東京レイヴンズ 異符録 俺の京子がメインヒロイン!
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幼女伝
京子のあやつる二体の式神。白桜と黒楓の連携攻撃が秋芳の身に迫る。
この二体はセットで動かすことを前提で調整してあるため、その同時攻撃は息をつくひまもないほどの速さと巧みさを持つ。
白桜の太刀が虎狼さながらに地を走り、黒楓の薙刀が飛燕の如く宙を切る。
峰打ちではない。仮に峰打ちだったとしても、あたればただではすまない本気の勢いの攻撃だ。
しかし秋芳はそのことごとくを避け、あるいは受け流す。
「緤べて緤べよ、ひっしと緤べよ、不動明王の正末の本誓願をもってし、この邪霊悪霊を搦めとれとの
大誓願なり。オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ!」
京子は転法輪印を結印し、続けて呪縛印を組みながら呪文を唱え、じゅうぶんに練られた不動金縛りの呪を秋芳に放つ。
京子の呪縛が秋芳の身を拘束しようとした瞬間、秋芳が消えた。
!?
物理的に穏形する。透明になる術でも使ったのかと見鬼を凝らす京子。
後ろに気配を感じた、その時。首筋に軽く手刀があてられる。
「……負けたわ。ひょっとして今のが禹歩?」
禹歩とは霊脈に入り瞬間移動する、帝国式陰陽術の一つだ。
「いやちがう。今のはただの体術だ」
「でも消えたわ。その後であたしの後ろにいた」
「消えたように見えただけだよ。仙術や魔法の類ではない。武術としての縮地の術。軽功の一つだな」
仙術の縮地とは地脈を縮め長距離をわずかな時間で移動する術だ。では武術としての縮地とは?
瞬時に相手との間合いをつめたり、相手の死角に入り込む体さばきを縮地と呼ぶ。
『手足をもって動かずに動く』
手先や足先で動くのではなく、身体全体を駆使して動く。
身体の全体が連動しており、特定の部位が目標に向かっているわけではないので相手はその動きを認識できず、目には消えたように映る特殊な動作のことをさす。
日本の武術にも『無足之法』という似たような技術が存在する。
「だがこうも上手く決まるとは思わなかった。君の自主練につき合うことは俺自身の訓練にもなっている。ありがたいね」
休日や放課後は陰陽塾の屋上でもっぱら京子に呪術の手ほどきをしている。
笑狸などは『夏目ちゃんの監視と護衛はどうしたの?』とたびたび指摘してくるが『そっちはおまえに任せた』と、京子につきっきりだ。
ここ最近はこのような模擬戦もするようになった。
「ならいいんだけど、にしても全然勝てる気がしないわ。やっぱ春虎とは大ちがいね」
ここで秋芳と模擬戦をする前、京子は春虎に乞われて地下の呪練場でも模擬戦まがいのことをしていたのだ。
春虎は入塾早々夏目をつけ狙う夜光信者と戦って以来、定期的に京子の式神と実戦に即した訓練をおこない、呪力の使い方や呪術戦そのものに慣れるよういそしんでいる。
夏目には昔からある噂がついて回っている。それは現代陰陽術の祖にして東京に空前の霊的災害。霊災を起こした張本人である土御門夜光の生まれ変わりだという噂だ。
そのため夏目は夜光を盲信する一部の過激な思想の者達からつけ狙われているのだ。
そして春虎は土御門家に伝わるしきたりで、夏目に式神として仕えている。だからこそ主たる夏目を守るため、鍛錬をおこなっている。
「おいおい、きのう今日こっちの世界に入ったやつとくらべてくれるなよ」
これにはさすがに苦笑する。春虎は霊力こそ常人離れした大きさを持つが、最近まで陰陽師と縁のない普通の人として暮らしてきた。呪術の知識も技術もからっきしなのだ。
対して秋芳は幼少の頃から山野を駆け、寺に篭もり、修行修行の毎日をすごしてきた。
京子にしても似たようなもので、日常的に呪術の手ほどきを受けて育っている。
「今、あいつに必要なのは呪術に関する最低限の知識。そして霊力を呪力に変換する技術であって、経
験は二の次三の次なんだがなぁ」
「そうよねぇ、この前の小テストも散々だったし」
「ああ、また夏目にどやされてたな」
顔を見合わせてため息をつく。
「話しは変わるが、今日はこれからどうするんだ? ヒマなら映画でも観に行くか?」
言いながら軽く抱きしめ、耳朶を噛むようにキスをする。
「ンっ! ん…、ごめんなさい。今夜は家の用事が、お祖母様との約束があるの」
「そうか、わかった。じゃあせめて下まで一緒させてくれ」
京子は陰陽塾の塾長である倉橋美代と共に車で登下校している。
「ええ、下まで一緒ね」
「ところで秋芳君、あの噂知ってる」
一階ホールでわかれる時、京子が唐突に聞いてきた。
幼い少女の幽霊が、渋谷の街をさまよい歩いている。
最近そのような噂が流れているというのだ。
いわく、両親が離婚して父親のもとで暮らしていたのだが、母親が恋しくなり、独り母に会いに行く途中で事故に遭い、死んでしまった。
そして自分が死んでしまったことに気づかず、今も母のいる家を探して街をさまよい歩いているのだが、迷子の少女だと思って下手に声をかけた者は、その少女と共に永遠に街をさまようことになるのだという――。
