東京レイヴンズ 異符録 俺の京子がメインヒロイン!
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序章
呪禁。
道教に端を発する呪術の一種。
存思、禹歩、営目、掌訣、手印という五つの技術を駆使して悪鬼を祓い、病気や災厄を防ぎ除去すると言われるが、その詳しい内容は不明である。
呪禁の中でも特に禁呪や持禁と呼ばれるものは、気を禁じることであらゆる事象の原因そのものを封じる(傷を禁じればたちどころに傷は癒え、人を禁じればその者は消滅する)ことができる、きわめて強力な呪術だったという。
その使い手は律令制時代の日本において典薬寮に属し、呪禁師と呼ばれた。
韓国連広足などはその名人であったと伝えられる。
のちに陰陽師や仏教の台頭によってその地位を追われ、本邦の呪術史から姿を消したと言われるが、 その真偽のほどは不明である――。
鬼の手にした巨大な金棒が振り落ろされる。
「あぶないっ!?」
秋芳の頭がグチャグチャに粉砕される様が脳裏に浮かび、思わず駆け寄ろうとする笑狸。
「来るなっ、問題ない、さがってろ」
半身に反って避けつつ、そう口にするだけの余裕が秋芳にはあった。
巷の陰陽師たちとちがい、体術には自信がある。
武術はもっとも実践的な魔術のひとつ。そのような考えのもと、幼い頃から鍛錬を重ねてきたのだ。
もっとも戦っている相手は二メートルを軽く超える巨躯の鬼。肉弾戦のみで倒すのは骨が折れる。
「禁武器則不能殺傷、疾く!」
武器を禁ずればすなわち傷つけ殺めることあたわず。
秋芳から放たれた気が鬼の手にした金棒にまといつく。
「GUGAAAAッッッ!!」
ふたたび鬼の攻撃。横薙ぎに振るわれた金棒が秋芳の体にめり込む。
骨も内臓もグチャグチャになるかと思われたその一撃はしかし、秋芳の体になんの傷も負わせなかっ た。真綿を押し当てられた程度にしか感じられない。
「Fuu?」
困惑する鬼。
その隙を見逃す手はない。
素早く導引を結び、口決を唱え、矢継ぎ早に術を行使する。
「禁手則不能持、疾く!」
手を禁ずれば、すなわち持つことあたわず。
鬼の手から金棒が落ちる。
「禁足則不能立歩、疾く!」
足を禁ずれば、すなわち立ち歩くことあたわず。
足元からくずれ落ちるように倒れ伏す鬼。
「GA、GAGAGAGAッ!?」
牙を剥き出し、狼狽する鬼。抵抗する力を奪ったことを確認し、最後の仕上げにかかろうとした、その時。
「GA、GAGAッ!、餓牙ッ、牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙牙阿阿阿阿阿阿
阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿阿怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨怨ッ」
哭いた。
まさに鬼哭。鬼の口から耳をつんざく大音声がほとばしる。
呪力のこもった鬼の鳴き声。抵抗力のない並の人間なら、聞いた瞬間に精神を侵され、卒倒。運が悪ければ命を失いかねない音波攻撃。
全身に気を廻らし、不快な邪気を跳ね除け、意識を集中する。
「うるせぇっ! 禁口則不能話、疾く!」
口を禁ずればすなわち話すことあたわず。
術が発動するや、あたりを震撼させていた鬼哭はピタリと鳴き止む。
声を発することを禁じられた鬼の口からは、ただただ息が漏れるのみ。
次で決める。
「我咆哮金城穿孔、鉄壁崩壊。吼っ!」
我が咆哮は金城を穿ち、鉄壁を崩す。
虎吼掌波。
虎の口を模して重ねられた掌から気がほとばしり衝撃と化す、それを受けた鬼の体はバラバラに吹き飛んだ。
「いやー、終わったねぇ。一瞬ヒヤッとしたよぉ」
残心を怠らず周囲に注意をはらう秋芳に駆け寄る笑狸。
短めに切りそろえた明るい色の茶髪にデニムの短パンから延びる白い脚。一見、少年のようだがよく見ると快活な少女――。否、やはり少年。に見えてやはり少女のような……。
そんな、むじなのごとく外見のさだかでないこの少女(?)その正体はオスの化け狸である。
秋芳が幼い頃に折伏してから、おのれの式神にして行動をともにしているのだ。
「あんな大ぶりの攻撃あたらないし、脳筋野郎の妖術なんて効くかよ。それより自分の身の心配をし
ろ。おまえは平気か? 邪気にあてられなかったか?」
笑狸の身を案じる秋芳のほうはというと、僧侶のように頭を剃りあげた短身痩躯の青年だ。
「ボクは平気だよ。ちょっとうるさかったけどね」
「そうか。だが油断するなよ、あたりにまだ妖気が残っている」
「妖気? クンクン……。ほんとだー、わる~い感じの臭いがプンプンするよ」
「動的霊災は今ので終いのはずなんだがな……」
周囲には秋芳が退治した動的霊災――霊災によって実体化した瘴気――らの骸が散乱している。
霊災。
霊的災害。戦中に現代の陰陽術の礎を築いた稀代の大天才にして伝説の陰陽師、土御門夜光が執り行った大儀式の失敗により、東京を中心に頻発するようになった異常現象のこと。
自然界に満ちる『霊気』のバランスが崩れて『瘴気』へ転じ、これが自然界が持つ自浄作用の限界を超えることで発生する。
規模と驚異度に応じた段階が定められており。
フェーズ1は自然レベルでの回復を見込めない霊気の偏向。
フェーズ2は霊気の偏向が強まり周囲へ物理的被害を与える状態。
フェーズ3は鵺や野槌、牛鬼といった実体化した移動型・動的霊災の発生。
フェーズ4は一つの巨大な霊災を中心として、無数の霊災が連続的に発生する状態、いわゆる百鬼夜行。
「……一説ではさらにその先の、世界に受け入れられ霊災が遍在化する、フェーズ5(ファイナルフェーズ)が存在するとされる……。くわしくは富士見ファンタジア文庫より絶賛発売中の『東京レイヴンズ』を読んでね♪」
