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亡命編 銀河英雄伝説~新たなる潮流(エーリッヒ・ヴァレンシュタイン伝)

作者:azuraiiru
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第三十六話 真実

帝国暦 485年 10月21日  イゼルローン要塞 ラインハルト・フォン・ミューゼル



パンドラの箱……。大袈裟な言い方をする、そう思ったがキスリングの笑みは心が冷えるような笑みだった。リューネブルクを見た、彼も何処となく居心地の悪そうな表情をしている。

キスリングが水を求めた。リューネブルクが水差しからコップに水を注ぎ彼に渡す。キスリングが美味そうに水を飲んだ。それを見て俺も喉が渇いているのに気付いた。そしていつの間にかペンダントを握りしめている。

飲み終わったキスリングにコップを借りて俺も水を飲む。美味いと思った、気付かないうちに緊張していたのだろう。キスリングが俺を見ている、試す様な視線だ。下腹に力を入れる。情けない姿は見せられない。

「ルーゲ伯はヴァレンシュタイン夫妻とは親しい関係に有ったそうです。伯はヴァレンシュタイン夫妻を殺したのも、エーリッヒを殺そうとしたのも、カストロプ公で間違いないと話してくれました」
「……理由は」
声が掠れていた、水を飲んだのにどういう訳だ?

「ヴァレンシュタイン夫妻を殺したのはカストロプ公によるキュンメル男爵家の財産横領が目的です」
「……」
「カストロプ公爵家は大貴族です。当然ですが親族も多い。彼の親族の一つにキュンメル男爵家という家があります」

聞いたことのない名前だ、リューネブルクも訝しげな顔をしている。オフレッサーが太い息を吐く音が聞こえた。
「キュンメル男爵家の当主は未だ十代だが生まれつき病弱で、確か宮中には一度も出た事が無いはずだ、違ったか、キスリング少佐」
「その通りです」

オフレッサーが俺とリューネブルクを見た。
「少しは周囲に注意を払え、俺より物を知らんとは……」
気が付けばリューネブルクと一緒に頭を下げていた。まるで先生に怒られた生徒のようだ……。

「キュンメル男爵家は二代続けて病弱な当主を得ました。先代のキュンメル男爵も体の弱い人で亡くなる前に病弱な息子の事を親族の一人であるマリーンドルフ伯爵に頼んだのです」
「カストロプ公は面白くなかっただろうな」

オフレッサーの言葉にキスリングが頷いた。よく分からない、リューネブルクに視線を向けるとリューネブルクは苦笑した。
「貴族の格で言えばマリーンドルフ伯よりもカストロプ公の方が上だ、政府閣僚でもある。こういう場合はカストロプ公に後見を頼むのが普通だ」

なるほど、そういうものか。俺なら信頼できる人物を選ぶ。カストロプ公の評判は悪いがマリーンドルフ伯の悪い噂は聞かない。俺なら信頼できるだろうマリーンドルフ伯を選ぶ、先代のキュンメル男爵もそうしたのだろう……。気が付くとオフレッサーとキスリングが俺を見ている。思わず咳払いをした。

「しかし正しい選択ではあったでしょう。カストロプ公に頼めば、あっという間にキュンメル男爵家は無くなり、カストロプ公爵家が肥るだけです」
「……」
オフレッサーがその言葉に頷いた。

「頼られたマリーンドルフ伯爵はキュンメル男爵の頼みを引き受けました。しかしどうすれば良いか困惑した。それでマリーンドルフ伯爵は友人であったヴェストパーレ男爵に相談した……」
ヴェストパーレ男爵? 男爵夫人の父親か……。数年前に亡くなったと聞いているが……。妙なところで人と人が繋がっているな。

「相談を受けたヴェストパーレ男爵は自分の弁護士であったコンラート・ヴァレンシュタインをマリーンドルフ伯爵に紹介したのです。コンラート・ヴァレンシュタイン、エーリッヒの父親です」
「……」
思わずリューネブルク、オフレッサーの顔を見た。二人とも難しい顔をしている。

