Sword Art Rider-Awakening Clock Up
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
朝露の少女
アスナは毎朝の起床アラームを7時50分にセットしている。
なぜそんな中途半端な時間なのかというと、キリトの起床時刻が8時丁度だからだ。10分速く眼を覚まし、ベッドに入ったまま、隣で眠る彼を見ているのが好きなのだ。
今朝もアスナは、木管楽器の柔らかな音色によって目覚めた後、そっと体をうつ伏せにして、両手で頬杖を突きながらキリトの寝顔を眺めていた。
恋したのが半年前。攻略パートナーとなったのが2週間前。結婚して、ここ22層の森の中に引っ越してきてからはわずか6日しか経っていない。誰よりも愛する人だが、実の所、キリトに関してはまだまだ知らないことも多い。それは寝顔1つ取っても言えることで、こうして眺めていると、だんだん彼の年齢がわからなくなってくる。
少しばかり斜に構えた、飄々とした物腰のせいで、自分より少し年上かなと普段は思っている。しかし深い眠りに落ちている時のキリトには、無邪気と言っていいほどのあどけなさがあるため、なんだか遥かに年下の少年のようにも見えてしまう。
歳くらい、訊いてもかまわないだろうとは思う。いかに現実世界の話を持ち出すのが禁忌とは言え、2人はもう夫婦なのだ。歳どころか、現実に戻ってからまた出会うためには、本名、住所から連絡先まで伝え合っておくべきなのは事実だ。
しかし、アスナは中々それが言い出せないでいる。
現実世界のことを話した途端、ここでの《結婚生活》が仮想の、薄っぺらなものになってしまいそうで怖いからだ。アスナのとって今何よりも大切な、唯一の現実はこの森の家での穏やかな日々であって、例えこの世界からの脱出が叶わぬまま現実の肉体が死を迎えることがあるとしても、最後の瞬間までこの暮らしが続いてくれるなら悔いはない。
だから、夢から覚めるのは、もう少し後に__。そう思いながら、アスナはそっと手を伸ばし、眠るキリトの頬に触れた。
そっと息をつきながら、アスナは身を乗り出し、キリトの体に腕を回した。かすかな声で囁きかける。
「キリト君……大好きだよ。ずっと、一緒にいようね」
その途端、キリトはわずかに身動きし、ゆっくりと瞼を開けた。2人の視線が至近距離で交錯する。
「わっ!!」
アスナは慌てて跳び退った。ベッドの上にぺたんと正座して、顔を真っ赤に染めながら言う。
「お、おはよ、キリト君。………今の……聞いてた?」
「おはよう。今のって、何?」
上体を起こし、あくびを噛み殺しながら聞き返すキリトに向かって、アスナは両手をぶんぶんと振った。
「う、ううん。なんでもない!」
目玉焼きと黒パン、サラダにコーヒーの朝食を終え、2秒でテーブルを片付けると、アスナは両手をパチンと打ち合わせた。
「さて!今日はどこに遊びに行こっか」
「お前なあ」
キリトが苦笑いをする。
「身も蓋もない言い方するなよ」
「だって毎日楽しいんだもん」
アスナにとっては偽らざる本音だ。
振り返るのすらも苦痛な記憶だが、SAOの囚人となってからキリトに恋するまでの1年半、アスナの心は硬く凍りついていた。例えるなら、ネザーと同じタイプの人間だったのだ。
心に壁を作って、感情を表に出さないネザーは、本当に冷たい男だ。いつも寝る間を惜しんでスキル・レベルを鍛え上げ、名の通るプレイヤーへと成長していき、ますます遠い存在に思えるようになった。
以前のアスナも、攻略ギルド《血盟騎士団》のサブリーダーに抜擢されてからは、時としてメンバーが音を上げるほどのハイペースで迷宮に潜り続けた。心にあるのはただのゲームクリア、そして脱出だけで、それに資する活動以外の全てを無意味と断じていた。
今はキリトとの出会いによって穏やかになったアスナだが、冷徹なネザーは相変わらず寝る間を惜しんで自分のスキル・レベルの育成に取り組み続けている。
そう考えるとアスナは、なぜもっと速くキリトと巡り会うことができなかったのかと悔やまずにいられない。彼と出会ってからの日々は、現実世界での生活以上に色彩と驚きに溢れたものだった。彼と共になら、ここでの時間も得がたい経験と思えた。