「ね? なんか、いかにもそれっぽいでしょ?」
「さまよう少女の霊、か……」
「あら、なにか心あたりでもあるの?」
「いや、そうじゃない。ただ前にそういう感じの動的霊災を降したことがあってな」
「どんな霊災?」
「碓氷峠の撞木娘」
碓氷峠の撞木娘。
江戸時代の妖怪カルタなどに描かれる遊女の妖怪。
撞木というのは寺の鐘を叩くT字型をした仏具で、かつて京都にはT字路をした造りの撞木町という色町があり、そこの遊女は撞木娘と呼ばれ、江戸庶民の間でも撞木娘と言えば遊女をさすようになった。
江戸時代に重要だった五街道のうちの一つが中仙道で、途中には宿場町がある。宿場町には飯盛女と呼ばれる仲居が働いているのだが、その多くは非公式の遊女だ。
貧困のために無理やり売られてきた少女が多く、その過酷な環境から逃げ出しても家には帰れない。売られた金額分の客をとらずに逃げ帰ったりすれば、女衒の雇ったヤクザ者たちから酷い仕打ちを受けるからだ。
進むも地獄、退くも地獄。行く場所もなくさまよった末に力尽きた遊女達の骸は碓氷峠に捨てられ、野ざらしにされたという。
その怨念が妖怪・撞木娘と成ったのだ。
秋芳はそのような霊災を過去に降したことを京子に話した。
「あの娘はそういうタイプ・スペクターの霊災だったな」
タイプ・スペクター。俗に言うところのアンデッド・モンスターで、いずれも伝承にある『死んでからよみがえった』怪物に類似する特徴をもった動的霊災。あるいはそれらの生成りをこのように分類している。
ちなみに現在の汎式陰陽術ではいわゆる『幽霊』と呼ばれるような存在を通常とは霊相の異なる特殊な霊災として定義しており、これらタイプ・スペクターには分類されない。あくまでも『亡者のような』外見・特徴を持った霊災に対してタイプ・スペクターと呼称しているのだ。
あまりに霊力の強い人間や様々な呪的条件がそろった場合、人は死後、その残留霊体が特殊な霊災の核となることがある。この『本物』の幽霊はおもにタイプ・オーガに分類される傾向にある。
「……遊女の霊だなんて、ひどい話ね」
「ああ。…そのさまよう幼い少女の幽霊の話だが、俺の知るかぎりそんな痛ましい事件が渋谷で起きたなんて記憶にない。たんなる噂だと良いな」
「そうよね。そんなかわいそうな子、いないほうが良いわ」
わかれのキスをしようとしたが、周りに人の気配があったので普通にさよならをして、きびすを返す。呪練場にまだ春虎がいるかも知れないので、様子を見に行くつもりだ。すると――。
「シクシクシクシク……」
秋芳の耳に奇妙な泣き声が聞こえてくる。
「かわいそう…、撞木娘ちゃんかわいそう…」
屋内に植えられた竹の陰で一人の少女が悲しげにしていた。
周りに感じた気配はこの少女のものだろう。
見覚えのない顔をしている。ショートヘアでずいぶん小柄だ。サイズが合っていないのか制服の袖があまっている。
なかなか整った顔立ちをしているのだが、妙に存在感が希薄で、なんともいえない透明感があった。
そんな少女が無表情でシクシクと声をあげて涙も流さずに泣いている。
不気味だ。
(そっとしておこう)
黙って横を通り過ぎようとした秋芳の袖をひしっ、とつかむ。
まるで幼子が父親にすがるような様だ。
秋芳は一瞬、そう思った。
「…………」
「あなた。今、私のことを幼い少女だと思わなかった?」
「……ああ」
「私が小さくてかわいい幼女だからね」
「いや、小さくてかわいくて幼く見えるけど、幼女ではないでしょう、幼女では」
「ふふ、正直ね。でも幼女に見えないなんて残念。私のこといくつに見える?」
「十二歳」
「ああッ! 微妙! なんて絶妙な年齢を提示するのかしら。幼女というには少し大人でビターな味わいの少女の頃。あなたって、いけずね」
「あー、悪いけど俺ちょっといそいでるんで」
「待ちなさい。撞木娘ちゃんの話をくわしく聞かせて。先輩命令よ」
「ご先輩でしたか」
「そうよ。私は二年、あなたは一年。陰陽塾では奴隷の一年、鬼の二年、閻魔の三年という絶対的な封建主義が敷かれているから、先輩の命令は絶対よ」
「そんな男塾みたいなカースト制度ねぇよ! いや、くわしくもなにも、今さっき話したとおりの話ですよ。その様子だと聞いていたんでしょう?」
「ええ、聞いていたわ。あなたが撞木娘ちゃんを無慈悲に祓ったって」
「祓ってません。降したんです」
「え?」
「折伏して安全な寺にあずけました。今ごろフリーの式神してますよ。もっとも陰陽庁から見れば霊災あつかいでしょうが」
霊災か式神かどうかは合法(資格を持つ術者の制御下にある。陰陽庁の許可を得ている等)かどうかで判断される。
古来より存在する神霊の類でも、陰陽庁によって『霊災』あつかいされることもあるのだ。
「良かった、撞木娘ちゃんは無事なのね。でもせっかく降したのにどうして自分の式神にしなかったの? 幼女だったんじゃないの?」
「いや、幼女て…。俺はむやみやたらと式神を持たない主義なんです」
「もったいない。私なら式神にする」
「そうですか」