「おい笑狸。おまえどこ見て、誰になんの説明をしてるんだ?」
「あはは、気にしない、気にしない」
ここは東京新宿、花園神社。
本来ならば聖域として存在し、大道芸や露店でにぎわう人々の憩いの場は異界化し、周辺地域に霊災をおよぼしている。
フェーズ3の霊的災害。その原因をつきとめ、祓うよう、陰陽庁からの依頼を受けておもむいたのだ。
「笑狸、羅盤を」
「うん、ちょっと待って――」
ボストンバッグから漢字がビッシリと書かれたビッグサイズの方位磁石のような物を取り出し、秋芳に手渡す。
風水羅盤。
土地の龍脈を調べ、吉凶を占う道具だ。
「我、世の理(ことわり)を知り、鬼を見、妖を聞き、万怪を照らす。疾く!」
印を結び口訣を唱えると、中央の針がクルクルと回り、一点を示し止まる。
「向こうだ、行くぞ」
「うん。でも、あっちってボクたちが来たほうだよね」
「そうだな。まぁ、行けばわかるさ」
あたりに満ちる瘴気は濃いが、動く妖の気配はない。二人は周りに注意しつつ自分らが来た道を引き返して行く。
「はは~ん、なるほど。原因はアレだな」
花園神社入り口。鳥居の額に書かれた「花園神社」の『花』の字。そのくさかんむりの部分がかすれて、ほとんど消えかかっている。
「花の園が化け園になってやがる。言霊によってこの場の気が変生しちまったくちだな。神魔の境は紙一重。おかげで化け物の園になって、動的霊災どもがわんさか湧きやがった」
「これってば誰かが故意に字をもみ消したのかな?」
「いくら言霊の理を利用して呪をかけたとしても、人の身で神社という聖域をこうも変えるだなんて、ちょっと難易度が高いな。そうとうの呪力がないと無理だ」
「秋芳でも無理なの?」
「俺ならできるが」
さらりと言ってのける。
気負いも見栄もない、あたりまえのことをそのまま口にしたようであった。
「とにかくあれをどうにかしなくちゃな。とりあえず一筆書いて、鎮めておくか。笑狸、ペンかなにか書く物を」
「はいは~い」
ボストンバッグから取り出した毛筆ペンを秋芳に手渡す。
「……つーか、手がとどかねぇ。笑狸、なんかでかい奴に化けろ。おまえが書け。くさかんむりを書くだけでいい」
「ん、いいよ。え~と、どうしようかなぁ……」
しばし考えた後、変化の術を行使する。
ぐにゃり。
一瞬、笑狸の全身が飴が溶けたかのように歪んだかと思うと、次の瞬間そこには二本の角に剥き出し の鋭い牙、赤銅色の巨躯に虎皮を身につけた大きな鬼の姿があった。
「さっきの奴だな、そっくりじゃないか」
「しっかり視てたからね。化け狸たる者、つねに観察眼を養ってなくちゃ」
見た目もいかつい大鬼の口から、少女のような柔らかな声――秋芳いわく「ねこじゃらしのような」声――が出されるのはかなり違和感がある。
鬼に化けた笑狸の手でくさかんむりが書かれ『化』が『花』の字になると、あたりに満ちていた瘴気がほとんど消え去った。
「あとは改めて新しい額を用意させれば完璧だな。よし、俺たちの仕事はここまでだ。宗家に連絡して帰るとしよう」
「うん。じゃあ、なんか食べて帰ろうよ」
「そうだな、まだ日が高いが仕事の後だ。一杯やって帰るか」
「お蕎麦がいいなぁ、たぬき蕎麦!」
「たぬきか・・・。そうだな、鬼退治した後だし、俺もたぬき蕎麦って気分だ」
「あれ、珍しい。いつも山かけやおろし蕎麦なのに。なんで鬼退治したからたぬきな気分なわけ?」
「京の狸(たぬき)谷山(たにさん)の叱怒(たぬ)鬼(き)不動明王を思い出したのさ」
京都にある狸谷山不動院は平安時代に桓武天皇が京の鬼門の守護にと、鬼を叱り退ける力を持つ咜怒鬼不動明王を安置し、名に「たぬき」が入ることから狸そのものもまた霊獣として扱われているパワースポットである。
「あ、な~るほど。ボクの親戚筋かぁ」
西新宿五丁目某所。
蕎麦屋で遅い昼食。早い晩酌をとる二人の姿があった。
板わさと焼き味噌をつまみに日本酒をちびちび飲む秋芳。
対して笑狸はというと、鴨焼き、玉子焼き、天ぷら、もつ煮といったサイドメニューをあらかたたいらげた後に、たぬき蕎麦とうどんの合盛りを腹に収め、デザートのみつまめを賞味しているところだ。
あいかわらずよく食べる。やはり妖の胃袋は人とはちがうな。
そんなことを考え、四合目の銚子に手を伸ばした秋芳の視界に一羽の折り鶴が飛び込んできた。
賀茂家がよく使う伝令用の式だ。
(まったく。電話もメールもあるってのに、無駄に格式ばって益体もない。そんなんだから土御門や倉持に良いとこ持っていかれちまうんだよ)
もともと煩雑だった陰陽術を土御門夜光が改良をくわえ、あつかいやすく、かつ実戦的にしたものが帝式陰陽術。
そこからさらに危険な要素を排し安全性を高めたものが、こんにち一般的に使われてい汎式陰陽術である。
これらの陰陽術はインターネットや電子機器との親和性もあり、術や式神をデジタルデータ化してもちいることで、より安全・安易に万人が陰陽術を行使することが理論上は可能で、ウィッチクラフトという会社など、その開発に余念がない。
あいにくと賀茂家はそちらの方面にうとく、一歩も二歩も差をつけられていると言わざるをえない。
忌々しげに開封の呪文を唱え、伝言を聞く。
「………………」
「どうしたの? 悪い報せ?」
「土御門夜光の転生者と思われる者が陰陽塾の生徒にいるそうだ。俺たちは講師と生徒として塾に潜入し、そいつを見つけ出し、狂信的な夜光信者らに害されないよう、賀茂の手で身柄を確保。保護し、お連れしろ。だ、そうだ」
「えー、それって誘拐じゃない。さらった後はどうするつもりなの?」
「さあな、そこまでは言ってない。宗家の年寄りどもに大胆な真似ができるとも思えないし、あんがい言葉通りに保護してやって、土御門に恩を売る算段だったりな」
自分だったらどうだ?
どうする?
