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入ってはいけない海

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第四章

「一杯になったんだよ、それからだよ」
「この日はですか」
「出るようになったんですか」
「海に入った人を引き込んでね」
 僕達にそうしようとした様に。
「そうするようになったんだよ」
「だから皆今日はだったんですか」
「海には入ろうとしなかったんですか」
「それで」
「普通の観光客はホテルや旅館で注意されるんだよ」
 海に入るな、そう言われるというのだ。
「けれどあんた達は今さっき車で来たからね」
「実はこの町に来たのもはじめてで」
「何も知らなかったです」
「だからなんだね」
 お婆さんは納得した顔で僕達の言葉に頷いた。
 それからだ。こう僕達に答えてくれた。
「あんた達は入ったんだね」
「まさかと思いました」
「あんなのがいるなんて」
「危なかったよ、あんた達」
 お婆さんが次に言う言葉はこの言葉だった。
「下手したらね」
「海に引き込まれてですか」
「そのうえで」
「殺されてたよ」
 幽霊達にそうされていたというのだ。
「本当に危なかったんだよ」
「ですね。本当に」
「それがわかります」
 僕達は青ざめた顔のままでお婆さんの言葉に頷いた。夏、これ以上はないまでに暑い筈なのにそれでもだった。
 僕はあらためてだ。お婆さんに言った。
「誰も海に入らないのには理由があるんですね」
「そうじゃなかったら誰でも入るよ」
「そうですね。本当に」
「これでわかったね。それにね」
「それに?」
「あんた達は本当に運がよかったよ」
 お婆さんは僕達にこんな言葉も言ってくれた。
「危うく海に引き込まれるところだったからね」
「だからですか」
「そういえばあの幽霊達は」
「もうね。怨霊になってるんだよ」
 お婆さんは悲しい顔になって僕達に話した。
「ああしてね」
「怨霊ですか」
「もうそうなってるんですか」
「そうだよ。この日、空襲のあった日に出て来てね」
 おそらく空襲のあったこの日、昭和二十年のこの日にだというのだ。
「海に入った人達を引き込もうとするんだよ」
「自分達の世界にですか」
「そうするんですね」
「そうなんだよ」
 お婆さんの悲しい顔での言葉が続く。
「だからね。皆この日はね」
「海には入らない」
「そうだったんですか」
「海はね。ただ奇麗なだけじゃないんだよ」
 お婆さんはさらに悲しい顔になった。そのうえでの言葉だった。
「そうしたこともあるんだよ」
「恐ろしいものも中にはいる」
「ああ、そういうことだよ」
 お婆さんは僕に応えながら海を見ていた。もう海はあの澄んだ、宝石の様な青をそこにたたえていた。だが僕も友人達も見てしまった。海が時として見せるその顔を。その顔は何があろうと忘れられるものではなかった。


入ってはいけない海   完


                      2012・7・29 
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