Sword Art Rider-Awakening Clock Up
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ヨツンヘイム
見上げると、薄闇の彼方に煌めくいくつもの光があった。
星ではない。広大な天蓋から垂れ下がる無数の氷柱が、内部から仄かな燐光を発しているのだ。つまり現在地は洞窟の底ということになるが、問題はその規模だった。
遥か彼方に屹立する壁から壁までの距離は、リアル単位置換でおそらく30キロを下るまい。天蓋までの高さも最低で500メートル。底には無数の断崖や峡谷が刻まれ、白く凍りついた湖やら雪山、更には砦や城といった建造物まで散見できる。
こうなると、洞窟などという規模では到底ない。地下空間、いやもはや《地底世界》と呼ぶべきだ。
実際、それそのものなのだ。ここは妖精の国アルヴヘイムの地下に広がるもう1つのフィールド、恐るべき邪神級モンスターが支配する闇と氷の世界。その名も__
《ヨツンヘイム》。
「ぶえーっくしょん!」
という、女の子にあるまじきパワフルなくしゃみを炸裂させてから、シルフ族の少女剣士リーファは慌てて両手で口を押さえた。
素早く祠の出入り口を見やる。今のを聞きつけたはぐれ邪神のバカでかい顔がぬっと現れるのではないかと想像したが、幸い入り込んでくるのはひらひら舞う雪片だけだった。それらも祠の床に熾した小さな焚き火に近づくや、ふっと空気に溶けて消える。
厚手のマントの襟元をかき合わせながら、奥の壁際まで戻ってじゃがみ込む。ふう、とため息を1つ。ちろちろ燃える炎の暖かさを感じた途端に忍び寄ってくる眠気を、何度か瞬きして払い落とす。
石造りの祠は、縦横高さが4メートルほどの小さなものだ。壁や天井はおどろおどろしい怪物のリレーフで飾られ、それらが揺れる炎に照らされて小さく身じろぎする様を、とても心安らぐインテリアとは言い難い。しかし隣を見ると、背中を壁に預けてあぐらをかいたリーファの同行者の2人の内1人、同行者1号キリトは、実に穏やかな__あるいは間の抜けた顔でこっくりこっくりと船を漕いでいる。
「さっさと起きろ」
もう1人の同行者2号__ネザーが小声で言いながら尖った耳を引っ張るが、相手はむにゃむにゃ言うだけだ。その膝の上では、小さな妖精が丸くなってくうくう寝息を立てている。
「おい、寝ると落ちるぞ」
もう一度耳を引っ張る。するとキリトはそのままこてんと太股の上に頭を転がしそうになるが、頭が付着する寸前にネザーは足を動かし、膝を上に上げてキリトの頭を直撃した。
ヴォクシッ、というような爽快な効果音と共に肉弾攻撃特有の黄色いエフェクトフラッシュが閃き、キリトが奇妙な声と共に飛び起きた。両手で頭を押さえてキョロキョロする顔に向かって、ネザーは冷めた表情を浮かべた。
「やっと起きたか」
「……お、おはよう」
キリトは、少年漫画の主人公めいたやんちゃな風貌にそぐわないしょぼくれた表情を浮かべて訊いてきた。
「……俺、寝ちゃってた?」
「熟睡レベルにな」
「……そりゃ失礼」
「次に寝たら、もっと激しい痛みで起こしてやるからな」
大きく顔を逸らせてから、横眼でじとっとキリトを睨みつける。
とは言え、居眠りするのも無理はない状況、ではあるのだ。何せ、視界右下端に表示された現在のリアル時刻は、すでに午前2時を回っている。
ネザーはもう一度祠の出入り口を見やった。相変わらず、深い闇の中を風に巻かれた雪が舞うのみで、それ以外に動くものは一切ない。そして今、自分達はログアウトできない状態にある。
ログアウトできない事情とは、ネザー、キリト、リーファ、そしてキリトの膝でくうくう眠る小妖精のユイは、現在この地下世界の奥底に閉じ込められ、地上に脱出できずにいるのだ。
無論、ゲームからの離脱だけならいくらでも可能だ。しかしこの祠は宿屋でも安全地帯でもないので、意識は現実に戻っても、後には魂のない仮想体が一定時間取り残されてしまう。