もし土御門夜光の転生者を見つけたら?
(喰霊の儀式呪術をもって夜光の持つ力と知識だけちょうだいする。あるいは転生者を傀儡にして夜光の力を我が物にする……)
いずれにせよ容易ではない。下手をすれば我が身と魂を失うことになりかねない。
「まぁ、いいさ。問題は俺らが陰陽塾に潜入する段取りの部分だ」
「どこが問題なの?」
「宗家は俺とおまえを講師と塾生という役でそれぞれ潜らせようと考えているようだが、おまえがただの陰陽師志望の人間でないことなんて一発でわかるだろうな。その正体も、誰かの式神ってこともな」
「ああ、うん。そうだね。天下の陰陽塾だもの。そこらへんのセキュリティは万全だよね」
「そうだ。照魔鏡の類で調べられたら一発でアウトだ。だからおもえも同行するとしたら最初から俺の使役式として紹介しておくべきだろう」
「ふんふん」
「それとなんで俺が講師役なんだ? 一塾生でいいじゃないか」
「え? そりゃあ一般生徒よりも先生のほうがなにかと活動範囲が広いし、秋芳の年齢的に――」
「俺はいくつに見える?」
「二十五歳」
「いや、それはおまえが俺の実年齢を知ってるからそう思うんだろ。パッと見で、俺はいくつに見える?」
「……二十歳」
「いやいや、もうちょい若く見えるだろ。十七歳とか、高校生で通用するレベルにさ」
「えー、高校生はさすがに無理が――」
「ない。俺は今だに店で酒を買う時に身分証の提示を求められることがよくあるんだ。若い証拠だぜ」
それは誰が相手でも年齢確認するという店の決まりなのでは。と思ったが口にはしない笑狸。
「俺は誰かにものを教える、先生なんてガラじゃあない。俺もおまえも一般生徒として陰陽塾に入るべきだ。……ガキの時分から修行修行でまともな学校生活ってやつにゃ無縁だったからな。いっぺん学生ってやつを体験してみたかったんだ。いい機会だぜ」
賀茂秋芳、二十五歳。たった今、本人が言った通り幼少の頃より厳しい修行に明け暮れた日々を過ごしてきた反動か、成人してからは酒をはじめ諸々の娯楽をたしなむ、享楽的な性格になっていた。
「……秋芳と一緒に学校生活かぁ。うん、いいかも。面白そう」
「だろう? 修学旅行で枕投げや肝試し。うれし恥ずかし告白タイムだの、楽しそうじゃねぇか」
「あと体育祭とか文化祭も楽しそう!」
「そうだな。祭りそのものもいいが、準備も面白くてずっとしてたいって言うしな」
「それとバレンタインデーにチョコレート渡しっこしたり、クリスマスにプレゼント交換したり」
「おお! いかにも青春て感じだよな」
「プロムパーティーで豚の血をぶち撒けられる!」
「『キャリー』かよ! 俺はいじめるのも、いじめられるのもごめんだぜ」
「それで卒業式に伝説の樹の下で告白タイム!」、
「伝説の樹ってなんだよ?」
人間界の娯楽については妖怪である笑狸のほうが一日の長があった。なにせ十年以上前に秋芳に折伏されてからというもの、人の身に姿を変え、アニメや漫画。ゲームやライトノベルといった若者文化を堪能してきたのだ。
昔流行った恋愛シミュレーションゲームについて軽く説明する。
「ん、まぁ、とにかく。潜入するなら講師としてではなく学生としてだ。これを機に正式に甲種呪術の資格も取りたいしな。自分で言うのもなんだが、そろそろ有名になってきてもおかしくない頃合いだろ」
「ずっとモグリでやってきたからね~」
数多の零災を鎮めてきた秋芳だが、それはあくまで影働き。表向きはすべて賀茂宗家の人間の手柄になっている。
土御門・倉橋の定めた帝式・汎式の陰陽術。いわゆる甲種呪術に拒否感をしめす賀茂家の陰陽師のほとんどは、乙種呪術。
甲種呪術以外の呪術全般をもちいている。
しかしそれでできることには限度があるし、権限も限られている。
いざという時に無資格であることを理由に陰陽庁から横槍を入れられぬよう、やはり正式な免状が欲しい所である。
「……て、ちょっと待てよ」
「なに?」
「そうだよ。俺は正式な『陰陽師の資格』なんて持ってないんだぞ。講師として潜入なんて最初から不可能だわ」
「あ、そうだね。言われてみれば」
「じじいども、本格的にボケやがったか……。まぁいい。宗家のやつらに直接かけあってやる。なぁに、俺からの頼みをイヤとは言わせないさ」
賀茂家にはじゅうぶん貢献してきた。それに幼少の頃から畏怖の念をいだかれている自分の発言力には自信がある。
韓国連(からくにのむらじ)広(ひろ)足(たり)の再来とも呼ばれ、こんにちまで絶えていた呪禁の術を現代に蘇らせた。そんな自分の言を、無視できるはずがない、と――。
約一か月後。
渋谷区代々木公園。朝も早くからカラスたちの鳴き声があたりに響きわたり、静謐な空気を切り裂いている。都心に巣くうカラスの数は一万匹とも二万匹とも言われ、その多くはこの代々木公園を寝床にしているのだから無理はない。
前日の遅くまで降っていた雨のため、舗装されていない道はぬかるみ、雨よけのない場所は濡れている。
そんな場所を避けて一人ストレッチする秋芳の姿があった。
(遠足前日の子どもってのは、こういう気分なのかね)
明日から陰陽塾に通うことになり、下見ついでに朝の運動をしているのだ。
どうにもじっとしていられない。
肉体のあちこちをほぐし、のばす。
股割りの格好で上体を地面にのばし、くっつけた後、腕立て伏せに移行する。
ただの腕立てではない。拳立てだ。拳を握り、一指と二指の拳頭部分を地にあてて腕立て伏せをする。
それを五十回ほどおこなった後、五十一回目からは拳頭ではなく十本の指で体重をささえる。指立て伏せだ。
それを十回すませると、左右の小指が上がった。八本の指でまた十回。
十回ごとに小指から順に指の数が減ってゆく。
最後の十回は親指だけ。
全部で一〇〇回。