「幼女の式神を何十人も集めて身の回りのお世話をしてもらうの。食事の給仕から着替えの手伝い、お風呂では背中を流してもらったり、かわいい幼女になにからなにまで……。ああっ、天国! ヘヴン!」
「ずいぶんと幼い女子がお好きなんですね」
「当然よ。成長しきってない細い肩、強く握ったら折れてしまいそうな儚げな四肢、ふくらむ前の小さな胸。至高の芸術と言っても過言はないわ。私は幼女を愛でるという高雅な趣味。ロリータ道の求道者。ロリータ道とは陰陽道から分派独立した精神修養の道で――」
(そっとしておこう)
自分の世界に浸る謎の先輩を放置して、秋芳はその場を後にした。
秋も近づき、日の落ちる時間も早くなった。そんな夕暮れに染まった陰陽塾の校舎を見上げていると、どうにも心が騒ぐ。
(やっぱ黄昏時ってのは妙にワクワクするな)
霊災の発生がもっとも多いのは夕方から深夜。
いわゆる逢魔が時から丑三つ時にまでの時間帯で、現役の祓魔官から見たら油断のできない一日の始まりだが、秋芳はこの時間帯が、朱に染まる夕方の学校や公園が好きだ。
どこか怖い、けれども心惹かれる時間と空間。
「なにたそがれてるの、早く帰ろうよ」
デニムの短パンから延びた白い脚もまぶしい快活な印象の少年。笑狸がせかす。
「別にいそぐ理由もないだろう。……ん?」
陸橋の上に立ち、同じように陰陽塾を見上げる一人の少女の姿が目に映った。
まだ小学生だろうか? 遠目にも胸元にレースをあしらっただけの白いワンピース姿が妙に浮いている。夏場の避暑地あたりにいれば絵になる格好なのだが、どこか違和感を感じる。
「あの少女、人じゃないな」
秋芳の見鬼が少女のまとう人ならざる気を察知した。
「え? あ! ほんとだ。ていうか穏形してない? あの子。言われるまで気づかなかったよ」
「ほんとね。あれなら普通の人には見えないわ」
「わっ、誰この人? いつの間にいたの?」
「……今日は隠形の名人によく会う日だな」
突然声をかけてきたのは先ほど秋芳が出会った二年の先輩だ。
「この子だぁれ? うちの生徒じゃないみたいだけど」
「一応俺の使役式ってことになってる化け狸の笑狸だ」
「笑狸です。秋芳の伙伴やってます」
「ああ、自己紹介がまだだったな。俺は――」
「賀茂秋芳くんでしょ。知ってるわ。わりと有名だから。私の名はすずよ」
『すず』と名乗った先輩は笑狸の全身を上から下まで、ゆっくりと視線を這わせ、一言。
「おしい」
「「なにが?」」
思わずハモる秋芳と笑狸。
「だって男の子なんですもの。外見年齢も、もう少し若ければ……」
「幼女の式神を連れ歩く趣味はないんでね」
「ショタなの?」
「俺はノーマルだ。そんなことよりここでなにしてるんですか、すず先輩。まさか俺を待っていたわけじゃないでしょう?」
「当然でしょ。なんで私がむさ苦しい野郎なんて待ってなくちゃいけないの。自分が幼女にでもなったつもり? 自惚れないでちょうだい」
「ねぇ秋芳、この人……」
「言うな笑狸。この人は少しだけユニークなだけだ」
「私は彼女を待ってたのよ」
そう言い目線を陸橋上のワンピース少女に向ける。
「私は街をさまよう悲しい幽霊少女を救済する使命を帯びてるの」
「なるほど。あの子をあなたの式神ハーレムの一員にするつもりですか」
「ちょ、あなた、なに言って、そんなわけないじゃない」
「術者の力量にもよりますが、動的霊災を降ろし。一度自分の式にしてしまえば、外見はわりと自由に変えられますからね。幼女タイプの狐狸精や猫又なんて、いかにもいそうですし。そもそも性別のない付喪神なら外見も人格も自由に設定できるので、身の回りの物を幼女だらけに変えることだって――」
「じゅるり……、その発想はなかったわ。ナイスアイデアね」
そんなやり取りをしている間にワンピース少女が降りて来た。こちらには注意を向けず、なにがそんなに気になるのか、しきりに陰陽塾を見つめている。
長いまつ毛に整った鼻梁とすっきりとした頬。細いおとがいから首筋への滑らかなライン。日陰に咲いた花を彷彿とさせる、影のある美少女だ。
まだ小学校も出ていないような年齢だが、あと数年もすればまわりの大人がほうってはくれないだろう。
彼女が成長することのできる存在ならばの話だが……。
風もないのにかすかに揺れる長い黒髪。いかにも幽霊っぽい雰囲気をかもし出しつつ近づいて来る。
「来たわ。あなた達はここで見てなさい。私があの子を救ってあげる」
「……せいぜい気をつけろよ」
「迷い牛の怪異を祓った誰かさんみたくがんばってねー」
秋芳は止めても無駄と、笑狸は無責任に声をかける。
歩を進める少女の前に立ちふさがるすず先輩。
「待って。私はすず。あなたのことを助けてあげるわ」
「はあっ!? ヤバっ、穏形がぬる過ぎたか……。チッ」
隠形中に声をかけられれば驚くのは普通だが、清楚で可憐な外見に似合わない、くだけた口調が少女の口から飛び出した。
「あなたのことは知ってるわ。お母さんに逢いたいのね。いいわ、私がママよ」
「説得になってねぇ!」
「わけわからないんですけど」
「私はあなたのママ。そして姉であり妹、すなわちシスター。家族なの。さぁ、おいで。もうだいじょうぶよ、あなたは一人なんかじゃない。だって私達はもう、家族なんだから……」