そして放置されたアバターというのが、実によくモンスターを引き寄せるのだ。襲われれば無抵抗にHPを減らされるだけなので、あっという間に《死亡》して、セーブポイントであるシルフの街《スイルベーン》へと戻されることになる。それでは、何のために彼方のシルフ領から遥々旅してきたのかわからない。
3人の目的は、アルヴヘイムの中央都市である《アルン》へと辿り着くことだ。
スイルベーンを出発したのが、今日__正確には昨日の夕方。広大な森林地帯を飛び越え、長い鉱山トンネルを駆け抜け、オマケに敵対するサラマンダー族の襲撃をも退けて、シルフ領主サクヤの一行に感謝されつつ別れたのが午前1時過ぎ。
途中で何度か休憩を取ったとは言え、その時点で連続ダイブも8時間に達していた。央都アルンはまだ遥か彼方に霞み、とてもすぐには到着できそうになかったので、今日の冒険はここらで切り上げて最寄りの宿屋でログアウトしようということになり、3人はちょうど視界に入った森の中の小村にこれ幸いと降下した。
あの時、面倒でもマップを呼び出して、村の名前なり宿屋の有無なりを確認するべきだったのだ。まさか__
「__まさか、あの村が丸ごとモンスターの擬態だったなんてなぁ……」
ちょうど同じ記憶を振り返っていたらしいキリトがため息混じりに言った。ネザーもはぁっと息を吐き出し、頷く。
「たしかに、迂闊だった。……擬態するのは《奴ら》だけで充分だ」
最後の一言だけは聞こえないよう小声で呟く。
続いてリーファもふうっと息を吐き出し、言う。
「本当よねぇ……。誰よ、アルン高原にはモンスター出ないなんて言ったの」
「リーファだろ」
「記憶にございません」
謎の村に降り立った3人は、まず住民__NPCの姿がまるでないことに首を傾げた。それでも宿屋の店主くらいはいるだろうと、もっとも大きい建物に入ろうとした、その瞬間。
村を構成していた3つの建物が、全部同時にどろっと崩れた。ぬるぬる光る肉質のこぶになってしまった宿屋にあんぐり口を開ける暇もなく、足元の地面がぱっくりと左右に割れた。その奥にあったのは、うぬうぬ蠕動する暗赤色の洞窟。そう、村と見えたのは、地面に埋まっていた恐ろしく巨大なミミズ型モンスターが、口の周りの突起を変化させて作った寄せ餌だったのだ。
ネザー、キリト、リーファ、そしてキリトの胸ポケットに入っていたユイは、強烈な吸引力によってひとたまりもなく丸呑みされた。巨大ミミズのぬるぬる滑る消化管にぐびりぐびりと運ばれる間に、このまま胃酸に溶かされるのだとしたら、間違いなく1年間のALOプレイ歴で最悪の死に方だ!と確信したりもした。
しかし幸いリーファ達はミミズの口に__正確には胃に合わなかったようで、およそ3分近くも続いた消化器ツアーの末に、ぽいっと放り出された。全身にまとわりつく粘液の感触に鳥肌を立てながら、とりあえず背中の翅で落下を止めようとして、リーファは再び戦慄した。
飛べなかったのだ。どれほど肩甲骨に力を込め、翅を震わせようとも揚力が生まれない。いずことも知れぬ薄暗闇の中を、続けて排出されたネザーとキリトと共に一直線に落下し、ぼすん!と深い雪に埋まり込んだ。
じたばたもがいて雪から顔を引っ張り出したリーファがまず最初に見たのは、月や星の輝く夜空の代わりに果てしなく広がる岩の天蓋だった。洞窟か、道理で飛べないわけだ、と顔をしかめながらぐるりと視線を巡らせた途端、眼を鼻の先の雪原をゆっくり移動していく、見上げるような異形の姿が眼に飛び込んできた。それが、写真でしか見たことのない恐るべき《邪神級モンスター》であることは疑いようもなかった。
すぐ横に顔を出し、何かを喚こうとしたキリトの口を全力で押さえながら、リーファは悟った。自分が、ALOにダイブして初めて、広大無辺の地下世界、災難度フィールドたる《ヨツンヘイム》にやって来てしまったのだということを。つまり、あの巨大ミミズは、プレイヤーを捕食するためではなく、この氷の国へと強制的に移動させるために存在するトラップだったということになる。
