するつもりなら、頭をどやかして胴体にめり込ませておヘソの穴から世間をのぞかせてやるわよ!」
司馬法というのは春秋時代に斉の司馬穰苴という人物が記したとされる兵法書で、斉は兵法の開祖で方術にも通じていた太公望こと呂尚が作った国だ。春秋戦国時代では兵法や学問が盛んで、孫子の名で有名な孫武や孫臏も斉の人である。
そんな秋芳仕込みの恫喝。珊瑚うんぬんはよくわからなかったが、実力の差を見せつけられた元の軍兵たちはすごすごと退散せざるをえなかった。
元兵らをひとつの船にまとめて乗せて泉州に送り返したあと、物資の満載した船団を根こそぎちょうだいすることにした。
とはいえ船を動かせる船夫はいない。呪術で風を呼ぶか潮流をあやつるか――。いずれにせよ高廉のほどこした霊脈封じの結界が邪魔になる。
「――地より生まれし呪い、地に戻りて、絶えゆけ、枯れゆけ、消えゆけ――」
解呪にとりかかる。
「これはおどろいた。闇夜に灯、地獄に菩薩、はきだめに鶴、棚から酥餅、泥沼に蓮華……。かくも強く
美しき花冠が宋に味方しているとは意外、意外」
高廉の張った結界を解除した直後、どこからか妙に甘ったるく芝居がかった男の声がした。
気配は感じられない。ただ声のみ聞こえた。
たとえ呪術で遠くから音声を飛ばしたとしても、呪力の波動は感じられるはずだ。それすら感じられない。つまりこの声の持ち主はかなりの隠形上手ということになる。
「……声はすれども姿は見えず、ほんにおまえは屁のような」
これは落語や講談でよく使われる言葉だ。祖母につきあって寄席で演芸を観賞することのある京子は若者の知らないような慣用句を知っていた。
もともとは『声はすれども姿は見えぬ、君は深山のきりぎりす』という、男のおとずれを待つ女心のやるせなさを表現した、江戸時代の初期に作られた名歌なのだが、見ず知らずの男相手にそのような意味を持つ原典を口ずさむ道理はない。
「これはこれは! おもしろいことを言うお嬢さんだね、実に機知に富んだ言葉だ。でもおならってのはヒドイなぁ。うら若き乙女が屁なんて言葉を口にするのはよくないよ」
「あたしは自由な国の沈黙しない女よ、言いたいことはなんだって言うし、書きたいことはなんだって書くわ」
「ふむ……、宋人か」
宋の太祖趙匡胤は〝言論をもって士大夫を殺さず〟の原則を作り、宋朝はこれを国是としていた。
声の主は自由闊達に意見する京子を宋人だと思ったようだ。
「貴女はなにもの?」
「あたしはあたし」
「そう、貴女は貴女だね」
「そう言うあんただれよ?」
「ぼくはぼくさ」
「そりゃあんたはあんただけど、そのあんたはだれよ?」
「これはまた哲学的な問いだね、ぼくの名は智羅永寿。天竺では少しは名の知れた存在さ。じゃあ、あたしはあたしという貴女はだれだい?」
「あたしはあたしという貴女はだれだというあんたはだれよ?」
「あたしはあたしという貴女はだれだというあんたはだれよという貴女は――」
質問に対して質問で返す奇妙な〝なんだとはなんだ〟状態がしばらく続く。
会話になってない。
それもそのはず、両者は呪術戦を、甲種呪術を直接ぶつけ合う前段階の駆け引き。乙種の心理戦をくり広げていたのだ。
なにしろ相手は姿を見せていないのである。相手の位置も正体もつかめない、逆に相手からははっきりと居場所を知られている。これは呪術者にとって、いや呪術者ならずとも首に刃物をあてられているような状態だ。
京子はざれ言をくり返しつつ、徹底的に防御を固め、索敵に尽力した。無数の呪術的偽装と穏形が展開されている。
平凡な呪術者ならば隠形していることさえ知覚できないであろう緻密な隠密。