だからアスナには、今ようやく手に入れた2人だけの時間、その1秒1秒が貴重な宝石のように思えるのだ。もっと2人で色々な場所に行き、色々なことを話したい。
アスナは両手を腰に当てて唇を尖らせて言った。
「じゃあキリト君は遊びに行きたくないの?」
するとキリトはニヤリと笑い、左手を振ってマップを呼び出した。可視モードになっているマップをアスナに示す。この層の森と湖の重なりが表示されている。
「ここなんだけどな」
指差したのは、2人の家から少し離れた森の一角だった。
22層は低層フロアゆえに面積がかなり広い。直径で言えば8キロメートル強ほどもある。その中央には巨大な湖があり、南岸に主街区である《コラル》の村。北岸に迷宮区。それ以外の場所は全て針葉樹の美しい森となっている。アスナとキリトの小さな家はフロアのほぼ南端、外周部間近の場所にあり、今キリトが示しているのは家から北東へ2キロメートルほど進んだ場所である。
「昨日、村で聞いた噂なんだけどな……。この辺の、森が深くなってる所……。出るんだってさ」
「は?」
意味深な笑みを浮かべるキリトに、アスナはきょとんと訊き返した。
「何が?」
「……幽霊」
しばし絶句してから、恐る恐る確認する。
「……それって、アストラル系のモンスターってこと?」
「いいや、本物さ。プレイヤー……人間の、幽霊。女の子だとさ」
「う……」
アスナは思わず顔を引きつらせてしまう。その手の話は、人並み以上に苦手な自信がある。ホラー系フロアとして名高い65、66層辺りの迷宮区は、あれこれ理由をつけて攻略をサボったきたほどだ。
「だ、だって、ここはゲームのデジダル世界だよ。そんな……幽霊なんて、出るわけないじゃない」
無理矢理笑顔を作りながら、ややムキになって抗弁する。
「それはどうかな?」
だが、お化けがアスナの弱点と知っているキリトは、いかにも楽しそうに追い打ちをかけてきた。
「例えばさぁ……。恨みを残して死んだプレイヤーの霊が、電源入りっぱなしのナーブギアに取り付いて……夜な夜なフィールドを彷徨ってるとか……」
「やめてーーーっ!!」
「ははは、悪かった。今のは不謹慎な冗談だったな。まあ俺も本当に幽霊が出るとは思っちゃいないけど、どうせ行くなら何か起きそうなところがいいじゃないか」
「うう……」
「大丈夫だよ。それに……」
「それに?」
キリトは意外な発言を最後の一言として放った。
「さっきネザーにも、幽霊についての情報をメッセージで飛ばしたんだ。そしたらあいつ、こっちに来るって答えたんだ」
「ネザー君が?」
驚くのも当然だった。
普段のネザーに申し入れをしても、彼は素直に受け入れることはなかったが、自分が興味を抱いていることに関しては受け入れていた。噂の幽霊に興味を抱いているということだというのは容易に理解できた。《圏内殺人》事件に首を突っ込んだ時と同じような展開だ。
驚きながらもアスナは唇を尖らせながら、窓の外に眼を向けた。
冬も間近なこの季節にしてはいい天気だ。ポカポカと暖かそうな陽光が庭に芝生に降り注いでいる。幽霊が出るには最も適さない時間、に思える。アインクラッドではその構造上、早朝と夕方を除いて太陽を直接見ることはできないが、しかし日中は充分な面光源ライティングによってフィールドは明るく照らされている。
アスナはキリトに向き直り、ツンと顎を反らせながら言った。
「いいわよ。行きましょう。幽霊なんていないってことを証明しに」
「よし決まった。今日会えなかったら、今度は夜中に行こうな」
「ぜ、絶対嫌よ!!……そんな意地悪言う人にはお弁当作ってあげない」
「げげ、なしなし、今のなし」
キリトに最後のひと睨みを浴びせてから、アスナはにこりと笑った。
「さ、準備を済ませちゃおう。わたしはお魚焼くから、キリト君はパンを切ってね」
手早くフィッシュ・バーガーの弁当をランチボックスに詰め、2人が家を出た時は午前9時となっていた。
庭の芝生に降りたところで、アスナはキリトを振り返ると言った。
「ね、肩車して」
「か、かたぐるま!?」
素っ頓狂な声でキリトが聞き返す。
「だって、いつも同じ高さから見てたんじゃつまんないよ。キリト君の筋力パラメータなら余裕でしょ?」
「そ、そりゃそうかもしれないけどなぁ……。お前、いい歳こいて……」