5階建てのビルほどもありそうな多脚型の邪神をどうにかやり過ごしてから、リーファ達はほうほうの体でこの祠を見つけて避難し、前後策を練ることにした。しかし飛行不可のこの場所ではお手軽な脱出法などそうそう存在するはずもなく、もう1時間近くこうして焚き火を眺めながら壁際で体育座りをしている__という現状なのだった。
「ええと……脱出プラン以前に、俺、このヨツンヘイムっつうフィールドの知識ゼロなんだよな……」
ようやく眠気を追い払ったらしいキリトが、鋭さの戻った黒い瞳を外の暗闇に向けながら言った。
「確かここに来る前、シルフの領主さん達が言ってたよな。俺達の手持ちのコインを渡した時、『この金額を稼ごうと思ったら、ヨツンヘイムで邪神を狩らないと』とかなんとか」
「そういえば、言ってたな」
頷きつつ、ネザーも記憶を辿った。
「……そういえば2人共、あんな恐ろしい大金、どこで稼いだのよ?」
つい脱線したリーファの質問に、キリトはえーあーうーと唸り、ネザーは冷静なまま考える、といった具合にそれぞれの対応法を模索する。
数秒経過したところでキリトが答える。
「あれはその、俺達も譲ってもらっただけなんだ。昔このゲームをものすごいやり込んで、今はもう引退しちゃった友達から……」
「ふぅーん」
確かに、ゲームを引退するプレイヤーが、装備やコインを友人知人に気前良くプレゼントするというのは結構聞く話だ。とりあえずそれは納得しておいて、リーファは話の筋を戻した。
「で、なんだっけ。サクヤの台詞がどうかしたの?」
「いや、領主さんがああ言ってたってことは、このフィールドで狩りをしてるプレイヤーもいるってことだよな?」
「いるにはいる……みたいね」
「じゃあ、さっきのデカミミズみたいな一方通行ルートだけじゃなく、双方向で行き来できるルートも存在するわけだ」
ようやくキリトの言わんとするところを察し、リーファはかっくんと頷いた。
「あるにはある……みたいね。あたしも実際来るのは初めてだから通ったことはないけど、確か、央都アルンの東西南北に1つずつ大型ダンジョンが配置されてて、そこの最深部にヨツンヘイムに繋がる階段があるのよ。場所は……」
左手を振ってメニューを出し、マップを呼び出す。ほぼ円形をしたヨツンヘイムの平面図が表示されるが、リーファはまったく未踏破のため、現在地周辺以外の全てが灰色に塗り潰された状態だ。右手の人差し指で、のっぺりしたマップの上下左右を順番につつく。
「ここ、ここ、こことここ辺りのはず。あたし達がいる祠が、中心と南西壁のちょうど中間くらいだから、最寄の階段は西か南のやつね。ただ……」
肩を竦め、付け加える。
「階段のあるダンジョンは全部、当然ながらそこを守護する邪神がいるわよ」
「その邪神の強さはわかるか?」
情報収集家的なネザーの質問に、リーファはじろっと横眼の視線を浴びせて答えた。
「いくらネザーさんが強くても、今回ばかりはどうにもなりませんよ。噂じゃあ、このフィールドがオープンした直後に飛び込もうとしたサラマンダーの大パーティーが、最初の邪神でさくっと全滅したらしいわ。あなたが苦戦したユージーン将軍も、1人で邪神の相手をしたら10秒持たなかったとか」
「ほおぉ、あのユージーンが……」
「今じゃ、ここで狩りをするには、重武装の壁役プレイヤー、高殲滅力の火力プレイヤー、それに支援・回復役プレイヤーがそれぞれ最低8人は必要ってのが通説ね。あたし達3人とも軽装剣士だし、何もできずに踏み潰されて終わりかもよ」
「そいつは勘弁だな」
と頷きながらも、密かに挑戦心を掻き立てられているらしく小鼻をぴくつかせるネザーをもう一度睨み、リーファは付け加えた。
「ま、それ以前に、九分九厘階段ダンジョンまで辿り着けないけどね。この距離を歩いたらどっかではぐれ邪神を引っ掛けて、タゲられたと思う間もなく即死だわ」
