青砥縞花紅彩画
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14部分:神輿ヶ嶽の場その四
神輿ヶ嶽の場その四
千寿「もし」
主人「はい」
千寿「こちらは何処でしょうか。三途の川でしょうか」
細君「三途の川」
千寿「はい。私は死んだのでございましょうか。そして三途の川に」
主人「(笑いながら)何を言われるやら」
千寿「違うのでしょうか」
主人「はい、ここは稲瀬川ですぞ」
千寿「稲瀬川」
細君「はい、ここは谷の底でして。如何なされたのですか」
千寿「(言おうとしたが思うところあったので止める)いえ」
主人「まあこの様な辛気臭い場所は早く下がりなされ。魚以外何もありませぬぞ」
細君「そうですよ。魚を釣りたければよいですが」
子供「おとう、おかあ、早く家に帰って食べようよ(そう言って二人を急かす)」
細君「これ、人の前で」
主人「(妻を宥めて)まあまあ。ではそういうことなので」
三人「(千寿に振り向いて)それではご機嫌よう」
千寿「はい」
こうして三人は千寿と別れた。三人は右手に消える。そして千寿はまた一人になる。ここに左手から赤星がとぼとぼと出て来る。千寿は最初それに気付かない。
赤星「(項垂れながら)これからどうすべきかのう」
千寿ようやく彼に気付く。
千寿「もし」
赤星「(彼もその声に気付く)はい(そして千寿に顔を向ける)」
千寿「ここは稲瀬の谷底というのはまことでしょうか」
赤星「(頷いて)はい。大仏の神輿ヶ嶽の下道でその稲瀬の川端ですぞ」
千寿「左様でしたか。どうやら命はあるのですね」
赤星「どうなされたのですか(ここで千寿の服を見る)見たところやんごとなき身分の方のようですが」
千寿「(戸惑って)それは」
赤星「拙者は信田の家の臣であった赤星十三郎という者でござる。今はこの有様ですが決して怪しい者ではござらぬぞ」
千寿「信田の」
赤星「(頷いて)はい」
千寿「では小太郎様の」
赤星「はい、かっては我が主君でございました。今は行方が知れませんが」
千寿「(俯いて)亡くなられました」
赤星「(驚いて)何と」
千寿「甲州で。病だったとお聞きしています」
赤星「左様ですか。では御家の復興はもう(絶望した調子で言う)」
千寿「適わぬでしょう。そして私も」
赤星「私も。気になっていたのですが」
千寿「(顔を赤星に向けて)はい」
赤星「貴女様は何方でしょうか。見たところかなり身分のあるお方のようですが」
千寿「小太郎様の御許嫁でありました。小田の千寿と申します」
赤星「貴女がそうでしたか。まさかこの様な場所で御会いするとは」
千寿「そしてここで小太郎様の御家の方に御会いするとは」
二人「また何という縁でございましょう」
千寿「赤星殿」
赤星「はい」
千寿「小太郎様亡き今私はもうこの世にいる意味はありませぬ。これで去りたく思います」
赤星「それは拙者も同じこと」
千寿「それでは二人で」
赤星「はい、三途でまた御会いしましょう」
千寿「わかりました。ではお先に」
赤星「はい」
千寿は川に飛び込む。舞台から飛び降りる。そして姿を消す。
後には赤星だけが残る。赤星は千寿を見送るが暫くして意を決する。
赤星「姫、それがしも御供致します」
そう言って腰の刀を抜く。それで腹を切ろうとする。そこに右手から忠信が出て来る。
忠信「(赤星が腹を切ろうとしているのを見て慌ててやって来る)あいや、待たれよ」
赤星「(それを払おうとして)止めて下さいますな」
そして無理矢理腹を切ろうとする。忠信はその手をとる。
忠信「だから待たれよ、死に急いで何になりましょうか」
赤星「これには事情がござる」
忠信「死のうとされるからにはそうでござろう。しかし若いみそらでそう思い詰められるのはよくないですぞ。よかったら拙者にわけを話しては下さらぬか」
赤星「(忠信の顔を見て)よろしいのですか」
忠信「(頷いて)無論。ささ、話されよ」
赤星「(納得して)ではお話しましょう、それがしの身の上を」
忠信「はい」
赤星「元々私は信田の家来、お主は讒首のその為に御命捨てられ、御家は断絶、ただお痛わしきは後室様、それを気病みに御大病、値えの高い良薬故心ならずも百両の金が欲しさに罪科に一人の叔父には縁を切られ、生きていられず言い訳に死のうと覚悟極めし者、御推量なされてくださりません」
忠信「(驚いて)何と、信田の家の方でしたか」
赤星「(頷いて)はい」
忠信「して御名は」
赤星「赤星の子、十三郎と申します」
忠信「何と、赤星様の御子息でしたか。これは失礼(そう言って赤星を上手になおす)」
赤星「(これにきょとんとして)どうなされたのですか」
忠信「私は伝蔵の倅にございます」
赤星「伝蔵とは」
忠信「ああ、昔のことで御存知はありませぬか。赤星家の奉公人で御納戸金の二百両を持ち逃げした若党ですが」
赤星「おお、そうした者がいたというのは聞いておりまする」
忠信「その倅が私です。まさかこの様なところで若旦那様に御会いするとは」
赤星「また何という縁じゃ。しかしこれは好都合」
忠信「といいますと」
赤星「叔父上に伝えてくれい。わしはここで腹を切ったと」
忠信「何を言われます、故主の若旦那様をどうして見殺しにできましょうか」
赤星「しかし御後室様にお渡しする金がなければ結果は同じ」
忠信「それはどれ程でございますか」
赤星「薬代・・・・・・百両じゃが。あることにはあるのじゃ(懐にあるその百両を差し出す)」
忠信「では問題ないのでは」
赤星「それが叔父上が受け取って下さらぬ。盗みの金は要らぬということでな」
忠信「では若旦那様のものと気付かれぬようにお渡しすればよろしいですな」
赤星「言うのは容易いがどうすれば」
忠信「ご案じなされますな。拙者の手の者を使います故」
赤星「そうか、そうしてくれるか」
忠信「(頷いて)はい」
赤星「もう一つ、先程千寿の姫様とここで御会いしたのじゃ」
忠信「それで」
赤星「三途への御供を約束したのじゃ。そして姫は今しがた川に身を投げられた。この約束も守らねば」
忠信「(それには首を横に振って)今すぐにでも必要はありませぬ。それは何時でもよろしいのでは」
赤星「しかしのう」
忠信「今は御後室様の御命の方が大事かと思いますが」
赤星「そうしたものか。ではこの百両、頼むぞ」
忠信「(頷いて)はい」
赤星は百両を忠信に差し出す。忠信はそれを恭しく受け取る。
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