「歳は関係ないもん!いいじゃない、誰が見てるわけでもないし」
「ま、まあいいけどさぁ……」
キリトは呆れたように首を振りながらしゃがみ込み、背中をアスナに向けた。スカートをたくし上げ、その肩をまたぐように両足を乗せる。
「いいよー。でも後ろ見たら引っ叩くからね」
「なんか理不尽じゃないか……?」
ぶつくさ言いながらキリトが身軽な動作で立ち上がると、それにつれて視点が一気に上昇した。
「わあ!ほら、ここからもう湖が見えるよ!」
「俺は見えないよ!」
「じゃあ、後でわたしもやってあげるから」
「………」
脱力したように項垂れるキリトの頭に手をかけ、アスナは言った。
「さ、出発進行!」
てくてくと歩き出したキリトの肩の上で屈託なく笑いながら、アスナは痛いほどの、2人で暮らす日々への愛おしさを感じていた。自分は今、17年の人生の中で一番《生きている》と、疑いもなくそう思えた。
キリトがアスナは肩車したまま小道を歩き出して数十分後、22層に点在する湖の1つに差し掛かった。穏やかな陽気に誘われてか、朝から数人の釣り師プレイヤーが湖水に糸を垂らしている。小道は湖を囲む丘の上を通り、左手に見える湖畔まではやうやら皆笑顔で、中には声に出して笑っている者もいる。
「……誰も見てなくないじゃん!!」
「あはは、人いたねー。ほら、キリト君も手を振りなよ」
「絶対に嫌だ」
文句を言いながらも、キリトはアスナを下ろそうとはしなかった。内心では彼も面白がっているのがアスナにはわかる。
やがて道は丘を右に下り、深い森の中へと続く。杉に似た巨大な針葉樹がそびえる間を縫って、ゆっくりと歩く。葉擦れの囁き、小川のせせらぎ、小鳥のさえずりが晩秋の森景色に美しい伴奏を添えている。
アスナは、いつもより近くに見える木々の梢に視線を向けた。
「大きい木だねぇー。ねえ、この木、登れるのかなあ?」
「うーん……」
アスナの問いに、キリトはしばし考え込む。
「システム的には不可能じゃない気がするけどなぁ……」
「……ん?」
キリトの肩に乗ったまま体を伸ばしたアスナが、自分の一番近くにあった1本の樹の天辺を見た時、樹の枝に両足で立つ1つの人影が眼に映った。
「キリト君、あれ!」
すぐさま顔を下に向け、キリトと視線を合わせて人差し指を上に向ける。つられるようにキリトは視線を樹の天辺に移すと、先ほどアスナが見た人影がまだ枝に立っていた。
木の葉の影に覆われていてよく見えないが、正体を現すように枝から飛び降り、こちらに向けて落下してくる。
2人は落下してくる人影に、視線を外さないよう見とれながら地面に到達するのを待った。
やがてストンという綺麗な音を立てながら地面に両足と両手を付け、しゃがみ込むような体制でアスナを肩車したキリトの前に着地した人影は、ゆっくりと体を起こしながらキリトと視線を合わせた。
「……マジかよ?」
少々呆然としたキリトだったが、人影の正体を見て変わった。
頭に被ったフードとロングコートの裾が風に靡き、両腕に金属プレート付きの籠手を装着し、顔に平行に並ぶ大きな2つの傷痕を持った片手剣使い。いつも通りの恰好で2人の前に現れた傷痕剣士のご登場だった。
「随分と派手な登場だな、ネザー」
「登場に派手も地味もあるか」
否定しがちな口を返した俺を見ても、キリトはニコリと笑顔を向けたままだった。
今の現状を見た俺は、生まれた1つの疑問をキリトに問いかけた。
「で、お前はなんでアスナを肩車している?」
「あ、ああ、えっとこれは……その……」
「え、えっと……」
アスナとキリトは戸惑いながらもどうにか状況を説明しようとするが、面倒になって言った。
「答えなくても結構」
どうでもよくなり、改まって周囲を見回しながら幽霊の噂に関する情報を訪ねた。
「それで、幽霊が出現する場所はどこだ?」
「ええと……」
キリトは手を振り、マップで現在位置を確認する。
「あ、そろそろだよ。もうあと何分かで着く」
「そうか」
「そういえば……その噂って、具体的には、どんな話なの?」
聞きたくないが、聞かないのも不安で、アスナは問い掛けた。
「ええと、1週間くらい前、木工職人プレイヤーがこの辺に丸太を拾いに来たんだそうだ。この森で採取できる木材は質がいいらしくて、夢中で集めてるうちに夜になっちゃって……。慌てて帰ろうと歩き始めたところで、ちょっと離れた木の陰にチラリと、白いものが」