「そうか……、このマップじゃ飛べないんだよなぁ……」
キリトはがっくりと頭を下げる。
「翅の飛行力を回復させるには、日光か月光が必要なの。でもご覧のとおり、ここにはどっちもないからね……。唯一、闇妖精族のネザーさんなら、地下でもちょこっとだけ飛べるらしいけど……」
言葉を切り、しばし互いの翅を眺める。風妖精であるリーファの背中から伸びる薄緑色の翅も、影妖精のキリトが持つ灰色の翅も、ネザーの紫色の翅と違いすっかり燐光を失って萎れている。飛べない妖精など、ただの耳とんがりだ。
「となると、最後の望みは、ほんのわずかだけ飛べる俺だけってことになるな」
「あるいは、さっきリーファが言ってたみたいな邪神狩りの大規模パーティーに合流させてもらって、一緒に地上に戻るかだな」
「そうなんだけどね……」
頷いてから、リーファは視線を祠の外に向けた。
青い薄闇を透かして見えるのは、どこまでも続くような雪原と森、その彼方に屹立する異形の城塞くらいだ。もちろんあの城には親玉級の邪神とその子分がうじゃうじゃいて、近寄った瞬間に大変楽しくない目に遭うことだろう。当然ながら他のプレイヤーの姿は影も形もない。
「……このヨツンヘイムは、地上の上級ダンジョンに代わる最高難度マップとして最近実装されたばかりなの。だから、降りてきてるパーティーの数はまだ常時10以下しかないらしいわ。偶然この祠の近くに来る可能性なんて、あたし達だけで邪神に勝つ確率より少ないかも……」
「リアルラック値が試されるなぁ」
「運より実力が大事だ」
力ない笑みを浮かべる黒衣の妖精に釘を刺す。
ネザーの念押しに突き動かされたのか、キリトは右手の人差し指を伸ばすと、膝の上で眠る長身10センチほどの少女の頭をつついた。
「おーいユイ、起きてくれー」
呼び掛けると、長い睫毛を二、三度震わせてから、ピンク色のワンピースに包まれた小さな体をむくりと起こした。右手を口元にあて、左腕を高く伸ばして、大きなあくびを1つ。その仕草が実に可憐そのもので、リーファはつい見とれてしまう。
「ふわ……。おはようございます、パパ、リーファさん、ネザーさん」
極細の銀糸を爪弾くような声で挨拶する小妖精に、キリトは優しい声で語りかけた。
「おはよう、ユイ。残念ながらまだ夜で、まだ地底だけどな。悪いけど、近くにプレイヤーがいないか、検索してくれないか?」
「はい、了解です。ちょっと待ってくださいね……」
こくっと頷き、瞼を閉じる。
すぐにぱちっと眼を開いた少妖精は、申し訳なさそうに長い耳を垂れさせ、艶やかな黒髪をふるふると横に振った。
「すみません、わたしがデータを参照できる範囲内に他プレイヤーの反応はありません。いえ、それ以前に、あの村がマップに登録されてないことにわたしが気づいていれば……」
キリトの右膝の上でしょんぼり項垂れるユイの髪を、リーファは反射的に指先で撫でていた。
「ううん、ユイちゃんのせいじゃないよ。あの時はあたしが、周辺プレイヤーの索敵警戒を厳重に、なんてお願いしちゃったから。そんない気にしないで」
「……ありがとうございます、リーファさん」
と、潤んだ瞳で見つめられれば、このピクシーを動かしているのがプログラムコードなのだとはにわかに信じられなくなる。本心からの微笑みを浮かべ、ユイの小さな翅をそっと触れてから、リーファはキリトへと視線を移した。
「ま、こうなったら、やるだけやってみるしかないよね」
「やるって……何を?」
瞬きするキリトに、今度はニヤッと不敵に笑いかける。
「あたし達だけで地上への階段に到達できるか、試してみるのよ。このままここで座ってても、時間が過ぎてくだけだもん」
「で、でも、さっき絶対無理って……」
「九分九厘無理、って言ったのよ。残り1パーセントに賭けてみよ。はぐれ邪神の視界と移動パターンを見極めて、慎重に行動すれば可能性はあるわ」
「リーファさん、かっこいいです!」
小さな手でぱちぱち拍手するユイにウインクを返し、リーファはすくっと立ち上がろうとした。