「お、後半の科白だけならそれっぽいな」
すず先輩は慈愛に満ちた微笑みを浮かべ両手を広げ、少女に歩み寄る。
「さぁ、ママのおっぱいを吸わせてあげる。その代り……、私にもあなたのおっぱい頬ずりさせて、お尻をなでさせて、髪の匂いを嗅がせてちょうだい!」
「それじゃ変態だよ!」
「キモいんだよ変質者っ!」
抱きしめようと両手を広げていたためガラ空きになっていたすず先輩の腹部に、肝臓部分に少女のパンチが炸裂した。
「げふぅっ」
たまらずよろめき、地面につっぷする。
「う…、うげぇぇっぇ! お、おっおおっうぇっぷ、うげぇぇぇぇ。つ、強い。幼女強い……」
口からお花畑(自主規制)を吐き出し、悶絶するすず先輩の姿を見て、さすがに少女も顔色を変えた。
「ちょ、ちょっと。大げさすぎ! あたしそんなに強くぶってないんですけど」
「今のは肝臓にクリーンヒットしたからな、あたり所が悪かった。しばらく呼吸困難で地獄の苦しみだろうよ」
「そ、そっちが先に変なことしてきたんだし! あたし悪くないし!」
少女はそう言い、きまり悪げにその場を立ち去る。
「うう、ま、待っ、うぐぇ~」
「無理しちゃダメですよ、すず先輩。今は安静にしててください」
「よ、幼女。幼女が行っちゃう。ダメよすず、早乙女涼。こんなことでくじけちゃダメ。この前のことを思い出して。八歳くらいの美しい幼女を見かけて一日中尾行したでしょ。家に帰った彼女の様子を撮ろうと一生懸命庭の木に登ったら、天窓からシャワーを浴びてる幼女の姿が見えたじゃない。なんという喜び、なんという幸せ。努力すれば、あきらめなければ幼女の神様はかならず報いてくれるの。立って! 立つのよ、すず!」
(完全に犯罪者じゃないか)
(おかしな人だとは思ったけど、ここまで変だとは思わなかったよ。どうする秋芳?)
「負けない。幼女のためにも拙者は負けるわけにはいかないでござる」
「急になにその口調!? 拙者とかござるってなんだよ!」
すず先輩の体から霊気が立ち上る。
「おお、これは精神が肉体を凌駕しようとしている!」
「う、うげぇぇぇっぷ。く、苦しい。し、死にそう……」
ダメだった。
「しかたない。笑狸、ちょっとホールまで連れてってソファーに寝かしてやれ。それとこれで水でも飲ませてやれ」
笑狸に硬貨を渡して少女の後を追おうとする秋芳。
「うん、わかった。ねぇ、秋芳。あの子って霊災なのかな?」
「それを確かめるのさ」
間近に視て少女の気がおかしいことに気づいた。
人にあらず妖にあらず。生者とも死者ともいえない奇妙な霊気をまとっている。
気になる。
少女は秋芳が後を追ってくると気づいたらしく、ワンピースをひるがえし、駆け出した。
かなり速い。
少なくとも一般的な小学生女児の走る速さは超えている。さらに少女は雑踏の中を人も避けずに走っているのだ。
人にあたってもすり抜けている。
(幽体か? だがさっきはすず先輩に物理的な一撃をくわえていた。やはりあの子はただの幽霊なんかじゃないな)
対して秋芳は生身の人間だ。人ごみの中をつっきるわけにはいかない。これでは距離が遠のくばかり。と思えたが、華麗な足さばきで雑踏の中、人を避けて走り続ける。
プロのサッカー選手は周囲の選手の動きを俯瞰して観て、その動きに対処するという。
秋芳もそのようにして群衆の動きを読み、プロボクサーばりの流麗なフットワーク&ステップを駆使して少女との距離をつめる、八方目と軽功のなせる技だ。
大通りに出たところで走りながら話しかける。
「まて、話がある」
「変質者と話すことなんかないし」
「俺をあの女と一緒にするな。その身体のことについて聞きたいんだ」
「ハァ!? あたしの身体って…。あんたロリペド? キモッ! マジでキモいキショいウザいゲスいんですけど」
「ちがうわ! その幽体のことについて興味があるんだよ」
「……」
「優秀な陰陽師とお見受けする。その霊妙な術について、ぜひお聞きしたい」
「やだ。なんで見ず知らずのあんたなんかに、あたしの術をタダでご教授しなきゃいけないわけ?」
「酒くらいおごるぞ」
「あたし未成年なんですけど」
「ならお茶をおごろう」
「は! なにそれ、結局ナンパじゃん」
「少し話すだけだよ。美味いお茶の飲める店を知ってる。三段トレイに乗ったケーキやスコーン。サンドイッチをつまみながら口にする紅茶は格別だぞ」
「……」
「苺とラズベリーのケーキにキャラメルカスタード、生クリームのシブースト……」
「……」
「日本茶が好みか? 本物の和三盆を使ったあんみつを出す店を知ってるし、コーヒーなら――」
「だ、だ、だ、黙れぇ! あたしは食べ物につられるようなガキなんかじゃねぇっ!」
そう叫ぶと少女はどこからともなく一冊の本を取り出す。単行本サイズのハードカバー。血のように赤い装丁をした聖書だった。
「式神作成! 急急如律令!」
掲げ持った聖書が光を放ち、風を受けたかのようにページがめくれ、ちぎれ飛び、あたり一面を乱舞する。
空を舞う聖書のページは折れ曲がり、張りつき、重なり合い、次々と形を成していく。現れたのはカラスの姿をした数十体におよぶ式神たちだ。