それを一セットとして、二セットおこなった。
(最近は仕事仕事でこの手の鍛錬をおこたってたが、思ったよりなまってないな)
さすがに汗ばんでいる。が、息は乱れていない。
呼吸の乱れは気を散らし、術の完成を妨げる。ただしい呼吸法は呪禁師にとって基礎の基礎といえる。
そのまま起き上がると、両手で円を描きつつ、片足を上げ、前に出し、下す。
もう片方の足を上げ、前に出し、下す。また片方の足を上げ、前に出し、下す・・・・・・。
それらの動作を極めてゆっくりと、だが寸分たがわぬ精確さでくり返す。
太極拳の套路や道教の禹歩に似ている。だがあきらかに異なる独特の動きだ。
額に汗がにじむ。
見た目こそ地味だが先ほどの腕立て伏せよりも激しく全身の筋肉を酷使しているからだ。
俗に筋骨を鍛えて身体を外面から強くして剛力を用いる武術を外家拳と呼び、太極拳のように呼吸や 内面を鍛えて柔軟な力を用いる武術を内家拳と呼ぶ。
最初の腕立て伏せのような筋力トレーニングが外家拳の修行なら、これはまさに内家拳の修行になる。
武術はもっとも実践的な魔術であり、五行拳や形意拳、八卦掌など。その起源に魔術的なものがある流派は多い。
秋芳のもちいる呪禁の術もそれらに近い。
全身に気が廻るのを確認した後、型に移行する。
算数の九九や歴史の年号を丸暗記する「だけ」の勉強が役に立たないのと一緒で、型の修行はただ形をなぞるだけでは無意味だ。
つねに実戦を想定して動かなければならない。
型には意味がある。
型の動きというのは身体の運用理論であり、実戦に対応するための動きを作り上げるために必要なものなのだ。
武道の型にはすり足をもちいた独特の重心移動や軸の固定など、日常的な動きから離れた身体運用を要求してくる部分が多い。
これらの動きを身につけるのはとても困難ではあるが、型の要求通りに正しく動くことができれば動きの質が変化する。
肉体ではなく神経レベルで〝戦える身体〟になるのだ。
常人がその動きに反応するのはむずかしい。
もちろん表面の動きだけを似せるだけではだめだ。そのような形骸化した型稽古にはなんの意味もない。
型稽古というのは型の動きをおぼえるのではなく、型を通して戦いの動きをおぼえることに真の意味があるのだ。
ただ型をなぞるような練習はせず、その動きを自分のものにすることが目的なのだ。
秋芳の脳裏にひと月前に戦った鬼の姿が浮かぶ。
(術なしで戦うとしたら、どうするかな・・・・・・)
鬼や鵺やといった形を持った霊災の中には、通常の弾丸や刀剣を弾くほどの頑強な皮膚を持った種も存在する。
そのような個体にも気を乗せた攻撃。発剄と呼ばれるような攻撃方法なら、素手でも致命傷を与えることが可能だ。
さらに人型の動的霊災は比較的倒しやすい。人体の構造や弱点が人間のそれと同じ場合が多く、急所をつきやすいからだ。
地閃龍尾で金的や膝関節を攻めて姿勢を崩す。上体が下がったら飛燕連環腿を水月にぶち込み、とどめは顔面に虎吼掌破だ。もし背中を丸めて水月が隠れてるようなら角を引っつかんで穿腿提膝で顔面を潰す……。
実戦を想定しつつ、ひととおりの型を演じ終え、ひと息つく。
「べつに演武を披露しているわけじゃないだけどな」
先ほどから視線を感じていた物陰にむかって声をかける。
「え!? あ! ご、ごめんなさい。べつに盗み見するつもりはなかったんだけど……」
Tシャツにランニングスカート姿の少女が姿をあらわす。
(うお、乳でけぇ。スイカっつうかメロンっつうか、とにかくでけぇ)
長い巻き毛と大きな胸が特徴的な、まだ十代の少女だ。
くっきりとして整った目鼻立ちにくわえてスタイルもいい。女性誌のモデルや男性誌のグラビアを飾ってもおかしくないようなルックスにもかかわらず、下品な派手さやキャバい印象を感じさせない。
「いや、べつに責めてるわけじゃないんだ。そっちも朝練かなにかかな? ずいぶんと走り込んだみたいだね。陸上部?」
少女の泥だらけの運動靴を見ながら――あえて胸には視線をむけずに――話しかける。
「ううん、部活動はしてないわ。ちょっとムシャクシャしたことがあって、身体でも動かしてスッキリしようと思ったの」
「そりゃあいい、実に健康的だ。沈んだり倦んだりした時は運動して汗でもかくとスッキリ発散できるからな」
言いつつペットボトルの水を頭からかぶり、かいた汗を流す。暦の上では秋とはいえ、まだまだ残暑の厳しい季節。水をかぶって風邪をひく心配もない。
剃りあげた頭を流れ落ちる水を見ながら少女が聞く。
「あの、あなたお坊さん? 今のって少林寺拳法かなにか?」
髪形のせいでよく僧侶にまちがえられることの多い秋芳にとって、これはよくある質問だ。
正直うんざりしてる。
「俺は坊さんじゃない、この頭はただのファッション。それと今の技は少林拳でも少林寺拳法のものでもない」
「え? えっと、少林寺拳法と少林拳てちがうの?」
「ちがう」
キッパリと言い放つ。
少林拳とは中国河南省。嵩山少林寺で生まれた生粋の中国武術であり、少林寺拳法は日本人の宗道臣が数多の中国拳法を基盤に創設した日本発祥の武術だ。
おそらく日本人の多くは少林拳と少林寺拳法を混同し、別のものとして認識してない。
けれどもこのふたつはまったく別の存在だ。
それらのことをザックリと簡単に、けしてオタクっぽくならないように説明する。
「へぇ、そうだったの。ぜんぜん知らなかった。ええと、じゃあ太極拳?」
「太極拳じゃないけど、まぁ似たようなものかな。ちなみに太極拳にも色々な流派があって、有名どころだけでも五つの流派があるんだよ」
「そんなに! これから習おうって人は大変ね。どれにするか迷っちゃうじゃない」
少女の顔を見て話しつつ、視線はしっかりとその豊かな胸のふくらみをとらえていた。