しかし、その袖をキリトが強く掴んで引き戻した。
「な、何よ?」
よろけながら再び座り、抗議しようとしたが、至近距離から真っ黒い瞳を向けられて思わず黙る。キリトはじっとリーファを凝視し、これまでの暢気さが抜け落ちた声できっぱりと言った。
「いや……、君はログアウトしてくれ。仮想体が消えるまで俺達が守るから」
「え、な、何でよ?」
「もう2時半を回る。君、リアルじゃ学生だって言ってたろ?今日は俺達のために8時間以上もダイブしてくれてるのに、これ以上無理に付き合ってもらうわけにはいかないよ」
「………」
あまりに突然の言葉に声を失うリーファを見つめ、キリトは静かに続けた。
「直線的に歩いたってどれだけかかるかわからないのに、その上あんな超大型モンスターの索敵範囲を避け続けようとすれば、実際の移動距離は倍になってもおかしくない。例え階段まで到着できてもきっと朝方になってしまうはずだ。俺とネザーは何が何でもアルンに行かなきゃいけない理由があるけど、今日は平日なんだし、君はもう落ちたほうがいい」
「べ……別に、あたし平気だよ、一晩くらい徹夜したって……」
無理矢理笑顔を作りながら、リーファは首を振ろうとした。
しかしキリトは、掴んでいた袖を離すと、会話を打ち切るようにぐいっと頭を下げた。
「リーファ、今まで本当にありがとう。君がいなければ、この世界の情報収集だけで何日もかかってたはずだ。たった半日でここまで来られたのは君のおかげだよ。どれだけお礼を言っても足りないくらいだ」
「………」
不意に襲ってきた胸の痛みに耐えかね、リーファは固く両手を握り締めた。
痛みの理由はわからなかった。しかし、ほとんど自動的に唇が動き、強張った声を押し出していた。
「…………別に、2人のためだけじゃないもん」
「え……」
頭を上げたキリトから眼を逸らし、リーファは硬い声で言い募った。
「あたしが……、あたしがそうしたかったからここまで来たんだよ。それくらい、わかってくれてると思ってた。何よ、無理に付き合ってもらう、って。じゃあ、キリト君は、あたしが今まで嫌々同行してたって、そう思ってるの?」
込み上げてくる感情をアミュスフィアが掬い取り、バカ正直に両眼から透明な雫をこぼそうとするので、何度も強く瞬きしてそれを押し留める。キリトの膝に座るユイと、近くで見物するネザーが、はらはらした顔で2人に交互に向けてくる視線からも逃れるように、リーファは祠の出口を向いてがばっと立ち上がった。
「あたし……、今日の冒険、ALO始めてから一番楽しかった。どきどき、わくわくすることいっぱいあったよ。ようやくあたしにも、こっちの世界ももう1つの現実なんだって、信じられる気がしてたのに……!」
最後にぐいっと右腕で両眼を拭い、闇雲に外へと駆け出そうとした__
その寸前。
雷鳴でも、地鳴りでもない異質な大音響が、ごく至近距離から降り注いだ。
ぼるるるるう、というその咆哮は、間違いなく超大型モンスターの喉から放たれたものだったた。直後に、ずしんずしんという地面を揺るがすような足音も轟く。
しまった。さっきの叫び声ではぐれ邪神を引き寄せちゃったのか、あたしのバカ……と内心で自責しつつも、せめて自分が囮になって邪神をここから引き離すべく、リーファはもう一度ダッシュしようとした。
しかし、いつの間にか背後に立っていたネザーが、強くリーファの左腕を掴んで引き止めた。
「離して!あたしが敵をプルするから、その隙に離脱を……」
抑えた声でそう囁きかけたが、隣に立ったネザーは、外に鋭い視線を向けながら早口で言った。
「待て。様子がおかしい」
「おかしいって、何が……」
「1匹じゃない」
その言葉に慌てて耳を澄ますと、確かに邪神の放つ咆哮は、大型エンジンめいた重低音の他に、ひゅるる、ひゅるるという木枯らしのような声も混じっている。リーファはぐっと息を詰めてから、掴まれた腕を振りほどこうとした。