「隠形しているとはいえ街中で甲種呪術とは大胆だな!」
そう。少女も秋芳も穏形したまま走っていたのだ。これは並の芸当ではない。
「かかれ!」
主の命令を受けて式神たちは秋芳に群がる。だが攻撃するのが目的ではない。目くらましの煙幕がわりだ。
「禁群則不能集、疾く!」
群れを禁ずれば、すなわち集うことあたわず。
秋芳が口訣を唱えると、式カラスたちはてんで散り散りに飛び去り、一羽だけ突っ込んできたカラスは刀印を結び、切り伏せた。
「なに? 今のって持禁!? あんた呪禁師なの?」
「お、よく知ってるな。我ながらマイナーだと思うのに」
「呪禁……、道教をもとにした呪術で、呪文や杖刀をもちいて邪気や害獣を退ける。中でも持禁と呼ばれるものは気を禁じて物事の性質を禁じ、特定の行為を封じたり存在自体を消滅させたりする。律令制時代。典薬寮に医者として仕えていたが、陰陽道や仏教の台頭により衰微していった……」
書物に記された呪禁についての内容をそらんじる少女。やはりただ者ではない。
「そうだ。もしなんならそちらの術について教えてくれるかわりに、こちらの呪禁について教えるが…」
「興味ないし」
「なら、陰陽塾について話そう」
「――っ!」
「陰陽塾に興味があるんだろう? この制服を見てのとおり俺は陰陽塾の塾生だ。知っていることなら教えるぞ」
少女の顔に逡巡の表情がよぎる。
と、その時――。
『そこの二人。甲種呪術の現行犯で逮捕する。止まりなさい!』
スピーカー越しの声。背後から黒い車体に陰陽庁のマークの入った車が、呪捜部の巡回車がこちらに向かって走ってくる。
「あ~、うっざ。めんどいのに見つかっちゃった」
「まったく、必要な時には現れず、邪魔な時にかぎって現れる。警察と一緒だな」
「それ、言えてる」
二人は制止の声に従うどころか、駆ける速度を速めた。
『おい。手間をかけさせるな』
妙に不敵な呪捜官の声。エンジンをうならせ、二人を追跡する。
「自分で言うのもなんだけど、あたしの穏形はバッチリだし、あんたの穏形も……、まぁイケてるわ。それを見つけるなんて、あの呪捜官かなりできるんじゃない?」
「そこそこ見鬼に長けているのは事実だな」
二人は巡回車をまくため、角を曲がり細めの道に入った。
『だから、余計な手間をかけさせるな!』
なんと巡回車は片輪を浮かして狭い路地に入り、追いかけてきた。
「なにあいつ、しつこい!」
「モタモタするな」
「してないし!」
繁華街から住宅街。そしてまた繁華街へ。二人は渋滞した道路を横切り、商店街へと跳躍。
わずかな滞空、見事な着地、ふたたび疾走。
肩を並べて大通りを駆ける。背後から鳴るクラクションによる猛抗議……。
前方にフェンスが見えた。高さはニメートルを超えていて、よじ登るには少々時間がかかりそうだ。
「先に行って手を貸してやる」
「え?」
少女の返事を聞かずに秋芳は猛然とダッシュし、フェンスの手前で横に跳び、壁を足がかりにもう一段ジャンプした。三角跳びだ。高々と跳躍してフェンスのてっぺんに飛びつくと、下にいる少女に手をさしのべる。少女はその手をがっちりと握りしめ――。
「「せーのっ」」
少女の跳躍にタイミングを合わせ、秋芳が引っ張りあげる。フェンスの向こう側へと転がるように移る。
「よし、あの呪捜官も、まさかフェンスを突き破ってまで追っては来ないだろう」
「……つーか、あたしこのくらいの網。すり抜けられるんですけど」
「……そういえば、そうだったな」
「でも、ま。手を貸してくれたお礼は……。て、しないっての! そもそもあんたが追いかけてくるから術使ったんじゃん。あいつに見つかったんじゃん。あんたのせいじゃん!」
「術を使っても使わなくても、あいつにその姿を見られたら誰何されてたんじゃないか? それ、帝式の術だろ。それも魂をあつかう」
「へぇ……。あんたくわしいじゃん」
「最初は生き霊の類かと思ったが、どうもちがう。入神の法や離魂術と呼ばれる類の幽体離脱の術を使っているな。それって禁呪指定されてないか?」
帝式。正式名称は帝国式陰陽術。
この系統に属する呪術はいずれも実戦的で強力な力を持ち、禁呪指定されているものも少なくない。特に魂に関連する呪術はだいたい帝式にふくまれる
「それに対して俺は現役の陰陽塾生だからな、街中で普通の術を使っても傷害や物損でも起こさないかぎり、まぁ平気っちゃ平気だ」
今の時代。陰陽庁の定めた陰陽法により、甲種呪術の使用は有資格者にのみ許されていて、その使用に関しても厳密には細かい規定が設けられている。
だが陰陽塾は陰陽庁は公式に認可している陰陽師育成機関であり、この塾生は『陰陽Ⅲ種』の資格者。いわゆる準陰陽師に近い権利特別に与えられており、陰陽塾塾長の責任下において甲種呪術の使用が認められている。
もちろん、だからといって街中で無分別に使っていいわけではないが、術を使っただけでは犯罪にはあたらず、それを理由に逮捕はできない。
「……あんた、なにが言いたいわけ?」
「とばっちりを受けたのはこっちのほうだ」
「はぁ!? 別に一緒に逃げてくれとか頼んでないし、それって言いがかり――」