少林拳をはじめ、中国武術には八方目(はっぽうもく)。という言葉がある。
これは目を動かさず、一点を見つめたままで視界全体にあるすべてを視ることができる技であり、極めれば文字通り左右や背後。四方八方にいる者の動きすら見抜けるという。
この男はそれを視姦目的に使っているのだ。
賀茂秋芳。そういう男である。
(やっぱりでかい胸は最高だな。男は筋肉、女はおっぱい。この世には貧乳好きなんてのがいるそうだが、そんな奴らの気が知れないね)
「武術っていっぱいあるわよね。なんか魔術に似てるわ。そういうのって他の流派の良い所だけあつめて一つにしようとかしないの? 陰陽術みたいに」
こんにちに伝わる陰陽術。帝国式・汎式陰陽術といった甲種呪術は土御門夜光が戦前に軍部からの要請を受けて作り上げた呪術体系であり、本来の陰陽道だけでなく、修験道や密教系、神道系――。
その他、日本に存在するありとあらゆる呪術が一つに統合されたものであり、それを成した土御門夜光その人が陰陽師であったため、魔術や呪術の類といえば陰陽術。
というのが現代日本では常識だ。
「あるよ、そういう流派。総合格闘技とか呼ばれてるやつ。でもその総合格闘技を掲げる団体自体がこれまたいっぱいあるんだよね」
「あらら」
「まぁ、たくさんのものを一つにまとめるのは大変だし、誰もが夜光さんみたいなカリスマと能力持ってるわけじゃないからね。それに強さっていうのは結局、武術の種類や流派なんかじゃなく、個人に宿るものだから」
武術と魔術は似ている。なかなか鋭い発言をする少女だ。そう思い、あらためて少女を観察する。
「陰陽術って、君ひょっとして陰陽塾に通ってたりする? ここの近くだよね。陰陽塾」
「ええそうよ! あたし倉橋京子。陰陽塾の生徒です」
誇らしげに胸をはり、自己紹介する少女――倉橋京子。
「それは奇遇だな! 実は俺も明日からそこに通うことになってるんだ。俺の名は――」
「あなたも入塾正なのっ!?」
突然声を荒げ、苦虫を噛み潰したような顔になる京子を見て。
(ふむ、美人てのは歪んだ顔も綺麗なもんだ)
などと思いつつ。
「あー、いきなりどうしたの、そんな顔をして? あなた『も』って、どういう意味?」
「……この時期に入塾なんておかしくないですか?」
秋芳の問いには答えず、ジト目で逆に問いかけてくる。
入塾する時期におかしいおかしくないなんてのがあるのだろうか? 『季節はずれの転校生』なんてフレーズがあるが、ちょうどそんな時期に重なったのか?
自分もあんがい世事にうとい。だが陰陽塾への入塾は正規の手続きをして完了しているのだ。やましいことはない。
「ええと、なんだ。俺は……」
秋芳は周りの空気の変化を敏感に察した。
おかしい。
なにかが変わった。
気づかないうちに、なにかが変わった。
「なんですか「俺は」なんですか?」
「なぁ、陰陽塾のお嬢さん。気づかないか?」
「はぁ? なにをです。ごまかさないで――」
「カラスの鳴き声がしない」
「え? あ!」
けたたましく鳴いていたカラスたちの鳴き声がまったくしない。
いや、そればかりか人の気配、喧噪、騒音。そういった人いきれすらもまったく感じられない。
いくら朝早とはいえ、これはおかしい。
さらに空気の流れ、それ自体すら止まったかのよう。
そうだ。空気が流れていない。
ドロリとした蒸し暑い大気があたりを支配している。
広い公園の中だというのに、まるで密閉された空間の中に閉じ込められているような、息苦しい感 覚。
霊的な抵抗力のない普通の人間なら、ただそこにいるだけで疲労してしまう。そんな類のいやな気が充満している。
「こ、これって、異界化してる!? 霊的災害。フェーズ2?」
(たしかに異界化してるな。それもなんの前兆もなく、急にだ。これはちと厄介かもな)
「ねぇ、外に出てみましょう。……出られたら、だけど」
「そうだな試しに行ってみるか」
とりあえず最寄りの出口。原宿駅側に行ってみる。
舗装された道を二人して進む。が、歩けど歩けど距離が縮まない。
遠くに見える景色がいっこうに近づいてこない。
「まいったわね。あたしたち、完全に捕われちゃってる。ねぇ、やみくもに動きまわるのはよしましょう。あたし風水についてもそれなりに勉強してるつもりだから、なんとか結界の格か、ほころびを見つけ出してみるわ」
周囲の気の流れから空間や時間の法則を読み取り、干渉する。
それが風水だ。
結界を構成する核となる物を排除することができれば、結界自体が消滅するし、外界との『穴を』見つけることができれば、そこから外に出られる。
「羅盤や魯班尺もなしにできるのか?」
「ダメもとでやってみるわ。あたし気を『詠む』の得意だから」
「そうか。じゃあ頼む」
「ええ、頼まれてあげるわ」
天下の陰陽塾塾生。その実力はどの程度のものか、お手並み拝見といこう。
そう決めて京子の所作に注目する。
雨に濡れていない地面に拾った小枝で円を描き、その中央に立ち、静かに瞑想を始める。
(ほう、地面に描いた円陣を羅盤。自らをその針に見立てて即席の風水羅盤を作るなんて、やるじゃないか。風水だけでなく厭魅の才もあると見た)
厭魅や厭勝と呼ばれる呪術がある。
類似したものはお互いに影響しあい、一つのものに起こったものは、似たもう一つにも起こる。
同じものから分離したものは、性質を共用する。
そのような法則を持った呪術だ。
ただ真似をすればいいというものではない。
なにかとなにかを見立てる発想力。
それによりなにができるかを正確にイメージする想像力。
そしてそれを実行する呪力。
それらが合わさって始めて効果を発揮するのだ。
(まだ若いのに大したものだ。胸もでかいしな。うん、たいした巨乳だ。実にけしからん)
キッ!