「コンラート・ヴァレンシュタインは有能でした。キュンメル男爵家の財産を守る傍ら、領内を見て回り経営を改善したのです。そのためキュンメル男爵家は当主が病弱にも関わらず財産は増え豊かになった」
「……」

「しかしその事はキュンメル男爵家に不快感を抱いていたカストロプ公の欲心を刺激する事になってしまった。そしてあの事件が起きたのです」
「リメス男爵家の相続争いか……。カストロプ公はリメス男爵家の騒動を隠れ蓑にキュンメル男爵家の財産を狙ったと言う事だな」
オフレッサーの言葉にキスリングが頷いた。

信じられない思いだ。リメス男爵家の相続争いは俺も知っている。ヴァレンシュタインの事を調べれば嫌でも知ることになる。リメス男爵家の財産を巡り親族であるヴァルデック男爵家、コルヴィッツ子爵家、ハイルマン子爵家が争った。

その争いに巻き込まれヴァレンシュタインの両親は殺された。誰もが知る事実だ。だがその事実の裏にカストロプ公によるキュンメル男爵家の財産横領という真実が隠れていた……。

「ヴァレンシュタイン夫妻の死後、カストロプ公はキュンメル男爵家の財産の横領を図りました、しかし実現はしなかった。コンラート・ヴァレンシュタインは全てを予測していたのです。彼は自分に万一の事が有った場合はカストロプ公を抑えて欲しいとルーゲ伯に頼んでいました」

「なるほど、そういう事か。だが疑問が有る、何故ルーゲ伯はカストロプ公を告発しなかった? 何故辞任したのだ? 勝ったのはルーゲ伯だろう、カストロプ公に罪を償わせるのは難しくなかったはずだ」

オフレッサーの言うとおりだ。だが現実はルーゲ伯は辞任しカストロプ公は財務尚書として勢威を振るっている……。どういう事だ?
「それに何故ヴァレンシュタインを殺そうとするのか、キュンメル男爵家が絡むとも思えんし理由が分からんな」

リューネブルクも訝しげな声を出した。俺も同感だ、どうも腑に落ちない。キスリングを見た、彼は笑みを浮かべている。

「疑問はもっともです。何故カストロプ公がエーリッヒを殺そうとしたのか、先ずそれを話しましょう」
キスリングの言葉に皆が頷いた。

「理由は恐怖です」
「恐怖?」
オフレッサーが訝しげな声を出した。俺も納得がいかない、ヴァレンシュタインは亡命したとき、兵站統括部の一中尉に過ぎなかった。カストロプ公が何を恐れると言うのだ?

「エーリッヒはリメス男爵の孫なのです」
「!」
「リメス男爵は当初、ヴァレンシュタイン夫妻の死をリメス男爵家の相続争いが原因だと思っていました。しかし真実をヴェストパーレ男爵とルーゲ伯が話しました。その時、リメス男爵は二人にエーリッヒが自分の孫だと話したのです。男爵が亡くなる三日前の事でした」

意外な事実だった。ヴァレンシュタインがリメス男爵の孫? 驚く俺達の耳にキスリングの声が流れる。
「エーリッヒが帝国文官試験に合格し、士官学校を優秀な成績で卒業したとき、ヴェストパーレ男爵は一つの考えを持つようになりました」
「……それは?」
分かるような気がする、しかし俺は敢えてキスリングに問いかけた。

「エーリッヒにリメス男爵家を再興させるという事です。そしてカストロプ公はそれを恐れた」
「冗談は止せ、少佐。ヴァレンシュタインがリメス男爵家を再興したからといってカストロプ公が何を恐れるのだ。無力な一男爵にしか過ぎんだろう」

リューネブルクが呆れた様な声を出した。だがキスリングはそんなリューネブルクに冷笑を浴びせた。
「確かに再興した時点ではそうでしょう。しかし十年後はどうです?」
「十年後?」
リューネブルクが訝しげな声を出した。