「賀茂秋芳」
「え?」
「俺の名前は賀茂秋芳。よろしくな」
そう言って手をさしだす。
握手はもともと武器を持ってないことを示す行為だ。あまり欧米の風習を好まない秋芳だが、こういう時は握手にかぎる。
不承不承ながら握手に応じる少女。
「……あたしは大連じ――」
ハッと言葉を飲み込む少女。
「大連寺?」
「だ、だ、ダイレンジャー好き?」
「は?」
「『五星戦隊ダイレンジャー』が好きかって聞いてんだよ!」
「あー、あの昔の戦隊ものね。三国志の登場人物をモチーフにしたキャラクターとか、中国武術とか出てきて、面白かったな。つか、それがどうしたんだ?」
「べつに。あ~、あたしの名は春鹿。季節の春に動物の鹿で春鹿」
「鹿は秋の季語だが、春の鹿というのも趣があって良い名だな」
「ふん、褒めてもなにも出ないし」
「で、さっきの話の続きだが陰陽塾に興味があるなら色々と――」
『逃げられると思ったか? これ以上手をわずらわせるようなら、公務執行妨害も追加する』
呪捜官の巡回車が回り込んで追ってきた。
「ああもう、しゃらくさいやつ!」
「次こそまくぞ」
ふたたび始まる逃走劇。
目前にT字路が迫る。
「春鹿。おまえは右へ行け」
「OK。あんたは左に逃げるって寸法ね」
「いや、ちがう。こうするんだ」
春鹿が右へ曲がった後、秋芳は回れ右。180度反転して巡回車に向かって突進した。
『チキンレースのつもりか? フッ、甘いな。呪捜官をなめるなよ』
巡回車はスピードを落とすどころか急加速して秋芳に迫る。もはや捕縛どころか轢き殺すことも辞さない勢いだ。
衝突する瞬間、秋芳の姿がのっぺりとした人形の影法師と化し、ボンネットに乗り上げ、フロントガラスを覆う。
『なに!?』
これでは前が見えない。
巡回車は右へ左へ蛇行し、そのままT字路へと突進。壁を突き破って停止した。
ラジエーターから激しく蒸気が立ち上がる。
もはや走行不能だ。
「くそっ」
エアバッグを押しのけ、シートベルトをはずして車から降りた若い呪捜官が毒づく。
「簡易式を囮にしての変わり身。基本中の基本のフェイクにひっかかるとは…。だが、いつ変わったんだ……?」
見鬼の力には自信がある。それゆえこうも鮮やかにたぶらかされるとは夢にも思わなかった。認識不足だ。自分自身の甘さが憎い。
「だが式符を現場に残るような使いかたをしたのは素人の浅はかさ。式符に残る術式を調べれば、そこから足がつくぞ」
呪捜官がフロントガラスに貼りつく札を改めようと手をのばす。
式符が一枚。それに重なってもう一枚の呪符がある。火行符だ。
「な! しまっ――!」
火行符から火の手があがり『証拠』の式符もろとも灰と化した。
証拠隠滅。
「くっ……」
若い呪捜官が苦々しく歯噛みする。
失態だ。
こうした失態は己の若さと絶対的な経験不足の証だろう。自分はなまじ優れた能力を持つがゆえに『能力的に困難な局面』に直面すること自体が少ないのだ。これは自惚れではなく単なる事実である。実際『窮地を切り抜けた経験値』が少ないことは軽視できない問題だ。
くやしい。
だがこのくやしさと屈辱を糧に自分はさらに成長してやる。若き呪捜官はそう心に誓った。
「あっははは! あんたやるじゃん」
路地裏でけたたましく笑い転げるワンピース少女、春鹿。
秋芳は自分の気を乗せた簡易式を発動すると同時に火行符を仕込み、それを巡回車に向け突進させて、自身は縮地の術で春鹿のほうへと移動して共に離脱したのだ。
もちろんこの間も穏形を、禁感功を駆使しているため、呪捜官の注意は『気』の濃い簡易式のほうへと向かったのだ。
「穏形して街中を全力疾走。なかなか気持ちの良いもんだ。さて、と…。二度も邪魔が入ったがこれで落ち着いて話せるな。陰陽塾に興味があるんだろ? 俺の知ってることは教える。だから――」
「あー、わかったわよ。あたしの術も教えてやるから、その前にこっちの聞きたいことに答えてくれる?」
「ああ、いいぞ。答えられることならな」
「土御門夏目。の式神のことなんだけどさぁ、なんか分家の人間を式にしてるそうじゃん。今どきそんなしきたり古すぎてチョーうけるでしょ。だ、だから気になっただけ。それだけなんだけど……」
どうも春鹿は陰陽塾そのものより土御門春虎について知りたいらしい。秋芳はプライバシーに深く関わらない範囲で春虎のことを教えた。
夏休み明けに入塾してきたが、それまでは呪術と無縁の生活だったらしい。
特技は呪符の早打ち。
今まで十二回も車に轢かれかけたことがある。
うどんが好き。
虎柄のスカジャンを愛用。
実技はそこそこ、座学は最低。
普段どんなことを話しているか、そんなあたりさわりのない内容だった。
「ふ~ん…。なんか普通。つまらないんですけど」
「もっとつっこんだことが聞きたいなら本人にでも訊ねればいいさ」
「じゃ、一応約束だしあたしのコレについても教えてあげる。あんたの読み通り出神の法をアレンジした、あたしのオリジナルだけど」
出神の法。
仙道にある幽体離脱の術。