「…………」
アスナ的にはそこでもう限界だった。
「モンスターかと思って慌てたけど、どうやらそうじゃない。人間、小さな女の子に見えたって言うんだな。長い、黒い髪に、白い服。ゆっくり、木立の向こうを歩いていく。モンスターでなければプレイヤー、そう思って視線を合わせたら……カーソルが、出ない」
「ひっ……」
思わず喉の奥で小さな声を漏らしてしまうアスナ。
「そんなわけはない。そう思いながら、よせばいいのに近づいた。その上声をかけた。そしたら女の子がピタリと立ち止まって……こっちをゆっくり振り向こうと……」
「も、も、もう、や、やめて……」
「そこでその男は気がついた。女の子の、白い服が月明かりに照らされて、その向こう側の木が透けて見える」
「!!」
必死に悲鳴を堪えながら、ギュッとキリトの髪を掴んだ。
「女の子が完全に振り向いたら終わりだ、そう思って男はそりゃあ走ったそうだ。ようやく遠くに村の明かりを見えてきて、ここまでくれば大丈夫、と立ち止まって……ひょいっと後ろを振り返ったら……」
「っ!?」
「誰もいなかったとさ。めでたしめでたし」
「……き、き、キリト君の、バカーーーっ!!」
肩から飛び降り、背中を本気でどつくべく拳を振り上げた。
バカバカしい光景に呆れた俺には、ため息を吐くことしかできなかった。
__その時だった。
昼なお暗い森の奥、3人からかなり離れた針葉樹の幹の傍らに、白いものがチラリと見えた。
とてつもなく嫌な予感をひしひしと感じたアスナは、その何かに恐る恐る視線を凝らした。俺ほどではないが、アスナの索敵スキルもかなりの練度に達している。自動的にスキルによる補正が適用され、視線を集中している部分の解像度がぐんと上昇する。
白い何かは、ゆっくりと風にはためいているように見えた。植物ではない。岩でもない。布だ。更に言えば、シンプルなラインのワンピースだ。その裾から覗いているのは、2本の細い足。
少女が立っている。キリトの話にあったのと寸分違わぬ白いワンピースを纏った幼い少女が無言で佇み、2人をジッと見ている。
スウッと意識が薄れかかるのを感じながら、アスナはどうにか口を開いた。ほとんど空気だけの掠れ声を絞り出す。
「ふ……2人とも、あそこ」
キリトがさっとアスナの視線を追った。直後、キリトの体もビクリと硬直する。
「う、嘘だろおい……」
少女は動かない。3人から数メートル離れた場所に立ち、ジッとこちらを見つめている。
……ヴァーミンじゃないのか?
俺の眼に捉えたその少女からは特有の気配が感じられない。
もし、少しでもこっちに近づいてきたら、わたし気絶しちゃうよ、と思ってアスナが覚悟を決めたその時。
フラリ__とその少女の体が揺れた。動力の切れた機械人形のような、妙に非生物的な動きでその体が地面に崩れ落ちた。どさり、というかすかな音が耳に届いてくる。
「あれは……」
その途端、俺は鋭く両眼を細めた。
「幽霊でもモンスターでもない」
声を出すや否や走り出す。
「ちょ、ちょっと、ネザー君!」
「おい、ネザー!」
置き去りにされたキリトとアスナは慌てて呼び止めたが、俺は振り向きもせずに倒れた少女へと駆け寄っていき、キリトは後に続いて先走っていく。
「もう!!」
やむなくアスナも立ち上がり、後を追った。まだ心臓がドキドキ言っているが、気絶して倒れる幽霊など聞いた事もない。となれば、あれはプレイヤーとしか思えない。
遅れること数秒、針葉樹の下に到達すると、すでに少女はキリトに抱え起こされていた。まだ意識は戻っていない。長い睫毛に緑どられた瞼は閉じられ、両腕は力なく体の脇に投げ出されている。
「だ、大丈夫そうなの?」
「うーん……」
キリトは少女の顔を覗き込みながら言った。
「この世界では息もしない。心臓も動かない。見るだけ無駄だ」
俺の言葉は確かだった。
SAO内では、人間の生理的活動のほとんどは再現が省略されている。自発的に息を吸い込むことはできるし、気道を空気が動く感覚もあるが、仮想体自体は無意識呼吸を行わない。心臓の鼓動も、緊張したり興奮してドキドキするという体感はあるものの他人のそれを感じ取ることはできない。