だが京子は星詠みの中の星詠み、如来眼の持ち主だ。大は龍脈から小は個人の気の流れまで、如来眼の力は森羅万象を見通せる。
今の京子の見鬼能力は一流の霊視官と同等か、それ以上の精度を誇っていた。
――何者かが動いた。
ごくごくわずかな身じろぎする気配。
と同時に、よこしまな妖気が微風の如く肌をなでる。
京子はとっさに身をかがめて振り向きざまに呪符を投げつけた。ぴたりと重なっていた二枚の呪符が途中から一枚ずつにわかれ、空を飛ぶ。
隠形していた人影は身体をひねって一枚目をかわした。そこへ二枚目の呪符が迫る。
並の者なら防げなかっただろう。が、その者は不自然な姿勢から地に手をつき、大きく一回転して二枚目もかわした。音もなく着地して体勢をととのえ、京子に向き直る。
全身に金銀の装飾具や宝石類を身につけた、褐色の肌をした若い男。蒲寿庚をからかった智羅永寿だ。
「乱暴だなぁ、ぼくの美姫たちが怯えちゃうじゃないか」
「美姫ですって?」
隠形されていたのは智羅永寿の身ひとつだけではなかった。潮が引くように一部の景色が一変し、隠されていたものが現れる。
玉輦。あるいは玉輅と呼ばれる皇帝専用の御車さながらに豪奢な玉の輿。
金銀や宝石類で飾り立てられた天蓋の下には紫水晶で作られた吊灯籠。内部の壁をおおう真紅の天鵞絨の壁かけ。緋色の絨毯。中央には寝台が置かれ、絹布団が敷かれ、そこには肌もあらわな女性がひしめいていた。いずれも蒲寿庚のもとからかどわかしてきた妾たちだ。
中華の女性だけでなく、褐色の肌に引き締まった体躯と長い手足をした胡人や白い肌に金髪碧眼、豊満な胸をした西欧人など、様々な人種の女性が身体をくねらせ、艶っぽい嬌声をあげていた。
「どうだい、どれも美しいだろう?」
「……この人たち、普通じゃないわ。あんた、呪術で彼女たちの心を縛っているわね!」
彼女たちは一様に蕩けきった表情をしており、とろんとした瞳に意志の力を感じられない。まるで阿片でも嗅がされたかのように夢見心地の状態だった。
「恋慕の情は呪そのものといえるね、貴女もぼくに恋をする!」
智羅永寿が満面の笑みを浮かべた。
空から花びらとともに舞い降りた天人もかくやの美麗さ、褐色の肌は黒耀石の艶めきを放ち、唇の赤さは官能的、琥珀色の瞳は見つめるだけで吸い込まれそうになる。
いささか鼻の大きさが気になるが、まさに絶世の美男子。
「ああ、愛しい人よ。ぼくにはわかる、ここでぼくと貴女が恋に落ちることこそ神話の頃より定められた運命。空虚な心を熱くさせるのは……、貴女という運命の女性(ファム・ファタール)との激しい(ハード)逢瀬しかなさそうだ。でもわかるよ、貴女だってそうなんだろう? ぼくと貴女はおなじ、この腐った世界を独り寂しく駆け抜けるロンリー・ウルフ。さぁ、はじめよう、ぼくと貴女。愛という名のシンフォニー、ふたりだけのセカイを! 闇に抱かれ、甘美なる地獄に堕ちるのさ! それが天からぼくたちに贈られる神罰という名の鎮魂歌」
いったいおまえは何人だと思わんばかりに異国の言語まじりの科白。
だがその繰り出す言の葉、そのひとことひとことに濃密な呪力が練り込まれた甲種言霊だった。
相手の精神を強引に歪め、感情を操作し、己が虜にしようとする魅力の呪言。
「さぁ、褥の準備はできている。お姫様だっこをしてはこんであげるよ、愛しい人」
「……お姫様だっこですって? あいにくとあたしの好みの男性は、お姫様だっこのことをかたくなに『半魚人持ち』て言いはる人なの」
首にまわされた褐色の手を京子は冷ややかに払いのけた。
「それにね……、あたしって面食いなの。だからあなたみたいな風変わりなお鼻をしている人の誘いを受けるのは、あたしにとっては耐えられないことなのよ」