世界は陰と陽。二つの気からなり、さらに木火土金水の五気に分類される。人の魂もまた同じであり、魂と魄二つの霊体からなる。魂は精神を支える気にして陽に属し、魄は肉体を支える気にして陰に属す。二つ合せて魂魄と呼び、これこそがいわゆる魂だ。
陽神のみを飛ばす幽体離脱では意識はあっても肉体がないため物をつかんだり人に触れることはできず、陰神のみでは疑似的な肉体こそあるものの本人の意識がなく、ただの肉人形に等しい。
世界各地に伝わるドッペルゲンガー現象などは、これらの幽体離脱が原因ではないかといわれる。
陰と陽。魂と魄を合わせて体外に出すことで、半体半霊の『分身』を作り出すことができるのだ。
アストラル、エーテル、コザール、煉精化気、煉気化神、煉神還虚、還虚合同、小周天、順成人、逆成仙、星幽体投射――。
専門用語をまじえた春鹿の説明は思ったよりも長い話になった。
最初は気乗りしなかった春鹿だが、説明しているうちに熱が入ったらしく、秋芳が節々にもらす感想にも解説を入れる。
話しは思った以上に盛り上がり、部分的、局所的だが、たがいに気心が通じたような気になった。
「あー、なんかあたしのほうが一方的に情報提供してない? 割に合わないんですけど」
「ああ、ドンペリでもルイ十三世でもいい。高い酒でもおごるからそれで帳尻を合わせてくれ。どうせその体ならいくら飲んでも二日酔いにはならないんだろ?」
「だからあたし未成年だって。お酒は飲んじゃダメなの。まぁ、お茶ならいいけど……。けど最低百万回はおごれ。そのくらいの価値はあったでしょ。今のあたしの話」
「ああ、おまえの話は実に面白かった。いいさ。じゃあさっそく――!」
ぞわり。
周りの空気が変わった。まるで気温が一気に十度は低下したかのような感覚。この気配は、瘴気だ。
後方を振り返る。薄暗い路地の向こうから、なにかが近づいて来る。
秋芳の反応に遅れるかたちで春鹿もピクリと反応をしめす。秋芳が見つめている方向に顔を向けて、目を細ませる。
「……霊災。かなり大きい。これってもうフェーズ3?」
霊気が歪に偏向し、瘴気と化した存在が姿を現す。
それは幼い少女の姿をしていた。春鹿と同じか、それよりももっと幼い。
「ママのおうちに行きたいの。お兄ちゃんたち知らない?」
透き通るような蒼白い肌をした黒髪の少女は心細げに訴えかけてくる。その姿は見る者の保護欲をかき立て、すず先輩でなくても抱きしめてしまいそうになるだろう。
「ねぇ、一緒にママのおうちを探してくれる?」
今にも泣き出しそうな表情で懇願してくる。
「ねぇ、どうするのさこいつ。祓っちゃう?」
秋芳はじっと少女を見つめる。瘴気のかたまり、移動型・動的な霊災。五気の偏向は見られない。いわゆる『幽霊』の類ではないだろう。
「街の噂が霊災を起こしたのか、この霊災が街の噂のもとなのか、いずれにせよこの世をさまよう死者の霊なんかじゃないのは幸いだ。さすがにそういうのを力づくで祓うのは気が引けるからな」
「噂って、あんた人の想いが霊災を生み出すって説を信じてるタイプ?」
霊災というものは人の想いの影響を受けやすい。
こんな妖怪がいるんじゃないか?
あの人は死んで幽霊になったんじゃないか?
このような人々の想いがフェーズ3以上の移動型・動的な霊災。俗に言う幽霊や妖怪変化の類を産み出すことが多々ある。
霊災に接し、呪術を生業とする者たちはそのような考えを古くから信じており、秋芳もまた、そう信じている。
「おまえは否定派なのか?」
「ん、今のところ否定も肯定もしない。答えを出すのはきちんと実験して結果を出してから。同じ条件で同じ実験を繰り返して、誰がやっても同じ結果になって始めてあたしは判断する。霊災に関しちゃ謎が多すぎだから、今はなんとも言えないわけ」
「なにやら『研究者』みたいな口ぶりだな」
「……勘の良い男ってキライ」
「ん? なんか言ったか?」
「べつに~。それよかどうすんのさ、この霊災。あんたの考えだとタイプ・レジェンドに分類されるわけだけど」
タイプ・レジェンド。昔からの伝承や神話や伝説に登場する神魔でななく、口裂け女や人面犬、テケテケやカシマレイコ、マッドガッサーといった都市伝説に出てくる怪異に類似した動的霊災をこう呼ぶ。
「もしくはタイプ・スペクターか、最近あのタイプがやたらと多いんだよな」
「へぇ、そうなんだ」
「そうなんだって、おまえ霊災関連のニュース見てないのかよ?」
「うっさい。やることが多くてそういうのチェックしてるヒマとかないし。……つか多いの? タイプ・スペクター?」
「ああ、九月あたりからやたらとな。どっかのアホが不完全な泰山府君祭でもやらかして、冥界の道でも開けちまったんじゃないか?」
「――ッ!」
秋芳の思いつきの軽口を聞いて春鹿が顔をこわばらせる。
「ママのおうち、探してくれないの?」
少女の姿をした霊災はほろほろと涙をこぼした。
「もういい、お兄ちゃんたちも死んじゃえ」
少女の下半身が爆ぜ、無数の大蛇が襲いくる。
「げっ、なにコイツ。いきなり変生するとか生意気なんですけど!」
「朝日さし、小曽ヶ森のカギワラビ、ホダ になるまで恩を忘るな」
春鹿はとっさに霊体化することで攻撃を透かし、秋芳は蛇除けの呪を唱えることで防御した。