「でもまあ、消減してないってことは、生きてるってことだよな。しかしこれは……相当妙だぞ」
言葉を切り、俺が後に続く。
「確かに妙だな」
「妙って?」
「幽霊でもないのに、ああやって触れる。だが、カーソルが出ない」
「あ……」
アスナは改めて少女の体に視線を集中させた。だが、通常アインクラッドに存在する動的オブジェクトならプレイヤーにせよモンスターにせよ、あるいはNPCにせよターゲットした瞬間、必ず表示されるはずのカラー・カーソルが出現しない。
「何かの、バグ、かな?」
「どうかな?普通のネットゲームならGMを呼ぶというケースだが、SAOにそんなものはない」
「それにこの子、プレイヤーにしては若すぎるよ」
確かにそうだ。キリトの両脇に抱えられたその体はあまりにも小さい。年齢で言えば10歳にも満たないだろう。ナーヴギアには健前的ながら装着に年齢制度があり、確か13歳以下の子供の使用は禁じられていた。
アスナはそっと手を伸ばし、少女の額に触れた。ひんやりとした滑らかな感触が伝わってくる。
「どうして……こんな小さな子が、SAOの中に……」
キュッと唇を噛み、立ち上がりながらキリトを言う。
「とりあえず、放ってはおけないわ。眼を覚ませば色々わかると思う。家まで連れて帰ろう」
「うん。そうだな」
その時、キリトが顔を俺に向けて言った。
「お前も来るか?」
「………」
しばしの間、沈黙が続いた。
「……行こう」
頷いた。
「オッケー、行こう」
キリトは少女を横抱きにしたまま立ち上がった。俺はふと周囲を見回したが、近くには朽ちかけた大きな切り株が1つあるくらいで、少女がここにいた理由のようなものは何も見つからなかった。
ほとんど駆け足で来た道を戻り、森を抜けてキリトとアスナの家に辿り着いた。
晩秋の午後がゆっくりと過ぎ去り、外周から差し込む赤い陽光が消え去る時間になっても、時間になっても、少女は相変わらず眠り続けたままだった。アスナのベッドに少女を横たえ、毛布を掛けておいて、3人は向かいのキリトのベッドに並んで腰を下ろした。
しばし沈黙を続けてから、キリトがポツリと口を開いた。
「まず1つだけ確かなのは、こうして家まで連れてこられたからにはNPCじゃないよな」
「そう……だね」
システムが動かすNPCは、存在座標を一定範囲に固定されており、プレイヤーの石で移動させることはできない。手で触ったり抱きついたりすると、ほんの数秒でハラスメント警告のウィンドウが開き、不快な衝撃と共に降っ飛ばされてしまう。
アスナの同意に小さく頷き、キリトは更に推測を重ねた。
「それに、何らかのクエストの関係イベントでもない。そうなら、接触した時点でクエストログウィンドウが更新されるはずだしな」
「……なら、やはりこの子はプレイヤーで、あの場所で道に迷っていた、というのが一番あり得る話だが……」
俺の推測は、決定的とした言いようがない。
茅場晶彦と共にSAOを共同開発してた頃、アインクラッドに出没するクエストについて色々と話し合った。だからこそSAOに登場するほとんどのクエストは把握している。俺の知る限り、幼い女の子が森に現れる、などというクエストは存在しない。後から晶彦が付け加えた可能性も考慮したが、眼前の女の子がプレイヤーだということ以外に思い当たることはなかった。
「でも、なんであんな所に?」
アスナがチラリとベッドに視線を向け、キリトは続ける。
「転移結晶を持っていない、あるいは転移の方法を知らないとしたら、ログインしてから今までずっとフィールドに出ないで、《はじまりの街》にいたと思うんだ。なんでこんな所まで来たのかはわからないけど、《はじまりの街》にならこの子のことを知っているプレイヤーが……ひょっとしたら親とか、保護者がいるんじゃないかな」
「うん、わたしもそう思う。こんな小さな子が1人でログインするなんて考えられないもん。家族が誰か一緒に来てるはずだよね。……無事だと、いいんだけど」
最後の言葉は口の中に飲み込むようにして、アスナは俺とキリトに顔を向けた。
「ね、意識、戻るよね?」
「ああ。まだ消えてないってことは、ナーヴギアとの間に信号のやり取りはあるんだ。睡眠状態に近いと思う。だから、きっとその内、眼を覚ます……はずだよ」
しっかり頷きながらも、キリトの言葉は願望の色があった。