「ええ、なんなら二十年後でもいい。リメス男爵は無力な存在だと思いますか」
「……」
リューネブルクが押し黙った。キスリングは視線を俺に、そしてオフレッサーに向けた。誰も口を挟まない……。

「ヴェストパーレ男爵はリメス男爵に対する贖罪からエーリッヒにリメス男爵家を再興させようとしたわけではありません。男爵は政府中枢部にはそれなりに識見を持った人間が必要だと考えていたのです。カストロプ公のように私腹を肥やすことしか能のない人物など排除すべきだと」
「……」
当たり前のことではある、だがその当たり前の事が帝国では実現できていない。

「帝国文官試験に合格し、士官学校を優秀な成績で卒業したエーリッヒはヴェストパーレ男爵の目には最適な人物に映った……。足りないのは爵位だけです、幸い彼はリメス男爵の血を引いている。男爵は密かにリメス男爵家の再興を画策し始めた……」
「……」

「ルーゲ伯は男爵を止めました。本人の意思も確認せずにするべきではないと。しかし男爵は聞かなかった。十年後、二十年後の帝国にはエーリッヒのような人間こそが政権の中枢にいるべきだと主張して退かなかったのです。男爵は当時健康を損ねていました。或いはそれも影響したのかもしれません」

「カストロプ公は気付いたのだな」
オフレッサーが低い声で問いかけた。キスリングが頷く、そして口を開いた。
「気付きました。そしてヴェストパーレ男爵が何を考えているのかも理解したのです。自分が殺した人間の息子が自分を追い落とすための存在になろうとしている。カストロプ公は明確にエーリッヒを敵だと認識した」
「……」

「カストロプ公には敵が多かった。それだけに自分にとって危険だと思える人間に対しては容赦が無かった。カストロプ公はエーリッヒを排除するべきだと判断したのです」
「……」

「爵位を持つ貴族が死ねば典礼省より検死官が来ます。死体に異常があれば当然調査が入る。カストロプ公がエーリッヒを排除するのはエーリッヒがリメス男爵家を再興する前でなければならなかった」

「それが第五次イゼルローン要塞攻略戦か……」
「そうです。エーリッヒは亡命しヴェストパーレ男爵はその直後、病死しました。伯によれば最後までカストロプ公を憎悪していたそうです。憤死と言って良いでしょう」

思わず溜息が出た。死屍累々、そんな言葉が浮かんでくる。カストロプ公一人のためにどれだけの人間が非業の死を迎えたのか……。皆同じ気持ちなのだろう、リューネブルクは俯き、オフレッサーは目を閉じている。

オフレッサーが目を開いた。
「まだ聞くことが有ったな、キスリング少佐」
「はい、何故ルーゲ伯はカストロプ公を告発しなかったか? 何故辞任したのか? ですね」
「うむ」

キスリングが笑みを浮かべた。冷ややかな笑みだ。そしてオフレッサー、リューネブルク、俺を見渡した。
「ルーゲ伯はヴァレンシュタイン夫妻殺害事件の一件でカストロプ公を断罪しようとしました。殺されたのは平民ですがキュンメル男爵家の財産横領が目的の殺人です。十分に可能でした」

「しかし現実にはそうならなかった」
俺の言葉にキスリングが頷いた。
「ルーゲ伯を止めた人間が居ます」

司法尚書を止める? それなりの影響力を持つ人間だろうが誰だ?
「国務尚書、クラウス・フォン・リヒテンラーデ侯爵……」
「!」
キスリングの言葉に病室の空気が固まった。

「馬鹿な、何故そんな事を」
喘ぐようにリューネブルグが声を出す。同感だ、国務尚書として国政の最高責任者の地位にあるリヒテンラーデ侯が何故カストロプ公を庇うのか、一つ間違えば自分自身が失脚することになるだろう。

「カストロプ公爵家は贄なのです」
「贄……」
キスリングが何を言っているのか分からなかった。オフレッサー、リューネブルクも訝しげな顔をしている。そしてキスリングは相変わらず冷ややかな笑みを浮かべている。

「少佐、贄とは生贄の事か?」
オフレッサーが低い声で確かめた。
「そうです。平民達の帝国への不満が高まったとき、カストロプ公を処罰して不満を収める。そのために用意された贄です……」

何を言った? 今キスリングは何を言った? 分からない、だがどうしようもないほど悪寒が走った。リューネブルクも顔を引き攣らせている。オフレッサーは、オフレッサーも顔を引き攣らせている。俺は一体何を聞いた?