「急急如律令!」
春鹿が呪符を投じた。火行符だ。
膨れ上がった火球が急速に収斂し、青白く輝く光の矢と化し、異形と化した少女に急迫する。命中するかに思われたそれは突如として出現した水の壁にはばまれた。
少女の下半身から無数に生えた大蛇が水を吐き出している。
「その姿は……、九嬰か!」
「は? なにそれ?」
「『淮南子』という書に記されている妖怪で、中国北部の凶水という沼沢地に棲み、上半身は美しい娘だが下半身からは九匹の蛇が生えている。水から上半身だけだして旅人を誘惑し、水の中におびき寄せ、むさぼり食うという。またその口からは火や水を吐くともいわれる」
「タイプ・スペクターでもレジェンドでもなくて、タイプ・キマイラだったってわけ? つかなんでそんなのが渋谷に出てくるのよ」
「さあな。……まぁ、渋谷の地下には大きな水脈があるし、水に属する霊災が生まれやすい環境ではある」
九匹の大蛇が鎌首をもたげ、大きく口を開く。
くる。
「俺は火を防ぐ、春鹿は水を」
「OK。て、テメェがしきんなよ!」
九匹の大蛇はてんでバラバラに火と水とを吐き散らす。
「禁火則不能燃、疾く!」
「邪なる水気をせき止めよ! 土剋水、急急如律令!」
秋芳の術が火を、春鹿の術が水を無効化する。
「火と水とか、相剋関係の術を同時に使うとか、マジありえなくない!?」
「吐いたそばから水剋火で相殺したら面白いんだけどな。ま、うまいことできてんだろうよ」
二人とも余裕だ。
対する九嬰はというと大蛇による物理攻撃も、水と火によるブレスも効果なしとあって退き気味になっている。
「ハッ! 逃がすかっての」
春鹿は聖書を広げ、無数の式を打とうとする。
「春鹿、こいつの弱点はおそらく『矢』だ。式を矢の形にリライトできるか?」
伝承によれば九嬰は羿という弓の名手に射られて退治された。矢による攻撃に弱い可能性がきわめて高い。
「まー、できるけど。あんたそれフカシじゃないでしょうね?」
「やればわかるさ」
そう言って秋芳も一枚の簡易式符を取り出して矢に象らす。
「式神作成! 急急如律令!」
「羿、養由基、李広、呂布。この矢はずさせたもうな。哈っ!」
秋芳はなにも呪文を唱えたわけではない。平家物語の那須与一が八幡神ら神仏に矢が命中するよう祈ったのと同様に、いにしえの弓の名手達に必中祈願したのだ。いわば乙種のおまじないに近い。
勁を蓄えることは弓を引くかの如し。勁を発することは矢を放つかの如し。
発剄による気を乗せた秋芳の矢は九嬰を貫き、春鹿の矢を象った数多の簡易人造式は九嬰の全身に突き刺さった。
断末魔の叫びすらあげることなく、九嬰は消滅した。
修祓完了。
「あ~あ、とんだタダ働きだった。特別手当でも出せっての」
「……おい、おまえ体が透けてきてるぞ。だいじょうぶなのか?」
秋芳の指摘どおり春鹿の体はみるみる色を失い、消えかけている。
「ゲ、ヤバっ。ちょっと力を使いすぎた。つかもう時間切れだっての? ああもう――あのさ、今日はなんていうか悪くないっていうか、その、え~っと――」
あわててなにか言おうとする春鹿だったが、あっという間に消えてしまった。
完全に消え去る前の一瞬。ほんの一瞬だけ春鹿の姿が別の誰かに、プラチナブロンドのツインテールにゴスロリ風の服を着た少女の姿になった。
今のが本来の姿だろうか?
「……本体に戻ったか。ま、あの調子なら無事に戻ってるだろうな」
幼女好きの先輩はどうしてるだろう。
秋芳も陰陽塾に戻ることにした。
都内某所。
陰陽庁の職員のために用意された宿舎で一人の少女が目を覚ます。
とたんに肌を刺すような刺激を感じる。多くの陰陽師が利用するこの宿舎には建物全体に結界が張られているのだ。一定以上の呪力に対して自動的に負荷をかけて中和させる、安全対策の結界が。
特に少女のいる部屋は特別仕様で、より強固な結界にくわえて、彼女を監視する術式までくわわっていた。
許可なく外出することはもちろん、室内で呪術を行使することも基本的に禁止されている。いわば軟禁状態だ。
「陰陽塾……、あいつ以外にも。なんか面白い奴いるじゃん」
少女の口元が自然にゆるむ。
また明日にでも『抜け出して』行ってみよう。
そう考える少女だったが、それができなくのは翌朝のことだ。
誰にも気づかれることなく抜け出していると思っていたが、それはまちがいだった。
朝一で宿舎を訪れた陰陽庁長官、倉橋源司の口から出神の法の使用禁止を命じられ、その手により呪力を大幅に制限される封印をされてしまったからだ。
少女が陰陽塾に行くのは、もう少し先になる――。
陸橋の上。秋芳はなんとなくきのうの少女がいるような気がしたので来たが、どうもあてが外れたらしい。
その手に一枚の呪符がある。カラスの式符を叩き落としたさいに、ちゃっかり拝借した、少女の式符だ。
「こいつを使えば気をたどって会いに行くこともできるが、それじゃストーカーだしな」
お茶をおごる約束は守るつもりだ。
だがそれは、もう少し先のことになりそうだった――。
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