「2匹なら尚更のことだわ!」あたし達3人とも死んで、またスイルベーンからやり直しだよ!」
「いえ、違いますリーファさん!」
と細く叫んだのは、キリトの肩に乗ったユイだった。
「接近中の邪神級モンスター2匹は……互いを攻撃しているようです!」
「えっ」
ぱちくりと瞬きし、リーファはもう一度聴覚に集中した。確かに、ひっきりなしに轟く足音は、一直線に失踪中というよりはまるで転げ回っているかのように不規則な震動を伝えてくる。
「で、でも……モンスター同士が戦闘って、どういう……」
胸を押し潰すような悲しさも一瞬忘れ、呆然と呟いた。するとキリトが、意を決したように囁いた。
「様子を見に行こう。どうせこんな祠じゃシェルター代わりにはならないし」
「確かにな。ここにいても時間を無駄にするだけだ」
「そ、そうだね……」
さっと頷き合い、リーファは腰の長刀に手を掛けながら、キリトとネザーに続いて雪の舞い散る薄闇へと足を踏み出した。
数歩進んだだけで、音源たる2匹の邪神はすぐに視界に入った。祠の東側から徐々に接近してくるその姿は、まるで小山が揺れ動いているかのようだ。全高は軽く20メートル近くあるだろう。色は、両方とも邪神級モンスター特有の青みがかった灰色だ。
じっと眼を凝らすと、2匹のサイズにはわずかな差があった。ぼるるるると発動機のような雄叫びを上げている個体は、ひゅるひゅると鳴く個体よりも一回り大きい。
大型のほうがギリギリ人間タイプと言えなくもない、縦に3つ連なった巨大な顔の横から4本の腕を生やした巨人というフォルムをしている。異教の神像めいた角ばった顔のそれぞれからぼる、ぼるという叫び声を放ち、それが連続するとエンジン音に聞こえるのだ。4つの手に握られた、まるで工事現場の鉄骨のように角ばった巨剣を軽々と振り回している。
対して、やや小型の邪神は、もう何がなんだかわからない造形をしていた。巨大な耳と長い口吻を備えた顔は象っぽくもあるが、後ろに続く胴体は饅頭のように扁平な円形で、それを支えるのは20本はあろうかという鉤爪のついた足だ。全体的には、象の頭がくっついたクラゲ__だろうか。鋭い爪を繰り出して、のし掛かる三面巨人を退けようとするのだが、暴風のように叩き付けられる4本の鉄剣に阻まれて顔まで届かない。逆に押し負け、剣の先端が饅頭型の胴体を抉るたび、どす黒い体液が霧のように飛び散る。
「ど……どうなってるの……」
体を隠すことも忘れ、リーファは呆然と呟いた。
ALOに於いてモンスター同士が戦闘している場合、通常それには3つの理由が考えられる。
1つは、どちらかのモンスターが、飼い馴らし__テイミングスキルに長けた猫妖精族プレイヤーの使役する《ペット》である場合。2つ、どちらかが音楽妖精族の奏でるメロディーによって煽動されている場合。そして3つ、幻属性魔法によって惑乱させられている場合だ。
しかし今目の前で繰り広げられている死闘の理由が。それらのどれでもないことは明らかだった。ペットモンスターならターゲットカーソルが黄緑色になるはずだが、どちらの邪神のカーソルもモンスターを示す黄色のままだし、空気を満たすのはぼるぼるびゅるびゅるという雄叫びと地響きばかりで音楽などまるで聞こえないし、惑乱魔法の発動を示すライトエフェクトも一切見えない。
立ち尽くすリーファ達の視線などまるで意に介さず、2匹の邪神は激しい戦いを続けている。しかしやはり、三面巨人の優勢、象クラゲの劣勢は動かないようだ。ついに巨人の剣が、象クラゲの鉤爪肢を1本根元から叩き切り、吹き飛んだ肢がすぐ近くに落下してリーファの体を揺らした。
「お、おい、ここにいたらヤバそうじゃないか……?」
隣で呟くキリトに、頷きつつもリーファもネザーも動けない。迂闊に動いてこちらが見つかれば、象クラゲの二の舞になりかねない。更に、傷口から迸る血液で白い雪原を黒く染める象頭の邪神から眼が離せない。