アスナは立ち上がり、少女の眠るベッドの前に跪き、右手を伸ばした。そっと少女の頭を撫でる。
俺は怪しむ目付きで少女の顔をジッと眺めていた。見た目は美しい少女だが、どこか歪なものを感じる。ある意味、ヴァーミンと類似の存在に思えた。
キリトがメッセージで送った幽霊の噂話を知った時から、ずっと考えていた。
幽霊__すなわち今ベッドで横になっている少女を、最初は義体したヴァーミンだと思った。しかし、この子からは何も感じない。人間の子供というよりは、むしろ妖精のような気配を漂よわせている。肌の色はアラバスターのようなきめ細かい純白。長い黒髪は艶やかに光り、どこか異国風のくっきりとした顔立ちは、眼を開けて笑ったらさぞ魅力的だろうと思わせる。
キリトもアスナも横に歩み寄り、腰を落とした。恐る恐る右手を伸ばし、少女の髪に触れる。
「10歳はいってないよな……。8歳くらいかな」
「それくらいだね……。わたしは見た中ではダントツで最年少プレイヤーだよ」
「そうだな。俺も前にビーストテイマーの《シリカ》って女の子と知り合ったけど、それでも13歳くらいだったからなぁ」
初めて聞く話に、アスナは思わずキリトの顔を見やってしまう。
「ふうん、そんな可愛いお友達がいたんだ」
「ああ、たまにメールのやり取りを……い、いや、それだけで、何もないぞ!」
「どうだか。キリト君鈍いから」
つん、と顔を逸らす
風向きがおかしくなりつつあるのを察したように、キリトは立ち上がると、言った。
「今日はもう遅いし、寝ようぜ」
「……そうだね」
ひと睨みしてからアスナは、この場は放免してあげることにしてニコリと笑い、キリトの言葉に同意した。
「……俺は帰らせてもらうぞ」
ベットから腰を上げ、俺は第50層《アルゲート》にある自分の宿屋に帰ろうとした。
「ここに泊まっていけばどうだ?」
俺は背を向けたまま答えた。
「居心地の悪い家にいたくない。だが、その子の正体は知りたいから、明日の朝にまた来る」
きっぱりと早口で言い終え、足をササッと動かし家から出て行った。
居間の明かりを消し、寝室の壁に付いたランプの明かりだけが部屋を灯していた。
少女がベッドを1つ使っているので、もう片方のベッドに2人で寝ることにした。寝室のランプも火を落として、2人はベッドに横になった。
キリトは色々と妙な特技があるのだが、寝つきの良さもそれに含まれるだろう。アスナが少し話をしようと横を向いた時には、既に規則正しい寝息を立てていた。
「もう」
小声で文句を言い反対側、少女が眠るベッドのほうに向き直る。薄青い闇の中、黒髪の少女は相変わらずコンコンと眠り続けていた。今まで意識的に彼女の過去について考えないようにしていたのだが、こうして見つめていると、どうしても思考がそちらのほうに向かってしまう。
親なり兄弟なりの保護者と一緒に今まで過ごしていたのなら、まだいい。だが、仮にたった1人でこの世界にやってきて、2年間を恐怖と孤独のうちに送っていたのなら、それはわずか8、9歳の子供には耐え難い日々だったろう。自分ならとても正常な精神状態を保てたとは思えない。
ひょっとして………。
アスナは最悪の事態を想像する。もし、あの森の中で彷徨い、昏倒してしまったのが、少女の心の状態に起因するものだとしたら。アインクラッドにはもちろん精神科医などはないし、助けを求めるべきシステム管理者もいない。クリアには最低あと半年はかかると予想され、それも自分やキリトの努力だけではどうにもならない。今キリトとアスナの2人が前線から離れているのも、1つには2人を含む一部プレイヤーのレベルが突出しすぎ、バランスの取れたパーティー編成が難しくなってきているという理由もあるのだ。
少女の苦しみがどれほど深いものであっても、自分がそれを救ってあげることなどできない。そう思うと、アスナは不意に耐え難い胸の痛みに襲われた。無意識のうちにベッドから離れ、眠る少女の傍まで移動する。
しばらく髪を撫でていた後、アスナはそっと上掛けをめくり、少女の隣に横になった。両腕で、小さな体をギュッと抱きしめる。少女は身動き1つしなかったが、どことなくその表情が和らいだような気がして、アスナは小さく囁いた。
「おやすみ。明日は、目が覚めるといいね」
ページ上へ戻る