「カストロプ公は自分が何をやっても許されると思っているでしょう。その通りです、彼にはすべてが許される。彼が悪事を重ねれれば重ねるほど平民達は彼を憎む。そして彼が処罰された時、喝采を送るでしょう……。カストロプ公は一歩一歩破滅へと向かっている。本人だけが分かっていない。牛や豚と同じですよ、太らせてから食う、しかし彼らにはそれが分からない……」

キスリングが笑い出した。可笑しくて堪らないと言うように笑っている。
「笑うのを止めろ、少佐、笑いごとではあるまい」
リューネブルクが顔を蒼褪めさせて叱責した。しかしキスリングは笑うのを止めない。

「ルーゲ伯も私達の前で笑っていました、気が狂ったように……。そして泣いていました。ヴァンフリートで三百万人近い死者が出たのは自分の所為だと。あの時カストロプ公を断罪しておけばこんなことにはならなかったと、そして自分を許してくれと……」
「……」

キスリングが笑いを収めた。そして沈鬱な表情で語りだす。
「屋敷を辞去するとき使用人に聞きました。ヴァンフリート会戦以降、伯は毎日酒を浴びるように飲み、泣き喚き、狂ったように笑っていたそうです。このイゼルローンに来てからですが伯が自殺したとオーディンのアントンから連絡が有りました。また一人、贄のために犠牲が出た……」

病室に沈黙が落ちた。聞きたくなかった、あの敗戦にそんな秘密が有ったなど知りたくなかった。三百万の将兵が死んだ原因が贄だと言うのか? キルヒアイスは、キルヒアイスはそんなことのために死んだのか?

帝国が楽園だなどとは思っていない、しかしここまで腐っているとは思わなかった。俺はいったい何を見てきたのだ?
“……最初に断っておきます。この秘密を知れば必ず後悔します。何故知ったのかと……”
キスリングの言葉が今更ながら思い出された。その通りだ、知りたくなかった、しかし知ってしまった。これからどうすれば良い……。

「我々は全てをブラウンシュバイク公に話しました。そしてカストロプ公の断罪とエーリッヒの帰還を求めたのです」
「どうなった」
低い声でオフレッサーが問いかけた。

「ブラウンシュバイク公とリヒテンラーデ侯の間で話し合いが持たれました。そしてカストロプ公の断罪が決まりました。おそらく我々がオーディンに戻れば間を置かずに処断されるはずです」
「……」

「エーリッヒの帰還は認められませんでした。それを認めるには全てを公表する必要が有ります。カストロプ公という贄の所為で三百万もの将兵が死んだと……。それを認められるくらいなら最初から贄等必要とはしない……」
キスリングの声には侮蔑の響きが有った。彼が蔑んでいるのはカストロプ公か、それともリヒテンラーデ侯か、或いは帝国か……。

「エーリッヒは裏切り者であり、ヴァンフリートの虐殺者である。それが帝国の公式見解です。カストロプ公が処断されてもそれは変わりません。真実が表に出る事は無い……」

「キスリング少佐、卿を襲わせたのは……」
躊躇いがちにリューネブルクが問いかけた。

「リヒテンラーデ侯でしょう。ブラウンシュバイク公とアントンに対する警告です。これ以上この件に関わるな、というね。これが我々が住む帝国の真の姿です、地獄ですよ」
キスリングがまた笑い出した。虚ろな笑いだ、地獄を見た人間の笑い声だと思った……。





 
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