普段の京子ならことさら相手の容姿をあげつらうようなことはしない。だが美貌を鼻にかける相手に対してあえて痛烈な拒絶の返答をした。
「ぼくの魅了が効かない、だと……。いかなる苦行僧をも魅了し、堕落させた。スジャータの粥にひとしい、このぼくの魅了が!」
スジャータとは飲まず食わずの苦行をしていて倒れたお釈迦様を介抱した女性の名だ。
そのさいに出された乳粥を食べたお釈迦様は元気を取り戻し、苦行では悟りを得ることはできない。という〝悟り〟を得るきっかけになった女性だ。
京子の容貌。きれいにととのった鼻すじに健康的な色合いの唇、すっとのびた眉には意志の強さと聡明さがうかがえる。内面からあふれ出る自信と生命の輝きに満ちたその身からは籠絡された者特有の病的な雰囲気は微塵もない。五節の舞姫さながらに麗しく、それでいて脆弱さの類をまったく感じさせないのだ。
たとえ妾たちが操られていなかったとしても、その快活で健康的な魅力の前ではいかなる美姫も見劣りして見えたことだろう。
そんな京子とは対照的に智羅永寿の相貌は醜くゆがみ、両眼には熱湯わきたっていた。やがて肉感的な唇から押し出された声は平静さを装おうとして失敗し、ひび割れていた。
「このぼくを否定するんだね」
「ご理解できて嬉しいわ。お鼻の大きなお兄さん」
「ぼくにはどうしても許せないことがこの世にある。それはぼくを拒絶する女性さ――अघासुर」
アガースラ。異邦の言葉が智羅永寿の唇からもれた瞬間、御車の下からのびた巨影が京子の上半身をおおい、ぞぶり、と噛んだ。
蛇だ。
「そいつはアガースラといって極めて穏形に長けた大蛇でね、かの英雄神クリシュナでさえすぐには見破れず、あやうく食べられそうになったほどさ。――ああ、それともうひとつ。ぼくはぼくよりも強く賢そうな女の存在はどうにも癪でね、死んでもらうよ」
齢千年を経た大樹のように太い胴体をした漆黒の大蛇が京子の上半身に噛みつき、喰いちぎった。
「む」「ん」
仏顔都市崖山の劇場で『白蛇伝』の芝居を観ていた秋芳と京子は同時に顔をしかめて身じろぎをした。
北宋の首都開封には一〇〇〇人以上も入場できる象座という劇場があったという。さすがにそこまでの規模はないが、それでも五〇〇人は入れる、ちょっとしたシネコン並の規模の劇場だ。
「痛ぇな、どうも俺の放った式がやられたみたいだ」
「奇遇ね、あたしの式もマミられちゃった」
秋芳は頭を、京子は胸のあたりを痛そうにさする。
離れた場所から遠隔操作で本人の人格が乗り移ったかのように振る舞う簡易式。それが討たれたのだ。
簡易式とは式神の一種であり、式符と呼ばれる呪符を形代にして任意の姿形を生成し、それを術者が自在に操る術だ。汎式陰陽術の中でも初歩的ながら奥の深い技術で、一般の人造式よりも安易に作成でき、かつカスタマイズしやすいという自由度の高さが大きな特徴になる。
術者の呪力のみで動くためあまりに長時間の活動にはむかず、初心者はワンアクションで使用する使い捨てのツール感覚で使うことが多いが、逆に言えば豊富な呪力さえあればいくらでも動けるので、使用者の発想や実力次第で多様な用途にもちいることができる。
今回討たれてしまった式は、よりオリジナルに近い〝性能〟を持たせるため、長距離からの遠隔操作をはじめ、予備呪力の蓄積による不測の事態への対応する疑似人格などなど、かなり手の込んだ式だった。
手間ひまかけて作った模型を壊されたかのような怒りがわいてくる。
「包道乙と鄭彪、少しは使える術者が出てきたな」
「あたしのとこにも智羅永寿とかいう鼻の大きなやつが来たわよ」