よこしまな想いを抱いた瞬間、京子が鋭い視線で秋芳を睨みつける。
「たった今、あなたから邪気を感じたんですけど」
「いやぁ、気のせいだろう。続けて続けて」
「まったく、本当かしら……」
ブツブツ言いつつ、瞳を閉じ、ふたたび集中を始める京子。涼しい顔でそれを見つめる秋芳。
(どうも入塾云々のところから妙に態度がキツくなったな。それにしても感の良い娘だ。こっちのスケベ心をすぐに見抜きやがった。陰陽塾の生徒はみんな切れ者なのか、彼女が特別優秀なのか。……ん? まてよ、倉橋京子。倉橋……)
陰陽道の名家にして現在最も権勢を誇っているのが倉橋家だ。陰陽塾塾長の倉橋美代も、陰陽庁長官兼祓魔局局長であり、当代最高とされる陰陽師、倉橋源司もまた名門倉橋家の人間である。
ひょっとしたらこの娘はそんな倉橋家のご令嬢では?
そんなことを考えつつ、あらためて探りの術に集中する京子の姿を観察する。
「ん、もうちょっと……、見えてきたわ。あと少しでハッキリわかりそう……」
と、その時。どこからともなく声が聞こえてきた。
「お~い、君たち」
「え、ええ?」
「お~い、ちょ、ちょっと」
遠くから息も絶え絶えに駆けつけて来たのはヨレヨレのスーツを着た、サラリーマンふうの中年男だった。
「ハァハァ、や、やっと人に会えた。さっきから変なんだよ、この公園。外に出ようと思っても出られないんだ。本当だよ!」
惑乱するサラリーマンふうの中年男――名を佐藤といって、昨夜は飲みすぎて公園のベンチを寝床に一晩明かしたらしい――が言うには、公園から出られない。
道を進めば行けども行けども道が続き、林をつっきろうとしても途中で見えない壁のようなものが進路を塞ぎ、外に出られないらしい。
「嘘じゃあないよ! 本当だよ。嘘だと思うなら君たちも一緒に来てくれよ、このおかしな現象をその目で見て確かめてくれ」
「落ち着いてください。あたしたちは別に疑ってなんかいません。佐藤さんでしたっけ、一緒に出口を探しましょう」
「ああ! そうしてくれると助かるよ。こんなおかしな場所で一人きりとか、心細くてね」
「佐藤さん。公園から出られないこと以外でなにかおかしなことはありませんでしたか? 見なれない物。生き物とかを目にしたとか」
「う~ん、そういえばあっちにヘンテコな看板があったよ。漢字なのかなんなのか、よくわからない文字がビッシリと書かれてたね」
佐藤が自分の来た方向を指差す。
「そっちは……。間違いないわ。まだ途中だったけど、あたしが感じたのも向こうからだったわ」
「よし、じゃあ行ってみるか」
暑く澱んだ空気の中、ぬかるみに足を取られながら、三人で進むことにした。
「へぇ、じゃあ君たちは陰陽塾の塾生さんかい! 良かった。ならこんな霊災? 結界? 異界化? とにかくなんでもいい。こんなの早く解決してくれるよね?」
「ええ、まかせてください。陰陽塾の名誉にかけて、かならずやこの怪異を鎮めてみせます」
背筋を伸ばしてそう宣言する京子の姿は実に優等生然としていた。
元来この手の「いい子ちゃん」タイプは好きになれない秋芳であったが、不思議と嫌悪感は湧いてこない。
「もうすぐだ。この広場を抜けたところで見たんだ」
三つの噴水が涼を演出し、夜になればライトアップされる中央広場。
ふだんならば都会の喧騒を忘れさせてくれる、のんびりとした園内だが、今は不気味な静寂と異様な熱気に支配されている。
「……ふぅ」
「だいじょうぶか? さっきの術でかなり消耗してるんじゃないか?」
「平気よ、あのくらい。でもここ歩きにくいったらないわ。もう足が泥だらけよ。て、あなたはあんまり汚れてないわね」
「汚れないように歩いてるからね」
中国武術に軽功という言葉がある。
軽身功とも呼ばれるこの技術を身につければ身体を軽くし、素早く動けるようになり、達人ともなれば木の枝や草葉を足がかりに空高く跳躍したり、水面を走ることすらできるという。
ぬかるみの中、靴を汚さずに歩く程度の心得が秋芳にはあった。
「二人でなにを話してるんだい?」
「いやぁ、泥に足を取られて歩きにくいって話しをしてたんです。佐藤さんは革靴で歩きにくくないですか?」
「もう慣れっこだよ。ぼくみたいなサラリーマンにとっちゃあね。……おかしいな、たしかこのあたりで見かけたんだけど」
キョロキョロとあたりを見まわす佐藤。
「ごめんよ、ちょっと道をまちがえたみたいだ。ええと、向こうだったかな? こんどこそちゃんと案内するからついて来てくれ」
来た方向とは別の道に進む。
歩き続ける佐藤の後ろ姿を見ながら京子が小声で問いかける。
(……ねぇ、あなた気づいた?)
(ああ、奴さんの靴。きれいなもんだ)
靴もソックスも泥で汚れている京子とミッドソール部分に汚れが目立つ秋芳に対して、佐藤の革靴には泥がまったくついていなかった。
それだけではない。
佐藤の歩いた場所には足跡がまったくついていないのだ。
(彼、浮いてない? 浮いてるわよね)
(そうだな。浮遊してるな)
よくよく見れば歩き方もおかしい。普通の人間が普通に歩けば、どうしても頭が上下するはずだが、それもない。ただたんに両足を交互前後に動かしているだけのように見える。
それでいて前に進んでいる。
(人じゃ、ない……?)
「おや? また二人してコソコソ内緒話かい?」
「ええ、あなたの足がまったく汚れていない。宙に浮いてる。て話しをしてたんです。佐藤さん、あなた人ですか妖怪ですか? 俺たちに仇なす存在だったりします?」
「ちょ、ちょっとあなた!?」
臆面もない秋芳の態度に思わず狼狽する京子。
「な~んだ、もう気づいちゃったのかい? もうちょっと歩きまわって疲れさせてよろうと思ってたのに」
佐藤と名乗ったモノの姿がみるみる変わっていく。
口が耳まで裂け、とがった牙が剥き出しになり、ナイフのように長く鋭い鉤爪が両手に伸びそろう。
腰から下は青白い炎につつまれ、燃えている。
「そんな!? 動的霊災、フェーズ3!」
「見習いとはいえ陰陽師。その血肉、美味しくいただかせてもらうよ。男の方は骨と筋ばっかで不味そうだけど、女のほうは肉づきが良くてほんとうに美味しそうだ」
顔全体をひと舐めできるほどの長くとがった舌でじゅるりと舌なめずりし、ゆっくりと近づいてくる。
「下がってて! こいつはあたしが鎮めるわ。式神召喚! 喼急如(オー)律令(ダー)!」
言うと同時にどこから取り出したか、二枚の札。式符を放つ。
いったい軽装のスポーツウェアのどこに札をしまっていたのか?