傷ついた象クラゲは、ひゅるるると甲高く一鳴きし、再び離脱を試みる。しかし巨人に見逃す気はないようで、饅頭型の胴体に飛びかかるや、いっそう激しく鉄剣を浴びせる。圧力に耐えかね、地面に蹲ってしまう象クラゲの声が、みるみる弱々しいものになっていく。灰色の外皮に幾筋も惨い傷が刻まれてるが、巨人はその上から容赦なく剣を打ち付け続ける。
「……2人とも、助けよ」
という言葉が自分の口から出たのを聞いて、リーファ自身も少々びっくりした。その3倍ぎょっとした顔になったキリトが、リーファと2匹の邪神を交互に見てから、短く訊ねた。
「助けるって……ど、どっちを?」
確かに、一応人型と言えなくもない三面巨人よりも、象クラゲのほうが遥かにおどろおどろしいフォルムをしている。しかしこの場合は、迷う必要もなかった。
「もちろん、いじめられてる方よ」
即答したリーファに向けて、キリトは次なる当然至極の質問を口にした。
「ど、どうやって?」
「えーと……」
今度はすぐ答えるというわけにもいかない。なぜならリーファもまったくノーアイディアだからだ。しかしこうしている間にも、象頭邪神の青灰色の背中には、次々に深い傷が刻まれていく。
「…………キリト君、なんとかして!!」
両手を胸の前で握り締めながら叫ぶと、スプリガンの少年は天に仰いで両手で黒髪を掻きむしった。
「なんとかって言われても…………」
「……やれやれ」
責任を押し付けられてるような光景に呆然とし、ネザーは一度邪神達を凝視した。両眼がすうっと細められ、黒い瞳の奥に、脳内の高速思考を映しているが如き光がチカチカと瞬く。
「……あのフォルムに意味があるとすれば……」
低く口走ると、ネザーは不意に周囲を見回し、次いでキリトの肩に座るユイに囁きかけた。
「ユイ、近くに川か湖はあるか?」
すると小妖精は、理由も訊かずに一瞬瞼を閉じ、すぐに頷いた。
「あります!北に約200メートル移動した場合に、氷結した湖があります!」
「よし……キリト、リーファ、そこまで死ぬ気で走れ」
「「え……え?」」
フォルム__というのは三面四腕の巨人のことだろうか。それと水面とどういう関係があるのか。
戸惑うリーファとキリトの背を、それ以上何も言わずに軽く押し、ネザーは腰のベルトから太い釘のようなものを抜き出した。投擲用のピックだと思われるが、リーファは今までその手の武器が実用されるところを見たことはなかった。なぜならALOには魔法という超強力な遠隔攻撃が存在するので、あえて地味な投擲武器スキルを修行する意味などほとんどないからだ。
しかしネザーは、実に様になった動作で、全長12センチほどのピックを指先でクルクル回すと肩越しに構えた。
「……はっ!」
掛け声とともに、眼にも留まらぬ速さで右腕が振られ、鉄針は青い光の帯を引きながら一直線に飛翔し__。
三面巨人の一番上の顔、赤黒く光る眼と眼の間に、ズビシッと命中した。
驚いたことに、ごくごくわずか、せいぜい一画素ぶんではあるが巨人のHPゲージが減少するのをリーファは見た。あんなおもちゃのような武器で邪神級モンスターの圧倒的な装甲を貫くとは、よほど投剣スキルが高くなくてはできない芸当だ。
所詮は、膨大な邪神のHPからすれば無に等しいダメージではあったが、この場合はダメージが発生したこと自体が重要なのだ。なぜなら__
「ぼぼぼるるるるううう!」
という怒りの雄叫びと、ギョロリと向けられた3対6本の視線は、巨人のターゲットが象クラゲからネザー達3人のパーティーへと切り替わったことを意味する。
「……逃げるぞ!!」
ネザーが絶叫すると同時に、キリトはクルリと北を向き、雪煙を散らして2人は失踪し始めた。
「ちょっ……」
リーファはパクパク口を動かしてから、遠ざかる2人を慌てて追った。直後、すぐ後ろから轟く咆哮と立て続けの地響き。巨人もまたリーファを含めた3人を追いかけてきたのだ。
「待っ……や……いやああああああ!!」
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