舞台上では苦難の末に結ばれた白蛇の化身である娘と人間の青年が楽しく歌い踊り、逢瀬を楽しんでいた。
「いやねぇ、蛇が出てくるお話の途中に蛇に食べられちゃうだなんて」
『白蛇伝』。唐の時代の民間伝説が元とされ、以来多くの戯曲や小説の題材になっている伝奇作品で、人と妖怪との恋愛物語だ。深山に住む白蛇の精・白娘子が侍女の青蛇の精とともに人間に変身して西湖に観光に行く。そこで白娘子は許仙という青年に出会い、彼と相思相愛の仲になるのだが、金山寺の和尚・法海は白娘子の正体が人間ではないことを見抜き、彼女を退治しようとする――。
このお話を元に上田秋成は『雨月物語』の中で『蛇性の淫』を書き、日本初のカラー長編アニメ映画の『白蛇伝』は、まさにこれを題材としている。
元の話では白娘子は退治されておしまいなのだが、作り手によって自由に脚色され、ハッピーエンドで終焉をむかえる作品も多々ある。
今回秋芳たちが観劇したのはハッピーエンドのほうだ。
「京子のほうは置き土産を残していかなかったのか?」
「ないわ。……て、アレ。ほんとうに設定してたの!? 悪趣味ね~」
「殺したやつに祟るのは当然のことさ、命を奪わないだけマシと感謝して欲しいね」
頭蓋骨を粉砕された秋芳は壊れた人形のように手足を投げ出して地に落ちた。
「やったッス!」
鄭彪が勝利の雄叫びをあげる。
「いや……、様子がおかしくてよ」
いぶかしむ包道乙。すると大地に伏して四肢をふるわせる秋芳の姿がびりびりと乱れた。輪郭がゆがんでぶれ、身体の裏側が透き通って見える。
頭頂部から鼻にかけて大きくえぐられた、見るも無残な傷。だが血が一滴も流れていない。
そこにあるのはただの呪符。そう、無数の呪符がしきつめられていた。
その呪符より呪詛が解き放たれる。
おのれの命を贄とした復讐の呪詛。いざという時に備えてそのような呪を備えるのは古参の呪術者にとって当然の処置だ。そのような配慮が呪術者自身の生命をぎりぎりのところで保証する担保となる。
京子のような若い世代には理解できない細工に思えるが、彼女の父親である倉橋源司や秋芳が師事した世代の呪術者にとって、それはごく自然のことだった。
みずからの死を引き金とした呪。
それが発動したのだ。
四方八方に金気が飛散し、秋芳と鄭彪の戦いを見守っていた兵士らを飲み込む。
すると――。
ごろごろごろごろ……。
遠雷にも似た音が周囲から響いてきた。
「ぬうっ、これは……」
「きゅ、急に腹が……」
兵士たちの全身に脂汗が浮かび、顔色が赤に、赤から青に染まる。
急に便意をもよおしたのだ。
五臓(肝、心、脾、肺、腎)五腑(胆、小腸、胃、大腸、膀胱)のうち大腸は金の性質を持つ。金行術により体内の五気の均衡を乱し、即効性の下剤を服用したかのような効果をあらわしたのだ。
「これはたまらん!」
うんこぶりぶりブリブリぶりぶりブリブリぶりぶりブリィッッッッッ!!! プッッー!!! ブチャァァァッ!! ブフォッ! ブフォッ! ゾンギン!! ゾフッ!! キュゴガッ!! ゾザザザガギギギ!! ……ビチッビチチチチチチッ、ブチュルルル……ブチャ……プスゥ……、ブビッブピッ、ブリッ…………。……ぢゅっぢゅぅぅ、チュミチューン、ブリブリッ、ブッ、ブス~、……ブッ、ププッ、ブビッ、ブリブリッ、ブビィーッ、ブリブリブリブリ…………。
大量の兵士たちの尻穴から大量のうんこが放出された。
それはもうこれでもかというくらいたくさんの量のうんこがぶりぶりとひり出され、モンゴル軍の駐屯地は糞便地獄と化したのだった――。
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