符術をたしなむ者には覚られずに大量の札を持ち歩くことが求められる。現代の陰陽師には隠匿のスキルもまた必須なのだ。
京子を護るように二体の式神が姿を現す。
ロボットを彷彿とさせるメカメカしいデザインの鎧武者で、濃い桜色の方が太刀を、黒色の方が薙刀を手にしている。
いずれも市販されている人造式「モデルG2・夜叉」に京子が独自の改良を加えた護法式であり、名をそれぞれ白(はく)桜(おう)、黒楓(こくふう)と言う。
「おお怖い! ならこれならどうだい?」
下半身の炎がひときわ大きく燃え盛り爆ぜたかと思うと、そこにはゆうに二十体を超える佐藤の姿があった。
「「「どうだい、こちらも数を増やしたよ」」」
「「「人数はこっちの方が上だよ」」」
「「「さぁ、八つ裂きにしてあげよう」」」
半円状に囲んで襲いかかる佐藤の群れに対し、薙刀を持った黒楓を前面に出し、リーチの長さをいかしたなぎ払い攻撃で応戦。かたわらに配置した白桜はもっぱら術者である京子の守護を担当し、黒楓の攻撃をかいくぐり、接近してきた佐藤を斬り伏せている。
(上手いな)
言われた通り下がって観戦していた秋芳は、京子の使役ぶりに素直に感心する。
簡易式とちがい、護法式というのは姿を維持させるだけでも、術者はそれなりの呪力を消費するというのに、この倉橋京子という娘はそれを二体同時に出現させ、たくみに操作しているのだ。
そう、実にたくみだ。
もっぱら攻めるのを黒楓。守るのを白桜が担当しているが、敵の布陣に隙が生じれば両方とも積極的に攻め、逆に敵の攻撃が激しさを増す時は両方とも守備に徹する攻防一体のコンビネーション。
切り替えが上手いのだ。
見事としか言いようのない式神の使役ぶりだが、敵の数はいっこうに減らない。
数体を仕留め、数が減ってきたと思ったら、またいつの間にか増えているのだ。
(これはあれだな「本物を倒さなければ分身がいつまでも増え続ける」てパターンだな。だとすると他とちがい汚れてたり、傷があったり、影のあるやつが本物ってのが定番なんだが……)
目を凝らし佐藤の群れを観察する。
いた。
一体だけ群れの後ろで動きまわるだけで前に出ず、数が減っては炎を震わし、増殖をくり返しているが、そいつだけが他とちがい地面に影を落としている。
(お約束だな)
思わず苦笑を浮かべる。
しかし京子はそのことに気づいているのか?
真剣な面立ちで式をあやつるその表情からはうかがい知れない。
少し言葉を交わしただけだが、プライドの高い娘だということはわかる。へたに手を出して不興を買うのもいやだ。
美人には好かれたいものである。
シュボボッ!
佐藤本体の炎が大きく震えたかと思うと、数個の火球が出現し、京子を狙い飛んでゆく。
「五行の理を以て、清涼なる水気、不浄な火気を祓いたまえ! 水剋火! 喼急如律令!」
だがそれらはみな京子の放った水行符により雲散霧消する。
(お見事! 式を操りながら自身も術を行使する。陰陽塾の生徒のレベルは俺の予想以上らしい。さて、お次は場に満ちた水気を利用して水生木。蔦で絡め取るか、木の枝で刺し貫くか?)
秋芳がそんなことを考えていると、白桜・黒楓が突然式符にもどった。
よろめき倒れそうになる京子。
いそいで駆けつけ抱きとめる。呼吸が荒く、全身から滝のように汗を流している。
「おまえ、こんなに消耗してたのか? 無理しやがって」
表情ひとつ変えずに式神を使役していたので気づかなかったが、かなり無茶をしていたらしい。だが考えてみれば当然か。並の人間なら居るだけで体力を奪われるような陰気あふれる蒸し暑い結界内で、歩き続け、術の行使を続けていたのだ。
「守らないと……、あたしは、倉橋の、人間だもの……」
「守ったさ、もうじゅうぶんに。守られてたおかげで俺は相手の特徴を知ることができた。助かったよ、だから少しお休み」
優しく声をかけ、両手で抱き上げ、即座に駆け出す。
人を一人抱きかかえているとは思えない速さで駆ける秋芳の後ろ姿を一瞬あっけにとられて見ていた佐藤たちだが。
「「「逃がすか!」」」」
「「「追え!」」」
すぐに追走を始める。
(これ一度やってみたかったんだよね。女の子の半魚人持ち)
俗にお姫様抱っこと呼ばれる抱き上げ方を、秋芳はそう呼んでいる。
『大アマゾンの半魚人』という古い怪奇映画の中で、半魚人がヒロインをそのように横抱きにするシーンがあるからだ。
中央広場まで戻り、ベンチにそっと京子を寝かすと、その上に一枚の札を置き、おもむろに呪文を唱え始めた。
「我祈願、北斗神君。神兵利器不侵入」
我は北斗の神に祈り願う。いかなる凶器も傷つけることができぬよう。
「我祈願、五路神。万怪塞入」
我は五路神に祈り願う。あやかしが入らぬことを。
人の生死を司る北斗の神。それと道の神にそれぞれ祈願し、京子の身に危害がおよばぬよう二重の防衛術を張る。
長くはもたないが、しばらくは外部からの攻撃は防ぐことができる。
「「「逃がさぬ」」」
「「「追いついたぁ」」」
「「「あきらめろぉぉぉ」」」
術の完成を待っていたかのようなタイミングで佐藤の群れが追いつき、秋芳を取り囲む。
その数はさらに増え、さっきの倍はいる。
「目をつけた獲物を歩きまわして弱らせようとしたり、数で翻弄し、ことさら人を嬲る足のない幽鬼。おまえ纐纈鬼だろう」
纐纈鬼。
生前に人の生き血を搾り、啜り、貪るようなあこぎな商売をして、恨まれて死んだ者が
この妖怪になるという。なぜ足がないかというと生前お金に貪欲だった罰として「お足」を閻魔大王に取られたからだという。
熊本県八代市の松井文庫が所蔵する江戸時代の妖怪絵巻『百鬼夜行絵巻』にそのような記述がある。
ちなみに「お足」とは「お銭」を意味する江戸時代の俗語で、纐纈鬼とは江戸時代の言葉遊びから生まれた典型的な創作妖怪だ。霊災というものは人の想いの影響を受けやすい。
こんな妖怪がいるんじゃないか?
あの人は死んで幽霊になったんじゃないか?
このような人々の想いがフェーズ3以上の移動型・動的な霊災。俗に言う妖怪変化の類を産み出すことが多々ある。
「このクソ暑いのにそろいもそろってメラメラ燃えてんじゃねえよ。我祈願、顕聖二郎真君。求借三尖刀!」
素早く導引を結びながら口訣を唱えると、秋芳の手に切っ先が三つに分かれた槍。三尖刀が現れる。
数で勝る分をリーチの長さでうめて対抗する。先ほどの京子の戦法と同じだ。
ただちがうのは秋芳が三尖刀を一振りするたびに数体の佐藤がまとめて消滅すること。
増殖する数よりも消滅する数の方が上なのだ。
(水・克・火!)
脳内であふれる水が火をかき消す様をイメージして武器を振るう。
水神である顕聖二郎真君から借りたこの三尖刀には水行の力が込められている。
陰火をまとった纐纈鬼佐藤には効果てきめんだ。
最後に残った本体にとどめの一撃。
あまりに急な展開に断末魔の叫びをあげることすらなく、驚きの表情を浮かべたまま消滅した。
涼しげな風が流れだす。結界が解けたのだ。
特に核のような物がなければ術者を倒せば結界も解ける。
残心をおこたわず周囲の様子を見るが、もうあやかしの気配は感じられない。
「さて、どうしたものか……」
ベンチに横たわる京子。
疲れているのだから自然に目が覚めるまでそっとしておきたい。しかし起きるまでずっとそばに居るというのも照れくさいし、会ったばかりの男に寝顔を見続けられた。と後で知れば乙女としては良い気がしないのではないか?
かといってこのまま放置というのは論外だ。
家人に迎えに来てもらうよう、携帯電話かなにか身元のわかる物でもあるか・・・。
いやいや、意識のない人の服に手を入れている現場を他人に見られたらどうする?
瓜田に履を納(い)れず、李下に冠を正さずという言葉があるではないか・・・
「ええい、なにも難しく考えるこたぁないか。ここから陰陽塾まですぐ近くじゃないか。おぶって行こう」
とはいえ人の目がある。男に抱きかかえられている様を人に見られるのは嫌だろう。
「人を一人かかえて穏形するのは始めてだが、ま、なんとかなるだろう」
隠形。
物理的に姿を隠すのみならず、気配を絶ち、その場に居ながらにして他者にその存在を感知させない術だ。
秋芳の学んだ呪禁の術では、これを禁感功と呼ぶ。
「……で、その倉橋のお嬢さんを無事に送って行ったわけ?」
「ああ、さすがは天下の陰陽塾だ。入り口に二体の機甲式が配置されててな、贅沢なこった」
横浜港に数ある倉庫のいっかく。秋芳たちが寝床にしている場所だ。
明日からは陰陽塾男子寮に移るので荷物の類はダンボール箱にまとめられ、ずいぶんと殺風景な中、 秋芳と笑狸。二人して大皿に盛ったナポリタンをつついている。
意外に知られていないがナポリタン発祥の地は横浜だ。
今夜が横浜最後の夜ということで、別れを惜しみ、こうして横浜名物を賞味している。
「壁や天井。地下にいたるまで大小無数の防御結界がほどこされていてな、あれをくぐるのはちょいと難儀だろうな」
「秋芳の壁抜けでも?」
禁壁則不能遮。
壁を禁ずれば、すなわち遮ることあたわず。
そのようなものが呪禁の術にはあるのだ。
「う~ん、壁抜け自体はできても気づかれるだろうな。穏形しながらあの結界を抜けるのはできないな」
「じゃあ遅刻厳禁だね。きちんと正門から入らなくちゃ」
「そうだな。さすがに時を禁じる。てのは今の俺には無理だ」
「ところでその倉橋の京子お嬢さんだけど、秋芳とのフラグ。立っちゃった?」
「おお、立っちゃったんじゃねえの? なんせ半魚人持ちしたわけだしな。俺の人生で始めてだぜ、あれをしたのは」
「秋芳ひどい! ボクにもお姫様抱っこしたの忘れたの?」
「お姫様抱っこ言うな。半魚人持ちだ。……だいたいあの時おまえ狸だったじゃねぇか。獣を抱きかかえるのと、人を抱きかかえるのじゃ全然ちがう」
「それじゃあ今から抱いてよ。ボク、秋芳にお姫様抱っこされたいな~♪」
「嫌だ。男を抱きかかえて喜ぶ趣味は俺にはない」
キッパリと、そう断言する。
「じゃあ秋芳の好みの女の子に化けてあげる」
「なにに化けようがおまえはおまえだろうが。やめろ」
「誰がいい? イリーナ・シェイク? ジゼル・ブンチェン? シェリル・コール? 佐倉綾音?」
「最後の一人だけジャンルちがくねぇか? つうか化けるな」
「ちがくないよ、みんなおっぱい大きいじゃない」
「おお、そうだな。ひょっとしたら日本人の佐倉が一番でかい乳してるのかもな」
「秋芳おっぱい大好きだもんね。 そうだ、おっぱい三つのあやねるになってあげる」
「なにそれ『トータル・リコール』のミュータント娼婦? ますますいらんわ」
「じゃあ、いくよ~。変――」
「禁術則不能発、疾く!」
「ぶはっ!?」
術を禁ずれば、すなわち発することあたわず。
発動しようとした変化の術が強制的に禁じられる。
その後もしばらくたわいのないやり取りをした後、明日にそなえて早々に床に就くことにした。
「明日からは朝型の生活だからな、もう寝るぞ。今夜は酒もなしだ」
「ふぁ~い」
自分には一生涯縁がないと思っていた学園生活が始まる。
楽しみだ。
ほんとうに、楽しみだ――。
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